聖書の探求(110) 民数記17章 芽が出てアーモンドの実を結ぶアロンの杖

16章において、主は、火皿に香を盛って主の前に立たせることによって、主がだれを指導者として選ばれたかを示されましたが、17章では、杖を用いて同じことをしておられます。

さらに、16章では、反逆者を対象にして火皿を持たせたのに対して、17章では全会衆の族長を対象にしていることに注目してください。16章では、審判が目的でしたが、17章では、審判よりも、神の主権を教えて、神の民の間で長く続けている呟(つぶや)きと不平とを静めることが目的でした。

今も、社会の中でだれが指導者となるかということは、最大の関心事で、昨今、騒がれている政治家たちの問題も、この問題です。現代の指導者は金銭、派閥によって指導者の地位を勝ち取ろうとしていますが、主はここでは、霊的指導者は、人間の都合や、金銭や選挙によってではなく、必ず、神の絶対的主権によって立てられるべきことを人間に示しておられます。それ故、もし人の才能や権力や富や人間的考えによって指導者が立てられるなら、必ずわざわいが生じます。特に、霊的指導者は学歴や、外国の神学大学を卒業しているからというので立てるなら、ただちに高慢が入り込み、霊的低下が生じます。霊的指導者は第一に、その人と神との関係によって成り立つのです。すべてのクリスチャンは自分たちの教会の牧師が霊的指導者としての資質を増すように真剣に祈るべきです。

主は、どのようにして、主がお立てになった霊的指導者を示されたのでしょうか。

民 17:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
17:2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。
17:3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。
17:4 あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。
17:5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」
17:6 モーセがイスラエル人にこのように告げたのでd、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。
17:7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中の【主】の前に置いた。

まず第一に、族長たちが持ってきたすべての杖に各自の名を書かせ、それを「あかしの箱の前」に置かせました。

これは神の臨在の中で示されたことを意味しています。これはただの儀式ではありません。

今日、教会では指導者として立てる時に鞍手式をすることがありますが、これもただの任命のための儀式であるなら、霊的には何の意味もありません。神の臨在が伴わなければなりません。また、指導者になる人は、確かに多くの功績を築いてきた人でしょう。しかしその功績の報賞として指導者の地位を与えるとするなら、それも肉的人間の評価でしかありません。神の臨在のないどんな任命も、神的意味を持たないのです。

第二に、主が指導者に選ぶ人の杖は、芽を出します。

杖はすでに根を持たず、命もない枯れた木です。その死んでいる木が芽を出すことは、命を回復する復活を意味しています。

今日的に言うなら、主が選ばれた霊的指導者は、必ず、罪と咎(とが)に死んでいる人を回心に導き、永遠のいのちを回復させて、芽を出させる働きをする人です。

ある時、私のもとに四人の神学生が実習に来ました。その時、私は彼らに質問しました。「あなたがたは、これまで、だれか一人でも主の救いに導いたことがありますか。」返事は、みな、「ありません。」でした。今、彼らは各々、牧師として活躍していますが、主が本当に神の器として召していてくださるなら、必ず、人を主の救いに導く力を与えてくださっていますから、積極的に救霊に挑戦していただきたいものです。

それ故、主が立てられた指導者とは、罪人を神に立ち帰らせ、永遠のいのちを受けさせ、実りのある生活へと導くことのできる人であるということができます。これが、その人が神に立てられた神の人、霊的指導者である証拠です。この証拠のない人は、どんなに有名で、学問がある人でも、神が立てられた人物ではありません。しばしば霊的な指導者はエリヤやパプテスマのヨハネや主イエスのように、人の目につかない生活をしている人です。しかし主は、命のない杖に命を与え、芽を出させるみわざを行われることによって、ご自分が選ばれた神の人をはっきりと示されるのです。

8節、その結果は、翌日、明らかになりました。

民 17:8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。
17:9 モーセがその杖をみな、【主】の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。

アロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいました。

主もまた、こう言っておられます。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、」(ヨハネ15:16)

ここでは、一日のうちに芽と、つぼみと、花と実をつけています。これは時間の短縮形でみわざをなされていますが、霊の働きにおいても、この順序で行われます(マルコ4:26~32)。

マル 4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。
4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
・・・・・

私たちは信仰の働きをしながら、このような結果が生まれつつあるかどうかを点検しなければなりません。

この結果からして、主がだれを霊的指導者として選んでおられたかが明らかになりました。それはルベン族の族長でもなく、ケハテ族のコラたちとその仲間でもありませんでした。こうして彼らに惑わされていた会衆は、目を覚まされたのです。

10節、主は、再び逆らう者が起きないために、また不平を全く取り除いて、さばきを受けて死ぬ者がないようにと、アロンの芽ざした杖をあかしの箱の前に戻させました。

民 17:10 【主】はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」

12,13節、この杖による神のみわざは、民に対して、相当効果を上げることができました。

民 17:12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。
17:13 【主】の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」

コラたちに扇動され、彼らの側についていた彼らは、自分たちの罪をいくらか悟ったようです。彼らが、「私たちは滅びる。」と叫んでいるのは、彼らが罪を意識した証拠です。しかし彼らは、自らの罪を意識し、神のさばきを恐れただけで、素直に罪を悔い改めたり、主のあわれみと救いを求める叫びを上げていないのは、どことなく彼らの心の頑なさを感じさせます。

クリスチャンと言われている人の中にも、罪を意識し、神のさばきを恐れているのに、心が砕かれず、いつまでも自己中心でつっぱっていたり、黙りこんでいて、はっきりした罪の告白や救いの信仰に立っていない人が沢山います。彼らは教会の中で、いつも暗い影をつくっているのです。個人的にも恐れや不安や疑いの生活をしていて、一向に平安や確信や喜びに満たされていないのです。

あとがき

最近、再び、聖書の探求を一号からお求め下さる方が増えて、急いでバックナンバーの増刷を致しました。聖書に真剣に取り組んで下さる方が次々と起こされますことは、ただ聖書の探求が用いられてうれしいというのではなく、主の聖名を崇(あが)めて、心の底より霊的喜びに満たされます。みことばこそ、私たちの霊魂の糧です。みことばを食しなければ、祈りも讃美も力を失ってしまいます。個人においても、教会においても、何をするにまさって、先ず、おひとり一人がみことばに取り組んでいただきたいと思います。ただ、みことばの意味を理解するだけでなく、具体的に実生活でみことばが活用できるようになっていただきたいものです。そうすれば、何をしても栄えるようになります(詩篇1:2,3節)。

詩 1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

こんな薄い冊子ですが、毎回、聖霊の助けをいただいて全力を尽くして、率直に書き記しております。リバイバルの一助として用いていただければと思っております。

(まなべあきら 1993.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型にて、至聖所の中に置かれた契約の箱の内部。十戒の書かれた石の板と、マナと、花が咲きアーモンドの実をつけたアロンの杖が入れられている。(2013年の訪問時に撮影)


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