聖書の探求(111) 民数記18章 祭司の職務とその生計について

この章は、祭司の職務とその生計について記しています。このことは、今日、主の奉仕をする者にとっても重要なことです。今日、牧師や伝道者は自分の職務の神聖さを深く思い、そして教会員は各々、主の働き人に対して生計を立てるのに十分なささげ物をすべきです。

パウロは、次のように言っています。
「モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。‥‥‥あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」(コリント第一9:9~14)

ここに主が命じられていることは、新しいことではありません。既に何度も教えられてきたことです。それにも拘(かかわ)らず、16章でレビ人コラとルベンの子孫ダタン、アビラムの事件が起きたのです。そこで主は、もう一度、祭司の務めとレビ人の務めについて、ここで強調されたのです。一回聞いて、悟る人はすばらしい人です。しかし大抵の人は二、三回聞いても、全く悟っていません。そして何度も罪を繰り返して、主のさばきを受けて、目を覚ますことが多いのです。

ユダの人々は七十年のバビロンの捕囚という刑罰を受けることによって、偶像礼拝の恐ろしさをやっと悟り、その後、決して偶像礼拝をしなくなりました。願わくは、神のさばきを受ける前に深く悟って、従順に従いたいものです。もし、私たちが、聖書を読んだり、説教を聞いたり、カウンセリングを受けた時、すぐにこれに従って実行するなら、多くの確実な実りを得ることになるでしょう。聖書はみことばを聞いている人、学んでいる人を称賛しているのではありません。みことばを行う人だけが実を結ぶことを強調しています。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24~
27)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺(あざむ)いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

しかし、みことばは、自己中心の自我が取り除かれないと、実行できません。自己主張を続けていたり、この世に未練を持っていたり、この世の誘惑に心がひかれている間は、真剣にみことばを行おうとはしないのです。

1~7節、祭司の務めとレビ人の務めの区別

民 18:1 そこで、【主】はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたがたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。
18:2 しかし、あなたの父祖の部族であるレビ族のあなたの身内の者たちも、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。
18:3 彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務を果たすのである。しかし彼らは、聖所の器具と祭壇とに、近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないためである。
18:4 彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。ほかの者があなたがたに近づいてはならない。
18:5 あなたがたが聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない。
18:6 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエル人の中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らを【主】にささげられたあなたがたへの贈り物とする。
18:7 あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについてのあなたがたの祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職を賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない。」

1節は、祭司職の本質を教えています。

アロンとアロンの子たちは、祭司として、「聖所にかかわる咎(とが)を負わなければならない。」、また、「祭司職にかかわる咎(とが)を負わなければならない。」とされています。祭司は全会衆を代表して、全会衆の罪を背負って神の御前に出て、罪の贖(あがな)いの執り成しをしなければなりません。これが祭司職の最大の任務です。

イザヤは、イザヤ書53章で、

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。」(5節)

「しかし、主は、私たちのすべての咎(とが)を彼に負わせた。」(6節)

「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(12節)

と預言しています。

ペテロは、イエス・キリストが「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(ペテロ第一2:24)と言っています。

イエス・キリストは、私たちの罪の贖(あがな)いを執り成される真の大祭司です。アロンとその子たちは、イエス・キリストの祭司職の本質を表すために選ばれた祭司でした。

それではなぜ、レビ人はアロンの子たちに代わって、祭司の働きをすることが許されなかったのでしょうか。祭司の働きは、主が定められた者以外、できないものですから、いかなる賢人も、学者も、聖徒も、イエス・キリストに代わって祭司の執り成しをすることはできません。いかなる人も、他の人の罪を背負って、代わりに執り成す祭司になることはできません。このことが、神がアロンとその子たち以外に祭司の働きを許されなかった理由です。

人間の功績は、罪を赦し、潔めるためには、何の効果もないのです。否、人の功績で罪を解決しようと努力することは、一見、真面目そうに見えますが、それは大変な高慢です。神の御前に人の罪を背負って出て、執り成しができるのは、真の大祭司であるイエス・キリストだけです。このことを忘れる時、私たちは自分の努力や功績に頼ろうとする愚かを演じてしまうのです。

クリスチャンが祭司と呼ばれ、他人のために執り成しができるのは、他人の罪を贖(あがな)うためではありません。私たちが祭司であるというのは、真の大祭司であるイエス・キリストを通して神と交わることができ、他の人が救いに導かれるために祈ったり、他の人の様々な課題をともに祈るという意味においてであります。これらもみな、イエス・キリストの執り成しによって有効となることを忘れてはなりません。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(ペテロ第一2:9)

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。」(ヘブル9:24)

「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』」(使徒7:55,56)

あなたは毎日、主があなたのために執り成してくださっていることを、もっと強く自覚すべきです。しかも主の執り成しは、文章を読み上げるような単調な生気のない執り成しではありません。あなたの危機に際しては思わず立ち上がって執り成してくださっているのです。主はあなたから一時も目を離さずに、見守りながら執り成してくださっているのです。このことを強く自覚すべきです。

「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」(詩篇121:3)

このことをはっきり自覚して主を信じるようになれば、あなたは必ず、勝利から勝利に進むことができるようになります。

しかし、レビ人にも神のことに携わる尊い任務が与えられていました。これはすべてのクリスチャンに委ねられている任務であると言っていいでしょう。クリスチャンはイエス・キリストの大祭司職を侵すことはできませんが、それ以外の働きについては、神の任命と各々の信仰の量に従って、ふさわしい職務が与えられます。レビ人が祭司の補佐役として働くように命じられているように、私たちは、主イエスの福音と教会の徳を建てるために働くように命じられています。

しかしあくまでも、レビ人が祭司の職務を侵してはならなかったように、私たちはイエス・キリストの権威を侵してはなりません。しかし、これまでの教会の歴史を見ると、しばしばクリスチャンは自分の熱心さや愚かさの故に、自分をキリストの御座に着けようとしてきたのです。このことは多くの異端を生む結果となってきました。それは今日、はなはだしい害を人類に与えているのです。霊的高慢ほど恐ろしいものはありません。

3、4、7節と、三回も、レビ人が直接、聖所や祭壇に近づかないようにと、警告されています。この違反に対しては、死刑をもって罰せられると命じられています。神のために奉仕できることは、すばらしいことです。しかしそこには、高慢になって、己の分を越えてしまう危険もしばしば起きています。神の近くで奉仕すればするほど、高慢になる危険があり、またそれに対する神のさばきは、より厳しく厳罰であることも忘れてはなりません。

ヤコブはこう言っています。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)

またパウロは、教会の監督となる人について、こう言っています。

「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(テモテ第一3:6)

これは信仰の年数だけのことを言っているのではありません。私たちは指導者や神の奉仕者となることによって、霊的高慢に陥る危険を指摘しているのです。霊的に高慢な者に対して、パウロが「悪魔と同じさばきを受けることになる」と言っていることに注目してください。それがどんなに恐ろしいことであるかが、よくお分かりいただけたでしょう。

今日、このように霊的に高慢な人を多く見かけます。その人の上に下る神のさばきはいかに恐ろしいものでしょうか。しかしだからと言って、私たちは神の働き人として奉仕することに消極的になってはいけません。神に近づけば近づくほど、へりくだって大胆に奉仕させていただければ、主の栄光を現わし、多くの実を結ぶことができます。

パウロは教会の奉仕者となる人の資格をテモテ第一3章で詳しく教えていますから、そのことを自分に当てはめて、積極的に自己訓練に励んでいただきたいものです。

8~20節、祭司たちの受ける分

祭司たちは霊的奉仕者であって、物質的収入のために働くことが許されていなかったので、主は祭司たちの生活に必要なものを、イスラエル人のささげ物のうちから与えることを命じられました。パウロもまた、「主も、福音を宜べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」(コリント第一9:14)と教えています。

主は祭司たちの生活面について、なすがままにさせておかず、きちんと明確に祭司たちの受ける分を定めておられます。こうしておかないと、やがて祭司たちは霊的なことをおろそかにして、物質的収入を得るための仕事に従事するようになってしまうのです。

今日の教会では牧師や伝道者の生活面がきちんと定められて、実施されているでしょうか。これが十分に実施されていないことが、今日の教会が力を失っている一つの原因ではないかと思います。

私が牧師になって間もない頃、私たちは毎月、教会会計で伝道牧会活動に使った残りのわずかなもので生活をしていました。すると、一人の信者が来てこう言いました。「先生方は、毎月、ちょうどいいように生活しておられて不思議ですね。」私たちは、ちょうどいいように生活していたのではありません。切り詰め、さらに切り詰めて生活していたのです。しかし信者たちは「私たちが先生たちを養ってあげている。」と思っているのです。

あるクリスチャンの保険の外交員が私の所に来て、「牧師は信者に経済的に弱いですからね。」と言いました。こんな考え方しか持っていないなら、教会が力強く成長するはずがありません。しかし私は現実に、子どもの食べ残しを牧師である親が食べて、子どものミルク代をつくっている牧師を見てきました。私はその教会の教会員の顔が見てみたくなります。実際に、自分たちは腹一杯食べて、車を乗り回している生活をしていながら、自分たちにはとても生活できない牧師費を渡しておいて、少しも疑問に思っていないのです。
私は、教会の中で牧師費が少な過ぎるのではないかという討論が行われたという話を聞いたことがありません。すべての教会員が牧師費にもっと関心を持ってもらいたいものです。特に、牧師の家庭に子どもがいる場合、何呉となく、個人的に物を持って行くのではなく、正当に十分な牧師費を受け取っていただけるように、教会員全員で検討すべきです。そうしないと、あなたの教会は必ず、恵みも力も失って、じり貧になってしまいます。

パウロは、「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。」(コリント第一9:11)と言っています。ですから、教会員が牧師を養っていると思わないことです。もし、そのように思っているなら、あなたは御霊のものより物質的なものを第一にしている肉的な人です。

しかしもう一方、牧師や伝道者がサラリーマン化している傾向も見られます。高い給料を出す教会を選んだり、経済的に苦しいからというので開拓伝道を嫌がったり、途中で止めて、大勢教会員がいる教会の協力牧師になりたがる人も見られます。各々、それぞれに事情があるでしょうから、一概に言えませんが、お金のために教会で働いているという考え方を持っているなら、もはやその人は神の器ではありません。あくまでも、神に仕える神の人としての召命を明確に持って奉仕していただかなければなりません。

8節では、主はアロンたち祭司が奉納物にかかわる任務を全うするために、彼らの受ける分を定めておられます。

民 18:8 【主】はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物にかかわる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。

9,10節では、最も聖なるもの、すなわち、祭壇にささげる火によるささげ物の穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえは、男子の祭司だけが食べることができると命じられています。

民 18:9 最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる。
18:10 あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。

これは直接、祭司として奉仕している者の受ける分です。

今も、直接、主に仕えて奉仕する者だけに与えられる恵みがあります。ヨハネの福音書2章のカナの結婚の時、水を汲んだしもべたちだけが、主のみわざの秘密を知ることが許されています(9節)。

ヨハ 2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──・・・

信仰の世界では、学んだだけでは知ることができないものが沢山あります。実際に主に仕えることによってのみ、知ることが許される奥義があります。それは最も聖なるものです。今日、私たちはこの最も聖なるものが分からない状態に陥っています。アブラハムの如く、その行く所も知らないで、ただひたすら主のみことばに従って行くことによって(ヘブル11:8)、霊的奥義を悟るようになるのです。

ヘブル 11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

11節は、イスラエル人の贈り物としての奉納物です。

民 18:11 また次の物もあなたの分となる。イスラエル人の贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたとあなたの息子たち、それにあなたとともにいる娘たちに与えて、永遠の分け前とする。あなたの家にいるきよい者はみな、それを食べることができる。

これは罪のあがないに関するいけにえではなく、感謝するための自発的なささげ物です。クリスチャンを見ていると、讃美は力なく、喜びにもあふれず、感謝も少な過ぎるように思います。いつも何か不足しているような顔をしています。献金の中に感謝献金というのがあります。よく記念の時に感謝献金をされる方がいますが、時々、記念日でもないのに感謝献金をされる方がいます。これは本当に感謝献金ではないかと思います。

この感謝のささげ物は、祭司の家族全員、息子や娘たちにも与えられ、食べることが許されています。主から与えられる物は、「食べることができる」ものが多いのですが、これは当時、保存の手段がなかったことと、主によって保存することが許されていなかったことを考えると、祭司の家族が食べることは、今日以上に大問題であったと思われます。
12,13節は、神の約束の国で初なりのもの、すなわち、最良の新しい収穫物がみんな、祭司の家族に与えられています。

民 18:12 最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が【主】に供える初物全部をあなたに与える。
18:13 彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らが【主】に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。

これで祭司の家族は十分に養われたものと思われます。ただし、「きよい者はだれでも、それを食べることができる。」と、「きよい」ことがその条件とされています。「きよい」ことが生活の豊かさにつながっているのです。

14節、イスラエルのうちで、聖絶された者の所有物もみな、祭司のものです。

民 18:14 イスラエルのうちで、聖絶のものはみな、あなたのものになる。

15~18節は、人と獣の初子についての定めです。

民 18:15 人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれるもので【主】にささげられるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた獣の初子も贖わなければならない。
18:16 その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。
18:17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものであるからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、その脂肪を火によるささげ物、【主】へのなだめのかおりとして、焼いて煙にしなければならない。
18:18 その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸や右のもものようにあなたのものとなる。

人の初子でも、獣の初子でも、初子はすべて、神のものですから、必ず贖(あがな)い金で贖(あがな)わなければなりません。この考え方は、今日の教会でも必要です。クリスチャンの家族の中から、少なくとも一人は神のために生涯をささげる者を送り出すか、それとも、神の働き人を支えるようになりたいものです。

特に、この日本ではすぐれた神の器が起こされるように祈らなければなりません。また教会がそれをしっかりと支えるだけの力を持ちたいものです。

17節、ただし、牛の初子と羊の初子とやぎの初子は主へのいけにえとしてささげるものであるから、贖(あがな)い金であがなってはならない。その血は祭壇に振りかけ、その脂肪は火に焼いて煙にしなければならないとされています。これらは、9節の最も聖なるものですから、すべて主がご要求なさるのです。ただし、その肉は祭司が食べることができます。

19節、これは祭司たちに対する「永遠の塩の契約となる。」と言われています。

民 18:19 イスラエル人が【主】に供える聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それは、【主】の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」

すなわち、これは「取り消すことができない不変の契約である」という意味です。「塩」は腐敗しない不変性を示します。

旧約においても、新約においても、霊的奉仕者は霊的働きに専念し、その生活はささげ物によって営まれるべきです。これが守られないと、霊的奉仕者が物質的利益のための働きを始めて、霊的な真理がおろそかにされます。「永遠の塩の契約」とはこのことです。
20節、また祭司は私有財産としての相続地を持つことが禁じられています。

民 18:20 【主】はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。

祭司たちはヨシュアによるカナン分割の時にも、相続地は与えられませんでした。相続地を与えたなら、祭司は神に仕えることをやめて、相続地の畑を耕すようになるでしょうから。祭司の相続財産は、神ご自身でした。神ご自身が祭司の生活のすべてを祝福し、保証してくださったのです。人はこの地上に自分の名の付く土地を持っていますが、所詮、それは一時的なことです。むしろ私たちに必要なのは、永遠的財産、霊的財産です。クリスチャンはこの地上の一時的財産を築くことに一生を費さず、それにしがみつかず、神を自分の財産にして生きていきたいものです。そうすれば、神は必ず、大なる祝福を与えて下さいます。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 (マタイ6:33)

21~32節、レビ族の奉仕に対する報い

主は、主のために奉仕する者に、必ず報いを与えてくださいます。これまでレビ人はずい分、不平不満をもらしてきましたが、それにも拘らず、レビ人の奉仕に対して、主は報いを与えてくださることを約束されました。

21~23節、レビ人の奉仕が会見の天幕での奉仕であることは、すでに何度も告げられてきたことです。

民 18:21 さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える。
18:22 これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。
18:23 レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。

その中で、レビ人は祭司と同じ権利を求めて反抗したことがありましたが、それはレビ人の高慢でした。レビ人に命じられた会見の天幕の奉仕も実に重要な奉仕であることがここに記されています。

第一に、それは主が確実に報いて下さる尊い奉仕です。

主イエスは、「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)と約束されました。

私たちは奉仕の大小や、人前に立って指導するかどうかで、その奉仕の価値を判断してはなりません。主のためにする、どんな奉仕もみな、同じだけの尊い価値があります。心から喜んで奉仕に励みたいものです。主は決して報いを忘れないお方です。

第二に、会見の天幕での奉仕が許されているのはレビ人だけで、他のイスラエル人が勝手に会見の天幕に近づくと、それは罪となって滅ぼされてしまいます。

これは罪ある者がそのまま神に近づくことができないことを示しています。しかしレビ人だけは会見の天幕に近づくことが許されました。これだけでも大いなる特権に与かっています。

このことは、今日の私たちにとって、キリストの救いを経験することなしに、主に近づくことができないことを示しています。もし、キリストの救いなしに天の御国に入ろうとするなら、ただちに滅ぼされてしまうことになります。ここに「キリストの救い」と言っているのは、洗礼を受けていることや、キリスト教の知識を持っていたり、儀式を守っていることではありません。自分の霊魂のうちにキリストの救いを経験し、今それを持っていることです。過去に経験したことがあるというだけでは十分ではありません。いつも、今、キリストの救いを持っでいることが必要です。勿論、今、キリストの救いを持っているなら、高慢や不信仰は心のうちにないはずです。

ヘブル人への手紙10章22節は、次のように教えています。

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」

私たちが聖なる神に近づくには、イエス・キリストの血による潔めが必要なのです。

レビ人は、それほどに重要な霊的奉仕のために召されていたのであり、今日のクリスチャンもまた、霊的な礼拝と奉仕のために召されていることを自覚する必要があります。とかく、「自分の立場や役割や地位を主張し、議論しがちですが、それは高慢であり、まず、自分に、主に近づく特権が与えられていることに深く感謝したいものです。

第三に、レビ族に与えられる相続財産は、イスラエル人が奉納物としてささげる物の十分の一と定められています。

民 18:24 それは、イスラエル人が、奉納物として【主】に供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」

これは大変なものです。こは祭司たちに与えられる以上のものです。それ故、レビ人も祭司と同様にイスラエルの中には相続地が与えられないこと
になっています。それは、レビ人も専念して主の会見の天幕の奉仕に着くべきことが求められているからです。

こうして、主の働きを進めていくためには、祭司とともにレビ人たちのように実務につく献身者たちが多く起こされる必要があります。教会では、牧師や伝道者だけが気を吐いて働いているだけでなく、役員たちと全教会員が一致して実務につくことができれば、教会は大きな力を発揮できるようになります。

21,22節では、レビ人が神に召された特異な存在として語られていますが、25~32節では、イスラエルの一員としてのレビ人が記されています。

民 18:25 【主】はモーセに告げて仰せられた。
18:26 「あなたはレビ人に告げて言わなければならない。わたしがあなたがたに相続財産として与えた十分の一を、イスラエル人から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、【主】への奉納物として供えなさい。
18:27 これは、打ち場からの穀物や、酒ぶねからの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物とみなされる。
18:28 それで、あなたがたもまた、イスラエル人から受け取るすべての十分の一の中から、【主】への奉納物を供えなさい。その中から【主】への奉納物を祭司アロンに与えなさい。
18:29 あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれ最上の部分で聖別される分のうちから【主】へのすべての奉納物を供えなさい。

確かに、レビ人は他のイスラエル人が近づくことができない会見の天幕の奉仕のために召されていますが、しかしまたレビ人も神を礼拝する礼拝者の一人であり、信仰者の一人であり、その霊的営みのために自分たちに与えられている、イスラエル人の奉納物の十分の一の中から、その十分の一を神にささげるように命じられています。人間的に考えるなら、イスラエル人のささげ物によって祭司とレビ人の生活の必要が満たされるのなら、祭司やレビ人はささげる必要がないのではないかと思いやすいのですが、そうではありません。ささげ物の持つ意味は、礼拝儀式のために必要ないけにえと、祭司とレビ人たちの奉仕者の必要を満たすためにだけ行われているのではないのです。

ささげ物をすることは、もう一つの意味を持っています。それは礼拝者自身の霊的行為なのです。たとえば、創世記4章4,5節では、「主は、アべルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」とあります。これは主が、ささげられた物だけでなく、ささげた人の霊的行為そのものにも目を留めておられることを示しています。それ故、祭司やレビ人も、すなわち、ささげ物を受けて、それで生活している者であっても、神に対する自らの霊的行為として、ささげ物をする必要があります。

この世の神社や寺では、神主や僧侶は自ら、賽銭や布施をしないでしょう。しかしキリスト教会では、牧師も、伝道者も、宣教師もみんな、献金をします。献金の本質は、教会の活動の経費や牧師の生活費を集めることだと思ってはいけません。しばしば、そのような考え方をする人がいますが、それは主に喜ばれません。献金の本質は各々の霊的な礼拝の行為であり、そこには主への感謝と献身の気持ちが表されていなければなりません。

30節、そうですから、レビ人も、他のイスラエル人が各々の収穫の中から十分の一をささげるようにささげることを命じられています。

民 18:30 またあなたは彼らに言え。あなたがたが、その最上の部分をその中から供えるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、酒ぶねからの収穫と同じようにみなされる。

31節、レビ人が与えられた物を食べることに関しては、祭司の時のように細かい規定はなく、レビ人の家族全員がどこで食べてもよいことになっています。これはレビ人が直接、罪の贖(あがな)いのわざに携わっていないからです。

民 18:31 あなたがたもあなたがたの家族も、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。

32節は、再度、十分の一の中の十分の一をささげるなら(「最上の部分を供えるなら」)罪を負うことがないことが記されています。

民 18:32 あなたがたが、その最上の部分を供えるなら、そのことで罪を負うことはない。イスラエル人の聖なるささげ物を、あなたがたは汚してはならない。それは、あなたがたが死なないためである。」

これには、戒めさえ、しっかり守っているなら、全く自由で豊かな生活ができることを主は約束してくださったのです。ただし、レビ人が貧欲になって、主にささげる分を惜しむようになる時、罪を犯すことを警告したのです。主のものを盗んではなりません。

「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』 それは十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。‥‥‥わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ書3:8~10)

私たちは、自分に与えられたものを全部、自分の好きなように使っていいと錯覚しているところに、罪が発生するのです。主は私たちが主のものを主に返すかどうかを試しておられるのです。それが、祝福につながるかどうかを決めるのです。

あとがき

旧約においても、新約においても、すべてのリバイバルは神のみことばの再発見とその遵守(じゅんしゅ)によって起きています。創世記1章の神の創造のみわざも、みことばによって行われており、モーセの時代のイスラエルの統一も神の律法が与えられることによって行われており、善王ヨシアによる宗教改革(列王記第二22~23章)も律法の書の発見によって始まっています。使徒たちの働きも、みことばの拡大であり、中世の暗黒時代からのリバイバルも聖書の再発見と翻訳によって行われています。

逆に、神の民と教会が神のみことばをおろそかにした時、神の民は堕落し、世俗化し、異教化し、信仰は死んでしまったのです。最近、リバイバルが語られるようになっていますが、どうもそれはみことばの再発見と生活における実行が中心になって盛り上がっているのではないように思われます。
リバイバルには、ひとり一人のクリスチャンが真実に神のみことばを信じて実行する具体的なことだけが必要なのです。

(まなべあきら 1993.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、「バイブル・ワールド、地図でめぐる聖書」(ニック・ペイジ著、いのちのことば社刊)より、幕屋の想像図。

 

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