聖書の探求(120) 民数記 25章 バラムの事件の民への影響と神の審判

25章は、民数記31章16節と、ヨハネの黙示録2章14節がなければ、22~24章のバラムの預言の記事との関連が分かりません。

民 31:16 ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、【主】に対する不実を行わせた。それで神罰が【主】の会衆の上に下ったのだ。

黙 2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。

24章25節で、「それからバラムは立って自分のところへ帰って行った。」とあるけれども、31章8節では、バラムはミデヤン人の中にいて、イスラエル人によって剣で殺されています。

民 31:8 彼らはその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。

それ故、彼が帰ったのは、彼の生まれ故郷のメソポタミヤの家ではなく、ミデヤンの中にあった彼の天幕であったことが分かります。そしてバラムは、25章のモアブの娘たちやミデヤン人の女たちと、イスラエル人との間にみだらな不道徳な行為を行わせ、バアル・ペオルの偶像礼拝に深く関わっていたようです。

事の次第は次のようです。バラムはモアブの王バラクの要求に対しての預言においては、神が語られたとおりのことを話して、うわべは真の預言者の務めを果たしました。しかし彼はモアブの王バラクが約束した莫大な報酬をあきらめ切れなかったのです。そこで彼は、イスラエルが神にのろわれるために、別の方法を考えました。

彼の計画はこうです。イスラエルの群の中にモアブの娘やミデヤンの娘を侵入させて、まず、性的に不道徳なことを行わせ、神の民に雑婚を行わせました。これは神のご計画を完全に損うことなので、必ず、神はイスラエルを怒られるであろうという計算です。さらに異教の妹たちによって、イスラエルの中に偶像礼拝を持ち込むことでした。
この二つを行えば、必ずイスラエルの上に神の怒りとのろいが下ると、バラムは考えたのです。彼の考えは的中しました。そして、モアブとミデヤンの希望どおりになり、彼は巨大な報酬を受け取ることになります。

バラムは、言葉では神に忠実な発言をしましたが、その行為においては自己中心の私利私欲を行ったのです。彼は偽預言者となりました。この後、イスラエルの中に次々と偽預言者が現われ、主の怒りをひき起こしています。そして新約聖書にも偽預言者が起きて、神の民を惑わすことが記されています。

今こそ、人を恐れず、自らの利益を求めず、神のことばを真直に語り続ける真の預言者が起こされなければなりません。これは牧師や説教者だけでなく、すべてのクリスチャンが先ず、教会の中で真の預言者となり、行為の面においても、神に忠実でなければなりません。この世の人々に対しても、人を恐れず、真直に神のことばを語らなければなりません。

1~5節、モアブの娘たちの誘惑とバアル・ペオル

民 25:1 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。
25:2 娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。
25:3 こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、【主】の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。
25:4 【主】はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、白日のもとに彼らを【主】の前でさらし者にせよ。【主】の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう。」
25:5 そこでモーセはイスラエルのさばきつかさたちに言った。「あなたがたは、おのおの自分の配下のバアル・ペオルを慕った者たちを殺せ。」

「バアル・ペオル」(3、5節)とは、ペオルの山で、性的不道徳な儀式によって礼拝された偶像の名前です。

4節を見ると、真先にこの罪を犯したのは、イスラエルのかしらたちでした。主は彼らを捕えて、さらし者にするように命じています。これは殺すことです。今日、死刑廃止が叫ばれている中で、この命令は野蛮であるとか、厳し過ぎるという批判が出てきそうですが、罪ははっきりと厳密に取り除かなければならないというのが、神の原則です。もしこの時、この命令が出されていなかったなら、イスラエルはここで、神の約束の地に入ることなく、全滅していたことでしょう。

最近、殺人、麻薬、テロなどの極悪犯罪が急増していることも事実ですが、それとともに、万引、性の放縦が一般化しつつあることも、神の怒りをひき起こす恐ろしい罪です。人の命を尊重することは、罪に陥ることから守り、神に喜ばれる生き方をすることであって、罪を犯すために命を保つということであってはなりません。罪は死をもって、その代価を払わなければならないことは、今日も変わっていません。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

しかし今日、イエス・キリストの死の代価が払われていますから、主の憐みの故に、神のさばきが猶予されていますが、決して罪をそのまま見逃されているのではありません。主とモーセは、イスラエル人を全滅から救うために、罪を犯した者への死刑を執行したのです。

私たちは、主イエスの十字架が、この私の罪のための執行であったことをどれくらい深刻に受けとめているでしょうか。このことが明確になっているなら、信仰が動揺したりすることはなくなります。主はあなたが受ける死刑執行をあなたに代わって受けてくださったのです。あなたはこのことを深刻に受けとめるべきです。

ここで、私たちが心にとめておかなければならないことは、この死刑の宣告はモーセが下したのではなく、主が下されたことです。

殺生与奪の権は、神にのみあります。人間は罪深いので、判断を誤りやすいのです。
それ故、裁判においても、十分な議論がなされるべきですが、結論は人の知恵によらず、神から与えられる良心をもって判断すべきです。

第二に、性的不道徳と偶像礼拝は、特に神を怒らせます。それは今日でも同じです。性的不道徳と偶像礼拝を行っている者は、必ず神の怒りを受けることになります。それは神の尊厳を否定し、神を冒涜する罪だからです。

第三に、バラムの預言と行動の不一致に見られるように、言葉と行動があまりにかけ離れていることは、滅びを招くことになります。

特に、言葉で神をあかしするなら、自分の行為と生活でそれを証明しなければなりません。このことは他人に当てはめて、さばくのではなく、各々自分に当てはめて、点検していただきたいものです。行動において罪があるなら、どんなに言葉が丁寧を尽くしていても、正しくても、それは神への反逆なのです。

第四に、自己中心の野心は、恐るべき罪を犯させます。

第五に、神の民であっても、誘惑のワナに陥りやすいことに警戒しなければなりません。

特に「かしら」のような、人々の模範となるべきはずの者が、率先して罪を犯せば、一般民衆もただちにワナに陥ってしまいます。

教会も人数が増えていることで、単純に喜んでばかりはいられません。信仰の中途半端な者、世俗的な心を持つ者が急速に増えてくるなら、この25章と同じような混乱と腐敗が生じてくるのです。ひとり一人がはっきりと聖潔の信仰に立ってよき模範となり、求道者や初信者を健全で、しかもみことばに根ざした実際的信仰に導いていかなければなりません。このことに失敗すると、争いだらけの教会になってしまいます。なかには、教会の人々をひっかき回して混乱させたいと思う、バラムのような人もいるかもしれません。とかく信仰が十分に分かっていない、熱心そうな人が、バラムになりやすいのです。

バラムの策略の結果、イスラエルはのろわれてしまいました。多くの教会が、このような肉的問題で争ったり、つまずいたりしているのは、聖潔の信仰経験を受けていないからです。私たちは心から聖潔の恵みを真剣に求めたいものです。

6~18節、勇気あるピネハスの行動

イスラエルの堕落は、急速に進んでいきました。その一つの原因は、民の指導的地位にある者が公然と罪を犯していたからです。これは一般の民に及ぼす影響が大でした。これを放っておくと、国家を滅ぼすことになってしまいます。14節を見ると、シメオン人の父の家の長サルの子ジムリが実例に挙げられています。彼はシメオン部族のつかさであったと思われます。

6節、彼は、モーセとイスラエルの会衆が、会見の天幕の入口で、彼らの罪のために神の怒りの火が燃え上がって、「バアル・ペオルを慕った者を殺せ。」と命じられたことに対して、泣いて主に嘆願していた時、その会衆の目の前に、ミデヤン人の女を連れてやって来たのです。

民 25:6 モーセとイスラエル人の全会衆が会見の天幕の入口で泣いていると、彼らの目の前に、ひとりのイスラエル人が、その兄弟たちのところにひとりのミデヤン人の女を連れてやって来た。

彼は会衆の前に不道徳な行為を見せびらかせていたものと思われます。しばしば教会が重要な課題を乗り越えようとしている重要な時期にさしかかっている時、みんなが祈っている時、自分勝手な行動をとって、その信仰をそぎ落とそうとする者が出てきます。そのような人は、本当に自己中心な人で、自分のことしか考えていない人です。その人は神の御名を汚すことはしても、神の国建設に役立つ人ではありません。

もし、この時、ジムリがしていたことを見逃していたら、それは公然と反逆することを認めたことになり、イスラエルの民は全員、滅びに向って走り出すことになったでしょう。

7節、祭司エルアザルの子ピネハスは、神に命じられたのでもなく、モーセに命じられたのでもなく、彼自身の聖なる判断によって、事の重大さを敏感に察知して、機敏に行動しました。

民 25:7 祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、

彼の行動は彼の個人的な嫉妬や怒りによってではなく、神のみこころを悟ってのことであり、神の栄光のためと、神の民を滅びから救うためでした。このような神のみこころは、いちいち教えられなくても、いつも神とともにある生活を営んでいるならすぐに分かるほど身についてくるものです。ここに若いピネハスという神の心を持ったリーダーが育ちつつあるのを見ることができます。

8節、ピネハスが勇敢に罪を取り除いたことによって、すでに始まっていた神の刑罰は止みました。しかしその時、すでに神の刑罰で二万四千人が死んでいました(9節)。

民 25:8 そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰がやんだ。
25:9 この神罰で死んだ者は、二万四千人であった。

もしピネハスがこの機敏にして勇敢な行動に出なかったならば、その日のうちにイスラエルは全滅していたことでしょう。

私たちは、神の民が滅びるのは、外敵によってではなく、内部の罪によるのであることを十分に覚えなければなりません。あなたが教会の中で勝手な態度をとり、発言し、行動を取るなら、あなた自身が滅びるだけでなく、神の民を滅びに陥れることになるのです。クリスチャンひとり一人は、もっと神の民の一員であることの自覚をもって、態度、言葉、行動に慎むべきです。

10~13節、神はピネハスの判断と行動を是認されました。

民 25:10 【主】はモーセに告げて仰せられた。
25:11 「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、わたしのねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた。わたしは、わたしのねたみによってイスラエル人を絶ち滅ぼすことはしなかった。

「わたしのねたみを‥‥‥自分のねたみとした」(11節)
これはピネハスが神のみこころを自分の心としていたことを、神ご自身が知っておられたことを示しています。まことに神は人の心の中を知り尽くしておられるお方です。神が嫌われるものを嫌い、神が憎まれるものを憎み、神が喜ばれることを喜ぶ。これこそ私たちの心の姿でなければなりません。ピネハスの心は、神のみこころと一つであったのです。
「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。」(文語訳 ピリピ2:5)

11節は、明らかにピネハスの信仰による勇敢な行動が、主がイスラエルを全滅させることを思いとどまらせたことを記しています。危機一髪でした。私たちの信仰も勇敢に働かせて行動する必要があります。

12~13節は、勇敢な行動をしたピネハスへの報いです。

民 25:12 それゆえ、言え。『見よ。わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。
25:13 これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは彼がおのれの神のためにねたみを表し、イスラエル人の贖いをしたからである。』」

「わたしの平和の契約を与える。」は、ノアに与えられた虹の契約によく似ています。また主は、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と約束されました。ヘブル語の「平和(シャローム)」は、単に争いがなくなるという平和ではありません。シャロームは霊的な深い平安と豊かな繁栄のすべてを含む意味をもっています。私たちはイエス・キリストからこの平和(シャローム)を受けるのです。嵐の日にも失われることのない平安と、多くの実を結ぶ繁栄です。

13節では、ピネハスと彼の子孫には、永遠にわたる祭司職の契約が与えられています。
ピネハスの子孫は士師の時代の短い期間を除くと、ユダヤの全歴史を通じて大祭司の職を務めています。勇敢な信仰の働きには、必ず神は無限の祝福をもって報いてくださるのです。あなたも毎日、信仰の働きを実行してください。

このピネハスの姿の中に、今日、私たちが神のお仕事をするために必要な要素が何であるかが示されています。

第一に、主のみ旨にかなった聖なる霊的洞察力と判断力を持つことです。これはただ聖書を読んで、学んでいるだけでは身につきません。へりくだって主に従う生活をすることです。高慢な人は、主に従うけれども、人には従わないと言います。しかし私たちは人に従うことを通して、主に従うことを覚えるのです。人にも従うことができない人が、いかで神に従うことができるでしょうか。クリスチャンと言われている人々の間に、このような偽善がまかり通っているのです。預言者サムエルは祭司エリに従うことによって、神に仕えることを身につけたのです。あなたも先ず、人に従うことから始めてください。ただ、すぐれた神の人に従うだけでなく、あなたの好まない人にも従ってください。そこから神に従うことを学ぶのです。

主もまた、「多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、」(ヘブル5:8,9)と言われています。これは誤解を招くといけませんから、申し上げておきますが、主イエスも私たちのように苦しい訓練を受ける必要があったことを言っているのではありません。ここでは、主は、私たち人間が通るべき道筋を明確に示すために、人として実際に歩んでくださったことを言っているのです。

第二の要素は、勇敢さと、機敏な行動と実行力です。クリスチャンはよく聖書を学んでいる人でも、知識だけで終わってしまって、実行力がありません。信仰に熱心といっても、ただ教会の集会に出席しているだけであったりすることが多いのです。具体的な日常の生活の中で、この世と戦い、主をあかしするための勇敢な実行力が必要です。特に、この世の欲や見栄を捨てて、はっきりと主の側に立つ、ピネハスの如く潔められた信仰を鮮明に取ることが必要です。

14,15節には、汚れた不名誉な名前が記されています。

民 25:14 その殺されたイスラエル人、ミデヤン人の女といっしょに殺された者の名は、シメオン人の父の家の長サルの子ジムリであった。
25:15 また殺されたミデヤン人の女の名はツルの娘コズビであった。ツルはミデヤンの父の家の氏族のかしらであった。

どちらも氏族のかしらの息子と娘です。こういう責任ある家庭から悪の模範が出ることによって、その悪は民全体に広がっていくのです。子女を信仰によって正しく、神を畏れるように育てることは、両親にとって最も重大な責任です。さもないとその家族も、国も滅んでしまいます。

16~18節、主はミデヤン人を襲って、打つことを命じました。

民 25:16 【主】はモーセに告げて仰せられた。
25:17 「ミデヤン人を襲い、彼らを打て。
25:18 彼らは巧妙にたくらんだたくらみで、あなたがたを襲ってペオルの事件を引き起こし、ペオルの事件の神罰の日に殺された彼らの同族の女、ミデヤンの族長の娘コズビの事件を引き起こしたからだ。」

これは軍隊による攻撃よりも、もっと有害な不道徳の罪を取り除くためでした。この命令は31章で実行されていますので、悔い改める余裕はあったはずです。モアブの娘の誘惑から始まった不道徳はミデヤンの娘たちにも広がりました。神が「モアブを打て」と言わず、「ミデヤンを打て」と言われたのは、ミデヤンが故意にイスラエルを不道徳で破壊しようと企んでいたからだと思われます。

そしてバラムはモアブとミデヤンの両方のたくらみに関わり、彼らを助けていたと思われます。それ故、ただの神罰ではすまなくなり、ミデヤンの攻撃を命じられたのです。

ここに敬虔を装ったこの世的、肉的思いが抜け切っていないバラムと、神のために純粋に熱心なピネハスの対照的な姿を見ます。今日、教会の中にも、バラム的な人が多いのではないでしょうか。敬虔を装いつつ、この世のものにしがみついた生活をしている信仰者が多いのではないでしょうか。私はピネハスの如く生きたいものと常々、思っております。

あとがき

よく、「聖書の探求は、わかりやすくて、くわしく書かれています。」という評価をいただきます。しかし私が目的としているところは、読者の方々に聖書を理解していただくことだけではありません。聖書に記されている信仰を自分のものとしていただき、日常の生活で活用され、その信仰が読者の皆様の心の性質にまでなってくれることです。これは不可能ではありません。聖書もまたここを目指すように求めています。御霊の実を結ぶことも、結局はこのことなのです。

私はできるだけ分かりやすく書くことに務めています。しかしそれは理解していただくためだけではありません。読者の方々の霊的経験となり、実を結んでいただくことを求めているからです。理解から霊的経験となり、実を結ぶまでには、打ち被らなければならない厚い壁を感じています。しかしそれは皆様が客観的な学びに終わらせず、自分のこととして受けとめてくださることにかかっています。よろしくお願いします。

(まなべあきら 1994.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、オランダで1585年に出版された聖書の挿絵「Israël vereert de Baäl van Peor en Pinechas doodt Zimri (イスラエルはペオルのバアルを崇拝し、ピネハスはジムリとコズビを殺害する)」(オランダの画家 Gerard de Jode作、Wikimedia Commonsより)


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