聖書の探求(122a) 民数記27章 ツェロフハデの娘たちへの相続地、モーセの死の宜告と後継者

この章は、前半がツェロフハデの娘たちへの相続地の問題を、後半はモーセの死の宜告と後継者の問題が扱われています。


上の絵は、アメリカで1897年にCharles Fosterの簡単な説明付きで出版された「Bible Pictures and What They Teach Us(聖書の挿絵とそれらが私たちに教えること)」の挿絵「The Daughters of Zelophehad(ツェロフハデの娘たち)」(Wikimedia Commonsより)

1~11節、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たちの訴え

民 27:1 さて、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たち──ツェロフハデはヘフェルの子、ヘフェルはギルアデの子、ギルアデはマキルの子、マキルはマナセの子──が進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。
27:2 彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入口に立って言った。
27:3 「私たちの父は荒野で死にました。彼はコラの仲間と一つになって【主】に逆らった仲間には加わっていませんでしたが、自分の罪によって死にました。彼には男の子がなかったのです。
27:4 男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」

この訴えは、26章の人口調査と相続地の分割の計画の記事の一部として記されています。そしてこの娘たちの訴えは、これまでの伝統として男の子にのみ相続させる(申命記25:5~10)という枠外の要求であったことに特長があります。

申 25:5 兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
25:6 そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。
25:7 しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」
25:8 町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない」と言い張るなら、
25:9 その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」
25:10 彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。

一般に男性社会が形成されてきた原因は、戦争と労働を男性が分担してきたからですが、実際の社会形成は男性の数倍も女性が担ってきました。特に、出産から育児は、極く最近まで重要な価値あることとして考えられてきませんでしたが、これこそ、どんな社会を形成するかを決定する最重要囚なのです。昨今、母親が育児を放棄してから、社会は再び堕落と混乱を繰り返しています。間もなく人類は終末を迎えることになります。

しかしこの娘たちの要求は、七節で主に受け入れられているので、これまでの伝統がどうだからといって、最初から諦めてしまうのではなく、得るまで熱心に求める必要があります(ルカ11:7,8、ルカ18:1~7)。

ルカ11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

ルカ 18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

主は何度でも切に求める者を愛し、憐んで与えてくださることを強調しています。

3節、この娘たちは相続地の根拠として、「父は荒野で死にました。‥‥‥自分の罪によって死にました。」

つまり、カデシュで不信仰な仲間には入ったけれど、コラの仲間になって主に逆らうことはしなかったことを挙げています。すなわち、父がコラのような罪を犯していたのなら、娘たちも相続地の要求を遠慮したかも知れません。しかし他の部族と同等でありましたから、自分たちの相続地を要求できると考えたのでしょう。しかしここに、「自分の罪によって死にました。」と率直な罪意識を示しているのは、なんとも控目で、正直で、それでいてしっかり者の信頼できる娘さんたちであったことをうかがわせています。好感が持てる娘たちです。それ故、ツェロフハデの家系に相緑地が与えられなかったのは、子孫が女の子だけだったからという以外に理由がありません。これは正しくないのではないかという訴えをしたのです。控目で、遠慮がちであるということはよいことですが、それでいて消極的で、黙っていて自分の生涯を浪費し、心に不満を抱いている人が多いのです。それは決して神に喜ばれることではありません。自分の権利を要求することは、決して高慢でも、悪いことでもありません。むしろ神が与えてくださった生涯を、最も神に喜ばれる状態で用いるために必要なことなのです。

主は娘たちが男子と同じ相続権を有することを認めました(7節)。

民 27:5 そこでモーセは、彼女たちの訴えを、【主】の前に出した。
27:6 すると【主】はモーセに告げて仰せられた。
27:7 「ツェロフハデの娘たちの言い分は正しい。あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えなければならない。彼女たちにその父の相続地を渡せ。

私たちが神の嗣業を失うのは、罪を犯した時だけです。

「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)

しかし彼女たちの訴えによって、これまでの伝統が拡大され、娘の相続権も規定として認められました。

民 27:8 あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。人が死に、その人に男の子がないときは、あなたがたはその相続地を娘に渡しなさい。

彼女たちは一つの改革をしたのです。

今日、教会においても、女性たちの勇気ある信仰の改革が必要ではないでしょうか。教会学校の教師には女性が多いのに、牧師には男性が多い。主は女性には召命の御声をかけられないのでしょうか。そうではありません。女性が消極的になって隠れてしまっているのではないでしょうか。日本人の間では、「女性は内助の功がよい」とし、女性は人の前に立つべきではないという考えが、今もなお抜け切っていないのではないでしょうか。私が言っているのは、何も一般的な女性の社会進出をすゝめているわけではありません。女性が価値ある生涯を送り、主の栄光を現わす働きをすることをすゝめているのです。そのためには、女性自身が積極的に学び、実力を身につけていかなければなりません。夫にくっついているだけの女性からは、何のよい生涯も生まれてきません。そのような人は自分の人格性を放棄している人です。私はもっともっと女性の中から、すぐれた神の人が起きてくるはずだと思います。人類の半数以上が女性なのに、なぜ、女性の勇士が現われないのでしょうか。特に教会では、もっともっと女性の信仰を育て、活躍してもらいたいものです。そのためには、女性は夫に養われている妻になるのではなくて、自立した人格性を持つ一人の人としての実質を身につけていく必要があります。確かにエバはアダムの助け手として造られたという面がありますが、それは性の違いによる問題ではなくて、造られた順序による問題です。それ故、エバはずっとアダムの助け手であれば十分で、アダムはエバの助け手とならなくてよい、ということではありません。聖書は一方のことを言っているように見えますが、それは相互に求められていることは明らかです。しかしこれは男性の立場、女性の立場から、いつも自分の都合のいいようにしか解決されてこなかったのです。神は男と女をどちらもご自分の人格に似せて造られたのでありますから、どちらかが支配し、どちらかが隷属するようには造られなかったのです。もし最初から神がどちらかを隷属するように造られたのなら、神はその人を神の人格を持たない異なった生き物として造られたはずです。私たちは長い間、男性と女性について、大変間違った考え方を植えこまれてきました。その結果、どんなに不幸だったことでしょうか。今も人類はその泥沼から完全に抜け切っていないのです。

パウロは、男と女について語った時、その創造された順序や、誕生における経緯はあるにせよ、「すべては神から発しています。」(コリント第一11:12)と言って、男女の性別において、人格性においても、権威においても何ら差別をつけていません。

Ⅰコリ 11:12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。

もし、現代、男性がこの世の富や繁栄を求めて明け暮れし、その生涯を使い果たしているなら、女性は霊の世界、永遠の世界、信仰の世界において大活曜しようではありませんか。人類の半数以上は女性だということを忘れてはなりません。女性は世界を変える力を持っているのです。私は今後、女性の中からすぐれた神の人が次々と起こされることを祈っています。神はこれを実現してくださるでしょう。そのためには、まず、女性のクリスチャン自身が目覚め、学び、自己訓練をし、実力を身につけていく必要があります。

9~11節、しかし相続地が一部の人に集まって、貧富の差が大きくならないように、同族の内で相続するように定められています。

民 27:9 もし娘もないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えなさい。
27:10 もし兄弟たちもいないときには、その相続地を彼の父の兄弟たちに与えなさい。
27:11 もしその父に兄弟がないときには、その相続地を彼の氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせなさい。これを、【主】がモーセに命じられたとおり、イスラエル人のための定まったおきてとしなさい。」

12~23節、モーセの死の宣告とヨシュアの任命

12~14節、モーセの死の時、それはイスラエルの指導者の交代の時です。

指導者が交代する時がどんなに危険な時か、サタンが侵入しやすい時であるか、あなたは知っているでしょうか。それは人が交代するだけではありません。人の野心が入り乱れ、また本質まで揺り動かされることがあります。新しい指導者に立てられた者は、たえず先の老練の指導者と比較されて批判されるのです。また、新しい指導者は不慣れや未熟さもあって、仲々、強力な指導力を発揮することができないのです。これがしばらく続いていると、やがて群れが騒ぎ出します。ですから、私は自分が死ぬ時にバトン・タッチするのではなく、なお力が残っている間に指導者の地位を交代し、後見人として見守っていく必要があると思っています。指導者を倒せば、群れ全体が崩壊するのですから、サタンがこのスキをねらわないわけがありません。今、イスラエルにその時が来ているのです。私たちにも間もなく、その時がやってきます。

12節、主はモーセにアバリム山に登って、神がイスラエル人に与えた地を見るように命じました。

民 27:12 ついで【主】はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。
27:13 それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。

アバリム山は山の多い地方にあります。申命記32章49節では、特定の山を示している「アバリム高地のネボ山に登れ。」と命じられています。

申 32:49 「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。

モーセの神の人としての生涯は、ホレブの山で神とお会いし、シナイの山で神のみことばを受け、ネボ山から天に帰ったのです。ロトはソドムの低地に住み、この世に近い低地に住み、わざわいに陥ったのです。私たちは真っ直ぐ、恵みの高嶺から高嶺に向かって進まなければなりません。少しでもこの世の低地に住むことを願うなら、あなたは必ず堕落してしまいます。

モーセがカナンの地に入ることができなかった理由は、一回だけの罪のためです。
14節、「あなたがわたしの命令に逆らい」

民 27:14 ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。

これはモーセが神のみことばに忠実でなかったことを示しています。主は岩に命じるように言われましたが、モーセは不服従な民に対する怒りの故に、岩を彼の杖で二度打ってしまったのです(民数記20:7~13)。

民 20:7 【主】はモーセに告げて仰せられた。
20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。
20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
20:13 これがメリバの水、イスラエル人が【主】と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。

あなたは、「これくらいのことが罪になるのか。」と思われるかも知れません。しかし「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル第一15:22)と言っておられます。主はどこまでも、私たちに忠実な従順を求めておられるのです。

「彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これは主の聖さを現わさなかったことです。ペテロは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(ペテロ第一1:16)と言っています。私たちは自分の存在と生活行動のすべてにおいて神の聖なることを現わすように求められています。

私たちにとって、主のみことばに忠実であることと、主の聖を現わすこととは、特に大切なことです。この罪を犯すことによって、多くの重大な恵みと祝福を失ってしまうのです。モーセはこのことをよく自覚していましたので、自分の運命について嘆く言葉を一つも語っていません。すべてを神に委ねたのです。

16節、むしろ、あとに残す民のためにとても心配しています。

民 27:15 それでモーセは【主】に申し上げた。
27:16 「すべての肉なるもののいのちの神、【主】よ。ひとりの人を会衆の上に定め、
27:17 彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを連れ出し、彼らを入らせるようにしてください。【主】の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」

これは私の今の心境でもあります。迷える羊の群れには、よい羊飼いが必要なように、私たちの群れにどのような指導者が立つかということは、群れの実質を決定するのです。モーセは自分がいなくなった後の後継者を神に訴えています。これはどこかから雇って連れて来ることができません。自分たちの群れの中から起こされなければなりません。モーセは「だれを後継者にしたい」とは言わず、主に決めていただいていますが、主が指名されたヨシュアは、モーセの意中の人でもあったのです。

神の群れにとって、指導者が交代する時ほど危険な時はありません。もし、表面的には熱心でも、実力がなかったり、潔められていないこの世的な人であったり、未熟な者が指導者の地位に着くなら、群れはすぐにさ迷い始めます。この指導者交代の時、権力や地位を欲する肉的な者が後継者になりやすいのです。サタンは.そこに侵入しやすいのです。またモーセは、自分の子どもを指導者にしてくださるようにとも、求めていません。とかく自分の子どもを指導者にして、群れを駄目にすることが多いのです。後継者選びは、主がなさることであるとは言え、責任ある者は早くから次の指導者となる者の選定に心がけ、人の実質を見抜き、指導者となるべくその実力を育てていかなければなりません。このことなしに、突然、指導者の立場に立たされても、とても指導者としての力を発揮することはできません。大抵の場合、後継者を選ぶことだけを考えて、後継者を幼い時から育てることをしていません。これでは優れた指導者が育たないのは当然です。

18節、主の任命は、モーセの忠実な従者であったヨシュアの上に下りました。

民 27:18 【主】はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。
27:19 彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。

あらゆる才能や能力以上に、忠実な服従が重要です。忠実に従わない者を指導者にすることはできません。主はヨシュアを、「神の霊の宿っている人」と呼んでおられます。使徒5章32節に、「神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊」とあります。

使 5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

忠実に従う者には聖霊が与えられ、その人は聖なる動機を持ち、聖霊の御力を受けて、神と人とに仕え、指導者としての任務を全うすることができるのです。使徒の6章で、七人の執事が選ばれた時の条件も、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」(3節)でした。

使 6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

この条件は神の群れの指導者となる者の不可欠の条件です。この条件が満たされていなければ、他に熱心、知識、能力、知名度があっても、指導者になることはできません。肉的、この世的性質を持っている者をリーダーに選ぶことによって、神の群れは破壊されていくのです。

またここには記されていませんが、ヨシュアについて忘れてならないことは、彼がカデシュ・バルネアで、不信仰な大勢の者の前で堅く信仰に立って報告した人物であること、さらにアマレクとの戦いにおいても先頭に立って戦った人物であることです。この当りに、不完全ながらヨシュアの指導者としての資質が見られます。ここに将来、指導者となる者の人格的要素があります。長い間、文句も言わず、ただ黙って、忠実に従者の役目を果たし、それでいてただ従っているだけでなく、モーセが主と交わっている間は幕屋の前に立って、神との交わりの秘密を探り求めようとしている姿です。今日、このような人はほとんどいません。私はこういう人に自分のすべてをバトン・タッチしたい。モーセは安心してヨシュアにバトン・タッチしたものと思われます。ヨシュアがモーセの後継者となったことで、後々問題が起きないために、モーセの存命中に任命式が祭司エルアザルと全会衆の前で行われ、モーセが按手しました。これは大変賢明な方法だと思います。指導者が死んでから、後継者を決めると、問題が生じやすいのです。

20節、こうして新しい指導者に権威が与えられ、全会衆は新しい指導者に聞き従うように求められています。

民 27:20 あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。
27:21 彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために【主】の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、入らなければならない。」
27:22 モーセは【主】が命じられたとおりに行った。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、
27:23 自分の手を彼の上に置いて、【主】がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。

この権威は主の臨在によって与えられるものです。あなたが毎日神とともに歩み続けているなら、不可抗的神の権威があなたに与えられるようになります。指導者が交代する時は、必ず民は以前の指導者と新しい指導者を比較して、新しい指導者を批判したり、不服従になって、逆らったりする者が出てきます。それ故、後継指導者となる者は、見かけだけでなく、実践に耐え得る実力を持っていなければなりません。新指導者ヨシュアには、この後すぐにカナン攻略という重大な仕事が課せられていたのです。

新指導者ヨシュアは、ヨシュア記5章で、エリコの戦いの前に真の偉大な指導者である主の顕現に触れています。こうして指導者となる者は一人孤独な所で生ける主の顕現に触れ続ける必要があるのです。指導者の役目は、一般会衆がねたましく思うほど、楽なものではありません。しかし尻込みすることなく、神の召命を聞いた者は指導者となるべく、前進し続けなければなりません。

あ と が き

信仰生活において、みことばの学びと、内的経験と、生活実践の三つの部分がバランスがとれていることが大切だということは、私が常々申し上げてきたことです。その中でも、さらにみことばの活用が自分の利益のためだけにとどまっていて、すなわち、自分の対人関係がうまくいくためとか、仕事がうまくいくようにというような、自分のためだけ、に終始していて、主のため、主の栄光のために、みことばを活用することが、ぽとんどすべてのクリスチャンにおいて、おろそかにされています。このことが原因となって、信仰が低迷し、脱落していく者が多いのです。主イエスは、「あなたがたの光を人々の前に輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5;16)と命じられました。主の栄光を現れすために、みことばに従って生きる。この動機こそ、私たちを神の人にする唯一の動機です。この探求もそのように用いられれば、幸いです。

(まなべあきら 1994.5.1)