聖書の探求(123) 民数記30章 主への誓願、あるいは、物断ちの規定

この章は、主への誓願の物断ちの規定を記しています。これは、家庭生活における宗教行為の責任を規定する上で、非常に重要なものとなっていました。

2節は、一般論ではありますが、人が神に誓願する場合の規定を定めています。

民 30:1 モーセはイスラエル人の部族の一族のかしらたちに告げて言った。「これは【主】が命じられたことである。
30:2 人がもし、【主】に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。

それは、私たちが神に対して約束したことは、それが口から出たことばだけであっても、必ず実行しなければならないとされています。
これは、神に対する祈りにおいても同じ効力をもっています。私たちは、祈りにおいて、神に対してした約束をどれほど無責任に、なおざりにしていることでしょうか。また他人との約束を誠実に果さないでいることでしょうか。それらはどちらも、神から責任を問われる違反となります。クリスチャンにとっては、口約束は、証書に記入し、捺印したのと同じほどに、厳格に守らなければならないことを自覚しなければなりません。

しかし主イエスは、誓うことについて、
「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は、『はい。』、『いいえ。』は、『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」(マタイ5:33~37)
と言って、人にはその誓いを果たす力がなく、不敬虔になることを知られて、禁じられました。それ故、私たちの祈りにおける誓いも、十分に慎重に、主に対してなされなければなりません。

誓願には、積極的な意味における誓願(ネデル‥‥これは自発的に喜んでささげものをしたりすること)と、消極的な誓願(イッサル‥‥これの多くは物断ちをすること)があります。ここでは特に、後者のことが取り上げられています。そして誓願には、予め、十分に考えてなされた誓願と、せっかちに無思慮に誓願する危険があることを指摘しています。信仰が無思慮で、せっかちで、衝動的に行われるなら、それは不健全です。しかし十分に主のみこころを確かめ、自らの献身と信仰が明確でゆるがないものであるなら、どんな障害も困難も乗り越えて、神に従うべきですし、従わなければなりません。

3~16節、成人した女性の誓願について、旧約聖書においても、神は女性を単なる家の労働力とは考えていません。

聖書中、どこにもそのような思想は見られません。ただ、異教の世界においてのみ、女性の人格性が無視されてきた歴史を持っているのです。さらに今も、そのような考えが完全にぬぐい切れているとは言えません。男性が神の人格的かたちに造られたのと同じく、女性も神の人格的かたちに造られていますから、聖書は女性の人格を尊重しています。このことは今日の異教社会に比べても高い水準にあるかのように思われますが、聖書は人としてのあるべき標準を示しているのです。

しかし男性が個人で責任をとらなければならないのに対して、女性は家族の中で、他の人との制約を受けることが多いので、誓願を無効にできる道が開かれています。

それ故、9節のように「やもめや離婚された女」、すなわち独身の女性は、男性と同様に、その人の誓願はすべて有効として守らなければならないと命じられています。

民 30:9 やもめや離婚された女の誓願で、物断ちをするものはすべて有効としなければならない。

これは女性であるからという特別扱いはなく、一人前の人としての責任を負うことが求められています。

3~5節、若い未婚の娘の場合

民 30:3 もし女がまだ婚約していないおとめで、父の家にいて【主】に誓願をし、あるいは物断ちをする場合、
30:4 その父が彼女の誓願、あるいは、物断ちを聞いて、その父が彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて、有効としなければならない。
30:5 もし父がそれを聞いた日に彼女にそれを禁じるなら、彼女の誓願、または、物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に禁じるのであるから、【主】は彼女を赦される。

この場合、父親の意見が介入する余地があることを示しています。これは、若い娘には(若い息子も同様ですが)十分な思慮が欠けていることが多いので、父親がその責任を負うべきことが考慮されているものと思われます。勿論、これは父親がその責任を負うに価する人格を持っている場合です。

しかし娘が誓願について父親に話した日に、父親が黙っていれば、父親はそれに賛成し、認めたものとされています。ここに、反対意見を述べず、黙っていることは、賛成の意志表示であるという原則が取り入れられています。あとになって、反対しても、それは無効になります。反対意見はその場で発言されなければなりません。その場で黙っていることは、賛成したと認められるのです。あとでの反対意見は許されません。この原則は、夫と妻の関係にも共通しています。

6~8節は、無思慮な誓願の場合を取り上げています。

民 30:6 もし彼女が、自分の誓願、あるいは、物断ちをするのに無思慮に言ったことが、まだその身にかかっているうちにとつぐ場合、
30:7 夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効でなければならない。
30:8 もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。そして【主】は彼女を赦される。

その例として、未婚の時に誓願をした娘が、その誓願の期間中に嫁ぐ場合のことです。つまり自分の結婚のことを考慮しないで、神の御前に誓願していた場合のことです。この場合も、夫となる人が女性から誓願について話を聞いた時、それを禁じるなら、彼女の誓願は解かれることになります。なぜなら、もはや彼女は独身ではなくなり、夫との関係が生じるからです。しかし、夫が話を聞いた日に、何も言わなければ、夫も賛成したとみなされ、彼女の誓願は守らなければならなくなります。こうして連帯性が生じるのです。親や夫婦の場合、個人の人格的権利や責任が認められているとともに、自ずからその連帯性も生じてくるのです。

10~15節は、通常の夫婦の間の誓願について記されています。

民 30:10 もし女が夫の家で誓願をし、あるいは、誓って物断ちをする場合、
30:11 夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、しかも彼女に禁じないならば、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効としなければならない。
30:12 もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も、物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効としなければならない。彼女の夫がそれを破棄したので、【主】は彼女を赦される。
30:13 すべての誓願も、身を戒めるための物断ちの誓いもみな、彼女の夫がそれを有効にすることができ、彼女の夫がそれを破棄することができる。
30:14 もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。彼がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったので、彼はそれを有効にしたのである。
30:15 もし夫がそれを聞いて後、それを破棄してしまうなら、夫が彼女の咎を負う。」

その内容はこれまでのものと全く同じですが、最後に、15節で、夫が妻から誓願について聞いた日には黙っていて、後になって夫が強制的に妻の誓願を破棄してしまうなら、それは夫の責任となり、夫が妻の誓願を破った答を負わなければなりません。こうして妻の誓願は夫の責任にもなりうるので、夫と妻は常に一致した信仰の歩みをすべきですが、大抵、どちらかがこの世的になり、相手の信仰をひきずり下そうとするのです。特に、妻が夫の我侭や不信仰、高慢の故に、悲しみ、苦しんでいる実例は沢山見られます。これらの点はぜひ、改善されなければなりません。

民 30:16 以上は【主】がモーセに命じられたおきてであって、夫とその妻、父と父の家にいるまだ婚約していないその娘との間に関するものである。

親子の関係も、夫婦の関係も、それ自体が信仰生活なのだということをよく心にとめて、家庭生活を信仰による霊的生活に、主に忠実な生活にしていかなければなりません。特に、父や夫は、娘や妻の信仰を尊重しなければなりません。もし、それを軽視したり、拒むなら、神のさばきが父や夫の上に下ることになります。このことは、旧約時代においてだけでなく、今日においても起き得ることなのです。

あ と が き

キリスト教的考えで生活するのと、聖書のみことばを心に宿し、それが心の中で生きて働き、それに従って毎日の生活を営むのとは、全く異なっています。キリスト教的考えの理解の中には、多分に自分の肉的考えが混入し、主の直接のみこころよりも、自分の願いや欲に都合のよいように再解釈されていることが多いのです。それ故、神のみこころは歪められています。

また直接、神のみことばが心の中で働いていることを経験することは、生けるキリスト、すなわち聖霊経験をしていることなのです。神経験をしようと思うなら、また神経験を深めようと思うなら、キリスト教思想やキリスト教的考え方で生きているだけではできません。必ず、イエス様のみことばが心の中で、生きて働き、そのみことばに従う生活が必要です。主に従うとは、このことをすることなのです。あなたの信仰をみことばで裏打ちされたものとしてください。

(まなべあきら 1994.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、民数記30章の分かりやすい図解説明。引用元は、「Doodle Through The Bible_ My Visual Bible Study – One Verse or Chapter at a Time! 」(http://www.doodlethroughthebible.com/)


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