聖書の探求(126b) 民数記35章 レビ人が住む町とのがれの町

この章には、レビ人が住む町とのがれの町が記されています。

1~8節は、レビ人の住む町と放牧地のために、イスラエルの各部族の相続した所有地の中からレビ人に与えなければならないことが記されています。

民 35:1 エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、【主】はモーセに告げて仰せられた。
35:2 「イスラエル人に命じて、その所有となる相続地の一部を、レビ人に住むための町々として与えさせなさい。彼らはその町々の回りの放牧地をレビ人に与えなければならない。
35:3 町々は彼らが住むためであり、その放牧地は彼らの家畜や群れや、すべての獣のためである。
35:4 あなたがたがレビ人に与える町々の放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトでなければならない。
35:5 町の外側に、町を真ん中として東側に二千キュビト、南側に二千キュビト、西側に二千キュビト、北側に二千キュビトを測れ。これが彼らの町々の放牧地である。
35:6 あなたがたが、レビ人に与える町々、すなわち、人を殺した者がそこにのがれるために与える六つの、のがれの町と、そのほかに、四十二の町を与えなければならない。
35:7 あなたがたがレビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地つきである。
35:8 あなたがたがイスラエル人の所有地のうちから与える町々は、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。おのおの自分の相続した相続地に応じて、自分の町々からレビ人に与えなければならない。」

レビ人は他の部族のように特定の土地の分配を受けていなかったのです。レビ人は各部族の間に平均して散在して生活すべきことが命じられています。これは今日の教会が人々の生活の領域において活動すべきことを予表しています。教会が人間社会から隔離されていたり、クリスチャンの信仰が実際生活から遊離したものになってしまっているなら、その宗教的意味は失われてしまい、地の塩、世の光としての効力を失ってしまいます。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

レビ人には四十八の町が与えられ、そのうち六つの町が、のがれの町でした。また各町の東、南、西、北側に各々二千キュビトの放牧地が与えられています。三節では、この放牧地は、「彼らの家畜や群れやすべての獣のためである。」とありますが、ここには、毎日、主にいけにえとしてささげられる羊や牛が飼われていたものと思われます。もしかしたら、主イエスが降誕された時、み告げを受けた羊飼いたちはこういう放牧地で、主にささげるいけにえとする羊を飼っていた羊飼いであったのかも知れません。それは有り得ないことではありません。

9~29節は、のがれの町の規定について記しています。

民 35:9 【主】はモーセに告げて仰せられた。
35:10 「イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地に入るとき、
35:11 あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。
35:12 この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。
35:13 あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。

こののがれの町に逃げ込むことができるのは、誤って人を殺した人だけです。すなわち、過失によって人を殺した人の場合について、有効なのです。故意に罪を犯した場合、罪のあがないのいけにえをささげなければなりませんでしたが、過失の場合でも、いけにえは必要でした。しかし、こののがれの町は復讐する者からのがれるためのものでした。ここにも、過失を犯した場合でも、イエス・キリストの血潮の中に逃げ込むことができることを示しています。

復讐については、既に、カインの罪の所で見てきました(創世記4:15、24)。

創 4:15 【主】は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで【主】は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。

創 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

また、創世記9章5節では、律法的原理として、復讐が認められていたようです。

創 9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

これは不正を受けた最も近い親族が、責めを受けるべき者に刑罰を加えることを許すというものでした。しかしこれは後に、治安組織が整ってくると、刑罰の加え方が変わって、復讐は許可されなくなったようです。

14節の、のがれの町は、ヨルダンのこちら側(東)に三つ、ベツェル(ルベン族)、ギルアデのラモテ(ガド族)、バシャンのゴラン(マナセ族)、(申命記4:41~43、ヨシュア記20:8)、

申 4:41 それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。
4:42 以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。
4:43 ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。

ヨシ 20:8 エリコのあたりのヨルダン川の向こう側、東のほうでは、ルベン部族から、高地の荒野にあるベツェルを、ガド部族から、ギルアデのラモテを、マナセ部族から、バシャンのゴランをこれに当てた。

カナンの地に三つ、ガリラヤのケデシュ(ナフタリ族)、シェケム(エフライム族の山地)、ヘブロン(ユダ族の山地)、(ヨシュア記20:7)

ヨシ 20:7 それで彼らは、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシュと、エフライムの山地にあるシェケムと、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとを聖別した。

15節、こののがれの町はイスラエル人だけでなく、在留異国人にも適用されました。

民 35:15 これらの六つの町はイスラエル人、または彼らの間の在住異国人のための、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。

すなわち、イスラエル人社会で生活している者すべてに適用されました。これは今日、キリストにある者はすべて、何の差別もなく、すべての人にキリストの贖いが及ぶことを示しています。

こののがれの町は、神の聖所から遠い所にいる者に対して、緊急のために用意されたものであって、広い意味において聖所の出張所的意味を持っていました。

さらに、こののがれの町が規定されていることは、神のみこころの中で、故意の罪と過失とが明らかに区別されていることを示しています。勿論、どちらの場合もキリストの血を必要としますが、主は故意の罪と不注意の過失とを同じに扱わないのです。

16~21節は、故意の殺人について語っています。

16~18節は殺人に使った道具が記されていますが、これらの道具が使われていることは、殺人者が意志的に故意に殺したことを意味しています。

民 35:16 人がもし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。
35:17 もし、人を殺せるほどの石の道具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。
35:18 あるいは、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。

聖書が罪と呼んでいるのは、各人の意志を働かせて、主に逆らった場合です。それは他人では区別がつかないこともありますが、本人はよく分かるはずです。それ故、たとい犯行に及ばなくても、心の中で罪を犯す意志を持ったなら、主はそれを罪と判定なさるのです。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20~23)

「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)

「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」(ヨハネ第一3:15)

20~21節は、殺人者の故意の動機を指差しています。

民 35:19 血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。
35:20 もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、
35:21 あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。

憎しみ、悪意、敵意は、十分に罪と判定される動機です。それ故、故意の罪か、過失かを判断しようとする時には、動機を調べてみればいいわけです。聖書は行われた結果よりも、その人の動機に注目しています。私たちはよい動機を持っていつつ、失敗したり、他人に迷惑をかけることをしてしまうことがあります。また悪い動機でも、他の人に思いやりがあるかのように見せかける行動だってとることができるのです。これは人をだましていることになります。私たちが神の前に真実であるということは、行いがよいことではなく、動機が神のみこころにかなっていることです。

このような故意なる殺人者に対しては、復讐者は彼を殺してもよいとされていました。しかしパウロは、さらにすぐれた復讐について教えています。

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19
~21)

クリスチャンはぜひ、愛の復讐者になりたいものです。

22~29節では、殺す動機がなくて、不注意から人を死なせてしまった場合のことです。

民 35:22 もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、
35:23 または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、
35:24 会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。
35:25 会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。

ここでの特長は、会衆がまず、復讐者の手から彼を救い出し、のがれの町に送り込むように命じられています(25節)。今日のように一般会衆が知らん顔をしていることは許されません。会衆には重大な責任と義務が負わされています。お互いが真実なクリスチャンであるなら、直接、自分の問題でなくても、互いに重荷を負い合い、助け合うことが普段から身についていなければなりません。

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)

「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自分を喜ばせることはなさらなかったのです。」(ローマ15:1~3)

殺人者は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、のがれの町から出てはいけません。たとい過失であっても、人を殺せば、それだけ制限を受けた生活をしなければならなくなります。私たちは、過失だからと言って、横柄になることはできないのです。過失によってでも、他の人に損害を与えれば、それを賠償しなければならない責任が生じてきます。

民 35:26 もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、
35:27 血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。

万一、彼が規定を破って、勝手にのがれの町を出たなら、復讐者は、彼を見つけて殺しても罪にはならないことになっています。一度、キリストの救いに与かった者であっても、再び、キリストの贖いから離れてしまう者が滅びるのは当然のことです。

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものになります。」(ペテロ第二2:20)

28節、大祭司の死後、彼はすべての刑罰から自由になり、自分の所有地に帰ることができます。復讐者は彼を殺すことはできません。

民35:28 その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。
35:29 これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。

30~34節、殺人者に対する贖(あがな)い

30節、一人の証人の証言だけで死刑にすることはできません。

その証人が間違っていたり、買収されて偽りを証言していることもあるからです。

民 35:30 もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。

31節、死刑に当る殺人者は、もはや贖(あがな)い金で釈放されることはできません。

民 35:31 あなたがたは、死刑に当たる悪を行った殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。

いのちには、必ずいのちをもって代償しなければならないからです。これは罪の支払う報酬は死であることを示しています(ローマ6:23)。

ロマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

32節、たとい過失で人を殺した者の場合でも、贖(あがな)い金を受け取って、祭司が死ぬ前に、彼の所有地に帰してはならない。

民 35:32 のがれの町に逃げ込んだ者のために、贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、国に帰らせて住まわせてはならない。

たとい過失であっても、人のいのちに関わることは金銭で解決できる問題ではないからです。実は、罪はどの罪でも、金銭による賠償では解決できないのです。必ず、全きいけにえの血(イエス・キリストの十字架の血)が必要なのです。

「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)

33~34節は、その根拠を示しています。
33節、血を流す罪に対しては、血を流すことによってしか、贖(あがな)うことができません。

民 35:33 あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。

これは罪に対するキリストの血による贖(あがな)いの根本原理を示しています。

34節は、「神が宿る地を汚してはならない。」というのが、その根本の理由です。

民 35:34 あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。【主】であるわたしが、イスラエル人の真ん中に宿るからである。」

主が臨在される教会を決して汚してはなりません。それを汚す者は、自ら破滅することになります。教会の中に争いを起こす人は、このことを十分に自覚すべきです。潔められたクリスチャンが集まる時、そこに潔められた教会が生まれ、主はそこに聖なる臨在の輝きを示して下さるのです。

(まなべあきら 1994.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、アメリカで1884年に出版されたCharles Fosterの「The Story of the Bible(聖書の物語)」の挿絵「Fleeing to the City of Refuge(逃れの町への逃げ込み)」(Wikimedia Commonsより)


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