聖書の探求(132) 申命記1章 26~46章 カデシュでの不信仰と神の審判

「出エジプトの経路」(出典:新改訳聖書第3版、日本聖書刊行会)

26~46節、カデシュでの不信仰と神の審判

ここには、不信仰の特長が見られます。それは、神の約束のみことばを信じて、実行しなかったことです。イスラエル人は、神が彼らにカナンの地を与えると約束されたのに、攻め登って行かなかったのです。救いの恵みでも、聖潔の恵みでも、神の約束のみことばがあるのにも拘(かかわ)らず、それを信じて、自分のものにして実際の生活に適用していかないことは、不信仰です。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」(ヘブル4:2)

主の恵みの約束を信じて受け取り、その信仰に従った生活をしようとしない人は、主のご命令に逆らっているのです(26節)。

申 1:26 しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、【主】の命令に逆らった。

しばしば私たちは、故意には主のみことばに反逆しているのではありませんが、積極的に、自発節に、喜んで、主の約束を受け取り、その信仰に従った生活をおろそかにし、怠っていることによって、主のご命令に逆らっていないでしょうか。そういう人々の生活は、どういうものになっているのでしょうか(27,28節)

申 1:27 そしてあなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。「【主】は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。
1:28 私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た』と言って、私たちの心をくじいた。」

(1) 天幕の中でつぶやいている。不平不満のつぶやきの生活

(2)「主は私たちを憎んでおられるので、‥‥‥ 私たちを根絶やしにしようとしておられる。」神に対する、根も葉もないのろいと疑いを抱いている。
これはサタンの誘惑の手口です。サタンはエバに、「神様があなたがたに善悪を知る木の実を食べさせないのは、あなたがたが、神様のように賢くなることを恐れているからですよ。」と思い込ませたのです。エバはまんまと、その惑わしに誘い込まれ、神様に対して不満を抱くようになり、勝手な想像をして、神の動機を疑ったのです。こうしてサタンに惑わされている人は、よく真実を悟らないまま、自分勝手な推測や想像をして、真実な動機を疑い、事実を折り曲げ、自ら破滅へと落ち込んでいくのです。私たちは主を愛し、主に全く信頼し、従順に従うことなしに、主のみこころを悟り、主のご真実を確信することはできません。
多くのクリスチャンが、主に全面的に従うと、主や指導者たちが自分を苦しめると思い込んでいます。なんという愚かな考えでしょうか。主が「自分を捨てなさい。」「この世を捨てなさい。」と命じておられるのは、あなたを苦しめるためではありません。あなたを罪とこの世の縄目から解放して、あなたを潔め、真のキリストにある自由をあなたに与えるためなのです。

(3) 目の前の障害物や困難な課題を見て、心をくじいて失望しています。
主を見上げて主に全く信頼していないからです。モーセの時代のパレスチナから、石垣をめぐらした多くの町々が発掘されています。そしてそれらは、どんな石垣もみな、不信仰な者には、とうてい乗り越えられないほどの城壁に見えてしまったのです。
私たちの前にはいつも、巨人のアナク人があり、石垣は存在しているのです。それらがあなたの心をくじくか、どうかは、あなたの信仰の実質によるのです。それらのために心をくじいてはならない。

29節、モーセは彼らを激励しました。

申 1:29 それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。

「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。」恐れを抱くことは、不信仰の罪の始まりであり、それは神の審判を招くようになります。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(ヨハネ第一4:18)

30節、モーセは民に、神を見上げることを教えました。

申 1:30 あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、【主】が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。

あのエジプト脱出の時に戦って下さった主が、あなたがたに先立って行かれて、戦って下さることを信じなければなりません。主は私たちに対しても先立って進まれ、戦って下さいます。

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。・・・わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:4、11)

主イエス様は私のために十字架の上で戦って、ご自分のいのちを捨ててくださいました。これによって、私は勝利を得たのです。

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ第一5:45)

31節、また、荒野の旅の間も、民は、神が父が子を抱くように守られたのを経験しました。

申 1:31 また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、【主】が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。

なんという主の愛でしょうか。パウロも、「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけでなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。‥‥また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに招いてくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。」(テサロニケ第一2:7,8、11,12)と言っています。しかし私たちはこれに慣れて、これを当り前のこととして、感謝することを忘れていないでしょうか。

33節、主は、毎日毎日、イスラエルの民が宿営する場所を捜すために先立って行かれ、民が進んで行く道を示されたのです。

申 1:33 主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」

振り返ってみれば、今日、私たちが主の恵みに与かっているのは、毎日毎日、主が導かれたことの結果であることを忘れてはいけません。

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」(コリント第一15:10)

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これを歩め。』と言うことばを聞く。」(イザヤ30:21)

私たちは、毎日毎日、みことばの光に導かれて歩んでこそ、恵みの地に到達することができるのです。それは毎日毎日のことでなければなりません。

32節、しかし、神の律法を教えられているイスラエルなのに、彼らは主が毎日、導き養って下さったことを忘れてしまって、目先の敵を見て恐れ、主を信じようとしなかったのです。

申 1:32 このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、【主】を信じていない。

私たちにも、このような危険はないでしょうか。主は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)と命じられました。主のみことばにとどまり続けて、恐れず、ゆだねて従うことこそ、私たちに求められていることではないでしょうか。

34節、ついに主は怒り出されました。

申 1:34 【主】は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。

35節、不信仰な者は決して良い地に入って住むことはできません。

申 1:35 「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。

37節、指導者のモーセもカナンの地に入れなくなってしまいました。

申 1:37 【主】はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、入れない。

メリバの水の事件で、主の聖きを現わさなかったからです。いつまでも止めない民のつぶやきに対して、怒りを発して、主の聖なることを現わさなかったからです。人の怒りは主の聖なることを現わしません。霊的指導者はたえず、不信仰な態度をとる信者によって、忍耐が試みられているのです。それも知らずに、つぶやいたり、自分勝手なことをする信者は多いのです。

36節、ただカレブとヨシュアだけが、その子孫とともに神の約束の地に入ることができます。

申 1:36 ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は【主】に従い通したからだ。」

その理由は、「彼は主に従い通したからだ。」と言われています。信仰は、最後まで従い通すことによって、救われるのです(マタイ24:13)。

マタ 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

イスラエルの民は、カデシュまでは従いましたが、そこからは困難な課題を見て、従い通さなかったために、荒野で滅んでいったのです。主イエスの多くの弟子たちも、主のみことばにつまずいて、従い通さなかったのです。

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:66)

今も多くのクリスチャンが最後まで、主に従い通さないのを見る時、心が痛みます。肉の思いを持っていれば、御霊に逆らい、神の律法に服従できないのです(ローマ8:7)。

ロマ 8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

38節では、ヨシュアがモーセに代わって、新しいリーダーとなることが暗示的に語られています。

申 1:38 あなたに仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに、入るのだ。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。

彼が、よく忠実にモーセに従って仕えていたからです。霊的リーダーとなる人は、自分勝手な考えや行動に走らず、先ず指導者の身近にいて、よく仕える者でなければなりません。

39節は、だれが約束の地を相続するのかを語っています。

申 1:39 あなたがたが、略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、入る。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。

イスラエルの人々が、敵から攻撃を受けて「略奪されるだろう(捕えられるだろう)。」と恐れている幼子たち、すなわち、まだ善悪も弁(わきま)えることのできない子どもたちが、神の約束の地を受け継ぐのです。
モーセがこのことばをここで語ったのは、二代目のイスラエルの子孫に、過去の教訓を悟らせようとしている意味が含まれています。
不信仰は子孫に継承させてはならない。不信仰は切り捨てられなければなりません。信仰こそ、子孫に継承すべき、最も重要な財産なのです。しかしクリスチャン・ホームの子どもたちにすら、信仰が継承されることは少なく、不信仰を継承している実例を多く見かけます。これは親に問われる責任であると言ってもいいでしょう。息子、娘が不信仰に陥るのは、親の責任だけではないにしても(多分に本人の責任ですが)、親の態度が影響していないとは言えないのです。信仰の継承は、私たちが真剣に考えなければならない最も重要な問題です。

40節では、神の審判が始まったことを示しています。

申 1:40 あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」

「あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」 これは、「向きを変えて、来た道を帰るように」と命じられた。これはもはや、目的地に向かっての旅ではなくなってしまいました。不信仰な人は必ず、再び罪人の生活に舞戻ってしまうのです。

41~43節は、不信仰な者の自分勝手な考えと行動をよく示しています。

申 1:41 すると、あなたがたは私に答えて言った。「私たちは【主】に向かって罪を犯した。私たちの神、【主】が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。」そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。
1:42 それで【主】は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」
1:43 私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、【主】の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。

主が、「上ってはならない。」と言われると、不信仰な人々は「上って行って、戦おう。」と言い出すのです。上って行って、戦って勝利が得られるのは、主が「行け」と命じておられる間だけです。主が、「行ってはならない。」と言われたなら、もはや主の同行はないので、確実に敗北するのです。主は、「わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。」と言われたのは、それです。

主イエスは弟子たちが世界宣教に出て行く前に、「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)と言われました。また、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)と言われましたが、これは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と、同じ約束のことを言われたのです。

主がともにいて下さらない時に、勝利を得ることは、絶対にないのです。あなたがどんなに力を尽くして努力をしても、恵みも祝福も受けることはできません。ですから、この世と調子を合わせることを止め、神のみこころは何かをよく弁(わきま)え、神に喜ばれ、神に受け入れられることを弁(わきま)え知るために、心の一新によって自分を変えなさい。ただ、形式上、信仰的なことをしていても、祝福を受けるのではありません。エジプトのパロの軍隊は、イスラエルと同じように紅海に入って行って、沈んだではありませんか。外見上、同じようなことをしていても、主の同行があるのと、ないのとでは、全く逆の結果になってしまうのです。

彼らは、主の臨在が去ったことも知らずに、主の制止にも聞き従わずに、登って行って敗北したのです。

44節は、主により頼まないで、自分の力により頼む者がいかにもろいかをよく示しています。

申 1:44 すると、その山地に住んでいたエモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が追うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルのホルマにまで追い散らした。

45節、彼らはその悲惨な敗北の結果を見て、主に泣いて助けを祈り求めましたが、主は耳を傾けても下さらなかった。

申 1:45 あなたがたは帰って来て、【主】の前で泣いたが、【主】はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。

不服従な者の祈りを、主は聞き入れてくださるはずがありません。私たちは主に祈る前に、主に忠実に従う者となっていなければなりません。

46節、彼らはその後、かなり長い間、カデシュの近くの荒野にとどまっていました。

申 1:46 こうしてあなたがたは、あなたがたがとどまった期間だけの長い間カデシュにとどまった。

しかしその年月は、不毛の期間でした。なんと多くのクリスチャンが不服従のために、恵みの地の近くにいながら、長い間、不毛の生活を続けていることでしょうか。

「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者がひとりもいないようにしようではありませんか。」(ヘブル4:11)

あ と が き

毎月、メッセージ・テープや聖書の探求や本を通して、信仰が変えられた証詞のお知らせをいただいて、主がお用い下さっていることを覚えて感謝致しております。聖書の探求をお申し込み下さる方も起こされて感謝です。
主の民がみことばを心から喜んで実行されるようになる時、主の臨在は鮮明になり、来信者の方々にも主が分かっていただけるようになってきます。感情的、雰囲気的リバイバル運動ではなく、ひとり一人のクリスチャンがみことばに深く根ざし、聖霊の光に忠実に、従順に従った生活による証詞こそ、多くの実を結び、主の栄光を現わします。それには、主に対する深い全き信頼と忍耐強いみことばの探求が必要です。必ず実ります。
「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ8:15)

(まなべあきら 1995.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


 

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