聖書の探求(133) 申命記2章 イスラエルの放浪-エドム、モアブ、アモンまでの神の導き

上の写真は、現在のアルノン川。ヨルダン最大の渓谷で、東から西へ約50Km、多くの支流が合流して死海へと流れる。断崖の高さは500mに及ぶ。(2016年の訪問時に撮影)


2章は、カデシュからセイル山を通り、モアブ、アモン人の境までの神の導きの深い回顧をしています。

1~23節、イスラエルの放浪-エドム、モアブ、アモンに対して

モーセは、カデシュ・バルネアの不信仰と反逆の結果としての放浪の旅の道順を詳しく記していません。ただ、その原則を記しているようです。

申 2:1 それから、私たちは向きを変え、【主】が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。
2:2 【主】は私にこう仰せられた。
2:3 「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。

4~7節の神のご命令は、エサウの子孫のエドム人の東の境を横切る(真直に通り抜けるのではなくて)ことに関連しています。

申 2:4 民に命じてこう言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。
2:5 彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。
2:6 食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。
2:7 事実、あなたの神、【主】は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、【主】は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」

これは民数記20章14~21節とは無関係であって、民数記の記事は初期の頃のことであって、申命記の中には見られません。

民 20:14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。
20:15 私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。
20:16 そこで、私たちが【主】に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。
20:17 どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」
20:18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」
20:19 イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」
20:20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。
20:21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。

それ故、イスラエルはこの神のご命令に従って、エドムの近くから過ぎ去ったのです。神はエサウに与えられた所有地をイスラエルに侵略させなかったのです。イスラエルはだれとでも争って、侵略、略奪してはならなかったのです。

私たちは、何んでもかんでも自分が勝って有利になればいいのではありません。ただ神のみこころを行なうことだけが大事なことなのです。ただ、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧み」ることが大切なのです(ピリピ2:4)。さらに、神が自分に与えられた祝福に十分に満足し、他人の所有物を奪い取ることはしてはならないのです。

9節でも、主は、「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない」と命じています。

申 2:8 それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。そして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。
2:9 【主】は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。

19節でも、アモン人に敵対してはならない、争いをしかけてもならないと、命じています。

申 2:17 【主】は私に告げて仰せられた。
2:18 「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。
2:19 それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。

しかし24節では、ヘシュボンの王エモリ人シホンとは、戦いを交えて占領するように命じ、3章1,2節でも、バシャンの王オグと戦うように命じておられます。

申 2:24 立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。

申 3:1 私たちはバシャンへの道を上って行った。するとバシャンの王オグとそのすべての民は、エデレイで私たちを迎えて戦うために出て来た。
3:2 そのとき、【主】は私に仰せられた。「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」

これはイスラエルが他国を略奪するだけの盗賊や、単なる侵略者になり下がらないようにという警告です。私たちも単に批判するためだけの批判者にならないようにしなければなりません。神の民は、神が与えると約束された地だけを占領するように命じられています。

セイルはヤコブの兄エサウの子孫であり、モアブとアモンはアブラハムの甥のロトの子孫であるために、兄弟としての友情を示すために、争ってはならないと言われているのです。この友情は族長時代の特徴であり、特に、モーセの時代の特徴です。

しかし、エドム、モアブ、アモンは、この友情に応えようとしなかった。却って、彼らはイスラエルに恨みをもち、王国時代には仇敵となって、絶えず無惨な戦いを繰り返してきた。しかしモーセの時には、神は彼らを兄弟として、友情をもって接するように命じています。

その一つの例として、6節で、食物や水を金で買って使用するように命じています。

申 2:6 食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。

荒野で旅をする者にとって、食物と水は死活問題であり、これまでも、いつもそれが呟(つぶや)きの原因となっています。生活がどんなに緊迫していても、略奪者になってはならないと命じられています。

人類の戦争のうち、そのほとんどのものは権力や富や物質の略奪、侵略戦争だったのです。今日でも、武力を使うと使わないとに関わらず、物質的経済戦争が繰り返されています。

7節、モーセは四〇年の荒野の生活をふり返ってみて、神はこのイスラエルの二世の子孫の旅路に祝福を与え、見守り(保護し)、ともにおられて、すべての必要を満たされました。

申 2:7 事実、あなたの神、【主】は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、【主】は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」

神は放浪する者にも、これらの助けを与えられたのです。そうであるなら信仰をもってカデシュからカナンの地に入っていれば、その祝福はどんなに大きかったでしょうか。しかしこの放浪する者への祝福は、ベターの祝福であって、ベスト(最善)の祝福ではないのです。

確かに神は、イスラエルの旅路を四〇年間守られました。しかしその意味をはっきりと知らなければなりません。主はイスラエルの二世の子孫が滅んでしまわないように守られましたが、それは民が喜びに満たされるような守りではありませんでした。

今日、毎日、主に守られる生活はしていても、喜びに満たされていないクリスチャンが多いのではないでしょうか。主の約束は、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15:11)とある通りです。これはキリストの愛にとどまり、キリストの戒め(みことば)を守り行うことによって、得られるのです。

ダビデも、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。‥‥あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8,9、11)と自分の喜びの経験を告白しています。

預言者イザヤも、「主に贖(あがな)われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。」(イザヤ書35:10)と、主に贖(あがな)われた者の喜びを語っています。

今日のクリスチャンはなぜ、喜びに満たされていないのでしょうか。それは第一に救いの経験が明確でないこと。次にキリストの愛に満たされる経験をしていないこと。第三に、みことばを信じて行う生活をしていないことを挙げることができます。これらを一つ一つ明確にしてごらんなさい。必ず喜びに満たされるようになります。

イスラエルの民は、エドム、モアブ、アモンに兄弟としての伺いを立て、何人かの者たちからは親切を受けたでしょうが、大半は好意的に受け入れられず、彼らの領地の中を通過することは許可されず、国境線をいつも気づかいながらの旅を四〇年間続けることになったのです。

イスラエル人の旅路は、周囲の国々の意向によって、その方向を変えざるを得なくなったのです。彼らは自ら主体的に旅ができなくなり、周囲の国々の意向に支配されて放浪生活をしたのです。ここに彼らの方向性の定まらない放浪の原理があります。

私たちも自らの信仰によって主体的に生きずに、この世と調子を合わせて、この世の状況によって振り回されているなら、イスラエル人の放浪と全く同じ原理で生きているのです。パウロは、この世と調子を合わせることを止めて、いのちの御霊の原理によって生きることを教えました。そうすれば、この世とは摩擦を生じても、必ず勝利を得ることができます。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしは、すでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ第一5:4,5)

この箇所のもう一つの特徴は、先住民の名前が記されていることです。

10節、モアブ人の住むアルには、先にエミム人(「エマー」は恐怖という意味)が住
んでおり、彼らは強大な民であり、数も多く、背が高い巨人でした。

申 2:10 ──そこには以前、エミム人が住んでいた。強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かった。
2:11 アナク人と同じく、彼らもレファイムであるとみなされていたが、モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。

レファイムは「巨人」を示すへブル語で、アナクは「首の長い人々」を意味します。モアブ人は彼らをエミム人(恐怖の人々)と呼んでいたのです。

12節、セイルにはホリ人が先に住んでいました。

申 2:12 ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが【主】の下さった所有の地に対してしたようにである──

ホリ人は古代にアルメニヤから侵入し、メソポタミヤを占領し、強国を建設して、さらに南下してきたフリア人のことで、また「ホリーム」が意味する、洞窟に住んでいた人々です(文語訳イザヤ書42:22)。

20節、アモン人の地の先住者は、ザムズミム人と呼ばれています。

申 2:17 【主】は私に告げて仰せられた。
2:18 「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。
2:19 それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。
2:20 ──そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。
2:21 これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。【主】がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。

彼らもレファイム(巨人)でした。ザムズミムは「ザムザマー」(「遠くの入り混ざった騒音」という意味)と、「ジジム」(「砂漠において夜聞かれる音」という意味)を結びつけています。それ故、ザムズミム人(「口笛を吹く者」とか、「不平を言う者」という意味)と記されているのです。彼らはおそらく東方パレスチナの丘や廃虚に出没した巨人と考えられています。

23節、カフトル(クレテ)から来たカフトル人(ペリシテ人)も、ガザ地域に住んでいたアビム人を根絶やしにして、そこに住みつきました。アビム人もレフアイム(巨人)であったので、ここに記されているものと思われます。

申 2:23 また、ガザ近郊の村々に住んでいたアビム人を、カフトルから出て来たカフトル人が根絶やしにして、これに代わって住みついた──

モーセがここで、これらの先住民について記した目的は、何だったのでしょうか。それは、エドムもモアブも、アモンも、みな神によって、レファイム(巨人)を追い出して、そこを自分たちの土地としているのに、イスラエルは神がカナンの地を与えると約束されたのに、不信仰になって、攻め上らなかったことに対して、非難しているものと思われます。

今日も、神の民であるクリスチャンが、この世の人々よりも臆病になり、敗北していることが多いのではないでしょうか。

「神が私たちに与えてくださったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(テモテ第二1:7)

モーセはここから、いくつかのことを教えています。

第一は、歴史は聖書的なものであれ、世俗的なものであれ、現実を描いており、多くの教訓を与えていること。

第二は、信仰者は、この世の人がこの世的欲望によって、何をなし得たかを知ることができる。その上で、聖なる希望は何をなし得るかを考えることができる。

第三に、巨人に立ち向かうのは、自分たちが最初ではないこと。困難や迫害に会うのは、自分たちが最初でもなければ、自分たちだけでもないことを知らなければなりません。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント第一10:13)

24~37節、ヘシュボンの王シホンに対する勝利

イスラエルはカナン征服の前に、二人の王に勝利を得ておく必要がありました。そしてこの勝利はイスラエルの新時代を切り開くものでした。

イスラエルにとっては、これが最初の戦いではありませんでした。アマレクとの戦いで勝利し(出エジプト記17:8~13)、カナン人アラデの王との戦い(民数記21:1~3)で勝利を経験していました。

出 17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
17:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

民 21:1 ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえて行った。
21:2 そこでイスラエルは【主】に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」
21:3 【主】はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。

しかし、シホンとオグとの戦いは、これまでの戦いとは異なり、イスラエル人がカナンの地に入国できるかどうかを決定する、すなわち、イスラエルの将来を決定する重要な戦いでした。

私たちの群れも、これまで数多くの戦いをしてきました。しかしさらにこれからの戦いはこの群れの性質と将来を決定する重要な戦いをしなければならなくなります。一七世紀にアメリカに移住して行った初代のクリスチャンたちは明確な回心経験を持っていましたが、二代目、三代目の子孫たちは、明確な回心経験のないまま洗礼を受け、教会員となり、教会の特権を受けることができるように規則をつくってしまったのです。その結果、教会員のほとんどの人々が回心経験のない状態になり、初代のクリスチャンの信仰の実質も熱意も失って、世俗的教会へと、あっという間に落ちていってしまったのです。その頃、創設されたハーバード大学やエール大学もみな、今、全く信仰を失っているのは、そのためです。彼らは二代目、三代目への信仰の継承の戦いに失敗してしまったのです。それが今日にまで尾を引いているのです。これらの前例を見ても、私たちは絶対に敗北できない戦いをしているのです。もし少しでも不信仰と世俗化が侵入して来ようとするなら、それは徹底的に取り除かないと、それはたちまち、教会の群れ全体に増え広がってしまうのです。

今日、個々の教会が堅く信仰に立ち、実質のある霊的成長を求めないで、雰囲気的、外見的にぎやかさを求める集会が日本の各地に広がりつつあることは、大いに懸念すべきことです。それらは、雰囲気や感情に流されやすい骨抜きのクリスチャンをつくってしまうのです。私たちはこの絶対に敗北できない戦いを、信仰で乗り越えることができるでしょうか。それには、大胆で勇敢な信仰と忍耐が必要です。

さて、イスラエル人の第一の戦いは、ヘシュボンの王エモリ人シホンとの戦いでした。この戦いに対して、主は先ず、勝利の保証を与えられました(24,25節)。

申 2:24 立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。
2:25 きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。」

上のパノラマ写真は、現在のアルノン川。ヨルダン最大の渓谷で、東から西へ約50Km、多くの支流が合流して死海へと流れる。断崖の高さは500mに及ぶ。(2016年の訪問時に撮影、クリックすると拡大されます。)

アルノン川は、当時のモアブとエモリの境界にあり、イスラエル人は、この川沿いを進んでヘシュボンに向かったと思われます。

この図は、「出エジプトの経路」(出典:新改訳聖書第3版、日本聖書刊行会)

しかし、どんなに主の約束が与えられ、勝利の保証が与えられていても、私たちが信仰をもって実際に戦わなければ勝利は得られません。教会員の人々は牧師や役員が計画した活動に、ただ受身的に参加しているだけではないでしょうか。積極的に創造的に神の戦いに加わっているでしょうか。礼拝式にもただ坐って、プログラムに従って進めているだけではないでしょうか。それとも讃美にも、祈りにも、聖書の朗読にも、説教を聞くことにおいても、霊魂を注ぎ出して加わっているでしょうか。そして、受けた恵みとみことばをその一週間の間に活用しているでしょうか。これらのことなしに、信仰の勝利の経験をすることはあり得ないのです。
イスラエル人は集団としてだけでなく、各人が各々の信仰によって、一歩ずつ勝ち取っていかなければならなかったのです。

また信仰の戦いには、士気が必要です。24節では、イスラエル人に積極的に信仰を起こすように、「立ち上がれ。出発せよ。川を渡れ。占領し始めよ。戦いを交えよ。」と、力強く励ましています。
私たちはイエス様から、大いなる励ましと力づけを受けることができるのです。

他方、25節では、周囲の国々の士気を衰えさせると言われています。

申 2:25 きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。」

イエス様を力強くあかしすれば、この世はしばしば騒ぎ立ち、迫害や妨害を行いますが、それらのこの世の勢力は必ず、衰えていきます。ローマ帝国のキリスト教迫害の勢力も、烈火の如くクリスチャンに襲いかかっていました。それは四世紀の初めまで断続的に続きましたが、コンスタンチヌスの改宗によって、迫害の嵐は終ったのです。しかし教会は今度は、世俗化の嵐にみまわれ、ローマ教会の堕落へとつながっていったのです。しかしローマ帝国の勢力は衰え、今はローマ帝国は存在しなくなっています。どんなに烈火の如く燃えているものでも、この世の勢力は必ず、衰えるのです。

「私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。‥‥‥世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(ヨハネ第一2:14,15、17)

神のこのイスラエル人への激励は、必要なものだったのです。なぜなら、イスラエル人は不信仰の故に意気消沈していたからです。

今日のクリスチャンと教会は、不信仰の故に、この世と戦うための十分な士気を持っていません。むしろ、この世と歩調を合わせたいと思っているのです。キリストにつながっていれば、それが出来ないと分かると、「クリスチャンは律法的だ。」と非難したり、「ついていけない。」と言って、主イエス様と教会から離れていくのです。これはクリスチャンの内に宿る罪の性質、肉性によるもので、これを持っている間は、この世と戦って勝利を得るための信仰を持つことができず、いつも信仰に意気消沈し、敗北を重ね、失望し、信仰から脱落して滅びに落ちていくのです。

私たちは、霊的戦いにおいて、霊的奉仕において、人々に深い感動と渇きを与え、主を求めるようになってもらうためには、私たち自身が全く主により頼んで、いつも力づけられていなければなりません。

しかし、モーセはエモリ人に対して最初から交戦していったのではありません。

26節、先ず、和平の使者を送りました。

申 2:26 そこで私は、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言った。
2:27 「あなたの国を通らせてください。私は大路だけを通って、右にも左にも曲がりません。
2:28 食物は金で私に売ってください。それを食べます。水も、金を取って私に与えてください。それを飲みます。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。

ここでも、公道だけを通って、エモリ人の国を侵害しないことを、必要な食物と水は金で買うことを約束し、ただ徒歩で通らせてくれることだけを求めました。なんと行き届いた交渉でしょうか。しかし心頑な者は、どんなに行き届いた交渉も受け入れようとはしません。自分の損失だけを考えているからです。

このようにして行き届いた申し出を拒む時、自らが破滅するのです。ダビデの時代に、ナバルはダビデの保護を受けて、平和に繁栄して暮していたのに、ダビデの申し出を拒みました。ナバルは石のような頑な心になり、ついに神によって滅ばされてしまいました(サムエル記第一、25章)。

ステパノは大祭司やユダヤの指導者たちに対して、「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(使徒7:51)と言いました。

私たちも、みことばと聖霊の光に対して、また神のみことばを語る指導者の指導に対して、心を閉ざし、拒み、心を頑なにして従わないなら、それは神の聖霊に逆らっているのであって、必ず滅ぼされることになるのです。いろいろ言い訳けを並べ立てて従わない人がいますが、その人は神の聖霊に逆らっているので、放っておいても、滅んでしまいます。

「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることができない者たちです。また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。」(テモテ第二3:7,8)

29節で、モーセはセイルのエサウの子孫や、アルのモアブ人が親切にしてくれたように語っていますが、23章3,4節を見ると、全員がそうだったのではなく、ごく一部の人が親切にしてくれたという、例外的なことだったようです。

申 2:29 セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が、私にしたようにしてください。そうすれば、私はヨルダンを渡って、私たちの神、【主】が私たちに与えようとしておられる地に行けるのです。」

申 23:3 アモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、【主】の集会に、入ることはできない。
23:4 これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。

このようにエサウの子孫にも、またモアブ人にも、ルツのように真の神の民となる人が、わずかであってもいることは事実です。

今日、異教の社会から救われる人は少ないかもしれませんが、しかしイエス様を信じて救われ、天の御国を烈しく攻め取る人がいることは確かです。ですから、時が良くても悪くても、キリストの福音のメッセージを宣べ伝え続けなければなりません。そのようにして、異教の社会にいた私やあなたも救われたのですから。

だれですか。「トラクトを配っても、効果がないから、やめよう。」と言う人は。あなたはイエス様の熱心とみこころを失っています。いつも主の熱い心を持って、みことばを宣べ伝えましょう。

30節、シホンは心頑(かたく)なにして、戦いに出て来ました。

申 2:30 しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、【主】が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである。

ここでも、エジプトのパロの時と同じように、主がシホンの心を頑(かたく)なにされたと言われています。これは、シホンが主に対して取った態度によって、彼の心が頑(かたく)なになっていったことを示しています。神がシホンを滅ぼすために、シホンの意志とは関係なしに、彼の心を頑(かたく)なにしたのではありません。

私たちの性格は、イエス様に対して取る態度によって、形造られていくのです。それ故、主が頑(かたく)なにされたと言われているのです。私たちは、一つでも主に逆らえば、主のみこころを正しく選び取ることができなくなるのです。

パロもシホンも、自分で知りつつ主に反逆することにより、また自己中心の意志を押し通すことによって、神のさばきを受けたのです。聖書においては、人の自由意志と神の主権との間には、何の矛盾もありません。

31節、シホンが主に対して逆らうことは、主がシホンとその地をイスラエルの手に渡し始めたことを意味しています。

申 2:31 【主】は私に言われた。「見よ。わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めた。占領し始めよ。その地を所有せよ。」

「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの網を、解き捨てよう。』天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。‥‥‥わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。それゆえ、今、王たちよ、語れ。地のさばきづかさたちよ。慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。‥‥・・」(詩篇2:1~4、8~12)

敵対者が自ら神に対して騒ぎ立つ時、彼ら自身に滅亡の時が来たことを示しています。
信仰生涯は、戦いの連続です。罪と戦い、サタンと戦い、この世と戦い、病いや弱さと戦い、死とも戦わなければなりません。しかし主は、すでにこれらのすべてと戦って、勝って下さったのです。

「気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。‥‥‥この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。」(歴代誌第二20:15、17)

「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(コリント第一15:54~58)

主から勝利の賜物が手渡され始めたら、イスラエルはそれを受け取るために占領し始めなければならないのです。神の御手から私たちに勝利が渡されようとしています。それ故、私たちは信仰の手を差し伸して、それを受け取らなければならないのです。もし実際に信仰の手を出さないなら、その賜物は失われてしまいます。主は勝利を与え始めてくださいました。しかしそれを自分のものにするためには、信仰によって一つ一つ占領していかなければなりません。そしてついに全面的に所有するようになるのです。

32節、戦いは、ヘシュボンへの道の途中にあった中心の町ヤハツで行われました。

申 2:32 シホンとそのすべての民が、私たちを迎えて戦うため、ヤハツに出て来たとき、

33節、モーセは、この勝利を全面的に主によると、栄光を主に帰しています。

申 2:33 私たちの神、【主】は、彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子らと、そのすべての民とを打ち殺した。

34節、すべての町々、そこに住む男、女、子どももすべて聖絶されました。

申 2:34 そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々──男、女および子ども──を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。

申命記では、この「聖絶」は、偽りの神々に礼拝をささげた人に関して用いられています。これらは汚れており、腐敗しており、のろわれており、それがイスラエルに侵入してくると、イスラエルは全滅してしまいます。それを免れさせようとされたのです。当時、エモリ人の間では、子どもを偶像のいけにえにすることや、宗教儀式として売春や男色が行われていました。それにしても、子どもまで殺されてしまうとは、悲劇ですが、これは罪がもたらす結果をはっきりと示しています。罪の支払う報酬は死なのです。御子イエス・キリストは、その罪を解決するために十字架にかかって死んで下さったのです。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

35~37節は、シホンの王国のすべてを征服したことを示しており、こうして戦いは、次のオグとの戦いに移っていくことになります。

申 2:35 ただし、私たちが分捕った家畜と私たちが攻め取った町々で略奪した物とは別である。
2:36 アルノン川の縁にあるアロエルおよび谷の中の町から、ギルアデに至るまで、私たちよりも強い町は一つもなかった。私たちの神、【主】が、それらをみな、私たちの手に渡されたのである。
2:37 ただアモン人の地、ヤボク川の全岸と山地の町々には、私たちの神、【主】が命じられたとおりに、近寄らなかった。

しかしこれらの戦いに勝つことなしに、イスラエルの将来はあり得ないのです。私たちの教会も、同じ戦いに直面していくのです。
神は勝利を約束され、保証されましたが、私たちの側で信仰を奮い立たせて戦わなければ、勝利はあり得ないのです。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ第一5:4,5)

あ と が き

聖書は、読んで理解すべきものではなく、聖霊によって教えられ、悟らされ、生きるべき道や選択すべき道を示され、それを信じて従わせようとしているのが聖書です。パウロは、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテ第二3:16,17)と教えていますが、これは真実です。しかし、これが自分にとって実現するためには、みことばを実際に自分に当てはめて信じて、従うことが必要です。よく学んでノートには書いても、実際には従わず、この世に従っているクリスチャンが多いのです。このような人が神の人になることはあり得ないのです。
日本に、信仰の理屈は言うけれども、実際に従わない人が多いのは、主を悲しませています。みことばを信じて、忍耐強く従う者だけが、多くの実を結ぶのです。

(まなべあきら 1995.4.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


 

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