聖書の探求(150) 申命記14章 主の聖なる民としてのなすべきこと
14章は、主の子どもとして、主の聖なる民としてのなすべきことは、何であるかをいくつか記していますが、その大部分は食肉の区別についての規定です。イスラエル人が食べる肉は、ほとんどの場合、いけにえと関係しており、主を礼拝することと関係しており、それ故、これは異教の民と区別するために重要なことでした。
今日、クリスチャンは食べることに、もっと礼拝の意味を回復しなければなりません。またこの世の美食から離れる必要があります。人の貪欲(どんよく)と嗜好(しこう)と世俗化とぜいたくは、堕落への道を開くものです。ですから、特に注意すべきです。
14章の分解
1~21節、主の子どものなすべきこと
1,2節、主の聖なる民、宝の民
3~8節、食べることのできる獣-ひづめが分かれ、反芻(はんすう)するもの
. 反芻(はんすう)するもの、または、ひづめの分かれているもののうち食べてはならないもの(7,8節)
. らくだ、野うさぎ、岩だぬき-反芻(はんすう)するが、ひづめが分かれていない。
. 豚-ひづめは分かれているが、反芻(はんすう)しない。
9~10節、水の中にいるもの
. 食用可-ひれとうろこのあるもの
. 食用不可-ひれとうろこのないもの
11~20節、鳥
. 食用可-羽のあるきよい鳥
. 食用不可-羽があっても、はうもの
21節、死んだものの食用の禁止
. 子やぎをその母の乳で煮ることの禁止
22~29節、収穫の十分の一
22~27節、畑の産物の十分の一を主にささげ、主の前で食べること
28~29節、三年の終わり毎に、その年の産物の十分の一を蓄えること。
. レビ人、在留異国人、みなしご、やもめのため、
この部分の中心目的は、1,2節で要約されています。
すなわち、主の子どもとして、主の聖なる民として、ふさわしくないこと、その与えられた特権に対して、矛盾する行ないは避けなければなりません。
その第一は、1節、死人のために自分の身を傷つけたり、額をそり上げたりしてはならないことです。
申 14:1 あなたがたは、あなたがたの神、【主】の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。
これは異教の人々の習慣であったらしいのです。異教徒たちは、死人と交わったり、契約を結んだりするために、死人の墓で、身体を傷つけて血をささげたり、剃った頭髪をささげたりしていたようです。それ故、神の子らは異教徒とはっきり区別されているために、徹底的にこれを避けなければならないのです。今日、教会とクリスチャンの生活の中に、この世の習慣、考え方、生き方が侵入してくることを、徹底的に排除しなければなりません。
第二(2~21節)は、神の民が食べてよい肉と、食べてはいけない肉とが、はっきり
と区別されています。
申 14:2 あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民である。【主】は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
14:3 あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。
14:4 あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、
14:5 鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。
14:6 および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。
14:7 反芻するもの、または、ひづめの分かれたもののうち、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは、食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていない。それは、あなたがたには汚れたものである。
14:8 豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないから、あなたがたには汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。
14:9 すべて水の中にいるもののうち、次のものをあなたがたは食べることができる。すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる。
14:10 ひれとうろこのないものは何も食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。
14:11 すべて、きよい鳥は食べることができる。
14:12 食べてならないものは、はげわし、はげたか、黒はげたか、
14:13 黒とび、はやぶさ、とびの類、
14:14 烏の類全部、
14:15 だちょう、よたか、かもめ、たかの類、
14:16 ふくろう、みみずく、白ふくろう、
14:17 ペリカン、野がん、う、
14:18 こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもり。
14:19 羽があって群生するものは、すべてあなたがたには汚れたものである。
14:20 羽のあるきよいものはどれも食べることができる。
14:21 あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民である。子やぎをその母の乳で煮てはならない。
2節は、イスラエル人が神の民として選ばれて、どんなに大きな特権を与えられているかを示しています。彼らは神の宝の民とされました。パウロは、テトス2章14節で、クリスチャンを「良いわざに熱心なご自分の民」すなわち、特選の民と呼んでいます。
テトス 2:14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
このことは今日のクリスチャンがキリストの故に、どんなに大きな特権を与えられているかを示しており、私たちはこのことをよく自覚して生活すべきです。私たちは、神の特選の宝の民なのであり、神から与えられたその特権と神のご期待にかなう民とならせていただかなければなりません。
ここにおいて、神がご自分の民に対して求められていることは、神が食べてもよいと言われた肉を食べることについてです。神は、人が食べてよい肉と忌みきらわれる肉とを区別されました。これについてはレビ記11章で詳しく述べましたので、ここでは詳細は省略します。
その区別は、
陸地の動物では、ひづめが分かれていることと、反芻(はんすう)するものであり、どちらか一つの条件でも満たされないものは忌み嫌われます。
水の中の魚は、ひれとうろこがあるものと、ないもので区別されています。
空の鳥は、羽のあるきよい鳥と、羽があって群生するもの(はうもの)とに区別されています。
そして汚れたものについては、その個々の名称が記されているのが特長です。
この規定は、当時の状況において、主の民の肉体的健康を守るために必要であったのかも知れませんが、禁止されている理由が必ずしも明確でないものも多くあります。
それらは健康上の理由以外に、
第一は、異教の民から明確に区別して、神の選民としての自覚をはっきりと植えつけるためのものであったと思われます。
第二は、これらの食べることにおける規定を設けることによって、神の民は自分の知恵で理由が理解できなくても、人の理性を超越した神の定めを守ることによって、神への忠実な信頼と服従を実行する信仰の実践的訓練をすることが目的であったと思われます。
これらの区別は、今日の私たちには、そのまま当てはめなければならないものではありませんが、それよりも、私たちのからだは神の聖霊の宮(コリント第一6:19)ですから、神の宮を汚す、酒やタバコや、その他、自分のからだにアレルギーを起こしたり、害をもたらす食物を避けなければなりません。
Ⅰコリ 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
「『外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。』イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」(マルコ7:18~19)
「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体が汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。」(ローマ14:14)
「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」(テモテ第一4:4)
21節には、二つの警告を付け加えています。
申 14:21 あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民である。子やぎをその母の乳で煮てはならない。
一つは、自然に死んだ動物の肉を食べることです。これは健康上のことでしょう。今日、肉食から多くの病気が発生しています。
もう一つは、「子やぎをその母の乳で煮てはならない。」 これは動物に対しても、あまりに愛のない行為をすべきでないことと、カナン人が多産のまじないとして、子やぎをその母の乳で煮て食べる儀式を行なっていたという見解もあります。
22~29節、収穫の十分の一
申 14:22 あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。
14:23 主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、【主】の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、【主】を恐れることを学ぶために。
14:24 もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、【主】が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、【主】があなたを祝福される場合、
14:25 あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、【主】の選ぶ場所に行きなさい。
14:26 あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、【主】の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。
14:27 あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。
14:28 三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。
14:29 あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、【主】が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
モーセは、イスラエルが神の約束の地で繁栄することを予見して、このことを語っています。イスラエル民族については、エジプトの奴隷としての苦しい時代、荒野を旅する厳しい時代、カナン征服の勝利の時代、そしてカナン定住の安息と繁栄の時代に分けられるでしょう。ここからのイスラエルは、厳しい時代を終えて、勝利と繁栄の時代に入って行くことになります。その時、神の民は自分の力で繁栄したかのように思い上がって、主に感謝をささげることを忘れてしまう危険があったのです。そこで、ここに収穫の十分の一を神にささげるようにと命じているのです。
その目的は、三つ記されています。
第一は、23節、「あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。」
第二は、26節、「あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。」
第三は、29節、「あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」
このことは今日でも真実であり、私たちのささげ物は、主を畏れることを具体的に教え、家庭に喜びを与え、すべての働きに祝福をもたらします。
モーセがここで十分の一のささげ物の話をした時、すでに十分の一のささげ物は古い習慣となっていました。アブラムは感謝としてメルキゼデクに十分の一を与えました(創世記14:20)。
創 14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
ヤコブはべテルで主に十分の一をささげる約束をしました(創世記28:22)。
創 28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。
十分の一のささげ物は、安息日を守ることと同じように、根本的な原則でした。収穫物や時間、才能はすべて、神の賜物であり、神からあずかっているものであり、正しく管理し、返還されることが求められています(申命記8:18、マタイ25:14,19)。
申 8:18 あなたの神、【主】を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。
マタ 25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
マタ 25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
神は、その全部を取られません。そのほとんどのものは、私たちの手に与えてくださり、その十分の一を聖所にささげることによって、全部がきよいことを表すのです(23節)。
申 14:23 主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、【主】の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、【主】を恐れることを学ぶために。
この収穫の十分の一は、牛や羊の初子といっしょに、中央の神殿にたずさえて行き、主の前で、祭りの時に食べることになっていました。中央の聖所が遠い者は、ささげ物を換金して、聖所で祭りのために彼の願うものを、そのお金で買ってささげて、それを家族で食べることができ、これが礼拝だったのです。
後に、イエス様の時代には、この規定を悪用して、両替人や、いけにえを売る悪徳商人が大祭司の下で商売をしていたので、主イエスは怒られたのです(ヨハネ2:14~16)。
ヨハ 2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
この祭りには、レビ人も加わっています(27節)。
申 14:27 あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。
民数記18章20~32節では、カナン定住後は、人々はレビ人に産物の十分の一を与えるように命じられています。これはレビ人の産業となります。そうであるなら、イスラエル人は聖所にささげる十分の一と、レビ人の産業とするための十分の一と、二つの十分の一のささげ物をしていたことになります。これには、大きく二つの見解があります。
第一は、毎年の収穫の十分の一は、年に一回だけで、それをささげた人とその家族とレビ人が分かち合って食べます。三年毎の十分の一は、レビ人と在留異国人、みなしご、やもめたちに与えられていたと言われています。
第二は、タルムードとユダヤ教の著者によって記されていることは、申命記12、14、26章の十分の一は、「第二の」あるいは、「聖なる」十分の一のことであるとしています。
これ以外に三年目にも十分の一をささげていたとしています。これはユダヤ人たちの間で行なわれていた習慣と一致しています。
これ以外に彼らは任意のささげ物をしていましたから、相当のささげ物をしていたことになります。少なくとも十分の三はささげていたことになります。しかし彼らは、貧しくならず、ますます繁栄していました(29節)。
申 14:29 あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、【主】が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
それだけでなく、三年毎に在留異国人やみなしごや、やもめなどの弱者に対する、国民を上げての救済が命じられています。このような配慮は、今日の福祉よりもずっとすぐれています。このように弱者を救済していくことは、国民ひとり一人の祝福となっていったのです。
七年目は土地を休ませたので、その年の十分の一はなかったのであろう。しかしこの制度によって、みなしごや、やもめも十分に養いを受けることができたのです。これは今日のような「人が人を助ける」という考え方ではありません。主が与えてくださった賜物を主にお返しすることによって、すべての者が主の祝福を受けることができるという原理です。これが信仰の福祉原理です。今日、主は私有財産を認めておられますが、それを自己中心的に自分勝手に使用することを認められたわけではありません。主の原則を破るなら、必ず祝福は取り去られることになります。
「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中は、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」(使徒4:32~35)
(まなべあきら 1996.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
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