聖書の探求(154) 申命記18章 祭司とレビ人の割り当て、私のようなひとりの預言者
17章の王についての警告に続いて、祭司とレビ人についての定めを記しています。これは王や祭司、レビ人たちは、国民全体に対して、主のみこころを行なうという重大な責任があり、その影響が大きかったからです。
その証拠に、士師記の時代にはイスラエルの民は、ヨシュアに続く強力なリーダーを持たなかったために、人々は各々、自分が好むところを行ない、国は無政府状態となり、外敵に対してスキだらけになり、何度も周期的にまわりの異教諸国の攻撃を受けて、何十年も悲惨な生活を強いられています。その度に、民は悔い改めて、主に呼ばわって助けを求めています。ソロモン以後の王国時代には、南北両王国のほとんどの王が偶像礼拝に陥っており、その結果、国民も偶像礼拝に陥り、アッシリヤと七十年間のバビロン捕囚の刑罰を受けなければならなかったのです。これを見ても、指導的地位にある者が及ぼす影響がいかに大きいかを思い知らされます。
これを今日の社会に当てはめてみても、教会はこの世の社会に対して良き模範を示すリーダーの役目、地の塩、世の光としての役目を果たしていなければなりませんのに、塩気を失い、キリストの光を失っているのではないでしょうか。
また、教会の牧師、教師たちが教会員に与える影響が大きいことも事実です。ですから、牧師や教師になる人の霊的実質は十分に点検されなければなりません。ただ、神学大学を卒業すれば、牧師になれるというのでは、十分ではありません。霊的指導者となる人は、霊的経験においても、生活実践においても、真理の知識においても、日々に成長することを求めなければなりません。
「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」(ペテロ第二3:18)
さて、ここでは、祭司とレビ人たちの相続地と、「食べる」という実に人間的生活面について、明らかに示しています。キリスト教はいつの間にか、霊的面と日常生活面とを、聖と俗として区別してしまい、信仰と実際生活を分離した生き方をするようになってしまっています。しかし聖書は人間の生涯のすべての面を主に根ざしたものとして教えています。イエス様は食べること飲むことにおいて思い煩わないようにと言われましたが。空腹の群衆にパンを与えられ、エマオ村では二人の弟子のためにパンを裂かれ、復活された後、ガリラヤ湖の岸辺では弟子たちのために魚を焼いて朝食の準備をしておられます。
パウロも、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(コリント第一10:31)と教えています。
また主は十字架にかかられる直前に、弟子たちと最後の夕食をとっておられます。ですから、食べることは俗としてしまうのではなくて、主に感謝と礼拝をささげることとして主の栄光を現わすために行なうべきです。
さらに、主はお金のこともしばしば語られています。タラントのお話、ミナのお話、宮の納入金を納めるために、ペテロに魚を釣ってきて、その口から金貨を取り出して納めるように命じられたお話、「不正の富(不正をして得た富ではなく、この世の社会で使用している金銭のこと)で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」(ルカ16:9)と言われたお話、レプタ二つをささげたやもめさんのお話(マルコ12:41~44)。
マル 12:41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
12:42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
12:44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
イエス様は随分お金のお話をしておられますし、気にもしておられます。私たちはお金のことで思い煩ってはいけませんが、与えられたお金を主の栄光のために使うことは大切なことです。また主のためにお金を得ようとすることは決して悪いことではありません。この点でもクリスチャンは食べ物やお金を俗のもの、汚れたもの、忌むべきものと思い込んで、消極的にしか受けとめていないのではないでしょうか。私たちは主の栄光を現わすために、これらのものをもっと明るく積極的に受けとめて働きたいものです。お金に悪金も浄財もありません。それはお金を扱う人の動機によって決まるのです。信仰が実際生活と分離してしまったら、私たちの信仰はアンバランスになって、その健全さを失い、霊的命を失い、理屈だけの宗教になったり、儀式宗教になったり、ゆがんでしまった、死んだ宗教になってしまいます。
「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)
「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと裏実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一3:18)
パウロはローマ12章1節で、「あなたがたのからだ(からだを通してする生活のあらゆる面)を、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と教えています。私たちは、讃美や祈ることだけが礼拝ではなく、衣食住、仕事の働き、からだを休ませることも、すべてが霊的礼拝です。すべては主のご支配に従うべきものです。主の御前で、私たちには聖と俗との区別はないのです。
分解
1~8節、祭司とレビ人の割り当て分
.1~5節、割り当て分
. 1、兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。
. 2、主ご自身が彼らの相続地
. 3、祭司たちが民から受ける分
. a 牛、羊の肩、両方の頬、胃
. b 穀物、新しいぶどう酒、油などの初物
. c 羊の毛の初物
. 4、その理由‥‥主の御名によって奉仕に立つため
.6~8節、レビ人の行動、奉仕、分け前
9~22節、私のようなひとりの預言者
.9~14節、カナンの憎むべき行為の禁止と主の前に全き者であることの要求
.15~19節、私のような一人の預言者
.20~22節、偽りの預言者が現われる
1~8節、祭司とレビ人の割り当て分
1節、アロンの家系はレビの子孫に当りましたから、「レビ人の祭司たち」と呼ばれました。
申 18:1 レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは【主】への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。
レビ人で祭司でない者も大勢いましたが、祭司も含めて、すべてのレビ人(女性も子どもも含む)は、他の部族のように相続地の割り当てを受けることができませんでした。このことを特権と受けとめるか、損失として受けとめるかは、本人自身の信仰によります。
今日、ほとんどのクリスチャンが、牧師になることを、沢山の給料が得られない損失と思っています。そしてこの世の仕事をして富を得ることの方が利益が得られると考えています。このような価値観が教会の中を横行している間は、教会は決して祝福を受けることはできません。
レビ人たちは、主にささげられた火によるささげ物を自分たちへの割り当て分として受けて、それを食べることになります。これを主から受けると思うか、人から受けると思うかも、本人の信仰によります。人から受けると思えば、ささげる人々に迎合するようになり、人のご機嫌とりをするようになり、人に好かれるような奉仕しかしなくなり、主のみこころを歪めてしまうようになります。
また、ささげる会衆も、ささげ物を主にささげていると思うか、レビ人を養うためにささげていると思うかは、本人の信仰によります。今日、クリスチャンと呼ばれている人の中にも、自分たちの献金で牧師たちを養っていると思っている人がいます。こういう思いは信仰ではありませんから、決して本人にも、教会にも祝福を与えません。むしろ、高慢や、卑屈になったりすることや、争いが生じてきます。このような肉的考えをクリスチャンが持つようになったのは、牧師が信者から献金を集めようという肉的な考えを持つことから始まっていると思われます。
真の信者は主にささげているのであり、真の牧師はその必要を主から受けるのです。もし牧師に信仰があるなら、信者が不信仰でささげなくても、主はご自分のしもべを別の方法で、ケリテ川のからすや、ツァレファテのやもめを使ってでも養われます。このことを信じなかったら、主のしもべとして奉仕することはできません。
2節で、「主ご自身が、彼らの相続地である。」と言われたのは、このことを言っておられるのです。
申 18:2 彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、【主】ご自身が、彼らの相続地である。
3,4節でレビ人に与えられると言われている割り当て物とレビ記7章30~34節に記されているレビ人への割り当て物は異なっていますが、
これは恐らく、レビ記のほうはおおまかな規定を記したものであり、申命記のほうは、モーセの死が近いこともあって、具体的な明細を示したものと思われます。
申 18:3 祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。
18:4 あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。
レビ 7:30 その者は、【主】への火によるささげ物を、自分で持って来なければならない。すなわち彼は、その脂肪を胸に添えて持って来なければならない。そしてその胸を奉献物として【主】に向かって揺り動かしなさい。
7:31 祭司はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなさい。その胸はアロンとその子らのものとなる。
7:32 あなたがたは、あなたがたの和解のいけにえのうちから右のももを、奉納物として祭司に与えなければならない。
7:33 その右のももは、アロンの子らのうち、和解のいけにえの血と脂肪をささげる者の受ける分として、その人のものとなる。
7:34 それは、わたしが、奉献物の胸と奉納物のももをイスラエル人から、その和解のいけにえのうちから取って、それを祭司アロンとその子らに、イスラエル人から受け取る永遠の分け前として与えたからである。」
5節、レビ人に、主以外の相続地が与えられなかったことは、レビ人がいつも主のために専念して奉仕するためでした。
申 18:5 彼とその子孫が、いつまでも、【主】の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、【主】が、あなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである。
生活の収入のために働きつつ、片手間に主のために奉仕することのないようにするためでした。この信仰理念は、今日の牧師や信者には、十分育っていないのではないでしょうか。
6節、これまでは、部族全体としてのレビ人についてのことが記されていましたが、6~8節はひとりのレビ人としての特権が記されています。
申 18:6 もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、【主】の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。
通常、祭司以外のレビ人は各部族の間に分散して生活していました。それは彼らの任務が祭司に従属するものであったからです。
7節、しかしひとりのレビ人が主の幕屋で奉仕していたいと願うなら、主の祭壇で奉仕している同族のレビ人と全く同じように奉仕することが許されています。
申 18:7 彼は、その所で【主】の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、【主】の御名によって奉仕することができる。
恐らく、祭司がいけにえの獣をほふるのを手伝ったのであろうと思われます(歴代託第二29:34)。
Ⅱ歴代 29:34 ただ、祭司たちは、少なかったので、すべての全焼のいけにえの皮をはぎ尽くすことができなかった。そこで、彼らの兄弟に当たるレビ人が、その仕事を終え、祭司たちが身を聖別し終わるまで、彼らに加勢した。レビ人は、祭司たちよりも直ぐな心をもって、身を聖別したからである。
しかしこの奉仕は通常の規定の奉仕ではなく、本人が自発的に喜んでするところの奉仕です。
8節、レビ人には、部族としては相続地は与えられませんでしたが、個人としての相続財産を持つことも、それを売って収入を得ることも許されていました。
決して、がんじがらめにされていたわけではありません。
申 18:8 彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである。
今日、イエス様のために、主に献身する者が少ないのは、これらの認識のないことに原因があるのではないでしょうか。
9~22節、私のようなひとりの預言者
神から離れてしまった人類の歴史において、最も重大で、最も困難な問題は、いかにして神のみこころを知り、神の正義を知り、神の愛と真理を知ることができるかということでした。これは今日も重大な問題です。このことをこれから異教の地力ナンに入って行こうとしている直前のイスラエル人に、はっきりと教えておくことは、特に必要なことでした。なぜならカナンの地には、多くの偽りの宗教的方法、儀式、慣習があって、すでに盛んに行なわれていたからです。
9~14節、まず、神は、真似をしてはならない異教の民の習慣を教えられました。
申 18:9 あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。
10~11節にある、息子、娘を火の中を通らせたりする者、占いをする者、卜者(ぼくしゃ)、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者などは、カナンの地の民が実際に行なっていたことです。
申 18:10 あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、
18:11 呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。
18:12 これらのことを行う者はみな、【主】が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、【主】は、あなたの前から、彼らを追い払われる。
今日でも、これに似た魔術や霊媒などの悪魔的、性的、非人格的方法をもって人々の心を左右し、支配しようとする心理宗教が流行しています。心のむなしい人や不満を抱いている人々は、すぐにこれらの心理宗教にひっかかっていってしまうのです。
しかし主はいのちと力と英知に満ちた霊の神であり、秩序や道徳を明確にされるお方です。神の民はこのような異教の非理性的、快楽的、不道徳的宗教を真似してはならないし、生活の中に導入してはならないし、むしろ、追い払わなければなりません。
13節は、主のご命令に全く忠実であるべきこと(創世記17:1)が求められています。
申 18:13 あなたは、あなたの神、【主】に対して全き者でなければならない。
18:14 あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、【主】は、そうすることを許されない。
創 17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
信仰が中途半端で、全き信仰(ヘブル10:22)になっていない時、異教の習慣がいつの間にか忍び込んでくるのです。
ヘブル 10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
信仰の世俗化はいつでも、この世の欲に未練を残している潔められない信仰の状態の中に侵入してくるのです。主が私たちに求めておられるものは、全き信仰であり、全き愛です。
15~19節、主がご自分の民を導かれる方法は、主の預言者を用いることでした。
15節、モーセは、モーセのような預言者がやがてイスラエルの内に起こされることを預言しました。
申 18:15 あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。
これは単なる預言者の継承のことを言ったのではありません。
「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」(申命記34:10)
モーセの死後、多くの預言者たちが起こされましたが、モーセのように直接、主と顔と顔を合わせて主と交わる預言者は出ませんでした。イスラエル人はモーセの死後、ずっとこのモーセの預言に従って、モーセのような預言者が現われることを待ち望んでいたのです。
「あなたはあの預言者ですか。」(ヨハネ1:21)
「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」(ヨハネ7:40)
「あの預言者」とは、モーセが預言した、モーセのようなひとりの預言者のことです。ユダヤ人たちはこの預言者が現われることを切望していたのです。このモーセの預言は「父のひとり子としての神」(ヨハネ1:14)であって、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」(ヘブル1:3)であるイエス・キリストが現われることによって成就されました。しかしあれほど切望していたユダヤ人はイエス・キリストが来られた時、拒んで受け入れなかったのです。
16~17節、罪人であるイスラエルの民は、直接、主と交わることを恐れ、自ら仲保者が必要であることを痛感していました。
申 18:16 これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、【主】に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、【主】の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません」と言った。
18:17 それで【主】は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。
主の民たる者が、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」とは、なんということでしょうか。心から主を愛し、主に信頼しているなら主の御声を聞きたいと切に願っているし、神の火を経験したいと切に求めているはずです。しかし、神の民と言われている選民が、主を恐れて、主の御声も、主の火も拒み、主とお会いすると自分が死ぬと言って恐れているのです。
イエス様も、マタイ25章24~30節で、一夕ラントを預けたしもべの姿を描いて、「ご主人さま。あなたは、蒔(ま)かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっています。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。」と、たとえて話されています。
マタ 25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。
パウロも、ローマ8章15節で、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」と言っています。これは、クリスチャンの間にも、主を愛し、主に信頼する信仰ではなく、律法の奴隷となって主を恐れて、主のみことばを聞き、聖霊の火を内に受けることを拒んでいる者がいることを示しています。
それ故、モーセはホレブで主と民との間の仲保者の役目をしました。モーセは主のみこころを民に取り次いだだけですが、私たちの主イエス・キリストの仲保は、私の罪を代わりに負い、赦し、潔め、栄化させてくださる仲保です。ここにモーセの仲保と、主イエス・キリストの仲保との本質的な違いがあります。
モーセが預言した預言者は、神のことばを授かり、神のご命令を語ります。「わたしの名によって」(19節)とは、神の権威を帯びていることを示しています(マタイ7:29)。
申 18:18 わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
18:19 わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。
マタ 7:29 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
それ故、この預言者の語ることばには、完全に忠実に従わなければならないのです。
20~22節、偽りの預言者が現われる
申 18:20 ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」
カナンの異教の危険を避けることができても、もう一つの危険が残っています。それは、神のことばを語ると自称している偽りの預言者が現われることです。主が命じられていないこと、主が意図されていないことを、自分勝手な人間的解釈で、主の御名によって語る者は、偽りの預言者です。その預言者は取り除かなければなりません。
「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(ペテロ第二3:16)
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(テモテ第二4:3,4)
それ故、主のみことばについての文書を書く者や説教する者は知識の面においてだけでなく、主の御前において、その良心においても、動機においても純粋でなければなりません。自分に都合のいい話をしたり、会衆に迎合する話をする人は偽りの教師ということになります。こういう教師が今日、教会には多いのではないでしょうか。
「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)
21節、それでは、どのようにして、主が言われたことばか、どうかを、見分けたらいいのでしょうか。
申 18:21 あなたが心の中で、「私たちは、【主】が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、
22節、偽りの預言者のしるしは、その預言が実現しないことです。
申 18:22 預言者が【主】の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは【主】が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。
これは13章1~5節の、他の神々(偶像)に従って、しるしと不思議を行ない、夢を語って、民を支配し、民をそそのかす者は、偽りの預言者です。
申 13:1 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、
13:2 あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、
13:3 その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、【主】は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、【主】を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。
13:4 あなたがたの神、【主】に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。
13:5 その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、【主】に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、【主】があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。
モーセの預言者としての働きには、二つの要素がありました。
一つは、イスラエルという共同体、神の家族の生活を導くことです。
今日、教会の牧師や教師、リーダーはこの役目を十分に果たさなければなりません。そのために自ら成長するために学びと訓練を怠ってはなりません。
「特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:10)
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒(新約聖書)と預言者(旧約聖書)という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:19~22)
「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:15,16)
モーセのもう一つの働きは、主の真理のみことばを啓示することでした。
「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(テモテ第二2:15)
主のみことばは、人が生活していく上で、最も基準になるものであり、恵みと祝福を受けるか、のろいの刑罰を受けるかを決定するものですから、一般の人々によく分かるように、明確に語らなけれはなりません。もし、聞く人々が分からないような話をするなら、その人は主のしもべとしての役割を果たしていません。
この箇所から、二つの大切なことが分かります。
一つは、主はご自身を自己啓示されるお方であることです。
この世の宗教と言われているものがすべて、人間が考え出したものであるのに対して、私たちの信じるキリストの福音は主の啓示による宗教なのです。ここに決して乗り越えることも、妥協することもできない、本質的違いがあるのです。
「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1:11,12)
旧約聖書は預言者を通して部分的に啓示されており、新約聖書では、御子によって十分かつ完全に啓示されています(使徒3:21~23、ヘブル1:1,2)。
使 3:21 このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。
3:22 モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。
3:23 その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』
ヘブル 1:1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
もう一つのことは、この世には多くの偽りの教えや言葉、思想があり、そういう中にあって、私たちは主を捜し求めて、見つけ出さなければならないことです。
カナン人の偶像礼拝は、人が主を捜して失敗した、挫折した姿です。
私たちは、隠されている主の真理を求めて、見つけ出さなければならないのです(申命記29:29)。
申 29:29 隠されていることは、私たちの神、【主】のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。
しかし幸いなことに主は私たちを捜し求めてくださるお方ですから、私たちが主の御声と光に積極的に、従順に応答するならば、私たちは主を見い出すことができるのです。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)
主が私たちに求めておられる基準は、「あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」(13節)です。
主は、私たちに主と同じ絶対的完全を要求しておられるのではありません。全き心、動機の完全を持って、主を求め続け、主の御前を歩み続けることを私たちに求めておられるのです。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(創世記17:1)
「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)
「彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。」(列王記第一11:4)
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌第二16:9)
「そしてあなたがたは、キリストにあって満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ2:10)
主は、これ以上のことを私たちに求めておられないし、またこれ以下でも決して満足なさらないのです。
あとがき
今年も主のご降誕を祝うクリスマスの時を迎えております。うちにいますイエス様の故に、深い感謝をもって、讃美と礼拝をささげています。またこの時期は、新しい年に向かって、主のみことばを待ち望む時でもあります。私たちは毎日、主のみことばを握って一日を始めることと共に、一年の初めにみことばを握って始めることも、とても大切です。私たちの教会員のあかしを聞いていても、一年の間に直面する様々な試練の時に、しばしば、この年頭に握ったみことばが支えとなり、助けとなって、恵みの中に乗り越えています。みことばを握って生活する時、私たちは生ける主を直接に体験することができるのです。それ故、一年の初めに主のみことばを握ることは、一年間の勝利を握ることになります。 読者の皆様方も、ぜひ、みことばを握って新しい年の勝利を獲得していただきたいと思います。その年頭のみことばをお便りやファックスでお知らせいただければ幸いです。
(まなべあきら 1997.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1907年に出版されたBible cardのイラスト「Moses Pleading with Israel」 (Wikimedia Commonsより)
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創刊は1984年4月1日。2021年9月現在、通巻451号 エズラ記(7) 4~6章、まだまだ続きます。
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「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」
発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
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