聖書の探求(159) 申命記23章 主の集会(主との契約の社会)に加わるための生活上の諸規則

この章は、主の集会に加わるための生活上の諸規則が記されています。

ここで主が要求されている義とは、集会(すなわち、主との契約の社会)にはいるのにふさわしい実際生活を営んでいることです。

その生活の態度と行動についての規則がここに記されています。これは今日、私たちにとっても、最初に主に義とされるのは、イエス・キリストを信じる信仰によってですが、その後、主の義を保ち続け、主との契約の交わりを続けるためには、実際生活の営みにおける義が要求されるのは当然です。一度、イエス様を信じたと言っても、その後の生活が不信仰、不服従であれば、当然、主の集会(礼拝、交わり、主との契約の社会)に加わる事を聖書は許していないのです。ここには、キリストの教会が聖でなければならないこと、普遍性(すべての人に当てはめられるべきこと)、排他性と包容性(排除すべきものと受け入れるべきものの違い。罪とこの世は排除すべきであるが、信仰の弱い者は受け入れて育てるべきこと。罪やこの世と、信仰が弱いこととは同じではない。これを混同してはならない。これは神のいつくしみときびしさの二面を表している。ローマ11:22)、

キリストの教会は主の特別な所有であるという性質(コリント第一6:19,20)などがこの申命記23章には、予表的に記されています。

23章の分解

1~8節、主の集会に加われる資格
9~25節、社会的諸規定
.   9~14節、陣営の純潔
. 15~18節、奴隷と神殿売春
. 19~25節、隣人との関係

1~8節、主の集会に加われる資格

1節、「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者」このような男子の性器を切断することは、異教礼拝の慣習であって、そのような者が異教社会では宗教的に優れた者として尊ばれ、権力を握るようになっていた。

申23:1 こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、【主】の集会に加わってはならない。

これに似たようなことはローマ教会の司祭の独身主義の中にも見られます。このような去勢者の排除は、異教の慣習や風習がイスラエルに入ってくるのを防ぐためであって、病気や事故などによって、性機能に関わる部分を切除された者が主の集会に加われないことを言っているのではない。何事も、みことばの悪用、乱用はわざわいをもたらし、人を不幸に陥れようとする、悪魔のしわざです。

2節、「不倫の子」 これは、おそらく22章30節の結果として生まれて来た子のような者を指しているのでしょう。

申 23:2 不倫の子は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、【主】の集会に加わることはできない。

申22:30 だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。

このような子が集会に受け入れられないのは、おそらく、主の集会の中に争いを生じさせるからだと思われます。アブラハムと女奴隷ハガルとの間にイシュマエルが生まれた時、サライとハガルの間に争いが生じ、次にイサクが生まれると、イシュマエルはイサクをいじめるようになり、ついに主はハガルとイシュマエルを追い出されることを許可しています(創世記21章)。その後、今日まで、イサクの子孫イスラエル人とイシュマエルの子孫アラブ人は争いを続けているのです。

3節、「アモン人とモアブ人」は、イスラエル人がエジプトを出て、荒野の旅を続けていた時、親切をもって助けず、却ってイスラエル人を滅ぼそうとたくらんだ(民数記22章)。

申 23:3 アモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、【主】の集会に、入ることはできない。

「テマの地の住民よ。渇いている者に会って、水をやれ。のがれて来た者にパンを与えてやれ。彼らは、剣や、抜き身の剣から、張られた弓や激しい戦いからのがれて来たのだから。」(イザヤ書21:14,15)

後に、ネヘミヤの時代に、申命記23章の文書を発見し、アモン人とモアブ人との混血の者をみな、イスラエルから取り分けています(ネヘミヤ記13:1~3)。

ネヘ 13:1 その日、民に聞こえるように、モーセの書が朗読されたが、その中に、アモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。
13:2 それは、彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎えず、かえって彼らをのろうためにバラムを雇ったからである。しかし、私たちの神はそののろいを祝福に変えられた。
13:3 彼らはこの律法を聞くと、混血の者をみな、イスラエルから取り分けた。

しかしモアブ人であったルツは神の民の中に受け入れられ、ダビデの先祖、そして救い主の系図の中まで組み入れられています(ルツ記4:13~22、マタイ1:5)。

ルツ 4:13 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、【主】は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。
4:14 女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった【主】が、ほめたたえられますように。
4:15 その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」
4:16 ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。
4:17 近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。

マタ 1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、

それ故、この規定は信仰による者まで除外する規定ではないことは明らかです。すべて信仰によらないことが主に受け入れられない罪なのです。

「信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23)

私たちも、この世を愛し、この世の友となりたいと思うなら、それは神に敵対することになり、主の集会に加わることができなくなるのです(ヤコブ4:4)。

ヤコブ 4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」(ヨハネ第一2:15)

今では、神の選民イスラエルと異邦人とを隔てていた隔ての壁は、イエス・キリストの十字架の血によって打ちこわされ、取り除かれ、すべての人が何の差別もなく、キリストの血の贖罪(しょくざい)を信じて受け入れることによって、神の家族となることができるのです(エペソ2:11~19)。

エペ 2:11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

今や、永遠のいのちを与えるのは神の御霊であって、ユダヤ民族の血筋でないことは明らかです。それ故、ユダヤ人か、異邦人かを問わず、すべての人がイエス・キリストを信じる信仰によって、神の国の民として、神の家族としての霊的交わりに加わることができるのです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12,13)

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」(ヨハネ6:63)

「まことに主はこう仰せられる。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官(去勢した人のこと)たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、耐えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(イザヤ書56:4~7)

3~8節は、モーセがエジプト脱出以来の異邦人との間の出来事を回想して、その要約を記しているのです。

申 23:3 アモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、【主】の集会に、入ることはできない。
23:4 これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。
23:5 しかし、あなたの神、【主】はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、【主】は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、【主】は、あなたを愛しておられるからである。
23:6 あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない。

モアブの王バラクの誘いに乗ったバラムの行動には、モーセも悩まされたことでしょう。しかし主は、バラムの求めに耳を貸そうとされなかった。このことは自己中心の動機から祈る祈りには耳を傾けられないことを示しています。

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ4:3)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(ヨハネの手紙第一、5:14,15)

かえって主は、神の民に対しては、のろいを祝福に変えて下さいました。主が主の民を愛しておられたからです。これはバラムがイスラエルを祝福する祈りを祈ったからではなく、主がイスラエルを愛して、祝福されたからです。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世
記50:20)

「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(サムエル第二16:12)

「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8:28)

しかし 「あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない。」(6節)と命じられています。主イエスは、「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)と言われて、十字架上で、ご自身は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られました。このことは矛盾していません。主イエス様は、迫害する者のために祈りなさいと、命じられましたが、どのように祈るかは語っておられません。主ご自身の十字架上の祈りの模範からすれば、迫害者が罪の赦しを受けて、救われるようにと祈ることだとわかります。迫害者がそのままで、平安やしあわせを得るようにと、祈るように命じられたのではないと思われます。裏切り者のイスカリオテのユダが偽りの口づけを主にした時、主は 「友よ。何のために来たのですか。」(マタイ26:50)と言われましたが、このユダについて主は、「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:24)と言われていることからも、主を裏切る者、迫害する者が、わざわいであることは明らかです。

このほかにも、モーセの回想は、

・シホンとオグに対する勝利(申命記2:30~3:11)

・ルベン、ガド、マナセの・半部族のヨルダンの真の定住(3:12~22)

・メリバとカデシュでの自分の罪についての言及(1:37、4:21、31:2、32:51、34:4)

・バアル・ペオルでの民の罪(4:3)

・燃える蛇のわざわい(8:15)

・バラムの要求(23:3~6)

があります。

7節、しかし、エドム人とエジプト人については、各々、理由があって三代目以後の世代の人々は、「忌みきらってはならない。」と命じられています。

申 23:7 エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである。エジプト人を忌みきらってはならない。あなたはその国で、在留異国人であったからである。
23:8 彼らに生まれた子どもたちは、三代目には、【主】の集会に入ることができる。

この「忌みきらう」は「ひどく嫌うこと」、「全く拒否すること」を意味する言葉ですが、エドム人はイスラエルに敵意を表したけれども、彼らはヤコブの兄エサウの子孫で、イスラエルと血縁関係にありました(創世記36:1)ので、特別扱いされています。

創 36:1 これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。

エジプト人は、イスラエルを奴隷としてひどく苦しめましたが、飢饉の時にヤコブの家族を救い、イスラエル民族は約四百年間のエジプト滞在の間に繁栄して形成したので、彼らを拒否してはならないと命じられているのです。しかし彼らも、またどこの外国人であっても、イスラエルの集会に加わるのなら、イスラエルの信仰を忠実に表さなければならなかったのです。これは今日の教会員にも当てはめられなければなりません。自らをクリスチャンと呼び、教会の礼拝に加わるのなら、各々、イエス・キリストを信じて従う信仰を明確にすべきであることは当然です。

9~14節、陣営の純潔

9節、神の民が敵と戦う時には、戦いを始める前に、自分たちの陣営が潔くなっていることを確認しておかなければなりません。

申 23:9 あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。

私たちが個人として信仰の戦いをする時にも、教会が福音宣教の戦いをする時にも、自分たちの内側が潔められていなければ、たちまちサタンの攻撃を受けて敗北してしまいます。

旧約聖書のイスラエルの歴史を見ても、神の民が敗北した時は、いつも神の民の内に不信仰があり、偶像礼拝が行なわれており、汚れがあり、異教の人々との間に妥協があった時です。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か。すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとペリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』」(コリント第二6:14~18)

今日、クリスチャンと教会は、外側に向かって福音宣教の働きをする前に、クリスチャンひとり一人が潔められているか、教会の中にこの世との妥協はないか、教会員はみんな毎日、信仰の更新をしているか、これらの点を確実にしておかなければなりません。これらの点が明確になれば、多くの実を結んでくるのです。

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。・・・わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。・・・あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:2,5,8)

10~13節の精を漏らすこと(レビ記15:16,17)や、排泄することは、人が生きている間に必ず生じることですが、これを人がなすがままにしておくと、たちまち、赤痢やコレラが、発生し、今日、問題になっているエイズも発生して、当時のイスラエル民族は滅亡してしまったでしょう。

申 23:10 もし、あなたのうちに、夜、精を漏らして、身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出なければならない。陣営の中に入って来てはならない。
23:11 夕暮れ近くになったら、水を浴び、日没後、陣営の中に戻ることができる。
23:12 また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用をたすようにしなければならない。
23:13 武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用をたしてから、排泄物をおおわなければならない。

こういう衛生上の問題もありましたが、それ以上に聖なる秩序ある神は、神の民の中に「醜いもの」(14節、直訳では、「すべてのものの裸の状態」)を見たくなかったのです。

申 23:14 あなたの神、【主】が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。

すなわち、今日の公衆トイレのような人によって汚された状態を、神の民の中に見るのを嫌がられたのです。これらの外側に現われてくる汚れた状態、無秩序、混乱、放縦は、神を畏れない人の心の中から出てくるものだからです。神の民の陣営の中に、みだらなものが一切ないことを望まれたのです。愛と聖きに満ちた主を愛し、信じて従う人は、自分の心の中も、生活も、主の愛と聖きを慕い求め、秩序正しく生活することを求めるはずです。それ故、教会の中が秩序正しく整っていること、教会の組織、運営が秩序正しく整っていることもその教会の性質を表しており、福音の戦いをするために必要なことです。

主は乱れた民の中を歩み、汚れた民とともには歩きたくないのです。

シナイ山のふもとで、アロンが金の子牛を作り、民がその金の子牛にいけにえをささげ飲み食いし、戯れていた時、主はお怒りになられ、これから先は、主ご自身が導かれることを拒否され、「見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」(出エジプト記32:34)と言われ、「わたしはあなたがた(直訳「あなた」)の前にひとリの使いを遣わし、わたしがカナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蛮の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがた(直訳「あなた」)のうちにあっては上らないからである。あなたがた(直訳「あなた」)はうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがた(直訳「あなた」)を絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」(出エジプト記33:2,3)と言われました。

この時は、モーセの執拗な執り成しの祈りによって、主は再び同行して下さることになりましたが、カデシュで民が不信仰になって一晩中、泣きわめいた時には、そこから先は、主の臨在を示す、雲の柱、火の柱はなくなり、民は四十年間、シナイの荒野をさ迷って、不信仰になった者はみな、荒野で死に絶えたのです。

エゼキエルの時代にも民が偶像を拝み、みだらなことをしていたために、主の栄光は神殿の中からも、神の民の中からも離れ去って行ってしまっています(エゼキエル書8~11章)。この栄光の回復は、エゼキエルの幻の神殿が記された後の43章までありません。ちなみに、エゼキエル書40~48章は回復された秩序が記されています。

神の民のうちに神の聖と愛による正しい秩序が回復されるまで、主の栄光は回復しないのです。今日、私たちはこのことをじっくりと点検してみる必要があるのではないでしょうか。

15~18節、奴隷と神殿売春

ここでは、主の集会の義が、どのように守られるべきかという二つの例をあげています。

15,16節は、主人のもとから逃げて来た奴隷の扱い方です。

申 23:15 主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。
23:16 あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。

この奴隷ももう一度、主人のもとに引き渡すと、大抵の場合、虐待されるか、殺されてしまうでしょう。現代でも、共産圏やイスラム教国からの亡命者を本国に送還すると、その後、行方不明になってしまっている人、死刑にされている人がほとんどです。ですから、「その主人に引き渡してはならない。」と命じられているのです。

「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。」(ピレモンへの手紙15,16)

オネシモはピレモンの奴隷でしたが、彼はピレモンのもとを逃げ出して、ローマに来て投獄されていたのです。その獄中でパウロと出会い、オネシモは救われました。そこで、パウロは奴隷としてではなく、主にある兄弟としてパウロの手紙を持たせて、オネシモを元の主人ピレモンのもとに遣わしたのです。パウロはビレモンに、オネシモを奴隷としてではなく、主にある兄弟として迎えるように求めたのです。これがお互い人間の間で最も求められている関係ではないでしょうか。

「主にある兄弟」、これは最もすばらしい関係です。親が子どもを奴隷化し、夫が妻を奴隷化している今日、クリスチャンたちが親子で主にある兄弟姉妹、夫婦で主にある兄弟姉妹の関係を保っている時、最も幸いな恵みを経験するのです。この主にある兄弟姉妹の関係が破られる時、お互いに悲惨な関係が生じてくるのです。

17,18節の神殿売春は異教の礼拝では特に顕著でした。

申 23:17 イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼になってはならない。
23:18 どんな誓願のためでも、遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、【主】の家に持って行ってはならない。これはどちらも、あなたの神、【主】の忌みきらわれるものである。

神殿内に娼婦や男娼をおいて、彼らと交わることが異教の礼拝儀式の主要なことだったのです。これは彼らの民族の繁栄と豊穣を願う儀式だったのです。これと似たようなことは、パレスチナ地方だけでなく、世界に広く見られます。

18節の「犬のかせぎ」の「犬」とは、ここでは男娼のことです。ピリピ人への手紙3章2節の「犬」とは、偽りの教師たちのことです。

しかしこういう状態の中から救われた人もいます。エリコの遊女ラハブ(ヨシュア記2
章)、サマリヤの女(ヨハネ4章)、姦淫の場で捕えられた女(ヨハネ8章)、マグダラ
のマリヤ、占いの霊につかれた若い女奴隷(使徒16:16~18)たちです。

このように異教の社会で生活していた人であっても、真実に回心した人たちは、主の家族の中に受け入れられています。しかし今日、教会は、明確な回心経験をしないままで、異教の習慣を引きずって持ち込んでくる人々を多く受け入れているのではないでしょぅか。

今日、イエス様によって救われる人は、異教の生活の中から取り出されるのですが、それはそれまでの異教の生活をそのまま神の家族としての生活の中に持ち込んでもいいことを意味していません。主はそれらを一切、受け入れてはならないと言っておられるのです。
神の民に要求されていることは、

1.神の民、自らがきよくなければならないこと。個人においてだけでなく、集会(群れ)においても、きよい民でなければなりません。

2.主の臨在がいつも与えられるために、異教の汚れ、悪い習慣、無秩序、混乱を捨てて、秩序あるきよい生活を営んでいるべきこと。

3.外側の敵との戦いをする前に、内側が潔められていることが必要であること。

これらのことは、今日の私たちにも求められていることを」目覚すべきではないでしょうか。

「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリント第二7:1)

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:25~27)

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖(あがな)い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)

どうぞ、自分の出席している教会が駄目だと非難しているだけでなく、まず自分から、自発的に率先して、主の道を歩み始めてください。教会の牧師や教会の人々から愛してもらうことを求めるのではなくて、まず自分の方から主の愛と聖を持って仕えることを始めて下さい。愛を受けることを求めていると、不満だらけになります。愛を与えることをしていれば、幸いになります。

「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)

たとい、あなたの愛が教会で受け入れられなくても、他人が受け入れてくれなくても、主に対してするようにして下さい。

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:23,24)

19~25節、隣人との関係

神の民の交わりに入るための条件は、ただ儀式的条件を果たしているというだけでなく、神の義の性質を宿している必要があります。これは旧約においても、新約においても同じです。ただ義は律法によっては得られなかったので、旧約における神の民イスラエルは、しばしば神の道からはずれてしまいました。しかしこれは今日のクリスチャンのうちにも、同じことが多く見られるのではないでしょうか。外側だけ真面目なクリスチャンを装っているけれども、霊魂の内に生けるキリストの義を宿していないクリスチャンと呼ばれている人が多いのではないでしょうか。これは大変重要なことなのに、教会はほとんど信仰による改革をしようとしていません。私たちはこのことに気づいて、いち速く内にキリストの義を受け入れて成長しようでばありませんか。この生けるキリストの義を私たちが内に持つことによって、神の民との交わりの特徴が明らかに現われてくるのです。

その義は、どのような点において現われてくるのでしょうか。

①隣人との関係(23:19~20、24~25)
②主に対する誓願(23:21~23)
③妻に対する夫の勝手な離婚の禁止(24:1~5)
④弱者、貧困者に対する愛の配慮(24:6~22)

これらの点において、神の義を宿しているか、いないかで全く違った状態が生じてくるのです。

①隣人との関係((23:19~20、24~25)

隣人との関係は、隣人を愛しているか、どうかによって変わってくるでしょう。申命記22章1~4節に、その適用の一部が記されていました。

申 22:1 あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。
22:2 もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。
22:3 彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。
22:4 あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。

19~20節には、金銭であれ、食物であれ、貸すことのできるものの利息は、「外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。」と命じら
れています。

申 23:19 金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない。
23:20 外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたの神、【主】が、あなたの手のわざのすべてを祝福されるためである。

出エジプト記22章25節には、貧しいイスラエル人(「わたしの民のひとり」)に金を貸す場合、利息を取ってはならないと禁じられています。

出 22:25 わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。

レビ記25章35節では、その対象者が在住異国人にまで拡大されています。

レビ 25:35 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。

申命記23章20節では、「外国人から利息をとってもいい」となっていますが、これはイスラエル人の間に在住している異国人と、全くそうでない外国人とを明らかに区別しているのです。在住異国人とは、イスラエル人と共に、神の戒めに従って生きようとしている人のことを意味していますから、イスラエル人と同等の扱いを受けて、利息を取ってはならないと命じられているのです。利息を取ることは、商業的であって、愛の律法に反することだからです。キリストの家族の間では、商業的でなくて、愛によって分かち合うことこそ、大切なのではないでしょうか。

ここでは利息を取ることが違法だと言っているのではありません。当時も他国人への貸付金は商業的に普通に行なわれていたようです。商業的貸付の利息の利率は高く、1.5倍の場合もありました。このような利率は貧しい者にとって、借りたら、必ず破滅してしまいます。そして、それはしばしば相手の財産を奪う企みで行なわれていたのです。それ故、兄弟の破産を企んではならないと、この禁止命令が出されたのです。

しかし金持ちが貧しい隣人に金を貸す場合、利息を請求することは、神の愛に反するとして禁止されたのです。これは本当に神を愛している者なら、禁じられるまでもないことです。

24、25節は、隣人のぶどう畑や麦畑の中を通って行く時の隣人関係を記しています。

申23:24 隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。
23:25 隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。

これは現代の日本人の感覚とは随分異なっています。日本では道に落ちている粟を拾っても、叱る人もいますが、イスラエルでは、飢えている人には、いつも食べ物が与えられる道が開かれていました。ぶどうも、麦もすべて食べ物は神の祝福によって与えられるものだからです。そして主はこのように互いに助け合い、分かち合う民に対して、実り豊かに祝福して下さっていたのです。イスラエル人のぶどう畑や麦畑は飢えた通行人に解放されており、彼らは欲しいだけ食べてよかったのです。しかし飢えた者が貧欲になってぶどう畑や麦畑の所有者の財産権を侵害してはならないようにとも命じられています。それはもう一方の悪に行ってしまうからです。

イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいるのをパリサイ人が見て、それを責めたのは(マルコ2:23~28)、この主の命令によってではなくて、自分たちが定めていた、安息日に穂を摘むことは、一種の脱穀の仕事をしていることであって、安息日の休みを破るものであるという理由によるものでした。

このパリサイ人の態度は、この主の律法のことばと、愛の精神を破るものでした。
キリストの愛を失った宗教は、怒り、憎しみ、意地悪、争いしかありません。
「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)

②主に対する誓願(23:21~23)

申 23:21 あなたの神、【主】に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、【主】は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。
23:22 もし誓願をやめるなら、罪にはならない。
23:23 あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、【主】に誓願したとおりに行わなければならない。

この戒めは、隣人との関係の戒めの間にはさまれています。もし、隣人との関係において、契約が誠実に守られないとするならば、神ご自身との関係においてはなおさらのことです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(Ⅰヨハネ5:1~3)

主に対する誓願は、だれにも強制されていませんでしたが、しかしもし主に対して誓願をしたなら、それを遅れずに果たさなければなりません。「あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。」と言われています。「あなたのくちびるから出たことを守り、あなたのロで約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行なわなければならない。」と命じられています。ヨハネも、

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(Ⅰヨハネ3:18)

と言っています。私たちが主に祈ったこと、会衆の前であかししたこと、また他の人と約束したことなどは、口先だけで終わらせてはいけません。しかしこれらのことは、平気で無視されているのではないでしょうか。

私たちは主に、「こうこうします。」という約束のお祈りをする場合や、会衆や他の人の前で、「神を第一にした生活をします。」とか、「夫や妻を尊敬します。」とか、「家族に対して、主に仕えるようにします。」とか言う場合、あなたは本当に、真剣にそうする気持ちがあるのか、それを実行する恵みと力を持っているのか。献身の告白には、そのために払うべき苦難を乗り越える信仰があるのかと十分考えておかなければなりません。そして神に誓ったなら、「主に請願したとおりに行なわなければならない。」と命じられています。その真剣な態度なしに、軽はずみに言うなら、それは罪とされるでしょう。十分な考慮を持って誓願を立てるべきです。できもしないことを、肉の熱心で性急にすべきではありません。

(まなべあきら 1997.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、フランスの画家 Jean-François Millet (ミレー、1814–1875)により1857年に描かれた「The Gleaners(落穂拾い)」(パリのMusée d’Orsay蔵、Wikimedia Commonsより)


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