聖書の探求(168) 申命記30章 条件付祝福、容易な命令、いのちか死か、祝福かのろいか

この章は、条件的祝福が記されています。

条件とは2節、10節にあるとおり、「あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、」(2節)です。

申 30:10 これは、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、【主】に立ち返るからである。

祝福は、3~9節に約束されています。

しかしこの祝福は自動的に私たちに与えられるものではありません。わたしたちの神、主はいつでも私たちの前に、祝福とのろいの両方を置いておられます(1、19節)。

申 30:1 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、【主】があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、

申 30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、

私たちは、その二つのうち、どちらか一つを自分で選ばなければならないのです。どのようにして選ぶのかというなら、それは祝福を受けるための条件を選んで、それを実際生活の中で実行していくことによって、祝福を選び取ることになるのです。これは聖書が言っている選択の方法です。私たちは神が定められた条件を無視して、守ることをしないで、祝福を選び取ることはできません。たとい、この世と調子を合わせながら(参考までに、ローマ12:2)、裕福で、健康で、仕事も順調であったとしても、それは神からの祝福ではありません。

ロマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

神の祝福は条件を守ることなしに与えられることはないからです。こういう人は大抵、高慢で自分中心です。逆に、主のご命令を守りながら、貧しく、病に臥(ふ)していても、その人の霊魂には、平安や愛や喜びが与えられ、祝福が与えられています。私はそういう方々に何人もお会いしてきました。

神の祝福とは何なのか。それは持ち物や身なりなど、外見だけを見ていても分かりません。しかし、しばらくお交わりをしてみて、その人の性質が分かってくると、その人が本当にイエス様を愛して、信頼している人か、心に主の恵みを持っている人かどうかが分かってきます。勿論、主は私たちの物質的な必要を豊かに満たして下さいます。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

とかく、私たちは物質的祝福に目が向いてしまって、霊的祝福を軽んじてしまいがちです。そして信仰から迷い出てしまいやすいのです。

さらに、29章が捕囚の預言だったのに対して、30章は回復の預言が記されています。

1~10節、(捕囚からの)条件的回復の預言
11~14節、容易に実行できる命令
15~20節、いのちと死、祝福とのろいの選択の勧め

1~10節、(捕囚からの)条件的回復の預言

この部分の内容は、明らかに疑いもなく預言的意味を持っています。

「主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で」(1節)、
「あなたの捕われの身から」(3節)、
「あなたが、天の果てに追いやられていても」(4節)、
「あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に」(17節)、

これらの表現のすべては、捕囚が単なる脅し文句ではなく、確かに起きることの事実を物語っています。このことは、私たちが主を捨てて、主から離れ、主に反逆し、罪に陥る時、何が起きるか、それは事実として起きるのだということを教えているのです。

人は罪を犯す時、自分の良心に語られる神の警告を無視して、自分中心の肉の欲に従って、神に反逆する行為をしてしまうのだけれども、その時、神が警告していた罪の責めに苦しめられることが、自分の内に起きるとは思っていないのです。
ただサタンの「その時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)という声に心を奪われ、「いかにも好ましく」(同6節)思わせられている、肉の欲の方に従ってしまうのです。

しかし現実に事実は何であったか。神の栄光を失い、裸であることを恥じ、神の御声を恐れるようになって、神を避けて隠れ、互いに愛し合い、助け合う生活を失い、逆に互いにののしり合い、非難し合い、責任をあびせかけ合い、子を産むことも、食料を得ることにも苦しみが伴うようになり、死の刑罰を受けることになったのです。

ダビデは、神に逆らって罪を犯した時の苦しみを次のように告白しています。

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎(とが)をお認めにならない人、心に欺(あざむ)きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎(とが)を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは、私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:1~5)

イスラエルの捕囚はアッシリヤとバビロンへの民族的捕囚でしたが、捕囚には霊的捕囚もあります。

「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見い出すのです。私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:23~24)

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ人への手紙2:1~3)

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

歴史は、神に反逆した者に対する民族的捕囚も、故意に罪を犯す者に対する霊町捕囚も事実であることを明確に示しているのです。このことは、神は霊であって、人の目に見えなくても、現実に生きて働いておられるお方であることを示しています。

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)

1節、「祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、」

これはイスラエルが神の祝福とのろいを経験する歴史を越えて、捕囚から回復する時が来ることを予見しているようです。

申 30:1 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、【主】があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、

ここに言われている、将来起きるとされている国民的崩壊は、ヨハネの黙示録に見られる最終的な、究極の崩壊のことを言っているとする必要はありません。なぜなら、偶像礼拝によってもたらされる崩壊は、信仰の服従によって回復される、と言われているからです。神はあわれみ深いお方であり、神のご目的は回復にこそあるからです。

「あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。」(3節)

神は、「もしあなたが心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの幸福を回復し、あなたの上に同情を示してくださる。」と言っておられるのです。

申 30:2 あなたの神、【主】に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
30:3 あなたの神、【主】は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、【主】がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座(みざ)に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

たとい罪に陥ることが会っても、絶望してしまってはいけません。もう一度、救いにあずかることを諦めてはいけません。

「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。(ヨハネ第一 2:1)

「神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」(ヘブル6:5,6)

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」(ヘブル10:26)

上記の二つの聖句は、故意に神に逆らい、罪を犯し続けて、止めようとしない者に対して語られたものです。

しかし、良心が痛みつつも、罪を犯し続けているなら、やがて良心は麻痺して、罪の奴隷となり、聖霊の干渉を全く受けられなくなり、上記の二つの聖句の如く、救われる可能性がほとんどなくなってしまう状態になる危険があります。

聖霊があなたに、罪について、義について、さばきについて、あなたにその誤りを示されたら、それを無視したり、言い訳したりしないで、素直に、従順に従うことが必要です。そうでないと、段々と心が頑(かたく)なになり、救われることが難しくなってしまいます。

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:15)

「また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」(ヘブル3:18,19)

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」(ヘブル4:2)

4節、天の果てに追いやられている者をさえ、神の約束の地に連れ戻してくださると約束されていることは、神のあわれみがいかに深いかを示しています。

これはルカの福音書15章の放蕩息子の父の愛を表しています。

申 30:4 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。

7節は、イスラエルに刑罰を加えたアッシリヤやバビロンがのろわれ、滅ぼされることの預言でもあります。

申 30:7 あなたの神、【主】は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。

自らの富と権力におごり高ぶり、神のみこころ以上に過激にイスラエルを破滅させたアッシリヤとバビロンは神によってのろわれたのです。しかしこれも、神の民に対する神の深いあわれみだったのです。

しかしこれらのあわれみに満ちた祝福は、無条件に、自動的に与えられるものではありません。

その条件は、2、8、10節に記されています。

申 30:2 あなたの神、【主】に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、

30:8 あなたは、再び、【主】の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行うようになる。

30:10 これは、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、【主】に立ち返るからである。

この条件は申命記で繰り返し強調して述べられていることであり、その要点は、私たちが自分の全存在を持って、主を愛し、主に全く信頼して、心から服従していくことです。主のみこころに従い、行なうことを喜び楽しむ者となることです。このことについて、イエス様は、

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37~40)

と、仰せられました。主からいただくことのできるすべての祝福の条件は、このみことばに要約されています。

11~14節、容易に実行できる命令

申 30:11 まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
30:12 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。
30:13 また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。
30:14 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

主が私たちに求められる条件は、私たちにとって実行が困難なものではない。特別に訓練を受けた者だけができるものであるとか、いうものではない。それは私たちの日常生活から遠くかけ離れたものではない。また私たちの力の届かない所にあるものでもない。

イエス様を愛する心があり、主に全く信頼する心を持っているなら、私たち弱い者であっても容易に実行することができるものです。それは私たちのごく身近な日常生活で行なうべきもので、心の内なる動機と、あかしによって実行していくものなのです。主に対する愛の動機と信仰があるなら、神のみことばは容易に実行できるものとなるのです。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺(あざむ)いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめて立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」(ヤコブの手紙1:22~25)

イスラエルが神と契約を結んでいるというしるしは、肉体に割礼を受けているということでした。しかしそれは実際上、神のご命令に従順に従うということによっては現われてきませんでした。現実には、イスラエルは神に逆らい、偶像礼拝に走って行ったのです。このように象徴的儀式は、実質上、霊的には何の効力もないことが分かります。そこで新約聖書においては、次のように言われています。

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28~29)

私たちが心から喜んで、自発的に主のみことばに従うためには、自己中心にこり固まっている霊魂が打ち砕かれて、潔められた心をもって、主を愛し、主に全く信頼することが必要です。その時に、私たちは神がご要求なさるご命令に、自発的に服従するようになります。

「見よ。その日が来る。-主の御告げ-。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。-主の御告げ-。彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。-主の御告げ-。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心に書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。-主の御告げ-。わたしは彼らの咎(とが)を赦(ゆる)し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ書31:31~34)

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」(エゼキエル書36:26~28)

「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(コロサイ人への手紙2:11)

それ故、私たちの内から自己中心の自我がキリストとともに十字架につけられ、イエス様を愛する信仰によって、生けるイエス様の御霊を内に宿して生きるようになるなら、主のみことばに従って実行するようになることは、容易なのです。

15~20節、いのちと死、祝福とのろいの選択の勧め

解説の時は14節までで終わりました。今や、条件を果たして祝福を選ぶか、主に逆らってのろいを受けるか、選択の決断が迫られています。私たちは、主を信じて従って行くか、主を拒んで逆らうか、二者択一をしなければなりません。二人の主人に同時に仕えることはできないのです。それは私たち自身にとって、祝福か、のろいか、どちらかを選ぶ結果となるのです。

15節、主は私たちの前に「いのちと幸い」「死とわざわい」を置いておられます。

申 30:15 見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。
30:16 私が、きょう、あなたに、あなたの神、【主】を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、【主】は、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。

そして、「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:5,6)

いのちと幸いは、主を信じて、内に御霊の思いを持って従うことによって与えられ、死とわざわいは、主に逆らい、肉的欲の思いをもって不服従の生活をすることによって受けるのです。

17,18節は、ヤコブの手紙1章14,15節と同じです。

申 30:17 しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、
30:18 きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。

ヤコブ 1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

18節、「きょう、私は、あなたがたに宣言する。」は、神がご自身の権威を持って、お決めになったことであって、普遍的であることを示しています。

申 30:18 きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。

「もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、・・・あなたがたは、必ず滅びうせる。」(17節)

これは普遍的宣言です。勿論、主に聞き従う者に祝福が与えられることも、普遍的宣言です。

19節の「天と地とを、証人に立てる。」とは、旧約聖書の中で、よく使われる表現ですが、これは、天と地は主の被造物の中では、人に対して不動のものと思われているものであり、それを証人とすることによって、この選択とそれに対する神の取り扱い方が厳粛に行なわれることを強調しているかのようです。

19節の語りかけは、「あなたはいのちを選びなさい。」という勧めで終わっています。

申 30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、

これは、私たちがいのちと幸いのほうを選ぶことが、主のみこころであることを示しています。しかし選択は各々が、自分の意志によって行なわなければなりません。またその選択の結果の責任も、各々、自分で負わなければならないのです。

20節は、主を愛すること、主に従順に従うこと、そして主に信頼することの三つが語られています。

申 30:20 あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは【主】が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。

この三つをすることによって、主ご自身が私たちのいのちとなってくださるのです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)

「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠(かんむり)を与えよう。」(ヨハネの黙示録2:10)

「あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」(申 30:20後半)

古い契約は新しい契約にとって代わるけれども、古い契約がすべて無効になってしまったのではない。「とって代わる」とは、新しい契約が古い契約を成就するという意味です。イエス・キリストの恵みは、アブラハムへの約束の成就なのです。

「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:2,3)

「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ人への手紙3:29)

神が私たち人間を取り扱う原理は、昔も今も、少しも変わっていません。それには三つのルールが強調されています。

第一は、実行可能な条件付きであること。神の契約は、信仰と愛の服従という条件を果たす時にのみ、祝福を保証している。

第二は、心からの内的服従が必要であること。外的、象徴的儀式だけでは、実質上、全く意味をなさない。私たちにとって、心を神に献げることは、イエス・キリストを通して実際に可能となった。これが新約の契約の神髄です。

第三は、選択の決断が必要であること。
①神は二者択一を要求されている。
②私たちは自分の意志と自分の責任において決断を下さなければならない。
③その選択による、最終的結果は、祝福か、のろいか、明確になる。

あ と が き

最近、家族から信仰に反対されている人、職場でいじめられている人が、次々と来られています。昨今、ニュースで聞くにつけても、「これが人間の世界か」と、あらためて、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)を思わされています。こういう人間の社会にイエス様の福音をたずさえて行くのですが、自分の無力さを痛感させられます。
しかし皆さん、そういう中で、よくやっていると思います。とても耐えられる状態ではない人の話も聞きますが、本当に主に祈る以外になす術がありません。平気で他人をののしり、だまし、お金を奪い、いやがらせや、意地悪をする。主のもとを離れると、みなこのようになるのです。今こそ地の塩として役目を果たすべき時が来たのではないでしょうか。

(まなべあきら 1998.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は「Bible verse art: one drawing for every book of the Bible」に掲載された「Deuteronomy 30:19–20(申命記30章19-20節)」(Overview Bible at https://overviewbible.com/より、Free image)


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