聖書の探求(177) 申命記34章 モーセの死、ヨシュアの継承、結び

この章は、前半にモーセの死を、後半にヨシュアの継承と、結びが記されています。

34章の分解

1~3節、モーセの、ビスガの頂からのカナンの地の展望
4節、主のモーセへの地上での最後の顕現
5~8節、モーセの死と埋葬
9節、後継者ヨシュアの就任
10~12節、偉大な神の友、モーセ

1~3節、モーセの、ピスガの頂からのカナンの地の展望

申 34:1 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。【主】は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、
34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、
34:3 ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。

34章は、32章48~52節で、主がモーセに命じられたことが実際に行なわれたことの記録です。

申 32:48 この同じ日に、【主】はモーセに告げて仰せられた。
32:49 「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。
32:50 あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。
32:51 あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現さなかったからである。
32:52 あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へ入って行くことはできない。」

ですから、34章は32章からの続きであると見ることができます。ここではモーセを「彼」と三人称の代名詞で表していますから、この34章の記録はモーセ以外の、モーセに近かった人物(古代ユダヤ人はモーセの最後の記事はヨシュアが書いたと信じていました。)によって書かれたものと思われます。

その34章の記者は、モーセが主から命じられた場所に行き、ピスガの頂からカナンの地を見渡したことを記しています。

同世代の者はヨシュアとカレブの二人以外、全部死んでいました。そして今、モーセもその使命を終えようとしていました。その死の直前に、神の約束の地を見たいという彼の願いはかなえられたのです。神の歴史の中で、モーセが再び現われるのは主イエス様の変貌の山においてであり、そこでは、モーセは自分の主と顔を合わせてお会いしているのです。

「また、エリヤがモーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。」(マルコ9:4)

「ピスガ」という言葉の意味は、「こわれた」で、ギザギザした峰を示していると思われます。この最高の峰はエバル・オシヤであると思われます。晴れた日に、エバル・オシヤから遠くを見渡すと、ヘルモン山、ガリラヤ湖、オリーブ山、ベツレヘム、死海、その先に至るまで見ることができます。これは2,3節の記録と一致します。


一番上の写真は、ヨルダン国側の車中からネボ山の頂上を撮った写真。ヨルダン国側(東側)から見るとなだらかな丘に見えるが、頂上から西側は、急な下りになっていて、ヨルダン川やエリコははるか下方に見える。

下の写真は、ヨルダンにあるネボ山の頂上から西方を展望した180度のパノラマ写真、ヨルダンの首都アンマンから、当時のギルアデ、ヨルダン川、エリコの町、現在のパレスチナ地方、エルサレムのオリーブ山、ヘブロン、死海などが見渡せる。クリックすると拡大できます。(2016年の訪問時に撮影)


4節、主の、モーセへの地上での最後の顕現

申 34:4 そして【主】は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」

モーセはそこに入って行くことはできませんでしたが、神の約束の実現を確認することができました。モーセは単に死ぬためにこの山に登ったのではありません。神の約束の実現を確認させていただくためでした。

この地は、アブラハム以来、族長たちに約束されてきた地であり、モーセはその全地を自分の目で確かめたのです。ヘブル人において、「見る」という行為は、獲得することを意味する象徴的な行為でした。モーセはこの地の直接的所有者にはならなかったけれども、見ることによって、法的に所有者となったのです。

「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」(創世記13:14~15)

このようにして、モーセはイスラエルの国民のために、神から約束の地の所有権を受けつつあったのです。

5~8節、モーセの死と埋葬

申 34:5 こうして、【主】の命令によって、【主】のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。
34:6 主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。
34:7 モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。
34:8 イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。

モーセは多くの点において、主のしもべの典型でした。主ご自身がヨシュアに対して、「わたしのしもべモーセは死んだ。」(ヨシュア記1:2)と呼んでおられます。

「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。」(ヘブル3:5)

大指導者であり、立法者の終末がついに到来しました。それは四十年間、荒野で神のみことばを語り続け、度重なる民の反逆の中で迷える羊の如き群れを導いた老預言者の凱旋的終結でした。

「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(7節)その風貌は、臨終の人のようではなかった。彼はピスガの頂上において、カナンを見渡した。これが彼の最後の眺望であり、彼はその頂上より、再び下ることはなかった。

後代の歴史家ヨセフスは、モーセの終末について、哀悼に満ちた言葉を記しています。

「民衆は涙し、婦人たちはその胸を打ち、子どもたちは泣き叫び、それを制することができないうちにモーセは引き上げられて行った。山のある地点に至った時、彼は泣き叫ぶ群衆に合図をして、そこに留まらせ、ただちに長老たち、および大祭司エルアザル、大将ヨシュアだけを引き連れて登った。山の頂上において彼はまた、長老たちを残しておいた。そうしてエルアザルとヨシュアを左右にかかえつつ、彼らに語っていると、たちまち雲が彼らを覆って立ちのぼり、モーセは深い谷間に消えて行った。」

この異境モアブの地に、主のしもベモーセは死にました。主は彼を谷に葬られたのです。

「今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」(6節)

ヨナタンのタルグムには、「エホバは天使長ミカエルにモーセの墓を守るように命じられた。」とあります。

「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったときあえて相手をののしり、さばくようなことはせず、『主が、あなたを戒めてくださるように。』と言いました。」(ユダ9)

旧約においても、新約においても、だれ一人として古い契約の仲保者モーセの墓の前で礼拝をささげないし、新しい契約の仲保者のイエス・キリストの墓の前で礼拝をささげたりはしない。これは異教徒と主の信仰者との顕著な違いです。それは主の信仰者たちが、モーセも、主イエス様も、墓の中にいないことを知っているからです。このことは先祖を大切にしないとか、死人の葬りを好い加減にしていいとか、墓はいらないとか、言っているのではありません。主イエス様は十字架の死後、三日目によみがえられ、天に昇られましたし、主を信じて地上を去った信仰者の霊魂も、墓の中で眠っているのではないからです。全身おできの貧乏人のラザロは、「死んで、御使いたちによってアフラハムのふところに連れて行かれた。」(ルカ16:22)

イエス様と同時に十字架につけられた犯罪人のひとりが、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言ったとき、主は彼に「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われました。

主の信仰者が死ぬと、「アブラハムのふところ」と呼ばれ、「パラダイス」と呼ばれている所に、携え上げられるのです。それ故、墓の前での礼拝は、生きている者たちにとっての記念としての思い出には役に立っても、墓そのものを拝めば、偶像礼拝になり、死人の霊がそこにあると思って拝めば、それも偶像礼拝になってしまいます。と言っても、基の掃除をしてはいけないと言っているのではありません。愛する人々の亡骸を葬っている墓をきれいに掃除しておくことは、未信者の人々に対して誤解をまねかないために必要でしょう。

7節、「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」

モーセの年令が百二十歳と相当進んでいたにもかかわらず、彼の目はかすまなかったことを強調しており、気力も衰えていなかったと記していることは、モーセの死が老齢による自然死ではなく、主のご命令によるものであることを明示しています(5節)。つまり主のしもべモーセの地上での使命はここで完了したことを示しています。アフリカの奥地で宣教師のために地図を作り続けたデイビッド・リビングストンは、「使命のある限り、死なない。」と言って、猛獣に噛まれながらも働いたのです。主が使命を与えられている間は、どんな妨害、迫害、困難があっても、前進することができるのです。そして使命を終える日が天の故郷に帰る日なのです。

「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:16)

8節の「三十日間」は、モーセの死を悼む公的な喪の期間を記しています。長い間、不信仰なつぶやきを重ね、反抗も繰り返していたイスラエル人でしたが、それでも四十年聞、荒野で指導してくださったモーセに対して、惜別の思いがこみあげてきたのでしょう。しかし願わくは、つぶやきと反抗の繰り返しの後の惜別ではなくて、愛と信頼と従順の後の惜別であって欲しいものです。しかし人間の世界では、つぶやきと反抗の後の惜別が多いのではないでしょうか。そこにはいつでも、「こうしておけばよかった、ああしておけばよかった。」という、悔まれる後悔の思いが押し寄せてくるのです。ここで泣き悲しんでいたイスラエル人の心の中には、そういう思いがあったのではないでしょうか。しかし、モーセの死がイスラエルの人々にこれほどの悲しみを与えたことは、イスラエル人に対してモーセの存在は大きかったことを意味しています。それはモーセ自身がイスラエル人の反抗に会いながらも、主に忠実に歩み続けたからです。

今日でも、イスラエル人の中で、いや、全世界の人々の中で、モーセを知らない人は、ほとんどいないでしょう。しかしもっと大切なことは、モーセが忠実に従っていた主を、私たちが知ることです。イスラエル人の目にはモーセは見えていましたが、主を経験することができていなかったのではないでしょうか。モーセは確かに偉大な指導者に違いありません。しかし、彼を偉大な指導者に育てて用いた、さらに大いなる主を賛美し、礼拝すべきです。このことを忘れると、すべてが無神論の道徳主義者になってしまいます。

「そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。」イスラエル人は、いつまでもモーセの死を悲しんでいることはできません。残されている者には、前進して行く使命があるからです。彼らは新しい指導者のもとに、モーセが見渡した神の約束の地力ナンに入っていかなければならないからです。先の指導者は後に続く者に幻を見せ、後に続く者はそれを獲得し、そしてさらに後に続く者に次の幻を見せる必要があります。この点で、ヨシュアは失敗しました。彼は民にカナンの地を分割してそれで終わってしまって、カナンの地での生活を通して主の栄光を現わすべき幻を民に与えることをしなかったからです。

「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人々にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(テモテ第二 2:2)

9節 後継者ヨシュアの就任

申 34:9 ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、【主】がモーセに命じられたとおりに行った。

9~12節の結びの数節は、ヨシュア以後の人が書いたものと考えられています。なぜなら、ヨシュア自身が9節の「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。」と書いたとは考えにくいからです。これはヨシュアの死後、エルアザルか、長老のひとりが付け加えたのかも知れません。(ヨシュア記24:31)

ヨシ 24:31 イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、【主】がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、【主】に仕えていた。

民に対しては神の代理人としてのモーセ、神に対しては民の代表者となっていた国民的指導者のモーセは去って行ったけれども、神の約束も、ご命令も変わっていません。人間の指導者は変わっていきますが、真の導き手である神は変わりません。神の働きは進んでいくのです(ヨシュア記1:1~9)。

ヨシ 1:1 さて、【主】のしもべモーセが死んで後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。
1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。
1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

イスラエルの民は、主とモーセの命令に従って(31:1~8)、ヨシュアを新しい指導者として受け入れたのです。

申 31:1 それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、
31:2 言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。【主】は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。
31:3 あなたの神、【主】ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。【主】が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。
31:4 【主】は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行われたように、彼らにしようとしておられる。
31:5 【主】は、彼らをあなたがたに渡し、あなたがたは私が命じたすべての命令どおり、彼らに行おうとしている。
31:6 強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
31:7 ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。【主】がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。
31:8 【主】ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

「知恵の霊に満たされていた。」(申 34:9)

「あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たちに告げて、」(出エジプト記28:3)

旧約の時代に預言者たちを通して語られた聖霊は、最初から働いておられたことが分かります。聖霊は知恵の霊として働かれ、主のみことばを民に教えることだけでなく、祭司の装束を作ったり、礼拝に使うあらゆる備品を作り、香を調合することにまで働いておられます。この知恵の霊である聖霊は今日の私たちの毎日の生活のあらゆる面で働いて下さるお方です。

「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」(イザヤ書11:2)

「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。」(使徒6:3)

9節、「モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。」

「主はモーセに仰せられた。『あなたは神の霊の宿っている人。ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。・・』モーセは主が命じられたとおりに行なった。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。」(民数記27:18,22,23)

ヨシュアは、先には「神の霊の宿っている人」でしたが、申命記34章9節では、「知恵の霊に満たされていた」人になっています。「手を置く」という按手は、祝福や任命や、霊的賜物を分与する象徴として行なわれています(創世記48:14、使徒の働き13:3)。

創 48:14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

使 13:3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。

10~12節、偉大な神の友、モーセ

10節、「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。」

申 34:10 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。
34:11 それは【主】が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、
34:12 また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。

「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。・・・わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」(申命記18:15,18,19)

モーセの前に、モーセに勝る預言者がいたかどうかは知りませんが、モーセ以後、モーセが申命記18章15節で預言したお方、イエス・キリストの来臨までは、モーセに勝る預言者は現われませんでした。このようにして、申命記は、将来のさらにすぐれた預言者が起きることを示して終わろうとしています。

「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」(ヨハネ5:46)

「モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」(ヘブル3:2~6)

モーセは、預言者として民を導きました。

「主はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、ひとりの預言者によって、これを守られた。」(ホセア書12:13)

また、神の啓示されたご命令を、民に伝え、行なうように教えました。

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」(申命記29:29)

さらに、モーセは主イエスを預言しました。(申命記18:15)

申 18:15 あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者起こされる。彼に聞き従わなければならない。

「彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」(申命記34:10)

「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」(出エジプト記33:11)

「彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。」(民数記12:8)

神はモーセを通して、言葉だけでなく、イスラエル人の脳裏から決して消えることのない大いなるみわざをもって語られました。エジプトでの過越は、カルバリーでなされた最も偉大な主イエスの十字架の贖罪(しょくざい)を予表する神の備えだったのです。

(申命記終わり)

あとがき

申命記が終わりました。「お悦びください。」と言っていいものか、どうか分かりませんが、私はモーセの五書をすべて書き終えて、言葉に言い表すことのできない感謝に心が満ちています。最初、始めた時、毎月、休まずに発行できるかどうか心配でしたが、今、ここに原稿を書き終えて、ここまで主が助けてくださり、また読んで学び続けてくださる方々がいて、お祈りとご支援をくださったことに深く感謝致しております。

これからは歴史書に入ります。クリスチャンと言えども、聖書に真剣に取り組む人はそう多くありません。しかしみことばこそ、実を結ぶ最も確かな道です。今後とも、ご愛読をよろしくお願い申し上げます。クリスマスの祝福をお祈り申し上げます。

(まなべあきら 1998.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


 

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