聖書の探求(183) ヨシュア記2章1~7節 エリコの町の偵察、二人の斥候と遊女ラハブの信仰
上の絵は、フランス南部の町ニーム(Nîmes)の美術館にある作者不明の絵画「Rahab and the Emissaries of Joshua(ラハブとヨシュアの特使)」17世紀頃の作品(Wikimedia Commonsより)
この章は、エリコの町の偵察を描いていますが、その内容は二人の斥候の慎重な行動とエリコの町の遊女ラハブの信仰を克明に記録しています。
このラハブは信仰によって主イエス様の先祖の系図に入れられる人となっています(マタイ1:5)。
マタイ 1:5サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、
勿論、その時、ラハブ自身は知る由もなかったことですが。私たちもまた、今の自分の信仰の働きが、将来どんな光栄ある報いをもたらすかを知らないのです。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(コリント第二4:17)
この章では、私たちに様々な疑問を呼び起こします。
2:1ヌンの子ヨシュアは、シッテムから、ひそかにふたりの斥候をつかわして彼らに言った、「行って、その地、特にエリコを探りなさい」。彼らは行って、名をラハブという遊女の家にはいり、そこに泊まったが、
まず、主がヨシュアに、ヨルダン川を渡って、主の約束の地に入って行くように命じられていたのだから、ヨシュアは斥候を派遣して偵察させる必要はあったのか。
ただ主の命令に従って入って行けばよかったのではないか。おそらく、偵察をさせずに、そのまま直行していても、主はヨシュアとイスラエルをその都度、助けて下さったことは間違いないと思われます。それにモーセの時代に、カデシュから十ニ人の偵察員を送り込んで不信仰になり失敗したこともあったのですから(民数記13章)、今回、斥候は派遣すべきではなかったのではないか。こんな疑問も起きてきます。
カデシュの事件は、ヨシュアも偵察員の一人でしたから決して忘れていなかったでしょう。なのに、なぜヨシュアはニ人の斥候を遣わしたのか。それは主のみこころにかなっていたのか。このことについて、いろいろな人がいろいろなことを言っています。しかしはっきりしたことはだれも断言できません。
ただ一つ言えることは、二人の斥候も、ラハブもこれを信仰によって受け止めて行なったことによって、主はそれをよきにお用いくださったことです。どんなことでも、信仰によって行なうなら、主はそれをよきに変わらせて下さいます。しかし、どんなによいことと思われることも、信仰によらなければ、わざわいとなってしまう危険性が高いでしょう。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)
ヨシュアは戦いを始めるには、偵察する必要があると感じたのでしょう。それは決して悪いことではありません。主が臨在を持って助けて下さるという保証があったとしても、人間の側で必要な準備をしなければならないことがあります。自分の側での準備を無視するなら、怠惰な、用いるべき手段を用いない人間(アンチィノミアン)になってしまいます。しかし自分の準備にしがみつき、これがあるから安心とより頼んで慢心するなら、高慢な不信仰な人となってしまいます。
自分にできるあらゆる準備をした後、何も準備しなかったかの如く主に頼って行動することこそ、主に尊ばれる道ではないでしょうか。私たちは自分がした備えが最善の道と思い込みやすいのですが、主の道は他にあることもあるかも知れません。
パウロは、アジヤ、ビテニヤの地方で、福音宣教の働きをしようとしていましたが、主の御霊はパウロの備えを禁じられ、お許しにならず、マケドニヤへと導かれたのです(使徒16:6~10)。
このようなことは、しばしば私たちにも起きてきます。しかし何の準備もしないことは愚かで危険ですし、また自分の準備にしがみついて、何が何でも、それを押し通そうとすることもまた愚かで危険です。主の道が別にあることが示されたら、それに従うことが大切なのではないでしょうか。
しかし、どちらかと言うと、何の準備もしないで、ただ主の導きを待っていると言う人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。おそらく、その人にはよい導きは与えられないでしょう。あなたに出来る最善の準備をして下さい。そして主により頼んで、確信したところを実行して下さい。そして主の道が別にあることを知ったら、中止して主の導きに従って下さい。そのような柔軟な心が必要ではないでしょうか。
かつてカデシュから斥候を出した時は、大悲劇を招き、イスラエルは四十年荒野をさまよい、エジプトを出てきた一世たちはカレブとヨシュア以外、全員死んでしまったのですが、今回、ヨシュアの時は信仰によった故に、主の導きを受けることができたのです。
第二の疑問点は、なぜヨシュアはエリコから攻略を始めることにしたのか、ということです。
このことについて、主がヨシュアに命じられたのかどうかは、聖書が何も記していないので分かりません。もしヨシュアが考えたことであるとすれば、彼の軍事的策略だと思います。
エリコはカナンの地を南と北に分ける要所となるとりででした。この地を攻略できるなら、カナンの勢力を二分することが出来て、カナン占領に大きく前進することになります。それ故、エリコはどうしても攻め落とさなければならないとりでだったと言えるでしょう。そこで彼は最初に、一番難しい問題に取り組んだのです。
私たちとしては難しい問題は後回しにして、やさしいところから始めたいのですが、そのほうがいい場合もあり、難しいところから取り組んだほうがいい場合もあります。エリコ陥落はイスラエルに勝利をもたらす、非常によい信仰の戦いとなりました。ヨシュア記全体の中でも輝いている記録になっています。ヨシュアはこの難問を乗り越えるために、エリコの町の情報を得ようとして斥候を派達したものと思われます。
さて、もう一つの疑問は、二人の斥候がなぜ、遊女ラハブの家を選んで、そこに入ったのか、という点です。
アダム・クラークは、ラハブはエリコでただ一人の宿屋の主人だったかも知れないと言っています。また他の注解者たちは、遊女の家なら、見つかりにくかったから、またそういう所ではあまり注意されないで会話が行なわれるので、情報が得られやすいと考えたかも知れない、と言っています。エリコの軍事関係者が遊びに来ていて軍事機密を漏らすこともあるかも知れません。
ヘブル語では「宿屋の女主人」という語と「遊女」とは、同じ語が使われていることに注意しなければなりませんが、おそらく今日も、いかがわしいホテルがあるように、当時も、宿屋でありつつ、遊女の家でもあったのだと思われます。そしてラハブ自身が遊女だったのか、どうかという議論もされてきましたが、聖書を素直に読むなら、ラハブは遊女を職業としていたと考えざるを得ません(6:17,22,25、ヘブル11:31、ヤコブ2:25)。
しかし斥候たちはここで勝利に関わる重要な情報を手に入れたのです。その情報の内容からすると、主が彼らをラハブの家に導かれ、敵の追手からも守られたことは明らかです。これらの記録の中に、主が導かれたという言葉は見られませんが、主が導かれたことは間違いありません。
イスラエルのカナン攻略はラハブの家から始まったと言ってもいいでしょう。ラハブの回心がイスラエルの大勝利の始まりとなったのです。ヨハネの福音書4章のサマリヤの女の回心がサマリヤの町全体のリバイバル的回心につながったのと同じです。ですから今日も、ひとり一人の回心がどんなに大切かを思って、聖霊の助けをいただいてお導きする必要があるのではないでしょうか。ひとりの人の回心は決して小さくないのです。
ラハブは遊女ではありましたが、エリコの住民の中で、ただ一人、イスラエルの斥候を見つけても、彼らのいのちを助ける心を持っていた人だと思われます。主はその人の所に二人の斥候を導かれたのです。
「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」(ヘブル11:31)
私たちも、この世の大勢の滅びる人々の中にあって、ラハブと同じように、信仰によってだけ滅びから免れ、永遠のいのちを受けることができるのです。
9節でラハブは「主がこの地をあなたがたに与えておられること」と言って、「主(ヤーウェ)」の御名を知っていて、使っています。11節では、「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」と言っておりますし、12節では、「今、主にかけて私に誓ってください。」と言って、主を畏れている信仰を表わしています。
信仰と無茶とは異なりますが、信仰はこの世の常識以上のことをなすのです。すなわち、ラハブはエリコの住民全員が主とイスラエルに対して敵対していた時に、彼女一人だけ、信仰を持ってイスラエルの偵察員たちを受け入れ、不信仰で不従順な者たちとともに滅びなかったのです。
自分ひとりだけ、皆んなと反対の、異なる態度をとることには勇気が要りますが、主に対して信仰の態度をとることには、必ず大いなる報いが与えられるのです。ラハブは他のエリコの住民とともに滅びなかっただけでなく、イエス様の先祖の系図の中に加えられる光栄にあずかっています。
{マタイの福音書1章の系図の中の女性}
3節、タマル、タマルはユダの長子エルの妻でしたが、エルが主を怒らせて殺された後、ユダと関係を持って、ベレツとゼラフのふたごを産んだ人です。
1:3ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、
5節、ラハブとルツ、ラハブはエリコの遊女で、信仰によって神の家族に受け入れられ、サルモンと結婚し、ボアズの母となった。このボアズはモアブ人ルツと結婚して、オベデを産み、エッサイ、ダビデへと続いたのです。
1:5サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、
6節、ウリヤの妻(バテシェバ)、彼女はダビデと関係を持って、ソロモンを産んでいます。
16節、マリヤ。マリヤだけ、まともな結婚を保っていた例外と言えるでしょう。
1:16ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
しかしなぜ、このように特に汚れた女性たち、偶像礼拝をしていた女性たちがイエス様の系図の中に加えられているのでしょうか。
それは実にイエス・キリストの福音の特性を表わしています。いかなる汚れた罪をも赦して、潔めるキリストの福音です。しかもそれは、神の民のためだけでなく、異教のエリコやモアブの人をも含む全人類的、普遍の福音であることを示しています。
ヨシュア記6章25節を見ると、ラハブはヨシュア記が書かれた頃まで生きていたことが分かります。
6:25しかし、遊女ラハブとその父の家の一族と彼女に属するすべてのものとは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブは今日までイスラエルのうちに住んでいる。これはヨシュアがエリコを探らせるためにつかわした使者たちをかくまったためである。
彼女の信仰によって、彼女の家族たちが受けた恵みは測り知れないものがあります。もしあなたが長く生きることが許されたら、あなたの信仰を通して、あなたの周りの人が受ける恵みがどんなに大いなるものとなるかを知ることになるでしょう。
ラハブがなぜ、このように変えられていったのかと言うなら、2章10節で、主がエモリ人の王シホンとオグになされたことを聞いていたからです。(民数記21:21~35、申命記2:24~3:11)。
主のみわざのあかしを聞いて、主を畏れる人は幸いです。シホンとオグが殺された話はエリコの人々が全員知っていたでしょう。そして「私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。」(11節)と言っています。
しかしラハブだけは、イスラエルの神、主は、信じてご自身を受け入れ、従う者には、たといイスラエル人でなくても、だれにでも憐みを与えて、救い出してくださると信じたのです。ただ、主に敵対する者だけ滅ぼされるのだと確信したのです。この判断は正しかった。
ルツもモアブ人でしたが、主を信じて従っていくなら主の憐みを受けることができると確信して、ナオミに従って、ベツレヘムに行ったのです。健全な信仰を持つ者は、不思議なように偏見が取り除かれて、正しい判断ができるようになるようです。
それでは、なぜ、聖なる神、主が売春婦であるラハブをお用いになったのか。
それは主の聖なるご性質に反するではないか、と思われる方もおられるでしょう。しかし事実は、そうなのです。聖なる主は遊女のラハブを用いて、イスラエルに勝利を与え、ラハブの家族を救いに導き、主ご自身のご計画を成し遂げられたのです。
また主イエスは、夫を五人も取り替えていたサマリヤの女を用いて、サマリヤの町の人々を救いに導き、七つの悪霊を宿していたマグダラのマリヤに復活の日の朝、主は一番に現われてくださり、復活のメッセージを弟子たちに伝えさせたのです。主は姦淫の現場で捕えられてきた女が、律法学者、パリサイ人たちによって、石打ちにされようとしていた時、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を扱げなさい。」(ヨハネ8;7)と言われました。
私たちは遊女や姦淫をしている人のほうが、自分たちよりずっと、ひどく汚れていると思っているかも知れません。しかし主の前には、遊女も遊女でない人も、姦淫をしている者も、していない者も同じ罪人なのです。ですから本人の信仰によって、主がその罪を赦され、潔められるなら、主がガリラヤの漁師たちや迫害者サウロ(後のパウロ)を用いられたように、遊女ラハブやサマリヤの女やマグダラのマリヤを用いられたとしても、少しも不思議ではありません。
むしろ外見は敬虔を装い、知識は持っているけど、儀式も、律法も厳しく守っているけど、心の中は高慢とねたみと貪欲に満ちている律法学者、パリサイ人、イスカリオテのユダのような人々を、主は決して用いることが出来ないのです。これは昔も今も変わらないことです。
ラハブは腐敗した社会に生まれ、神から遠く離れた生活を続け、極度に堕落した生活を続けていたでしょう。彼女はエリコの悪を象徴しているような存在であったかも知れません。しかし彼女は、エモリ人の王たちになされた主のみわざを聞いた時、主を畏れ、異教の神々とは異なる唯一の真の神、主を真実に、そして他のエリコの人々の反対を恐れずに、ただ一人で信じるようになったのです。
彼女の信仰は二人のイスラエル人の斥候を助けることによって、ますます確信するところとなり、ヘブル人への手紙11章31節、ヤコブの2章25節にしるされるところとなり、キリストの系図の中に加えられる(マタイ1:5)ところとなったのです。
ヘブル 11:31信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。
ヤコブ 2:25同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。
マタイ 1:5サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、
彼女は最悪の状態から、最高の状態へと変えられていったのです。このことは、主イエス様を心から信じるすべての人に起きて来ることなのです。私たちも希望を持って進もうではありませんか。
次に、最後の疑問について考えておきましょう。
ヨシュア記2章4,5節で、ラハブはエリコの王の追手に対して、二人の斥候をかくまっていながら、「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」と言いました。
2:2エリコの王に、「イスラエルの人々のうちの数名の者が今夜この地を探るために、はいってきました」と言う者があったので、 2:3エリコの王は人をやってラハブに言った、「あなたの所にきて、あなたの家にはいった人々をここへ出しなさい。彼らはこの国のすべてを探るためにきたのです」。 2:4しかし、女はすでにそのふたりの人を入れて彼らを隠していた。そして彼女は言った、「確かにその人々はわたしの所にきました。しかし、わたしはその人々がどこからきたのか知りませんでしたが、 2:5たそがれ時、門の閉じるころに、その人々は出て行きました。どこへ行ったのかわたしは知りません。急いであとを追いなさい。追いつけるでしょう」。
主はこのラハブのウソを用いられたのか、という疑問が残ります。
これについては見解が二つに分かれます。ラハブに好意的に考える人と、「いや、ウソはウソだ」と手厳しく言う人とです。主が、このラハブが言った言葉をどう思われたかは聖書に何も記されていません。しかし事実を見るなら、このラハブの言葉によって二人の斥候は助けられたということです。ラハブの言葉は確かに偽りです。しかしラハブがそう言った時の動機は主のみこころにかなったのではないでしょうか。
第三者の立場からラハブのウソを非難攻撃することは簡単ですが、あなたがラハブと同じ立場に立たされたら、突然とっさに何と言えるでしょうか。ラハブは自分の心の中にあった、わずかの光に従って最大限の言葉を言ったものと思います。ならばウソを言ってもいいのかという議論を仕掛けてくる意地の悪い人もいそうですが、そんなことを言っているのではありません。主はラハブのウソを喜ばれたわけではない。しかしラハブの心の中の動機を喜ばれたことと思われます。その証拠にラハブは段々と光を増していって真昼のごとく輝く人生をたどっているのではありませんか。主が彼女の心の中を喜んでくださらなければ、こうはならなかったでしょう。
私たちは全力を尽くしていても、まだ不十分で、知恵に乏しく、失敗だらけです。しかし主は心の中を喜んで下さって真昼の如く輝く者にして下さるのです。
もし、ラハブが正直に言って、二人の斥候をエリコの王の使いの者に渡していればどうでしょうか。ラハブは正直者で、真実な人だったと世界の人々から賞賛されたでしょうか。二人の斥候は殺され、イスラエルはエリコで敗北したかも知れません。そしてラハブもラハブの家族も、エリコの人々と同じように滅んでしまったでしょう。
私たちはラハブのウソについて、あまり細かく、しつこく追求することは賢くないと思います。その時のラハブにとって重大なことは、ウソを言ったか、どうかということよりも、主の側に立つか、主に敵対するエリコの側に立つか、どちらを選ぶかだったのです。
ラハブは主の側を選んだということです。彼女はエリコの人ではありましたが、エリコの人々と運命をともにすることを止めて、神の民とともに運命をともにするほうを選んだのです。彼女が実際に取った行動は、彼女の心と生活の方向転換をはっきりと示しています。その決断はエリコの王と住民から危害を加えられる危険を伴ったものでしたが、彼女はこの世の王を恐れず、むしろ主がエリコをイスラエルに与えられていることのほうを信じたのです。
私たちの生活は常に選択を求められています。その選択によって、私たちは恵みか、滅びかを選んでいくことになるのです。それにはラハブのように、勇気ある信仰を必要とします。しかしまた、それはラハブのように最悪の堕落した者にも、最高の恵みをもたらす選択となることを忘れてはなりません。
6節の亜麻は1メートルくらい伸びる一年草の草で、早くから亜麻布を織る材料に使われていました。
2:6その実、彼女はすでに彼らを連れて屋根にのぼり、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に彼らを隠していたのである。2:7そこでその人々は彼らのあとを追ってヨルダンの道を進み、渡し場へ向かった。あとを追う者が出て行くとすぐ門は閉ざされた。
おそらくラハブはその亜麻の茎を屋上で乾燥させていたのでしょう。彼女はとっさにその茎の中に二人の斥候を隠したのです。彼女が知恵のある人であったことは16節の斥候の帰し方にも見られます。
2:16ラハブは彼らに言った、「追手に会わないように、あなたがたは山へ行って、三日の間そこに身を隠し、追手の帰って行くのを待って、それから去って行きなさい」。
上の写真は、古代エリコがあったと言われる「テル・アッスルターン」の古代城壁の跡(2013年訪問)。右側の石垣(擁壁)の上に城壁が建っていたとのことです。恐らく、城壁の中に部屋が作られているケースメイト式の城壁で、そのうちの一つの部屋にラハブが住んでいたものと思われます。
あとがき
牧師や説教者をほめたたえる人は多くいても、心の底からイエス様をほめたたえる人は少ないのではないかと思います。みんな、イエス様を賛美していると言われるでしょう。しかし本当に目の前に映っているのは、イエス様ではなくて、人間の牧師や説教者ではないでしょうか。
牧師や説教者から聖書のことばを聞いている間は、私たちの霊魂の内には実質的には何の変化も起きてきません。あなたの霊魂がイエス様の御声を聞くようになる時、あなたは変貌し始めます。主は人を通して、本を通して、様々な方法を通して語られます。その中で主の御声を自分の霊魂の内に聞く時、それは直接、主から聞いたのであって、人から聞いたのではありません。その時、御霊のみわざが始められているのです。
(まなべあきら 1999.6.1)
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