聖書の探求(206) ヨシュア記17章 マナセ族の相続地、ヨセフ族の不満とヨシュアの激励
この章は、前半でマナセ部族の相続地の境界線を記しており、後半ではヨセフの子孫の不満と、ヨシュアの激励を記しています。
上の絵は、1908年にCharles F. Horne and Julius A. Bewerによって編集された「The Bible and Its Story Taught by One Thousand Picture Lessons」のイラストより「The Daughters of Zelophehad(ツェロフハデの娘たち)」(Wikimedia Commonsより)
1~13節、マナセ部族の相続地
1節、マナセの子孫はエジプトで宰相となり、イスラエル民族を救ったヨセフの長子の子孫であり、さらにマナセの長子のマキルは戦士であったので、マナセ部族は、イスラエルの各部族の中でも、大いなる特権を持っていたと言っていいでしょう。
ヨシ 17:1 マナセ部族が、くじで割り当てられた地は次のとおりである。マナセはヨセフの長子であった。マナセの長子で、ギルアデの父であるマキルは戦士であったので、ギルアデとバシャンが彼のものとなった。
こうして先祖から受け継ぐ、優れた遺産は大切にしなければなりません。しかし、そのような遺産的特権も、信仰によって積極的に活用するのでなければ、良い実を結ぶことはありません。遺産の上にあぐらをかいて、怠惰になっているなら、その優れた遺産は、災いをもたらすものとなってしまいます。主の恵みと霊的徳とは、遺伝的に与えられるものではありません。ですから、どんなに聖徒の家系に生まれたと言っても、自ら、その信仰の道を歩むのでなければ、自分のものとはならないのです。
2節、マナセ族は、マキルの家系の者だけでなく、すべての人に、各々、自分の相続地が与えられたのです。
ヨシ 17:2 さらにそれはマナセ族のほかの諸氏族、アビエゼル族、ヘレク族、アスリエル族、シェケム族、ヘフェル族、シェミダ族のものになった。これらは、ヨセフの子マナセの男子の子孫の諸氏族である。
一人も忘れられることなく、すべての諸民族に分け与えられたのです。しかし、もし、これらの相続地を受け取った人々が、その土地を開墾し、改良することをしなければ、その地はすぐに荒地となり、その地で生き残ることは出来なかったのです。
3~6節は、ツェロフハデの五人の娘のことを記しています。この娘たちのことについては、民数記27章に詳しく記されております。
ヨシ 17:3 ところが、マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデには、娘だけで息子がなかった。その娘たちの名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。
17:4 彼女たちは、祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、族長たちとの前に進み出て、「私たちの親類の間で、私たちにも相続地を与えるように、【主】はモーセに命じられました」と言ったので、ヨシュアは【主】の命令で、彼女たちの父の兄弟たちの間で、彼女たちに相続地を与えた。
17:5 こうして、マナセはヨルダン川の向こう側のギルアデとバシャンの地のほかに、なお十の割り当て地があてがわれた。
17:6 マナセの娘たちが、彼の息子たちの間に、相続地を受けたからである。ギルアデの地は、マナセのほかの子孫のものとなった。
この五人の娘も、勇士マキルの子孫です。彼女たちは、女性でしたが、自分たちに与えられていた遺産の特権を積極的に活用したのです。もし彼女たちが、信仰を奮い立たせ、勇気を持って、祭司エルアザルと、ヨシュアと祭司長たちの前に出て、訴えて要求せず、陰でグズグズ言いながら、引っ込んでいたら、彼女たちには相続地は与えられず、名前は残らず、聖書に彼女たちの名前が記されることもなかったでしょう。そして聖書を読む者に彼女たちの信仰の勇気を与えることもなかったでしょう。
6節に、「マナセの娘たちが、彼の息子たちの間に、相続地を受けたからである。」と記しているのは、モーセの律法と、神との契約は男女の差別なく、公平であることを顕著に表わしています。生ける真の神を信じている人々の社会では、男女の差別はあってはなりません。人間として、どんな差別もあってはならないのです。強い者は弱い者の重荷をともに担い合うべきなのです。
民数記27章5節では、モーセは彼女たちの訴えを自分の知恵で判断せず、主の前に持っていって、主の判定を求めています。
民27:5 そこでモーセは、彼女たちの訴えを、【主】の前に出した。
そして彼女たちの訴えは正しいとする、主の是認を受けています。
私たちは、いつも、このように、自分の知恵の判断に頼らず、主の判断を求めて歩みたいものです。
しかしモーセに訴えた時は、まだ相続地を実際に受け取っていたのではなくて、契約として是認されていただけです。ですから、実際に自分の相続地を受けるためには、もう一度、彼女たちは、神の代理人となって相続地を分配している人々の前に、自分たちに与えられている権利を要求する必要があったのです。ここでも、もし彼女たちが消極的になって、エルアザルか、ヨシュアか、族長たちのだれかが、彼女たちのことを思い出してくれるのを待っていたら、相続地を受けることができなかったかもしれません。神の恵みを受けるためには、恥ずかしがらず、積極的に、勇気を出して求めなければなりません。だれかが自分のことに気がついて、思い出してくれるのを待っていてはいけません。
「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)
「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願って受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ4:2~3)
彼女たちは、必要な時に勇気を出して求めたから、受けたのです。どんな特権も、求めなければ、現実に自分のものにはならないのです。
主は、ご自分との契約に基づいて、ご自分に求めてくる者に対して、決して失望させることはなさいません。だれでも、イエス・キリストの十字架の血と主の約束のみことばを信じて、主の御救いを求める者に失望を与えたことはありません。拒まれることはないのです。
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)
「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(ペテロ第一2:6)
私たち、クリスチャンは、このマナセの子孫たち以上の豊かな、キリストの遺産的特権にあずかっています。
「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。・・・ またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの、救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:11,13,14)
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:23,24)
「また朽ちることも(恒久的)汚れることも(聖い)、消えて行くこともない(自滅しない)資産を受け継ぐようにして下さいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(ペテロ第一1:4)
しかし、このようなキリストの十字架の死によって備えてくださった遺産的特権も、信仰を働かせて自分個人のものとし、しかも、毎日、それを活用して生きるのでなければ、再び、衰え、失われてしまうのです。
「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」(テモテ第一6:12)
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(テモテ第二4:7,8)
ツェロフハデの五人の娘たちのように、積極的な信仰を持って、何回でも、勇気を出して、主の恵みを主と共に受け継ぐことのできる契約の相続財産を求め続けようではありませんか。
7~11節は、ヨセフの子孫(マナセ族とエフライム族)の相続他の境界線を述べています。
ヨシ 17:7 マナセの境界線は、アシェルからシェケムに面したミクメタテに向かい、その境界線は、さらに南に行って、エン・タプアハの住民のところに至った。
17:8 タプアハの地は、マナセのものであったが、マナセの境界に近いタプアハは、エフライム族のものであった。
17:9 またその境界線は、カナ川に下り、川の南に向かった。そこの町々は、マナセの町々の中にあって、エフライムのものであった。マナセの境界線は、川の北で、その終わりは海であった。
17:10 その南は、エフライムのもの、北はマナセのものであった。海がその境界となった。マナセは、北はアシェルに、東はイッサカルに達していた。
17:11 またマナセには、イッサカルとアシェルの中に、ベテ・シェアンとそれに属する村落、イブレアムとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、エン・ドルの住民とそれに属する村落、タナクの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落があった。この第三番目は高地であった。
これらの地は、ほとんどパレスチナの中央部分を占めており、彼らはイスラエルの各部族の中で、最も希望する土地を得ることになります。
「しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの土地に住みとおした。イスラエル人は強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」(17:12,13)と記しています。
その後の士師記の歴史や王国時代の歴史を見ると、たといイスラエルが強くなって、カナン人を苦役していると言っても、このような異教の人々を受け入れた同盟社会の生活は、神の民に致命的打撃を与えることになることが分かります。
罪(罪の性質、罪の傾向性)が、クリスチャンの社会や生活の中で大目に見られ、寛大に扱われるようになってくる時、神の民は、いつも霊的力を失い、塩気を失い、地の塩、世の光としての効きめを失い、神によって、外の暗やみに捨てられてしまうようになるのです。
イエス様は、これと同じことが、教会の中にも生じてくることを予知しておられました。罪から、はっきりと離れようとせず、この世と妥協しつつ、この世と調子を合わせつつ、教会生活を守ろうとする人々が、クリスチャンと呼ばれている人々の中に生じることを語られたのです。主は、彼らを毒麦と呼ばれました。
「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」(マタイ13:24~30)
この毒麦は、「収穫の時期」おそらく、主の再臨の時に、「刈る人たち」おそらく、主が命じられた御使いたちによって、焼くために束にされてしまうのです。
しかし、私たちはよく霊の目を醒ましていて、自らが毒麦にならないように、みことばの信仰からはずれないように、人の知恵の言葉に誘われて、だまされないようにしなければなりません。また教会の中に毒麦がはびこらないようにも、注意を怠らないようにしなければなりません。
マナセの子孫が、カナン人を追い出すことをしないで、彼らの中にそのまま住まわせたことは(17:12,13、13:13、15:63)、たといカナン人を支配して、苦役していたと言っても、それは神のご命令に反しています。イスラエル人がカナン人を苦役していたことは、カナン人をイスラエル人の中に住まわせていてもいい理由にならないし、神に受け入れられる言い訳にもなりません。
彼らが罪の傾向性を温存して取り除かず、異教の社会と妥協していたことは、すぐにその影響が現われてきて、イスラエル人を苦しめるようになり、多くの非常な禍害を引き起こすようになったことを、士師記は記しています。ヨシュアの存命中の時代に、すでに、その衰退のしるしがあったのです。
私たちも罪の根、罪の傾向性をそのままにして、それを押えつけて、罪を犯さない生活をしていても、勝利はありません。罪の力は人が押えつけている力より、ずっと強いのです。やがて罪の力に負けて、この世に支配され、呑み込まれた生活をしてしまうのです。ですから、潔められて、魂の内側から罪の傾向性が取り除かれ、ただ神の愛だけに満たされた生活をすべきなのです。それが最も安全な、勝利の生活なのです。
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
14~18節、ヨセフ族の不満とヨシュアの激励
ヨシ 17:14 ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。「【主】が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」
17:15 ヨシュアは彼らに言った。「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」
17:16 ヨセフ族は答えた。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」
17:17 するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。
17:18 山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」
この記事は、ヨセフの子孫が、欲が深く、怠惰な民であることを、よく表わしています。
14節、「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。」
この言葉は事実であるけれども、なんと白々しく、真実味のない、感謝も、信仰もない言葉に聞こえることでしょうか。本当に主が今まで祝福して下さったと信じるなら、これからの戦いも、その主に全く信頼して従って行けばいいのに、その気力が全く見られません。
特権が与えられ、教会の人数が多くなった時、あるいは教会の数が増えた時、信仰で積極的に福音宣教をしていく意欲と気力を失っているのを、よく見かけます。これは与えられた特権や祝福に安住して、怠惰になってしまうことの警告として受け止めなければなりません。
ヨセフの子孫たちは、自分たちの信仰で勝ち取っていくことを怠って、ただ、「あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」と、不満だけを訴えたのです。こうして外側に対して積極的に働きかけない人は、内側に向かって不満を言うのです。教会の内に不満がある時、大抵、外側に向かって働きかけていない時であり、福音を伝えなくても、人は来る。教会堂はある。経済的にも裕福である。こういう状態の時、ややもすると、怠惰になり、不満が吹き出して来るのです。
このように、特権も持っており、裕福であるけれども、信仰も、感謝も、喜びもない、不満を抱きやすい民を、どのように指導したらいいのでしょうか。
ヨシュアは怒り出すことをせず、皮肉とも、ユーモアとも感じられる言葉をもって対応しています。ヨシュアは、たとい特権のある民であっても、怠惰で、移り気で、空しい欲張り者たちの要求を、安易に受け入れることはしなかった。彼らのために、神の約束を変えたりはしなかった。
ヨシュアは、彼らの怠惰に挑戦したのです。
「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」(15節)
ヨシュアは神のあわれみを求める気持ちも忘れてはいなかったけれども、すでに力が与えられているにも関わらず、自ら信仰を活用し、努力して戦おうとしない人々に対して、特別の配慮をしようとはしなかったのです。
「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」(ルカ13:24)
神は、私たちの代わりに十字架にかかって死んで下さいましたが、私たちの代わりに罪を悔い改めたり、信じたりはして下さらないのです。神は私たちが自分で出来ることを、代わりにして下さらないのです。
私たちは、「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」(ヨハネの黙示録2:26)のみことばを体験として学ぶ必要があるのではないでしょうか。
ヨシュアの信仰の友カレブは、多くの困難があることを知りながら、彼の勇敢な信仰を活用して、巨人のいる山地を相続地として求めたのです。ヨセフの子孫はカレブとなんと対照的でしょうか。
ヨセフの子孫は、自分たちの特権と不満を訴えた上で、彼らが戦うことの出来ない理由を上げています。それは敵が「鉄の戦車」を持っていることでした。不信仰な人、戦う信仰のない人は、いつでも、自分が戦うことが出来ない理由をすぐに考え出すのです。
しかし、ヨシュアは、「そこを自分で切り開くがよい。」(15節)
これは、神の無限の可能性に対して、挑戦していくべきことを示しています。
山地が狭すぎて十分でないなら、自分で切り開きなさい。
鉄の戦車を持っているのなら、追い払わなければなりません。
なぜなら、神はすでにあなたにそれをするための力を与えられているから。ですから、あなたは、自分の力を見て、「できない。」と言わずに、無限の可能性に対して挑戦していくべきなのです。あなたはすでに十分に強い者とされているからです。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(コリント第二12:9,10)
信仰は、「自分はこれくらいでいい。」とか、「自分はこの程度の者です。」と言っていていいものではありません。険しい山地であっても、手間と労苦の多い森であっても、必ず、信仰を働かせて、切り開いて行かなければならないのです。主が私たちに与えて下さろうとしている恵みは、どこまでも求め続けて、自分のものとしていく責任があるのです。そして主は、主の恵みを私たちがすべて獲得出来るように、必要な力を与えて強めてくださっているのです。それを活用しなければ、私たちは不信仰になってしまうのです。私たちが信仰によって戦うならば、勝つか、負けるか、分からないのではなくて、最終的に必ず勝つ戦いをしているのだということを、はっきりと自覚すべきです。
「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)
(まなべあきら 2001.6.1)
(聖句は【新改訳改訂第3版】より)
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