聖書の探求(300) サムエル記第一 22章 ドエグはアヒメレクと祭司殺害、エブヤタルはダビデのもとへ逃避
フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「Saul Commands Doeg to Slay the Priests (サウルはドエグに祭司たちを殺せと命じる)」(New YorkのJewish Museum蔵)
この章は、サウルがエドム人ドエグを使って、祭司アヒメレクと八十五人の祭司を殺した悲惨な事件を記しています。
22章の分解
1~5節、ダビデ逃亡の足跡
6~19節、アヒメレクと祭司殺害
20~23節、アヒメレクの子エブヤタル、ダビデのもとに逃げる
1~5節、ダビデ逃亡の足跡
アドラムのほら穴(1節)→モアブのミツパ(3節)→ユダの地のハレテの森(5節)
21章1節では、孤独なダビデでしたが、22章1節では、ダビデの兄弟たちや父の家のみなの者が、ダビデの所に下って来ています。そして、22章2節では、約四百人の長となっています。
Ⅰサム 22:1 ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。
22:2 また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。
ダビデが人の助けを当てにせず、主だけを求め始めた時、主が働き始めて下さっていることを、このダビデの周りに大勢の人々が集まり始めていることの中に見ます。しかも、ここに集まって来た人々は、ただ集会に出席した人々ではなくて、ダビデとともに命をかけて戦う用意のある人々です。これらの人々は、ダビデの親族とともに、ダビデを慕って集まって来た人々(困窮している者、負債のある者、不満のある者たち)でした。彼らが最初のダビデ軍団となったのです。
ダビデは、イエス・キリストのひな型です。イエス様のもとにも、悩む人々が集まり、従って来て、真の満足を受けたのです。ダビデはその予表的存在です。
この他にも、小軍団を持った人々には、アブラムの家のしもべ318人(創世記14:14)、ギデオンの精兵士300人(士師記7:7)、ペンテコステの時の120人(使徒1:15)などがいます。
3,4節、逃亡生活に入ったダビデは、年老いた父母を同行するのは難しいと考えて、モアブのミツパに行き、モアブの王にしばらく預かってくれるように頼んでいます。
Ⅰサム 22:3 ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどんなことをされるかわかるまで、どうか、私の父と母とを出て来させて、あなたがたといっしょにおらせてください。」
22:4 こうしてダビデが両親をモアブの王の前に連れて来たので、両親は、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。
モアブは曾祖母に当るルツの出身地だったので、交流があったものと思われます(ダビデ→エッサイ→オベデ→ボアズとルツ、ルツ記4:21~22)。ダビデの父エッサイは、モアブの女ルツの孫でしたから、なおモアブに住んでいたルツの親族と出会う可能性はあるでしょう。
主イエス様も、十字架の上で、母マリヤを弟子のヨハネに委ねています(ヨハネ19:26,27)。ダビデも、イエス様も、年老いた親を思いやっておられます。
5節で、ダビデは預言者ガドの助言を得ています。
Ⅰサム 22:5 そのころ、預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」そこでダビデは出て、ハレテの森へ行った。
それまでダビデはモアブの要害で両親と一緒に住んでいました。預言者ガドが「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」と言った理由は、何も記されていませんが、ダビデは素直にその忠告に従い、ハレテの森に行っています。ハレテの森は正確には分かりませんが、多分、ユダの地の西部にあったと思われます。
6~19節、アヒメレクと祭司殺害
6~8節、サウルはダビデの一行がモアブに逃げたので追跡を中止し、エルサレムのすぐ北のギブアにある高台の柳の木の下に、槍を手にして坐っていました。
Ⅰサム 22:6 サウルは、ダビデおよび彼とともにいる者たちが見つかった、ということを聞いた。そのとき、サウルはギブアにある高台の柳の木の下で、槍を手にしてすわっていた。彼の家来たちはみな、彼のそばに立っていた。
22:7 サウルは、そばに立っている家来たちに言った。「聞け。ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。
22:8 それなのに、おまえたちはみな、私に謀反を企てている。きょうのように、息子がエッサイの子と契約を結んだことも私の耳に入れず、息子が私のあのしもべを私に、はむかわせるようにしたことも、私の耳に入れず、だれも私のことを思って心を痛めない。」
ここで「ギブアにある高台の柳の木の下」と特定していることは、この箇所をよく知っている人がこれを書いたことを表わしています。サウルの家来たちはそばに立っていたとありますから、サウルに従っていた家来たちは少なかったと考えられます。そこにダビデの一行がハレテの森にいることを知らせた者がいたのです。
しかしサウルは家来たちに不満をもらしています。
「エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。」これは、サウルの従者たちの中から、ダビデに従う者が出ていたことを示しています。主から離れたサウルに、心から信頼して従う者はいなくなっていたのです。サウルは人が従うのは地位や名誉や権力や富を求めてであると思っていたのです。そのような動機で従っている人は、本当に心から従っているのではありません。自分に都合が悪くなると、必ず離れて行くようになります。
更にサウルは自分に従って来ている家来たちにも、深い不信感を抱いています。
「おまえたちはみな、私に謀反を企てている。きょうのように、息子がエッサイの子と契約を結んだことも私の耳に入れず、息子があのしもべを私に、はむかわせるようにしたことも、私の耳に入れず、だれも私のことを思って心を痛めない。」
サウルは、ヨナタンがダビデをサウルに刃向うようにさせたと思い込んでいます。そして、だれも自分に同情してくれる者がいないと、寂しさと孤独を訴えています。自分の知恵と力に頼って、主に従わない者は、しばらくの間、仲間を集めていても、やがてだれからも見放されてしまい、耐えられないほどの孤独に陥り、滅びて行くのです。
どのような状態の中でも、私たちの友となって下さり、慰めと同情を与えて下さるお方はイエス・キリストしかおりません。このお方を捨てて、他の人に同情を求めても、むなしさしか返ってきません。
「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら、父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:13~15)
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15~16)
9節、この時点で、サウルに従ったのは、愚かで欲深い、エドム人ドエグだけでした。
Ⅰサム 22:9 すると、サウルの家来のそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。
22:10 アヒメレクは彼のために【主】に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」
「類は友を呼ぶ」とは、このことです。同じ性質の者が仲間となり、主を畏れて従う者たちはみな、サウルを離れてダビデに従うようになっていったのです。
ドエグは、ダビデがサウルから逃げてノブの祭司アヒメレクの所に行った時のことを見ていたので(21:1~9)、アヒメレクがダビデにパンを与え、ゴリヤテの剣を与えたことを、サウルに告げています。
11節、こうして、アヒメレクとその家族はダビデの共犯者とされ、反逆者とされてしまったのです。
Ⅰサム 22:11 そこで王は人をやって、祭司アヒトブの子アヒメレクと、彼の父の家の者全部、すなわち、ノブにいる祭司たちを呼び寄せたので、彼らはみな、王のところに来た。
ダビデがアヒメレクに対して、サウル王の任務についていると思い込ませていたので、アヒメレクは決してダビデの共犯者でも、サウルに対する反逆者でもありませんでした。しかしサウルは、人をやって祭司アヒメレクとその家族と、ノブの祭司たちを呼び寄せて、ダビデに共謀した責任を負わせたのです。
Ⅰサム 22:12 サウルは言った。「聞け。アヒトブの息子。」彼は答えた。「はい、王さま。ここにおります。」
22:13 サウルは彼に言った。「おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。おまえは彼にパンと剣を与え、彼がきょうあるように、私に、はむかうために彼のために神に伺ったりしている。」
14,15節、アヒメレクは、このサウルの突然の言葉にとまどったに違いありません。
Ⅰサム 22:14 アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来のうち、ダビデほど忠実な者が、ほかにだれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛の長であり、あなたの家では尊敬されているではありませんか。
22:15 私が彼のために神に伺うのは、きょうに始まったことでしょうか。決して、決して。王さま。私や、私の父の家の者全部に汚名を着せないでください。しもべは、この事件については、いっさい知らないのですから。」
彼はダビデをサウルに忠実な家来として見ているし、王の婿だし、護衛の長だし、イスラエル国民から尊敬されている人なので、サウルがダビデを反逆者として扱っていることが理解できなかったのです。そして、アヒメレク自身にも、その家族にも、王に対する悪意も反逆もないことを必死で訴えました。
16節、しかしサウルはアヒメレクの弁明も、訴えも聞き入れようとはしなかったのです。
Ⅰサム 22:16 しかし王は言った。「アヒメレク。おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全部もだ。」
ねたみと嫉妬で燃え上がっていた憎悪と怒りは、正常な人の弁明を聞く耳を持っていなかったのです。
17節、サウルはそばに立っていた近衛兵たちに「主の祭司たちを殺せ。」と命じています。
Ⅰサム 22:17 それから、王はそばに立っていた近衛兵たちに言った。「近寄って、【主】の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、彼が逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。」しかし王の家来たちは、【主】の祭司たちに手を出して撃ちかかろうとはしなかった。
しかしさすがにサウルの家来たちも、主の祭司たちに手を出して撃ちかかることはしなかったのです。主によって油注がれた者を撃つことは、主に撃ちかかることと同じであり、主の怒りが下ることを知っていたからです。主のしもべを非難、攻撃する者は、本当には主を畏れることを知らない人です。それをする者は、主を畏れず、主を知らない人だけです。
18節、近衛兵たちがアヒメレクたちに撃ちかかるのを拒んだので、サウルは神を畏れないドエグに「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。」と命じています。
Ⅰサム 22:18 それで王はドエグに言った。「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが近寄って、祭司たちに撃ちかかった。その日、彼は八十五人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。
主を畏れない人は、いつも平気で、ののしったり、さばいたり、人を打ちのめそうとするのです。こういうことは、本当に生ける主を心に持っていたら、決して出来ません。
その日、ドエグは亜麻布のエポデを着ていた八十五人の祭司を殺しています。「亜麻布のエポデを着ていた」ことは、だれの目にもその人々が主の祭司であったことが分かっていたことを表わしています。間違えて殺したという言い訳が成り立たないのです。
19節、サウルとドエグの残虐性は、子どもも乳飲み子も剣の刃で殺していることです。そればかりでなく、ノブの町の男も女も、羊、ろば、牛の家畜までも殺しています。
Ⅰサム 22:19 彼は祭司の町ノブを、男も女も、子どもも乳飲み子までも、剣の刃で打った。牛もろばも羊も、剣の刃で打った。
サウルの怒りはとどまるところを知らず、祭司の町ノブを破壊してしまったのです。
人が主を捨てて離れたら、どれほどの残虐性を持つようになるかを、サウルはよく示しています。
20~23節、アヒメレクの子エブヤタル、ダビデのもとに逃げる
アヒメレクの息子のエブヤタルが、サウルとドエグの虐殺を逃れて、ダビデの一行の所に逃げて来ました。そしてサウルが主の祭司たちを虐殺したことを報告したのです。
Ⅰサム 22:20 ところが、アヒトブの子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、ひとりのがれてダビデのところに逃げて来た。
22:21 エブヤタルはダビデに、サウルが【主】の祭司たちを虐殺したことを告げた。
22節、ダビデは悲しみに満たされ、二つのことをエブヤタルに話しています。
Ⅰサム 22:22 ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、あれがきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ。
一つは、あの日、すなわち、ダビデが最初に逃れてアヒメレクの所に行った日(21:1~9)、エドム人ドエグがあそこにいて、ダビデがアヒメレクからパンとゴリヤテの剣を受け取っているのを見ていたので、ドエグがきっとサウルに知らせるのではないかと思っていたと、その不安だったことを語っています。
もう一つは、ダビデが意図したわけではないけれども、結果として、ダビデ自身がアヒメレクとその家族と、祭司たちとノブの民の死を招いた原因になってしまったことを告白して、悲しんだのです。自分が意図しなくても、他人の悪意によって、全く責任のない人々にわざわいが及んでしまうことがあります。その時は、本当に申し訳なさで、心が一杯になってしまいます。謝っても、謝りようがありません。特に、私の罪のために全く罪のないイエス様が十字架にかかって死んでくださったことは、もはや「申し訳ない」と謝ることを通り越して、感謝して受け入れることしか出来ません。それが最もよい態度です。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:8~11)
23節、ダビデはエブヤタルに、ダビデの一隊と一緒にいるように勧めています。そうすれば恐れることがありません。
Ⅰサム 22:23 私といっしょにいなさい。恐れることはない。私のいのちをねらう者は、あなたのいのちをねらう。しかし私といっしょにいれば、あなたは安全だ。」
ダビデの命を狙っているサウルは、エブヤタルの命をも狙うはずだからです。主がダビデの命を守ってくださるなら、エブヤタルの命も守ってくださると確信することができるからです。主が「安全だ」と言ってくださる時、人の目に安全ではないように見えても、安全です。しかし人の目に安全に見えても、また人が「安全」と言っても、危険があります。私たちは見えるところによって歩まず、主を信じる信仰によって歩むなら、どんな時にも安全です。
「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(コリント第二 5:7)
その後、エブヤタルはダビデのもとで、ダビデの逃亡の間、実際に大祭司となり(23:9、30:7)、アブシャロムの反逆の時にもダビデに忠誠を尽くし(サムエル第二 15:24、17:15)ています。しかしアドニヤの陰謀の時には、アドニヤを支持し、ソロモンからアドニヤの共犯者の容疑がかけられ、祭司職を罷免されています(列王記第一 1:7、同2:26,27)。
あとがき
私たちの生活は、毎日、感動的なことが起きているわけではありませんが、他の人のために祈らせていただくことによって、感動的な感謝をささげることができます。渉ちゃん(生後一才未満)の脳の手術のためにお祈りいただき有難うございました。会ったこともない人のために、心を注いで祈ることができるのは、クリスチャンが祈りにおいてキリストのからだとして一つにつながっていることの証拠です。
パウロはコロサイ人への手紙2章1節後半で「直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。」と言って、彼もまた、まだ会ったこともない人々のために苦闘して祈っていたのです。これからも心を一つにして祈らせていただきましょう。
(まなべあきら 2009.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)