音声+文書:信仰の列伝(17) サラの信仰(2) 「信仰の実現」 へブル人への手紙11章11~12節

アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1906年に出版されたBible cardのイラスト「Sarah and Abraham hosting three angels(3人の天使をもてなすサラとアブラハム)」 (Wikimedia Commonsより)
2016年11月20日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章11~12節
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
はじめの祈り
「彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」
恵みの深い天のお父様、一週間の旅路を終えて、恵みの座にもう一度礼拝を捧げることができますことを感謝いたします。
私たちもまた、約束してくださった方を、真実な方と信じて歩いてまいりますので、今週も導いてください。
いろいろな課題を乗り越えて、神のみわざを現わし、イエス様を証しし、栄光を現わすことができますように、そして一人でも多くの方が、あなたの御名を賛美することができるようにお助け下さい。
今日も祝して下さり、私たちの信仰を生かしてください。
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。
今日はサラの信仰の2回目、「信仰の実現」という題でお話ししたいと思います。
今回は、サラの信仰がどのように実現していったか、そのことをお話しします。
11節で、「彼女は約束してくださった方を真実な方であると考えたからです」と書いてありました。
ここで、「真実な方」とは、バプテスマのヨハネの母親のエリサベツが、ルカ1章45節で、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は何と幸いなことでしょう。」と言っていますが、語られたことは必ず実現するという方、それが「真実な方」です。
言ったけれどもやらない、というのは不真実なことですね。ですから私たちの信仰は、神が語られことに基づいております。
サラはエリサベツと同じように信じたわけです。しかし、サラの信仰は特別なものではありません。今日の私たちにも必要な信仰ですし、私たちもまた、同じような信仰を持っています。
聖書のことばを三つほど読みたいと思いますが、
まず最初は、第一ヨハネの1章9節、そこに「真実」ということばが出てきます。
Ⅰヨハネ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
このみことばは、罪の赦しときよめにおいて、神様は約束通り、赦しときよめのみわざを行ってくださることを証言しています。
ですから、私たちは、約束のみことばを信じて、そのあと疑ってはならないですね。
信じたけれども、本当に救われたんだろうか、きよめられたんだろうか、と疑ってはなりません。それを疑うということは、神様は不真実なお方だと言っていることになってしまうからですね。神は真実ですから、約束のみことばを信じれば、必ずその約束どうりのみわざを行ってくださる。そう証言しております。
二番目のみことばは、第一テサロニケの5章24節です。
Ⅰテサ5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
「きっと」と訳されているのは、「必ず」という意味です。これはご存知のように23節の、平和の神ご自身によるきよめのみわざと、霊、たましい、からだを守ってくださることに対する、神様の約束の実現の真実さを証言しています。ですから、このみことばでは、きよめの恵みと、私たちの全身全霊に対する神の守り、ですね。ですから神様は私たちをお守りくださる。それを証言しております。その中に神の御真実さが表わされています。
三番目は、ローマ4章18節~21節ですけれども、そこはアブラハムの信仰を記しています。これはアブラハムとサラの夫婦の信仰を記していると思われます。
ロ-マ 4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
特徴あることばがたくさん記されていますね。「死んでいることを認めても、信仰が弱らなかった。神の約束を疑うことをしなかった。反対にますます信仰が強くなって、神に栄光を帰し、堅く信じた。」 何と素晴らしいことばが連なっていることでしょうか。
しかし、これらのみことばも、アブラハムとサラの信仰物語として読んでいるうちは驚きませんが、これを本当に信じて神のみわざを受けた、アブラハムとサラという夫婦が実際にいたということで、彼らの信仰には驚嘆させられます。
私たちは聖書を読むとき、歴史的な出来事とか、物語とか、そのような思いで読まないようにしなければなりません。ここで記されていることは、私と同じような人間が、苦難の信仰の試みを通過したことであります。
アブラハムとサラは無知で無謀な人ではありません。自分たちの子を宿すには、もう死んだような状態であることを認めていると言っています。「そんなことはない」と否定しているわけではありません。望みが全くないことも認めています。可能性が全くないことも認めています。ですから、決して無知や無謀ではない、ということです。
これらを全部受け入れた上で、いかにして、ますます主の約束のことばを信じることができるか。人間的可能性はゼロでありますけれども、それでも信仰が弱らない、ますます強くなり、神に栄光を帰し、堅く信じる、とはどうすることなのか。
それには選択しかありません。つまり、自分の理解や納得、動かしがたい知識を捨てて、神のみことばだけを選び取ることです。これが本当にできるのは、聖霊の助けがある時だけです。信じるということは、自分の思い込みでできるものではありません。聖霊が働いて下さる時だけできます。
これらの聖句は、アブラハムとサラの信仰が、一度も弱くなったり、疑ったり、迷ったり、失敗しなかったように見えますけれども、そうではありません。創世記をよく読んでいる人なら、アブラハムとサラの信仰がどんなに弱かったかが分かります。
神の約束がなかなか実現しないと、本当に実現するか不安になり、迷い、疑い、その挙句に、カルデヤの異教の習慣に従って、エジプトの女奴隷ハガルからイシュマエルを産んでしまう。そういう不信仰による大失敗をしてしまったことも、知られているとおりです。その結果、主はアブラハムに13年間も沈黙されてしまいました。大変悩みの大きい日々を過ごしたわけです。
毎日毎日、神様と親しく交わり、ずうっと長い旅の間、主に従って来た者が、ある日突然13年間も、神様からの語りかけもなく、みことばの光もなく、祈りの答えもなく、毎日虚しく過ごすことはどれほどの苦しみだったことでしょうか。
私たちの信仰は、神様にお会いできなくても、みことばを与えられなくても、神様の御声を聞かなくても、平気な生活をするような状態ではないでしょうか。
聖書は、この13年間も神が沈黙されたアブラハムの生活について、どういう生活をしたか、何も記していません。ただ2、3節跳んでいるだけです。つまり、神の沈黙の期間というのは、アブラハムに何も記すべきことがなかった、ということでしょう。神との交わりのない生活は、むなしさしか残らない。それを表わしています。
アブラハムも今日の私たちと同じように悩んだわけです。それなのに、なぜ聖書は、アブラハムとサラの信仰がどんな時にもに強かったかのように記しているんでしょうか。一度も弱くなった時がなかったかのような書き方をしています。それは彼らが、自分の間違いに気づいた時、あるいは、神様から不信仰や不服従を示された時、間を置かずに、すぐに真実な信仰に立ち返ったからであります。
信仰者にとって重要なことは、罪を犯したり失敗をした時に、言い訳したりつぶやいたりせず、ぐずぐずしていないで、すぐにへりくだって、打ち砕かれて、罪を悔い改めて、主イエスの十字架を見上げて、主に立ち返ることです。神様は、そのことを私たちに求めておられます。
誰でもサタンの誘惑にさらされており、罪に陥る危険があります。たとえ罪に陥っても、すぐに、へりくだって、主に立ち返ることが、恵みの中にとどまっている証拠です。私たちの信仰は、そういう点が非常に重要だということに気づかされます。
第一ヨハネの2章1節を読んでみましょう。
Ⅰヨハネ2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
私たちの前には、父の御前で弁護してくださる方、義なるキリスト(復活されたキリストのことです。義でなければ復活しませんから)、復活したイエス様がとりなしてくださるからです。
私の罪の身代わりになって十字架に架かり、その恵みで私たちは罪赦されてきよめられて、神の光の中を歩くことができます。私たちのために御父の前で、弁護してくださるイエス様がおられるからですね。
放蕩息子も愛に満ちた父のもとに帰りました。
ザアカイも主イエス様のもとに帰りました。
迫害者サウロも、主に立ち返りました。
彼らは素晴らしい聖徒に変えられているわけです。喜ばしい出来事として聖書は記しています。
これに対して、いつまでも自分は正しいと自己義を主張する律法学者、パリサイ人、金持ちの青年はどうしたでしょうか。主のもとを去って、主に敵対しました。
この二種類の人々を比べると、本当に愚かな人とは、どういう人かがわかります。
私たちは、どちらの人になればよいかすぐにわかると思います。
自分の罪、間違い、不信仰な選択に気付いても、示されても、心頑なにして、神に立ち返らない人ですね。そのまま真理からそれた道を行く人です。クリスチャンの中にもこういう人が少なくありません。みんなが、大勢が集まっているところに行ってしまう。
自分の罪や失敗や不信仰を認めて、主に立ち返ることは恥ずかしい事ではありません。勇気はいりますけれども、神にあって賢い人のする事です。
ダビデは、何度も罪を犯しましたが、それが示されるとすぐにへりくだり、悔い改めて主に立ち返りました。神様との交わりを回復し、約束の祝福を受けるためには、自分の罪や間違いに気付くだけではなくて、気付くだけでは約束の恵みは与えられませんから、その罪を離れ、義のために生きて、主に立ち返ることが必要です。
アブラハムだけではなく、サラもひどい不信仰なことをしでかしました。
それは夫のアブラハムに、自分の仕え女ハガルを与えて、主の約束の子ではないイシュマエルを産ませたことです。サラの不信仰は、自分を苦しめ、夫アブラハムも苦しめ、さらに、イスラエル民族を苦しめることになり、その苦しみは今も続いています。それだけではなく、神様も苦しめ、嘆かせたわけです。
このように一人の人の不信仰が、こんなにも時代を超えて苦しみを与える。民族や地域を越えて苦しみをもたらす。何といっても神様を悩ませたことを知れば、不信仰は是非とも避けなければなりません。
しかし、そのようなことをしでかしたサラでも、主に立ち返ることによって、神の約束の子を産むという、偉大な全能の神エルシャダイの御力を与えられています。
ですから、ただちに主に立ち返ることがいかに重要であるか、私たちは心に深く留めて、信仰生活を営む必要があります。
第二に、サラは、どういう信仰を持っていたか。
ヘブル11章11節から見ると、サラの信仰には三つの特徴があります。
ヘブル11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
サラの信仰の第一の特徴は、神の約束に基づいた信仰であることです。
サラが自分の知恵と考えに従っている間は、どうすれば良いか、こうすれば良いかと一晩中考えている時には、カルデヤの異教の習慣に従って、仕え女のハガルを夫に与えて、約束の子ではないイシュマエルを産ませてしまったことです。
自分の考えに従っている間は、ろくなことをしない。神の約束に基づいていない信仰は、つまり、自分の知恵や考えや、感情や感覚、ひらめきに基づいた信仰は、神から出ていません。しかし、そういうものに頼りやすいですね。
そのような状態のサラに、主は天幕の入口で、立ち聞きしているサラに聞こえるように、わざとアブラハムにイサク誕生の話をもう一度話されたんです。アブラハムに話されていますけれども、サラに聞かせたわけです。すると、サラは心の中で、「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで」と言って、信じようとしないで、あざ笑いました。
しかし主は創世記18章14節で、「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」と言われました。
神は天幕の入り口で、サラが立ち聞きして、心で思っていることも全部ご存知です。
これがエルシャダイの神ですね。
神様は明らかに、「定めた時に」と言っておられます。主のお約束は長い間実現しませんでしたが、忘れていたわけではないことが分かります。主はご自分が定めた時にみわざを行います。
ヘブル10章37節を読んでみましょう。そこにこう書いてあります。私たちにとっては、なかなか実現しないと悩む時かもしれませんけれども。神にはご自分が定めた時があります。
ヘブル10:37 もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
人間にとっては遅くなっているように見えても、主の再臨が遅くなっているように見えても、聖書は、遅くなることはない、と言っています。
主は、不信仰な態度をとっているサラに、神の真実な約束のみことばを聞くように、導かれました。
多くの方が、CDやテープを聞いてくださっていますけれど、その隣の部屋で耳を澄まして聞いている人がいるかもしれない。サラはそんな人ですね。神様がアブラハムに話しているのを、隣の部屋で聞いているような人です。その人が信仰を持って証しをするようになる。ですから、素晴らしいことですね。
信仰の基礎は、結局行き着くところ、神のみことばであります。信じない人でも、神のみことばを聞き続けることによって、最初は怒りだしたり嫌ったりするでしょうけれど、やがて、みことばは健全で主の約束を実現することを知るようになります。
ですから、力ある信仰は、神の約束のみことばをしっかり握って離さないことであります。私たちの思いは、空の雲のように移り変わりやすいので、自分の思いや感情に寄りかからないで、主の約束が実現するためには、必ず、神の不変のみことばを信じ続けなければなりません。
イザヤ書の55章8~9節を読んでみましょう。
イザヤ 55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──主の御告げ──
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
自分の思いが最高だと思わないようにしましょう。神様の思いは私たちの思いと異なる、と書いてあります。
もし、私たちの祈りが自分の思い通りになっても、主の約束のみことばに基づいていない祈りだとしたら、信仰の力を実感することができません。なぜでしょうか。
みことばに基づいていないと、ただ、幸運だった、くらいにしか思わないからです。
みことばの裏付けがあることは大事なことです。みことばの裏付けと、聖霊の働きがある時のみ、はっきりした信仰の力を経験します。ですから、みことばを実行することは大事なことだと、毎回お話している通りであります。
ですから、みことばをよく読み、よく学び、それだけではなく、みことばを実際生活の中で、毎日の足のともしびとし、道の光として活用していくことが大切です。
これが第一のサラの信仰の特徴でありました。
サラの信仰の第二の特徴は、「約束してくださった神を、真実な方と考えた」ことです。
私たちの神を、真実な方と信じることは、あまりにも当然のこと、当たり前のことですけれども、しかし私たちはそう信じているでしょうか。
問題が起きる度に、主に不安を覚えたり、疑い始めていないでしょうか。「前回はうまくやってくださったけれども、今回も主は私を助けてくれるでしょうか」と、不安を抱かないでしょうか。何十回も経験しているのに、やはり問題が起きると不安を覚えてしまう。
神が真実であることは、神の御性質であるとともに、神の約束のみことばを必ず成し遂げてくださるお方であるということです。もし神様が、約束されたことを、私が願う時に成し遂げられたら、誰もが神を真実な方と言うでしょう。今日祈って、明日実現するなら、神は真実な方だと言うに違いありません。
しかし、神様が、約束されたことを20年後に成し遂げられたなら、一体何人の人が神を真実な方と信じるでしょうか。
ある人々が考えているように、神様は力がなくて遅れているのではありません。一人でも多くの人が救われるために、忍耐して待っておられるんだとペテロは言いました。
創世記3章15節で、神様がイエス・キリストの十字架を最初に約束されてから、実現まで数千年要しました。
イザヤが救い主のご降誕を預言してから、イエス様ご降誕のクリスマスまで、およそ七百年待たなければなりませんでした。だから、多くの人は信じなかったわけです。
エレミヤは、ユダヤ人の捕囚からの回復が、七十年後に起きると預言しました。この場合は、年数が七十年とはっきり示されていましたが、神の真実を信じる者は少なかったのです。
イエス様が再臨を約束されてから、二千年以上が過ぎていますが、私たちはこの約束が、きっちりと成し遂げられることを、信じなければなりません。もう二千年以上経ったから、来ないのではないか、と思ってはならないのです。キリストの再臨の日、約束の日は、日一日と近づいています。そう遠くない日に、主がおいでくださることは間違いがありません。
「神は、必ず約束を成し遂げられる真実なお方である」ことを信じることは、私たちにとっても、大変重要なことです。
サラの信仰の第三の特徴は、「考えた」ということです。
ローマ6章11節をお読みしたいと思います。
ローマ6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
注目していただきたいのは、「思いなさい」という言葉であります。サラの場合は、「考えた」と訳されていますけれども、同じことです。
「思いなさい」とか「考えた」というのは、「そのように計算した」という意味であります。神様が示してくださっているように、心を定めて生活し、その信仰の態度を取り続けたことを言っています。
この「考えた」という決断の背後には、長い間の疑いがあり、不安があり、心配があり、忍耐があります。その果てに、サラは天幕の入り口のところで、神様がアブラハムに語っているイサク誕生の約束、その御声を聞いて、笑いましたけれども、神様に「あなたは笑ったね」と言われて、サラは「笑いません」とは答えましたが、神様は、「主に不可能なことがあろうか」と言いました。
そのみことばを聞いて、やっとみことばを信じる信仰に到達した、ということであります。
「考えた」、「思いなさい」というのは、やっとそういうふうに計算するところの信仰に到達した、という意味であります。
そのために、サラは、サタンが入れ知恵する不信仰な思いを払いのけ、異教の慣習に従うことを払いのけた。「神のことばなど、信じても無駄だ」という不信仰な思いを、払いのけた。自分の内から生じる不信仰な思いと、サタンや他人から侵入してくる、不信仰にさせようと働く思いを、神のみことばを信じる信仰によって、払いのけた。それが「考えた」とか「思いなさい」という意味であります。
サラは、サタンからカルデヤのウルの慣習、すなわち、仕え女を夫に与えて世継ぎの子を得る方法があるではないかと、そういう思い入れを聞き続けたことによって、不信仰に陥り、イシュマエルを産ませてしまったわけです。
こういう内なる不信仰な思いや、外からの不信仰な言葉を聞き続けていたり、はっきりと拒否しないで放置していると、ペテロが三回イエス様を否んだように、私たちの心はだんだんと神様から離れて、不信仰なこの世の圧力の声に心を傾ける様になり、ついにはエバが悪魔の罠に掛けられたように、堕落してしまいます。
サラが「考えた」ということの中には、こういう不信仰な声を払いのけ続けた、そして、神の約束のみことばを信じたことを意味しています。
この両方の要素、つまり「払いのけること」と、「神のみことばを信じること」、この二つの要素は、実りある信仰生活に、非常に大切な、不可欠な要素です。私たちもいろいろな課題や問題に取り囲まれる時、「払いのけること」と、「約束のみことばを信じること」が必要になります。このことを心にとめて行なって頂きたいと思います。
第三に、サラはこの信仰によって何を受けたのでしょうか。
聖書は、「子を宿す力を与えられた」と言っています。これは、サラがイサク一人を生む力を得ただけでなく、神の民を形成する力を受けたのです。
このことは、サラがイスラエル民族の母となっただけではありません。アブラハムは、信仰の父と呼ばれましたが、サラは、信仰の母となったわけであります。
そのように、私の毎日働かせている信仰は、目先の仕事をしているだけでなく、だれかれに愛を示しているだけでなく、その小さな仕事が大いなる神の国を建設しているわけですね。その一端を担わせていただいております。このことをしっかりと自覚して、毎日の信仰を働かせていただきたいと思います。
サラの信仰は、一人の男の子を産むだけではなくて、神の民を形成し、今日私たちに至るまで続く神の国の建設をしていたわけです。
第一コリント15章58節を読んでみたいと思います。
Ⅰコリ15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
パウロもそのことをよく知っていましたね。私たちが毎日していることは、小さなことかもしれません。しかし、それは小さなことではなくて、主のわざをやっているんですね。その働きは、主にあって無駄ではないことを知っているのではないですか。ですから、堅く立って動かされることなく励みなさい、と言われています。
今日の私たちも、アブラハムとサラの信仰を受け継いで、神の民を、神の家族を育てていく力を必要としています。
・それは、未信者の家族や友人や知人たちを、救いに導く力となり、
・たましいの生まれ変わった、新生したクリスチャンが、堅い食べ物を食べることができるように、よい物とわるい物を見分けることができるような、成熟した信仰者に育てていく力であり、
・また、キリストの身体である教会を生み出していく力にもなり、
・また、天の御国に入る人を生み出していく力になります。
このような祝福の力は、信仰による以外には、持つことができません。
アブラハムとサラの信仰は、いろいろと失敗も多かったですけれども、彼らの信仰は、決して小さな働きをしただけではありません。そのことについてパウロはこう言いました。
ガラテヤ3章7節から9節を読んでみましょう。
ガラ 3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
旧約のアブラハムの時代に、すでに神様はそのことを定めていた、と書いてありますね。神は異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、アブラハムの時代から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と、前もって福音を告げた、と言っています。このご計画は、アブラハムの時代にすでに始まっていたことがわかります。ですからアブラハムは、イサクを産んだだけではありません。イスラエル民族を生んだだけではない。異邦人を含めて、神の国が建設されるための信仰の働きだったわけです。
ですから、今の私たちクリスチャンが、新生しただけでなく、きよめられて、訓練されて、成熟した大人のクリスチャンになって、主の義の器となって用いられることが、求められています。
私たちもまた、祝福の力を与えられて、私たちを通して、多くの方々にアブラハムの子孫になっていただく、という信仰の働きをしているわけであります。これによって、キリストの身体である教会は、愛によって結び合わされ、組み合わされて建て上げられていくのです。
私たちの日々の信仰の働きは小さくても、非常に重要な大事な要素を持っています。
その結び目は小さいけれど、しっかりと結び合わされていなくてはなりません。私たちの働きは小さいけれども、しっかりとキリストの愛に結ばれていないといけません。キリストの身体は壊れてしまうか、成長をしなくなってしまうからです。人の思いと人の力ですれば、キリストの身体は壊れてしまいます。
主イエス様にとって、どんなに小さな信仰であっても、なくてもいい信仰はありません。私が、「自分の信仰は小さくて、弱いから、主の目に留めていただけない。主にとってなくてもよいものだ。」と思うなら、主のみこころを傷つけてしまいます。主を悲しませないようにしましょう。
三回も「主を知らない」と否定したことのあるペテロが、第二ペテロ1章 5節~8節でこう言っています。
Ⅱペテロ1:5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
1:8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。
どんな小さな信仰でも、どんな失敗だらけの人でも、「キリストを知る点で役に立たない者、実を結ばない者はない」と言っています。
不信仰な、肉の欲に従っている、この世の欲に従えば、人格破壊を起こして、滅びてしまいます。
今のこの世の中は、人格破壊が蔓延しているような状態です。サタンが牛耳っている、支配している。健全な人間としての人格性が、疑われる状態になっています。
それは、反動者だけでなくて、あらゆる面で、政治家から法律家から起業家から、起きています。ま、一言で言えば、メチャクチャな状態であると言っていいでしょう。それは人々の心の中に、信仰がないからですね。
しかし、主を信じるどんなに小さな信仰の人でも、今日からきよめられることを求め、信仰を一つ一つのことに活用してくださると、必ず愛の実を結びます。主の栄光を現わします。ペテロが言ったように、主の役に立つ人になります。主が喜んでくださいます。それは必ず、あなたにとっても大いなる信仰の報いと祝福をもたらします。
ですから、私たちは、アブラハムとサラの信仰を受け継ぎましょう。
サラの信仰の結果
サラの信仰の結果は、ヘブルの11章12節に書かれています。
ヘブル11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
これはもうご存知と思いますが、創世記の15章5節、22章17節、32章12節でも同じような主の約束が書かれています。それの実現であります。
エリサベツがルカの1章45節で、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」と、主の約束が実現していることを見ることができます。
これを信じたことによって、アブラハムとサラは神の栄光を現わしました。私たちも信仰によって神の栄光を現わすことができます。
ヨハネ11章40節をご一緒に読んでみたいと思います。イエス様が、ベタニヤのマリヤやマルタに言われたことです。
ヨハネ11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
あなたが信じるなら、神の栄光を見る、素晴らしいですね。私たちは、自分の信仰を働かせることによって、神の約束のみことばが実現していく、そして神の栄光を現わしていきます。私たちは日ごとに、小さな働きを通して、神の光を現わしているんです。
サラの信仰は、人間的に不可能な状況にあっても、みことばを信じる信仰であって、神の栄光を現わすことを示しています。
最後に三つお話をして終わりたいと思います。
➀、第一に私たちは、自分の力でできそうにないことに対して、不信仰にならないようにしましょう。
主は、人が誇ることができない時が来るのを待っておられます。そのことを悟って、堅く信仰の態度を取り続けましょう。
②、第二に、主の約束のみことばを握って、自分の内に起きてくる不信仰な思いを払いのけ、サタンや他人から侵入してくる不信仰な思いを、払いのけることです。
不信仰な声を聞き続けていると、誰でも不信仰に陥ります。エバはそれで、サタンの誘惑に陥ったのです。多くのクリスチャンも、これで敗北しています。
不信仰な思いを払いのける、これが第二です。
③、第三は、サラが信じたように、神が真実なお方であることを堅く信じることです。
神の約束が成し遂げられるには、通常、信仰が試みられます。忍耐が求められます。しかし、その信仰は必ず報いられます。その信仰は神の栄光を現わします。
ですから途中で、信仰を投げ捨ててしまわないようにしましょう。
この三つのことを守っていただければ、必ず神の栄光を現わすようになります。
お祈り
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
恵みの深い天のお父様、アブラハムの時代も、ベタニヤのマリヤの時代も、私たちの時代も、同じであります。
信仰によって神の栄光を現わす。そのことを私たちも日ごとにさせて頂いているわけですが、そのことを自覚しながら、今週も歩ませてください。
小さな働きですけれども、小さなことをしているのではなくて、イエス様のお仕事をし、キリストの身体を建て上げて、神の栄光を現わす働きをしている、神の国の働きをしていることを心にとめながら、イエス様に喜んでいただける日々の生活を営ませてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
<今週の活用聖句>
ヨハネの福音書11章40節
「イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」
地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421