聖書の探求(181) ヨシュア記1章1~9節 ヨシュア記全体の緒言

1節、「主のしもべモーセが死んで後」

ヨシ 1:1 さて、【主】のしもべモーセが死んで後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。

モーセは、イスラエルの子孫を約束の地に導き入れることができませんでした。モーセは律法の代表者であり、律法は、キリストの福音の満ち満ちた恵みと祝福の中に私たちを導き入れることができません。これができるのは、ただ、イエス・キリストだけであって、ヨシュア記に記されているヨシュアは、イエスの型です。新約聖書には、「その名をイエス(救い主)とつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)とあります。

「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語に訳されると、「イエス」となります(使徒7:45、ヘブル4:8)。

使 7:45 私たちの父祖たちは、この幕屋を次々に受け継いで、神が彼らの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。

ヘブル 4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

その名前は「救い主」を意味しています。この旧約のイエス(ヨシュア)は、新約聖書のイエスの特質を予表しています。

①ヨシュアについての悪い記録は記されていない。

②彼は自分を拡大宣伝しようとする、どんな願望も持たず、物や名誉、地位を獲得したいという野心的欲望も持たなかった。

③彼は自分の単純で高潔な性格を台無しにするような利己主義に、汚染されていなかった。

④彼は孤独や無力さの中でも、また困難な状況の中でも、主のみこころを求めた。彼の志は神のみこころを行なうことでした(詩篇40:8、ヘブル10:7,9)。

詩 40:8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」

ヘブル 10:7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」
10:8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、
10:9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。

⑤彼は不屈の勇気と忍耐を持った人でした。

⑥彼は困難に直面した時、明るい信仰の確信を示しました。

⑦彼の機敏な行動は、数々の勝利をもたらしました。

⑧彼は自分の個人的な興味や利益を捨てて、自己否定の態度をとったために、他の人々は彼に深い敬意を表わしました。

⑨彼は、自分に委ねられた神の民が恵みと祝福を受けるために全力を尽くしました。

こうして、神はモーセの次の時代を背負う人としてヨシュアを選ばれ、備えておられたのです。主はヨシュアの内に、主のご命令に従順に聞き従う性質を見い出され、彼は、自分に委ねられた任務をやり遂げる人であることを認められたのです。

ヨシ 1:1 さて、【主】のしもべモーセが死んで後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。

これは主からヨシュアヘの個人的な語りかけです。

モーセに対しては、「主のしもべ」という最高の称号を与えた。モーセには特別な神との交わりがあったからです。

ヨシュアに対しては、「モーセの従者」と呼んでいます。これは見習い中を意味しています(サムエルも、祭司エリのもとで)。

モーセのカナン入国の希望はかなえられませんでしたが。

(答えられなかった祈り)

①モーセのカナン入国の祈り

②エリヤのえにしだの木の陰での祈り(列王記第一 19:4)

Ⅰ列王 19:4 自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「【主】よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」

③パウロのとげのための祈り(コリント第ニ 12:7~9)

Ⅱコリ 12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

ヨシュア記の記者(ヨシュア自身)は、神が彼にどのように語られたかを全く説明しようとしていません。しかし彼は、神と自分がしばしば交わったことを記しています(ヨシュア記1:1~9、3:7、4:1、6:2等)。

ヨシ 3:7 【主】はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。

ヨシ 4:1 民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、【主】はヨシュアに告げて仰せられた。

ヨシ 6:2 【主】はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。

旧約聖書中には、ウリムとトンミムによって神が語られた記録がありますが(民数記27:21、申命記33:8、サムエル記第一 28:6)、ヨシュアに対して神がウリムとトンミムによって語られた記録はありません。おそらく主はアブラハムに語られたように(創世記12:1、13:14、15:1,18)、ヤコブに語られたように(創世記28:13、35:1,10)、ヨシュアにも語られたのではないかと思われます。しかしこれは推測でしかありません。しかし大切なことが一つはっきりしています。それはだれが語られ、何を語られたかを、それを聞いたヨシュアの心に少しも疑う余地がないほど鮮明に、聞違うことのない方法で、主が語られたということです。

民 27:21 彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために【主】の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、入らなければならない。」

申 33:8 レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。

Ⅰサム 28:6 それで、サウルは【主】に伺ったが、【主】が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、

創 12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

創 13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

創 15:1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

創 15:8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」

創 28:13 そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

創 35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」

創 35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。

2節「わたしのしもベモーセは死んだ。」

ヨシ 1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。

これは時間的転機が来たことを示しています。預言者イザヤはウジヤ王が死んだ時に、霊的転機を迎えています(イザヤ書6:1)。

イザ 6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、

主イエス様の死後について、

「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)と言われています。そして主イエス様の十字架の死と昇天後、弟子たちと世界に大転換期が訪れたのです。それは聖霊の降臨による画期的な新時代が始まったことです。

モーセの死は、直接神によるものでしたから、それは新しい時代に対して非常に重要な意味を持つものでした。

ヨシ 1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。

モーセの死は、神のご計画が中止されることではなかった。人間の指導者は交代しても、神は変わっておられない。このご命令はそれをはっきり示しています。

神は、イスラエルの民が進んで行って、約束の地を占領するために、三重の激励を与えておられます。

第一は、約束の地が確かに与えられること

「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア記1:3)

第二、命令

「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。・・・わたしはあなたに命じたではないか。・・・」(ヨシュア記1:2,9)

第三、神がともにいてくださる約束

「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア記1:5)

「このヨルダン川を渡り」

ヨシュアたちは、約束の地を獲得する前に、乗り越えなければならない大きな問題が横たわっていました。それは雪どけ水で洪水のように川岸まで、いっぱいにあふれていたヨルダン川を、どのように渡ることができるか、ということです。これはどんな手を使っても人間の力では不可能に見えました。しかし主のご命令は「このヨルダン川を渡り」でした。全能の主がお命じになられたことであるなら、真の信仰を持って主に従う限り、可能であるとヨシュアは確信したのです。なぜ、この確信を持つことができたのか、というなら、それはヨシュアがモーセに従っている期間に、アマレクとの戦い(出エジプト記17章)を初め、数々の困難を乗り越えてきた信仰の勝利の経験に基づいていたものと思われます。私たちも日常の小さな勝利の経験の積み重ねが、大きな困難にぶつかった時に、確信となって支えてくれるようになるのです。

ヨシュアはカデシュからカナン偵察に行った時の報告でも、信仰の確信に満ちた報告をしています。

「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:8,9)

ヨシュアは長年の信仰による服従の結果、主のお約束を信じ、主がご自身の民のために必ず道をつくってくださるに違いないと確信したのです。

3節、「あなたがたが足の裏で踏む所はことどとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」

これは主が族長たち(アブラハム)に対してなされたのと同じ約束です(創世記12:1~7、13:14~17、出エジプト記23:30,31)。

創 12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。

創 13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」

出 23:30 あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。
23:31 わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また、荒野からユーフラテス川に至るまでとする。それはその地に住んでいる者たちをわたしがあなたの手に渡し、あなたが彼らをあなたの前から追い払うからである。

この約束は、カデシュで実現するはずでしたが、イスラエル人がカナンの巨人の住民を恐れて、不信仰の態度をとったために、実現しませんでした。その結果、彼らは四十年間、シナイの荒野で放浪の旅を続けて、死んでしまったのです。そしてヨシュアの指導のもとに、カナンに入って行こうとしているのは、四十年の放浪の間に荒野で生まれたイスラエル二世たちです。この時点でも、彼らが不信仰と不服従の態度をとったなら、再び悲劇を経験することになったでしょう。信仰による神への服従は、勝利を持って約束の地を相続することを意味するのです。私たちも死に至るまで忠実な信仰を守って(ヨハネの黙示録2:10)、日々、主のみことばに従い、主の復活にあずかる者となり(ピリピ3:11)、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を獲得し(ピリピ3:14)、神の都、天の故郷(ヘブル11:10,16)を相続させていただきましょう。

黙 2:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

ピリ 3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

ヘブル 11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

ヘブル 11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

結局、イスラエル人は、彼らの先代の人々が恐れていたカナンの巨人たちと戦うことになるのですが、彼らが神に従った時、いつでも彼らに敵対する者は、力のない者とされ、イスラエルは無敵となったのです。ただ、イスラエルが神との忠信な関係を破り、敵を恐れた時に、まわりの敵対者のえじきとなったのです。それは士師記にしばしば見られることです。

4節は、イスラエルに与えられる領土の境界線を記しています。

ヨシ 1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。

それは広大で、南の砂漠地域から北部のレバノンまで広がっています。東はユーフラテス、西は地中海、ヘテ人の全土とは小アジアのかなりの部分も含んでいます。これはかつてアブラハムたちが持っていた土地よりも、ずっと広い土地でした。神はこれを神に従う者に与えると約束されたのです。夕ビデとソロモンの時代には、そのほとんどの領地から貢物を受けていました。これらの国境の広さは、神の民のための供給の豊かさを示しています。

これらの土地のすべては、神に従う、実質的にきよい人々によって占領されるべきであると、神は決めておられました(申命記11:22~25)。

申 11:22 もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行い、あなたがたの神、【主】を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、
11:23 【主】はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。
11:24 あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる。
11:25 だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、【主】は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。

神に全き信頼を持って従う時に、神の民は地上のあらゆる国の人々の間で、強力な霊的義の影響を与えていくことができたのです。これは今日のクリスチャンにも求められていることです。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)

このような霊的影響は人類にとって、どうしても必要とされているのです。これが地の塩の働きであり、世の光の働きなのです。神はイスラエルにこの使命を果たすように求めましたが、彼らは神との契約を破ったのです(士師記1:21~2:15)。彼らが不忠実だったことによって、救われて神の民となるはずだった異教の人々は暗闇の中に取り残されてしまったのです。その成功例としては、エリコのラハブとその家族が救われ、ナオミのあかしの生活によって、モアブ人のルツが神の家族の中に受け入れられたことが見られます。しかし大半の人々は、霊的暗闇の中に置き去りにされてしまったのです。そればかりでなく、イスラエル自身勝利者ではなく、再び奴隷となってしまうのです。それはバビロン捕囚まで長い期間、続くことになります。

神の民としてのイスラエルの歴史を学ぶと、結局、神への信頼と服従だけが、彼らに豊かな報いをもたらしたことを明らかに知ることができます。神に逆らい、神なしでは私たちは全く価値のない、愚かな敗北者、滅びる者となってしまうのです。この教訓は今日の私たちにも極めて重要なものではないでしょうか。

5節、主はヨシュアに幻を与えただけでなく、その幻を実現するために、なくてはならない力の保証をも与えられました。

ヨシ 1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。」

この約束は、ずっとモーセとともにいて、あらゆる苦難を乗り越えて行くモーセの秘訣をつぶさに見てきたヨシュアにとって、最も欲しかった保証であり、十分過ぎる保証でした。モーセが危険や苦難に出会った時、だれ一人、モーセに立ちはだかる者がいないようにされたのは、神ご自身であることを、ヨシュアはよく見て、知っていました。モーセがいかにしてエジプトのパロと立ち向かい、エジプト脱出を成功させたのか、不信仰な同族の民が不平不満を言い、金の子牛の偶像を作り、あるいはねたんでモーセに逆らった時も、主は決してモーセを見捨てなさらなかったことをヨシュアはしっかりと見ていたのです。

今までは、ヨシュアはモーセのあとに従っていればよかったのですが、今日からは、民の先頭に立って戦っていかなければなりません。ヨルダン川を渡ることも、その後に続く戦いの連続の日々も、ヨシュアの力ではとても出来ないことは明らかです。「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」との主のみことばは、ヨシュアがこれからどんな予期しない危険や出来事に直面しても、どんな任務にも耐えていくことが出来る保証となったのです。このことは、私たちが一時、失敗したり、敗北したりした時でさえ、主は私たちを見放さず、見捨てないこと(申命記31:8)を示しています。

申 31:8 【主】ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

主は、この事実をあらゆる時代の信仰者がしっかり自覚して欲しいと望んでおられるのです。

6節、自分の力ではどうにもならないことに対して、勇気を持って積極的に取り組んでいくことは狂気の沙汰のように思われますし、とても出来そうにありません。

ヨシ 1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

しかしこれが主のご命令であれば、苦しみは更にひどいものになります。なぜなら、退けば不信仰になってしまうからです。しかしそう簡単に楽観的になることはできません。

そこで主はヨシュアに、「強くあれ。雄々しくあれ。」と繰り返して激励しておられます(6,7,9,18節)。

ヨシ 1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

ヨシ 1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

ヨシ 1:18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」

ただの、無力な人間の励ましの言葉は何の力にもなりません。ただ、神ご自身が約束されたことを必ず成し遂げさせてくださることを、私たちが十分に納得し、確信できた時だけ、実際の力を持って前進することができるのです。それでも、人間ヨシュアの心の中には不安、疑い、恐れが去来し、彼を襲うでしょうが、それでも彼は信じ続けて信仰の戦いを最後まで戦い、勝利を獲得しなければならないのです。それは彼自身のためではなく、神のためと、神の民のためです。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけではなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(テモテ第ニ 4:7,8)

主はヨシュアに、失敗や敗北のための準備をさせませんでした。主には勝利しかなかったからです。ですから、ヨシュアもこの信仰の態度を持っていなければならなかったのです。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31)

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)

目先の困難を見ては、やる気を失っていたイスラエル人は幾世代にもわたって敗北し続けていました。私たちも、もし積極的な、そして忍耐強い、忠実な信仰を持っていなかったら、神を喜ばせることは不可能です。そして神が私たちに与えてくださった幻は実現することができず、神から与えられるすべての良い物は失われてしまうに違いありません。信仰は勝利をもたらすものなのです。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

「・・・私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ第一 5:4,5)

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

ここで、信仰で勝利するための要件についてまとめておきましょう。

①召命と目的がはっきりしていること。

②勇敢で忍耐強い信仰を持つこと。

③神の約束の保証-主の臨在と同行

「モーセとともにいたように」(5節)
「あなたの行く所どこにでも」(9節)

④みことば(命じられたこと)の実行

民を連れて行く
ヨルダン川を渡る
足の裏で踏む(所)

(主のみことばの扱い方について)

守る、行なう、離れない、右にも左にもそれない、口から離さない、
口ずさむ(昼も夜も、詩篇1:2)

詩 1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

(重要項目)

個人的神体験、神以外に頼るものが除かれること、みことばの実行、全き服従、勇気

7,8節の「律法」は、モーセが神の民のために神のみこころを書き記したモーセの五書を指していると思われます。

ヨシ 1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

ヘブル語のトーラー(律法)は、法令以上のことを意味します。訓育とか、手引書という意味も含まれています。

もしヨシュアが前途に恐れを感じて、みことばを忠実に守らなかったら、イスラエルはここから再び滅亡に向かう危険がありました。恐れや妥協は危険をもたらします。それ故、ヨシュアは強められて、勇敢であることを自ら保つ必要があったのです。

彼は神のみことばを忘れて、右に、左にと、神の召命と神のみこころの道から離れて、曲って行ってはならなかった。またみことばを口から離すと、考えが浅はかになり、自己の知恵と悟りに傾いていく危険がありました。「口ずさむ」とは、心を集中して深く思いめぐらすことで、みことばに反する思いや考えを取り除いていくことを示しています。

このようにヨシュアの強さと勇敢さは、神のみことばによって支えられ、それは神のご計画を成し遂げることに焦点が合わされていなければなりませんでした。神はご自身のご計画を完成させるために勤勉で忠実な人物ヨシュアを選び、そして用意周到な.備えをされたのです。これを守る限りにおいて、行く所どこにおいても繁栄し、その働きは栄え、成功をおさめることができると確信することができるのです。ここに成功の鍵があったのです。今日、私たちもみことばを忠実に守り行なうことによって、どんな困難な働きにあっても、必ず栄えることを確信することができるのです。

9節、「わたしはあなたに命じたではないか。」

ヨシ 1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

「事をおこなうエホバ事をなして之を成就るエホバ」(文語訳エレミヤ記33:2)

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

事を真先に始めてくださるのは神ご自身です。主はご自身で計画され、それを実行する志をしもべに与え、それを成し遂げてくださるのです。

それ故、これはヨシュアの気まぐれや利己的な野心によるものではありませんでした。ヨシュアのこれからの戦いは、想像以上に大変なものでした。しかし主はこれからヨシュアがなすべきすべての計画を先頭に立って実践してくださるお方でした。主はヨシュアを押し出しました。そしてヨシュアは信仰によって主のご命令に従ったのです。ただ彼が注意すべきことは、心を主に集中して、主から離れないことだけでした。

人に対する主のご計画は、ヨシュアにだけ示されているのではなく、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4)このご計画は今も変わっていません。ただ、このご計画の中を歩む者は、主から離れず、脇目をふらない忠実な信仰の服従が要求されています。主の道から右にも左にもそれてはならないのです。(7節)敵対者に対する恐怖や、不安、それにこの世との妥協、それに主に対する感謝を忘れる忘恩、自分の知恵に頼って行動する浅はかさなどは、主から離れさせる原因になりますから、注意深く見張って、取り除く必要があります。私たちは、主が「わたしはあなたに命じたではないか。」と命じておられるチャレンジを心に受け止める必要があるのではないでしょうか。私たちは自分の利己的な野心や好奇心や興味からするのではなくて、主ご自身を愛し、主ご自身が創始し、それを成し遂げて下さる働きにつきたいものです。

主は私たちひとり一人の人生の歩むぺき道を示されるだけでなく、その道を歩き抜き、走り通すために必要な心の状態をも教えておられます。

それは、一言で言うなら、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」です。これは、

①私たちが、自分に与えられた職務に全力を注ぐこと。

②主が勝利の鍵を持っておられるのですから、最高の期待を持って、主の働きをすべきこと。

多くの困難と迫害に直面するであろうが、ついに喜びに満たされること。

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:5,6)

「主に贖(あがな)われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。」(イザヤ書35:10)

③さらに、恐れることなく、勇敢に仕えることができる。主がいつもともにいてくださるからです。

「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっばな告白をしました。」(テモテ第一 6:12)

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(テモテ第二 4:7)

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

④最後に、主のしもべは不屈の信仰を持っています。迫害や困難によって激しく試みられ、苦しめられ、また様々な誘惑を受けますが、屈服することがありません。

「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:62)

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(コリント第二、4:8~10)

主イエス様が、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍」(ヘブル12:2)ばれたように、主のしもべもまた「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走」(ピリピ3:14)るのです。

さらに主は、従って来る者には、その仕事を成し遂げるのに必要な力を与えなさいます。

この力とは、「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」です。これはヨシュアのこれから毎日、しかも何年も続く激しい戦いの間、ずっと主が同行してくださるという保証です。これはモーセの時にも与えられていた事実です。

「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」(出エジプト記33:14)

エリコの城壁などの発掘を見る時、主がヨシュアとともにいて、戦ってくださったことが、まぎれもない事実であることを確認することができます。ヨシュアは主の御同行によって、召された召命の任務を果たすことができたのです。今日、主に仕える私たちも、自分の力や知恵、知識によっては、その召命の任務は果たし切れないこと、ただ主の内住と臨在の同行があってこそ、召命の任務を全うできることをはっきりと認識すべきです。雪解け水で洪水のようになっているヨルダン川を渡ることも、最初のエリコの城壁を倒すことも、それに続くカナン全土でくり広げられた戦いも、どれ一つとってもヨシュアとイスラエルの民の力で、どうにかなる問題ではありませんでした。これはまさに、いまだ主の救いを知らない大半の日本人を前にして福音宣教の課題を負っている日本のクリスチャンの姿ではないでしょうか。もはや現在、外国の宣教団体の援助を受けるのも大人気ないことではありませんか。しかし私たちには、この働きを成し遂げるのに十分な力があると言えるでしょうか。しかし主が同行して、ともに戦ってくださるなら、この不可能に見えている課題は氷解してしまうのです。主に出来ないことは一つもないからです。主に容易ならざる問題はないからです。私たちに必要なのは、ただ一つ、主がともにいて、戦ってくださることだけです。主がべタニヤのマルタに言ったみことばを思い出してください。

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(ルカ10:42)

そして、この神との交わりを毎日、更新継続していくことです。ヨシュアにとって、最初から、どうやってヨルダン川を渡って、カナンの国に入って行くか、最初の町エリコをどうやって攻撃するか、行き詰まってしまっています。最初の問題は、主が渡って行けと命じられたご命令に従って進んで行った時、祭司の足の裏がヨルダン川の水面につくと同時に、その問題は解決してしまったのです。ヨルダン川を渡るとすぐに、次の問題が待っていました。

それは、そびえ立つエリコの城壁です。城壁の上ではエリコの町の人々が嘲笑っていたでしょう。ヨシュアたちは素手で、いかにしてこのそびえ立つ城壁をくずすことが出来るのでしょうか。その方法はただ一つ、主ご自身が戦ってくださることでした。これはヨシュアが求めたのではなくて、主のほうから現われてくださったのです。私たちが主に忠実に従って行くなら、私たちが行き詰まってしまっても、主のほうから助けてくださることが分かります。主イエス様は、弟子たちだけでなく、私たちにも、

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

と約束してくださいました。さらに主は、

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

と約束してくださいました。このことが真実な事実であることは、使徒の働きの記事が、それを証明していますし、今日までの教会の歴史は、主のお約束が真実であったことを証明しています。それ故、私たちは各々の人生の患難に対して、勇気を持って立ち向かって勝利をすることができるのです。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)

あとがき

寒暖の差が激しく、体の調子をくずしてしまいやすい時季ですが、春は足早に近づいております。朝早く道を歩いていると、春の香り(花の香り)に包まれます。草木は確かに時を知っているのです。願わくは、私たちも今の時がどんな時かを知って、キリストの香りを周りの人々に放ちたいものです。
世の中は不況と言いつつ、土日ごとに車を乗り回して観光地に押しかけています。しかし心の中は実に深刻な状態になっている人が沢山いるのです。それは外側からは見えません。人は外側を美しく飾り立てれば飾り立てるほど、心の中はむなしくなり、飽きたらなくなり、刺激を求めて堕落していくのです。花の香りを拒む人がいないように、キリストの香りを拒む人もいません。すべての人に香りを。

(まなべあきら 1999.4.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、オランダの Karel van Mander the Elder (1548–1606) により描かれた「De doortocht door de Jordaan(ヨルダン川の渡過)」(Museum Boijmans Van Beuningen蔵、Wikimedia Commonsより)


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