プリント紹介 「ホセア書」 A4 63枚

プリント紹介 「ホセア書」 A4 63枚 (小預言書9枚と合わせて1400円(送料別))

目次

・記者
・目的
・特徴
・この書を理解するための助け
・主題
・使命
・審判と憐み
・メシヤ預言
・イスラエル民族の回復の約束
・メッセージ
・分解
・各章の詳解

以下、一部抜粋

ホセア書

本書は、預言者ホセア(hose’a)の名をとっています。
ギリシャ語では、ホセー(’Ωδήε)
ラテン語でも、ホセー(Ǒșēē)です。

記者

本書全体は、ホセア自身の作であり、彼は、神の民に対する神の愛を示す預言者です。

ホセアの活動は、イザヤの生存中(イザヤ、アモス、ミカと同時代)、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の世で(1:1)、約72年間、奉仕しています。

ホセアは、べエリの子であって、BC750年頃、イスラエルの十支族の王国で預言しました。

ホセア書には、「エフライム」が35回以上
「イスラエル」も同じくらい
「ユダヤ」は14回
「エルサレム」は全くありません。

当時、サマリヤでは、ヤロブアムニ世が王であり、彼はイスラエルの十部族の上に権力をふるっていた最も強力な王です。

それ故、 ホセア書は、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルより少なくとも150年も前の時代を扱っているのです。

彼は、晩年、ユダヤに退き、この書の後の部分は、ユダヤで書かれたものと信じられています。

彼は、長年、主のために働くことが許され、1章1節によって、約72年間奉仕したものと断定されます。もし彼が、20歳で預言を始めたとすれば、92歳から98歳頃死んだことになります。

彼は、きわめて悲惨な家庭的な試練(妻の不貞)に会いましたが、神はその悲しむべき苦しみを通して、イスラエル人に愛を語られたのです。これが、この書全体を通じての要点です。

① しかし、ハーバー、フォルツ、マルテイ、ノヴァクは、本書の各所を、ホセアのものでないと言っています。11章8~11節と14章1~8節(英訳では、14章2~9節)の祝福と救いの預言を、ホセアのものでないとしています。また、南王国に関する記事を含むものも、ホセアのものとしません。これらを、二次的挿入(あとから挿入されたもの)と考えています。

② アイスフェルトの修正
アイスフェルトは、「確かに真正とされている1~3章の中にすら、刑罰の後に救いが述べられている」ことを指摘しています。
しかし、5章8節~6章6節を引用して、「ユダに関する記述を、必ずしもホセアのものとしなければならないことはない」と主張しています。
彼は、4章3、9節、7章10節、14章9節(英訳では、10節)と12章の数節を、主要な註釈の言葉とみなしています。

③ ベンツェンは、根本的にアイスフェルトと同じ立場をとっています。

しかし、本書のあるものを、ホセアのものでないとする、十分な理由も、根拠もありま
せん。

ホセアは、北王国イスラエルを、明らかに王位簒奪(さんだつ)の国とみなしているので(8:4)、彼が南王国ユダについて述べることは、当然のことです。

この観点からすると、なぜ、彼が、彼の預言の年代を、南王国ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代と言ったかが、分かります(1:1)。

目的

ホセアの宣教活動のうちには、背教の北王国イスラエルの十二支族に対する、神の恵みが示されています。ホセアが神に遣わされたのは、滅亡の機が熟した、これらの支族に対してでした。神は、彼らをイスラエル、エフライム、サマリヤ、ヤコブと呼んでいます。
エフライムは、ダビデの家から分裂した十部族の中で、最大の部族であり、反逆と背信の指導者でした。北王国の最初の王は、ヤロブアムでした。彼は、エフライム族の出身で、政治的な理由のために、ダンとべテルに偶像の祭壇を築いて背教し、反逆の制度を作ったのです。

ホセアの大目的は、イスラエルを偶像から離し、彼らを再び、神に従順にし、罪深い反逆の民に神の愛を示すことでした。

彼は、イスラエルの国民を、貞節を守らない彼の妻を象徴として、霊的に姦淫を犯した国民と描写し、国民に悔い改めるように、不敬虔の道から帰ってくるように説いています。

イスラエルには、不遇の長い日々を過ごさなければならない、試練の時が必ず来ること。それから捕囚の後に、あわれみが再び示されています。

ホセアの召命は、多分、ヤロブアムニ世の治世の終わり頃であったでしょう。彼は、明らかに、ヤロブアムニ世の治世の終わりを知っていたし、イスラエルが堕落した時代や、その滅亡、その捕囚へと連れ去られたことを目撃していました。これらの預言の背景には、アッシリヤ帝国の脅威があったのです。

ホセア書の全体を流れている中心思想は、主を捨てた、頑ななイスラエルに対して、主の絶えることのない、また変わることのない愛とあわれみを啓示しています。ホセアは、この偉大な真理を、彼自身の妻の不貞の悲劇によって感じやすくなっていた心をもって、霊的姦淫を犯していたイスラエルに対する主の愛を、燃えて輝く言葉をもって語っています。

特徴

1、詩的で、比喩に富んでいます。

2、神と信者との関係を、夫と妻の夫婦の関係で表わしています。
ホセアの思想に最も多く現われている神の属性は、「主」です。彼が最も好んで語る神 のご性質の見方は、夫婦としての神と信者との関係です。
イスラエルは主の花嫁であり、教会は小羊の花嫁として描かれています。

3、悔い改めについての論文です。
この書には、堕落した民を、主の下に復帰させる神の手だてが書かれています。

4、ホセアは、当時のイスラエル民族の政治的、宗教的、道徳的に堕落した状況を写し出しています。その文体は、きわめて精細で、簡潔で、率直です。
その文体は、ホセア自身の気質と神意識から流れ出たものです。それは、彼の歎息とすすり泣きの中から出たものです。しかし、その文章は、きびきびした警告のことばで綴られており、しかも思想が次々と移り変わっています。彼のことばの奥には、彼の打ちのめされた心の姿が隠されています。この事は、そういう一つの長いホセアの独り言のように書かれています。

5、しかし、一つの問題から他の問題に、突然、話題が変わるため、この書は難解の書と思われています。

この書を理解するための助け

ホセアの家庭の悲劇は、二つの段階に分けて描かれています。

第一段階は、若い熱心な愛人ホセアが、若い女性ゴメルを愛し、求婚し、結婚するという段階です。彼のゴメルとの結婚に対する理想は、気高く、堅いものでした(2:14、1
9、20)。しかし、二、三年の結婚生活の後、ゴメルは夫ホセアに不忠実になり、世の中の男を求めて家を出て行ったのです。その間に、ホセアとゴメルの間には、三人の子供たちが生まれていました。

一番目の子供は、男の子で、イズレエル(「神が種を蒔いてくださる」という意味です)と名付けられました。

二番目の子供は、女の子で、ロ・ルハマ(「神は愛されない」という意味です。)と名付けられました。それは、神の厳しい審判が、イスラエルに近づきつつあることを示しています。

三番目の子供は、男の子で、ロ・アミ(「私の民ではない」という意味です。)と名付けられました。神が、イスラエルを拒否されることを預言しています。

こうしてゴメルが欲望にふけって、気まぐれな行動にさ迷っている間、ホセアは彼女が元の生活に帰ってくることを、忍耐強く待ち続けていました。しかし官能的快楽を求めて止まないゴメルの心には、ホセアのそのような気高い、そして純粋な愛は響かず、満足出来なかったのです。それで彼女は、夫を棄て、子供を棄て、家を棄てて、売春婦へと落ちていったのです。

第二段階は、ホセアが、三人の子供を育てつつも、気まぐれな自分の妻に対する愛とあわれみをもって、彼女を捜しに行くのですが、悲しくも彼は自分の妻を売春宿で見つけたのです。ゴメルは、自分を肉欲のために、姦淫の斡旋所に売り渡していたのです。しかし、ホセアは、銀十五シェケルと大麦一ホメルでゴメルを買い戻しました。ここには、キリストのあがないが予表されています。ホセアとゴメルは、一緒に家に帰り、ホセアは彼女に、自分との夫婦の愛と純潔の生活に立ち返ってくれることを願いつつ、「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私もそうしよう。」と言っています(3:3)。

この話には、これまで三つの解釈がなされてきました。

1、この話は、純粋で、偉大な真理を、生き生きと描いたたとえ話で、実際に起こったのでない、とするもの。

この解釈を受け入れると、私たちは、聖書の中で真理を表わしている話のうち、どれが実際にあったことで、どれが作り話のたとえなのか、全く分からなくなってしまいます。
ホセアという人物が実際にいて、預言者として働いたことは事実です。そして彼が、自分の家庭内で起こったこと、自分が経験したこととして、本書を書いています。彼は、人物名も、出来事も、実際にあった出来事として描いています。ホセアが事実として書いたことを、神が、私たちに、たとえ話として解釈するように望んでおられると考えることには、何の根拠もなく、大きな無理があり、聖書に対して重大な過ちを犯すことになります。

本書において、神が、これを文字通りの出来事としてではなく、たとえ話として解釈されることを望んでおられたことを示す根拠はどこにもありません。また、私たちが、そのまま事実として受け入れたくない話だったとしても、聖書の歴史を勝手にたとえ話にしてしまうことは許されていません。

2、ホセアは、貞潔な心の持ち主でしたが、彼は、ゴメルが不潔な女性であったことを知っていて、彼女と結婚したのだ、というものです。しかし、これには無理があります。

ホセアはすでに主の預言者として、イスラエルで働いていました。主は一般の神の民 にも純潔と結婚生活の忠実さを求められ、特に、主のしもべには「聖なるもの」であることを要求していましたから、ゴメルが遊女であることを知っていたなら、ホセアがゴメルと結婚することはなかったでしょう。ですから、この主張は、主のご要求と調和しないのです。

3、最後の解釈の仕方は、ホセアはすでに老人になっていて、すべてのことを知っておられる神様の導きを回顧しているという方法をとるものです。多くの聖書学者は、老人ホセアが回顧的に本書を書いた、と信じています。彼は、その苦難の人生の中で学んできたことの幾つかを、初めから知っていたかのようにこの話の中に織り込んでいます。彼は、純粋にゴメルを愛し、ゴメルも自分と同じように純粋に自分を愛してくれると信じて結婚したのです。しかし彼女の官能的欲望を求めて止まない姿は、やがて明らかになり、彼女の不貞と放蕩は、彼女が家を出て、売春宿にいたことによって、疑いのない事実として、ホセアを打ちのめしたのです。ゴメルが「姦淫の妻」と言われているのは、彼女が結婚する前から遊女であったことを意味しません。これは、彼女が結婚後に堕落していったことを意味しているように思われますし、また、ゴメルが、実際に売春が通常に行なわれていたイスラエル人の社会に属していたことと、霊的にも偶像と姦淫している状態のイスラエルの社会に属していたことを意味していると思われます。

私たちは、健全な解釈を選ばなければなりませが、本書は、ホセアの家庭に起こった悲劇に基づいて書かれていることは、間違いありません。ホセアは、内省的で、繊細な気質を持っていたために、余計に深く傷つき、苦しんだに違いありません。しかし彼はまた、神の愛とあわれみを持つ者で、裏切ったゴメルに対して、深いあわれみと寛大な愛とをもって彼女を再び迎え入れ、彼女の心が神のもとに立ち返ることを確信していたのです。

ホセアがゴメルに対して、心が打ち砕かれていたことは、主が心頑なで、偶像と霊的姦淫を行ない続けていた不義なるイスラエルのために、いかに悲しんでおられたかを、予表するものです。預言者ホセアにとっては、自分の妻ゴメルのことだけでなく、主に対するイスラエルの不真実さは、深い心の憂いとなっていたでしょうし、またそのような堕落したイスラエルに対する主のあわれみ深さとご真実さに心打たれていたのです。これらのことを弁えて、本書を読むなら、神のみこころを悟ることができるでしょう。

以上、最初の4ページ半を抜粋

写真は、フランスの画家James Tissot(1836 – 1902)が1888年に描いた「The Prophet Hosea(預言者ホセア)」