書籍紹介 「敬虔な生活の訓練」
まなべあきら著 A5判 310頁
本当に信仰に成長したいなら、この本を最低10回以上、読むべきです。私たちは学問の有無に関わらず、信仰の年限に関係なく、だれでも成長することができます。
ただ、どのようにして、自分の信仰を訓練していったらいいのか、知らないだけです。また指導してくれる指導者がいないだけです。
本書は、心から真剣に霊的成長を願っている人に、すべて十分とはいきませんが、明確に成長の入口を、はっきりと示しています。ぜひ、聖書とともに、この本を片手にして、成長の道を歩んでください。
目次
1、まことの幸福について
2、霊的な生活とは
3、神があなたに要求されるもの
4、何を第一にすべきか
5、第一のものを第一に
6、信仰の成長と生活の仕方
7、聖書と信仰書を読もう
8、信仰による判断力や洞察力
9、むなしい快楽
10、性の人格性
11、この世との戦い
12、神を喜ばせる生活
13、主のみこころに従う
14、尊いことに使われる器となりなさい
15、神のしもべとしての自覚
16、与えられているカでベストを尽くせ
17、お金の使い方
18、敬虔な人
19、祈りの生活をしよう
20、さらに祈りを深めよう
21、たましいの讃美
22、教会には勇士が必要です
23、自己訓練の必要性
24、健全な訓練と不健全な訓練
25、しつけによる訓練は必要か
26、ほんとうの教育
27、信仰生活の点検
28、訓練は自由をもたらす
29、友情や愛情にも訓練が必要です
30、平安を保つ訓練
31、口にくつわをつけよ
32、従うことの訓練
33、訓練は罪を潔めない
34、深められた人にも訓練は必要か
35、聖潔の上に訓練の実は結ぶ
36、訓練において大切なこと
37、キリストの弟子になるために
一部抜粋
はじめに
私たちは、地の塩です。ですから、塩けのよくきいた本が一冊くらいあってもいいのではないかと思って、この本を書くことにしました。ですから、この本は初信者の方には、塩けがきき過ぎているように感じるかもしれません。なかには、怒り出す人も出てくるのではないかと思いつつも、率直に書きましたので、主の故に、ご寛容に最後までお読みいただければ幸いです。そしてご自分に適用できると思われるところがありましたら、ぜひそれを活用して、敬虔の訓練に役立てていただきたいと思います。
主イエスは、
「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ五・一三)と、言っておられます。このことは、やがてクリスチャンと教会が塩けを失うことを、主は予知して、警告を発しておられるのだと思います。そして現代は、このイエス様の危慎が的中している状態ではないでしょうか。こういう時代に、塩けのきいた本も必要ではないでしょうか。この本は、多くの人々に好まれる本ではないと思いますが、しかし心から塩けを求めている方々には、きっと役に立つと心から信じております。
本書は数年にわたって書き綴ったものですので、内容が重複していることもありますが、削除せず、そのまま残しました。また各項目は、互いに関係づけて書かれたものではありませんので、ご自分の関心のある項目を選んで読むことができます。
1992年3月14日 著者 まなべあきら
以下、14章の抜粋
一四、尊いことに使われる器となりなさい
あなたは、教会の集会に出席したり、祈ったり、聖書を読んだり、讃美の奉仕をしたり、トラクトを配布したりするのと同じような心で、働き、洗濯をしたり、食事の準備や後片付けをしたり、掃除をしたりしているでしょうか。それらの仕事が直接、神とは関係がないと思うところから、あなたの信仰はくずれていくのです。
私たちの信仰は、教会の集会や聖書から、また祈りにおいて教えられるでしょう。しかしそれを実際に活用する場は、あなたの職場や台所、仕事場なのです。あなたがそれらの仕事を、聖書から学んで身に付けた信仰をもって、神に仕える最高の動機をもって実行する時、あなたは自分自身をきよめて、尊いことに使われる器となるのです(テモテ一一、二・二一)。神のために有益な人とは、どのような人でしょうか。それは教会の働きのために多額の献金をする人でもなく、歌が上手だったり、楽器が弾けたりするだけの人ではありません。あなたの内に与えられた信仰を、あなたの実際の生活活動の中で活用している人です。それは地位や学問があろうと、なかろうと関係がありません。主を喜ばせるために、よいわざに全力をつくして信仰の働きをする人です。
この世の人々がクリスチャンを見る時、教会で熱心に活動していても、それほど驚きはしません。しかし、だれもが飽き飽きする日常の生活の中で、生き生きと輝いて、讃美にあふれて働いている姿を見る時、人々は驚くのです。「あの人には、私にない何かがある。」と不思議に思うようになるのです。これがあかしになります。ですから、クリスチャンはこの世の人と同じ程度の満足感を持って生きているのでは不十分です。それでは、だれも驚きません。あなたは、いつでも、どんな時でも、信仰の働きをして、いつでも、どこでも喜び輝いているべきです。神はあなたにそのような恵みを与えてくださっているからです。一週間のうち、一日でもむなしく、パッとしない不満足に思える日があってはなりません。主に全く信頼した生活をしているなら、一年中、毎日が満たされた日になります。しかし、あなたがこの世の人と同じ満足を求め始めるなら、たちまちその日は、むなしく、パッとしない、不満足な日になってしまいます。あなたの心が主に向かず、この世に向けられているからです。あなたは卑しい器になってしまうのです。
私たちの毎日の生活は、出来事としては相変わらずのことが続くでしょう。この世の人々は、それをウンザリしたものとしてしまっています。しかしあなたは主への全き信仰と謙遜と、忠実な服従によって、輝くものにすることができるのです。この世の人がウンザリしている仕事を通して主の栄光を現わすことができます。その中にも喜びを見い出すことができます。その働きを通して十分な報いを受けることができます。
あなたの信仰がただの知識だけの抽象的なものでとどまっているなら、あなたの毎日の生活はウンザリして、むなしい、パッとしないものになります。あなたの信仰は必ず、具体的な生活の働きの中で活用されなければなりません。その時だけ、あなたの心は輝き出すのです。理屈ほ輝きません。信仰の理論は実際生活を通して歩き出す時に、輝き出すのです。
私はこれまで、自分がどんなに困難な状況に置かれているかという話を何度も聞きました。自分が奉仕している教会がどんなに伝道の困難な地であるかという話も聞きました。しかし、そのような考えに陥っている間は、決して尊いことに用いられる器になることはできません。神は私たちに必ず良い賜物をお与えくださっています。あなたはそれを小さな、わずかなもののように思っているかもしれませんが、神はそれをあなた自身が正しく管理し、有効に活用することを願っておられます。私たちは自分が置かれている困難な状況を理由にしてつぶやき始め、失望、落胆していくなら、すでに敗北しています。しかし主を賛美し、主が与えられた賜物を信仰によって全力を尽くして活用するなら、必ず主による勝利を見ることができます。
あなたが富んでいようと、貧しかろうと、才能があろうと、なかろうと、神のご命令はすべての人に一つです。それは主を信じ、信仰の光によって進み、与えられた賜物を全力を尽くして活用することです。全力を尽くさず、愚痴をこぼしている人に勝利がないことは、だれでも知っていることです。しかしこのような人が、意外に多いのです。
私はクリスチャンや牧師の中に、神、聖書、信仰などを軽く考えている人がいることを知っています。彼らは非常に表面的な生活を営んでおり、信仰の意味を全く知らないか、はなはだしい誤解をしているのです。私がお会いしてきたクリスチャンと言っている人の半数以上の人が、救いがはっきりしていませんでした。このような状態であるなら、何年、教会に行っていても、主に用いられる器になることはできません。このような人々は、イエス・キリストよりも、聖書よりも、信仰よりも、礼拝よりも、自分の趣味や服装やぜいたくな食事のほうに関心があるのです。これは弱点ではありません。自分中心から出る不信仰なのです。主は私たちに、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」神である主を愛することを求めておられるのです(ルカ10:27)。
以上 14章の抜粋