音声:使徒の働き(025)  美門絶望 3:1~3

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使徒の働き
3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。【新改訳改訂第3版】

(たけさんの一口まとめ)

美しい門の下で絶望している男。普通は、美しい門の下には美しい花などを創造しますが、これは、大きなコントラストです。

絶望状態とは、生きる望みも気力もなく魂を失った状態です。このような死んだ魂を生き返らせることができるでしょうか?これは、ペテロにとって、聖霊のバプテスマが本物だったかどうか試す試金石でした。死んでいる魂に、永遠の命、復活の命を与えることができなければ、キリストの福音と言うことはできません。本物でなければ、全世界に広がる力はありません。牧師であればできると言うものではありません。

本当に聖霊で満たされ、神の命を持っているなら、たとえ子供であっても、死んでいる魂を生き返らせることができます。クリスチャンの仕事は、死人を生き返らせる仕事です。初代のクリスチャンの殆んどは、知識による説明はできませんでしたが、誰かをキリストの救いに導く経験を持っていました。自分で聞いて恵まれるだけでなく、他の人に命を分け与えることが大切です。

その人の霊的体験が本物かどうかを確かめるには、教会の外での普段の生活を見れば分かります。本物なら命を与えることができますが、この世と同じ生活なら本物ではありません。

では、他の人に命を分け与える機会はいつ来るのでしょうか?
それは、この絶望状態の男のように、全く可能性がないと判断される場面に出会う時です。松葉づえで歩けるような軽い状態ではありません。その時、神様は、じゃあ、やってごらんとおっしゃいます。それは、神の奇跡が起こり、人間が自分の手柄にして誇らないためです。イエス様のために働くのは、教会の中だけではありません。

この絶望状態の男の姿、これは、実は、私たち自身の姿でもあります。私たちも、キリストに救われる前は、このような哀れな姿でした。神を信じることは、わずかの施しを貰うくらいのものでした。キリストに救われた後は、愛のない、憐れみのない信者であってはいけません。私たちの宗教観は、親切や善良や道徳的であるといった程度のものではいけません。生けるキリストに出会った私たちは、人々の魂にキリストの命を与えなくてはいけません。御霊は、できないことをさせてくださいます。

上の写真は、イタリアの画家Raphael (1483–1520) が描いた「The Healing of the Lame Man(足なえの男の癒し)」(LondonのVictoria and Albert Museum蔵、Wikimedia Commonsより)

「美しの門」というのは、エルサレム神殿の「婦人の庭」から「イスラエルの庭」に入るための「ニカノルの門」ではないかと言われています。下の写真は、イスラエル博物館にある50分の1模型におけるニカノルの門の写真です。