週報No.2185 涙の預言エレミヤ書(92)「エレミヤの選択」エレミヤ書40:1~6

2019年6月9日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書40章1~6節
40:1 侍従長ネブザルアダンがラマからエレミヤを釈放して後に、【主】からエレミヤにあったみことば。──彼がエレミヤを連れ出したとき、エレミヤは、バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の中で、鎖につながれていた。──
40:2 侍従長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、【主】は、この所にこのわざわいを下すと語られたが、
40:3 【主】はこれを下し、語られたとおりに行われた。あなたがたが【主】に罪を犯して、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。
40:4 そこで今、見よ、私はきょう、あなたの手にある鎖を解いてあなたを釈放する。もし、私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私はあなたに目をかけよう。しかし、もし、私といっしょにバビロンへ行くのが気に入らないならやめなさい。見よ。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行くのによいと思う、気に入った所へ行きなさい。」
40:5 しかし彼がまだ帰ろうとしないので、「では、バビロンの王がユダの町々をゆだねたシャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民の中に住みなさい。でなければ、あなたが行きたいと思う所へ、どこへでも行きなさい。」こうして侍従長は、食糧と贈り物を与えて、彼を去らせた。
40:6 そこでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行って、彼とともに、国に残された民の中に住んだ。
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

「侍従長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。『あなたの神、主は、この所にこのわざわいを下すと語られたが、』」(エレミヤ書40:2)」ネブザルアダンは、バビロンの占領下の指令官でしたが、彼は敵の指令官でありながら、このエルサレムとユダの滅亡は主なる神が下された刑罰であることを悟っていたのです。これに対して神の民であるはずのエルサレムとユダの民が、神のさばきを悟らず、神の預言を拒み続けたことは、なんとも情けないことです。

彼は39:11~12で、ネブカデネザルからエレミヤを釈放して、手厚く扱うように命じられていました。ネブザルアダンはそのエレミヤを、エルサレムの北8kmの所にあった、ラマの捕囚民収容所(これからバビロンに連れていかれる捕囚民の収容所)で見つけたのです。それまでは、エレミヤは一般の捕囚民として扱われていました。神はご自分のしもべを見落とすことはありません。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を表わしてくださるのです。」(歴代誌第二、16:9)

ネブカデネザルとその将校たちは、エルサレムの包囲中も、エルサレムとユダの実情を十分に知っていました。エレミヤが無事でいることも知っていて、万全の策を取るように命じていました。エルサレムの一部がバビロンの手に落ちると、彼らは直ぐにエレミヤを監視の庭から連れ出しました。彼は鎖に繋がれたまま、他の捕虜とともに引かれて行っていたのです。

「主はこれを下し、語られたとおりに行われた。あなたがたが主に罪を犯して、この御声に聞き従わなかったためで、このことがあなたがたに下ったのだ。」(エレミヤ書40:3)

ネブザルアダンが語った今回のエルサレムとユダの崩壊についての解釈は、神のみことばと一致しています。このことは、この戦いの間中、バビロン軍は自分たちが、神が遣わされた戦士である自覚を持って、勝利を確信して戦っていたことを表わしています。この信仰の態度は、ユダの軍が取るべき態度だったのです。しかし、ユダヤ人に信仰がなかったので、態度が逆になってしまっています。エレミヤはネブザルアダンの言うことがよく分かったはずです。

「そこで今、見よ、私はきょう、あなたの手にある鎖を解いてあなたを釈放する。もし、私とともにバビロンに行くのがよいと思うなら、行きなさい。私はあなたに目をかけよう。しかし、もし、私といっしょにバビロンに行くのが気に入らないならやめなさい。見よ。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行くのに良いと思う、気に入った所へ行きなさい。」(エレミヤ書40:4)

ネブカデネザルの特命は、捕囚民が集められていたラマで行なわれました。そこにエレミヤも捕囚民の一人としていたのです。侍従長は、ネブカデネザルの命令を受けて、エレミヤを鎖から解放した後、彼の生涯をどう過ごすのか、選択を求めました。エレミヤは、自分に残された生涯を、繁栄したバビロンの保護を受けて安楽に暮らすか、それともユダの地に残ってユダの総督に任命されたばかりのゲダルヤを助けて、貧しい遺残者とともにユダの再建の苦難を共にするのか、自分で選ぶように勧められています。

「しかし彼がまだ帰ろうとしないので、『では、バビロンの王がユダの町々をゆだねたシャファンの子アヒカムの子ゲダルヤの所へ帰り、彼とともに民の中に住みなさい。でなければ、あなたが行きたいと思う所へ、どこへでも行きなさい。』こうして侍従長は、食料と贈り物を与えて、彼を去らせた。」(エレミヤ書40:5)

エレミヤは、崩壊した国がどうなっているのか分からず、返事にとまどっています。そこでエレミヤの気持ちを察したネブザルアダンは、ユダの再建をまかされて総督に任命されたゲダルヤの所へ行くことを勧めました。

エレミヤは、バビロンの保護の下の安楽な生活を求めず、貧しいユダの民と苦しむほうを選んだのです。

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(へプル11:24~26)

<今週の活用聖句>

コリント人への手紙第二、5章7節
「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」

<集会案内>

◇6月12日(水)聖別会 午前10時半
「福音的基盤の上に(9)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421