書籍紹介 「みことばの黙想(2)出エジプト記1~20章」
まなべあきら著 B6判 202頁
「みことばの黙想」の出エジプト篇です。出エジプト記21~40章は、「力のことばプリント」の「出エジプト記21~40章」に引き継いでいます。
本が手垢で真っ黒になるまで読んでいる方もおられます。きっと、この本を通して、あなたの心にも力が注ぎ込まれるでしょう。
は じ め に
「みことばの黙想(1) 創世記」を刊行してからもう九年の月日が経ってしまいました。その間、何度 「出エジプト記」を書こうとしたかわかりません。しかし多忙に多忙を極めて、仲々着手することができませんでした。そこで、自分をある程者拘束して書く必要があると思い、一九九三年四月一八日から週報に連載することに致しました。それを始めてみますと、分量が多くなってしまいましたので、ひとまず出エジプト記一~二〇章を一冊の本にして刊行することに致しました。 読者の皆様には、長い間、お待たせしてしまいましたが、創世記の「みことばの黙想」と同様にご愛読いただければ幸いです。内容は十分に濃厚なものになっています。この一冊の書があなたの心と生涯に大いなる恵みをもたらす器となってくれることを切に祈りつつ、この一冊を刊行いたします。
一九九五年一月五日
著者 まなべ あきら
一章六、八節
「そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。・・・・・さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。」
世代交代は人間の社会で常に起こり続けてきたことであり、また今も起きていることであり、これは避けられないことです。
これは、神の民の側でも神を知らない異教の民の側でも起きています。このことは、危険性と可能性の二つの面を含んでいます。
危険性とは、神の民の世代交代において、生きた信仰が正しく継承されなければ、神の民が世俗化して滅んでしまう危険性です。
可能性とは、いかに神に敵対している異教の民でも世代交代によってキリストの福音を伝える門戸が開かれ、受け入れていく可能性があることです。この二つのことは、現実に起きています。
ローマ帝国の迫害によって、厳しい信仰の戦いを強いられていた世代のクリスチャンが交代し、ローマ教会の出現によって教会は瞬く間に堕落し、そして異教社会ではイスラムが急速に台頭し、あっという間に世界を席巻してしまいました。
また七十年続いたソ連の共産主義政府は世代交代によって、その絶対主権主義を失い、今日、教会は回復しつつあります。この波紋は、共産主義だった諸国に及んでいます。
ローマ・カトリックは、南アメリカ地域は自分たちのものだという意識を持っているようですが、南アメリカの人々の世代交代によって、人々はカトリックの儀式主義に満足出来なくなり、キリストの福音を求める人々が急増し、それは国家的影響を与えるまでになっています。
南アフリカ地域でも世代交代における大変動が起きていることは、今日、世界のだれもが周知のとおりですそこには沢山の悲劇も起きていますが、だれもこの世代交代の流れを止めることはできません。
問題は、その原動力が何かということです異教主義世俗主義権力主義が、神の民の中に入って来るなら神の民は堕落し、信仰は地上から失われてしまい、異教の民の中にキリストの福音が浸透していくと、世界の福音化が始まるのですそれでは異教の民の中にキリストの福音を浸透させていくにはどうしたらいいでしょう。その道は一つしかありません。現在の教会とクリスチャン一人一人がキリストの福音に満たされ、キリストの福音によって生きることによってですこれ以外に、異教の民へのキリストの福音の浸透はあり得ません。現在の教会内への福音の浸透こそ急がれなけれはなりません。
世代交代は必ず起きてきますヨセフも死に、モーセも死に、サムエルもダビデも死に、弟子たちもパウロもテモテたちも死にました。しかし人は変わっても永遠に変わらずに働いておられる神を見ることが出来ます私たちにとって大事なことは、優れた指導者をいつまでもこの地上に引き止めておく事ではなく、いかにもして生きた信仰を次代に継承していくこと、優れたリーダーとなる者を育てていくことです。
イスラエルは四百年の間に、エジプトで非常に多くの国民に成長していました。しかし、人数は多くなったものの、ヨセフに続く優れた霊的指導者が育っていなかったのですこれはモーセの誕生を待つことになるのですが、早くも新しく起きたエジプトの王はそのことに目をつけています。彼はヨセフのことを知らない新しい王ですおそらく前の王朝は滅び、全く別の王朝が権力を握ったものと思われますそれ故、ヨセフがエジプトで行った大きな功績の故に、イスラエルが特別な保護を受けるという特権が失われてしまいました。
受けられる好意は一世代だけのものです親の代から子の代に変わるだけで、好意が敵意に変わることだってありますですから私たちは人の好意に甘んじていないで、いつも自ら信仰のあかしを立てて、キリストの福音の働きをしていなけれはなりません。最も信頼され、祝福を受け、特別な保護を受けているその社会から虐待や迫害を受けることがあり得るのです。
九、一〇節の「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多くまた強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」は、いつの時代にもこの世の人間社会の中で働いている原理ですすなわち、他人が自分よりすぐれており、強く、多くなることを面白く思わないことです有効な労働力にはしておきたい。しかし、自分の上に立つことは、決して許さない。そして過重な労働を課して苦しめるのですこの状態は、今日、過労死という言葉が生まれるほどになっている私たちの社会をそのまま描き出していますしかし、。ハウロは、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」 (ビリピ二・三、四)と、キリストのみこころを教えています。
私たちの生きているこの世代も交代します。いや、現在既に、交代しつあります。私たちは、次代に何を残し、何を継承しっつあるでしょうか。私たちは今、何をすべきなのでしょうか。
以上、一部抜粋