聖書の探求(062b) 出エジプト記27章 祭壇と、幕屋の庭と、ともしび油

27章には三つのものが記されています。
すなわち、祭壇と、幕屋の庭と、ともしび油です。

Ⅰ.1~8節、祭壇

出 27:1 祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの四角形でなければならない。高さは三キュビトとする。
27:2 その四隅の上に角を作る。その角は祭壇の一部でなければならない。青銅をその祭壇にかぶせる。
27:3 灰を取るつぼ、十能、鉢、肉刺し、火皿を作る。祭壇の用具はみな、青銅で作らなければならない。
27:4 祭壇のために、青銅の網細工の格子を作り、その網の上の四隅に、青銅の環を四個作る。
27:5 その網を下方、祭壇の出張りの下に取りつけ、これを祭壇の高さの半ばに達するようにする。
27:6 祭壇のために、棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。
27:7 それらの棒は環に通されなければならない。祭壇がかつがれるとき、棒は祭壇の両側にある。
27:8 祭壇は中をからにして板で作らなければならない。山であなたに示されたところにしたがって、彼らはこれを作らなければならない。

祭壇はアカシヤ材で作られ、青銅がかぶせてあり、縦、横は同じ五キュビトの正方形で、高さは三キュビトでした。

祭壇の中は空洞になっていて、底もおおいはなく、おそらく、この空洞の部分に土を入れ、その上で全焼のいけにえが焼かれたものと思われます。それ故、この祭壇はイエス・キリストの十字架を示すとともに、私たちクリスチャンの全き献身を表わすものです。一旦、この祭壇の上にささげたいけにえは決して祭壇からおろさないように、神にささげた私たち自身の身も心も、二度と祭壇からおろすべきではありません。
パウロは、「私はキリストとともに十字架につけられました。」(ガラテヤ2:20)と告白しましたが、彼はその生涯をキリストの十字架につけたままにしておいたのです。それはちょうど、主イエスが一度十字架につかれたら、いくら周囲の者が「十字架から降りて来い。」と言っても降りられなかったのと同じです。
しかし私たちは、しばしば主にささげたものを再び自分の手に取り戻していないでしょうか。自己中心の自我や心配事を取り戻して悩んでいる姿をよく見かけます。一度、主にささげたもの、明け渡したもの、ゆだねたものは、決して再び取り戻してはいけないのです。これが全き献身の生涯です。ささげ切ってください。そうすれば、必ず神の火が下って潔められます。

祭壇の四隅の上には角(つの)が作られています(2節)。この角は「救い」の象徴として聖書に記されています(詩篇18:2、ルカ1:69)。

詩 18:2 【主】はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

ルカ 1:69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。

角は悪しき身の力や権力を表わす時に用いられるときもありますが、この祭壇の角は救いを表わします。ダビデの息子アドニヤはソロモンを恐れて、この祭壇の角をつかんで助かろうとしました(列王記第一1:50~53)。

Ⅰ列王 1:50 アドニヤもソロモンを恐れて立ち上がり、行って、祭壇の角をつかんだ。

彼は角の意味を知っていたから、そうしたのでしょうが、自分の罪をそのままにしておいて角をつかもうとしても、それは救いにはなりません。まず罪の悔い改めが必要です。その後に私たちはイエス・キリストの救いを信じてつかむことができるのです。

Ⅱ.9~19節、幕屋の庭

出 27:9 幕屋の庭を造る。南側に面して、庭の掛け幕を、その側のための長さ百キュビトの撚り糸で織った亜麻布を、張る。
27:10 柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。
27:11 同じように、北に面して、その長さで、長さ百キュビトの掛け幕とする。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。
27:12 また、西に面して庭の幅には五十キュビトの掛け幕、その柱十本、その台座十個とする。
27:13 前面の東に面する庭の幅も五十キュビト。
27:14 片側に寄せて、十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。
27:15 他の片側にも十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。
27:16 庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。
27:17 庭の周囲の柱はみな、銀の帯輪を巻きつけ、その鉤は銀、台座は青銅とする。
27:18 この庭は、長さ百キュビト、幅は五十キュビトに五十キュビト、高さ五キュビト、幕は撚り糸で織った亜麻布、その台座は青銅とする。
27:19 幕屋の奉仕に用いるすべての用具、すべての釘、庭のすべての釘は青銅とする。

これは幕屋の中庭のことです。ここには、イスラエル人で儀礼的に汚れていない人なら、だれでも入ってきて、神に礼拝をささげることができました。

上の絵は、「バイブル・ワールド、地図でめぐる聖書」(ニック・ペイジ著、いのちのことば社刊)より、幕屋の想像図。

庭には、祭壇と水盤が置かれていて、周囲は幕で張りめぐらされていました。ここは、祭司たちが聖所や至聖所に入って奉仕するためにいけにえをささげ、身を洗い清めて、準備をする所でした。

私たちは今日、中庭の礼拝ではなく、至聖所の礼拝が許されているにもかかわらず、今なお、多くのクリスチャンが、中庭で礼拝するように、神の臨在から遠く離れた所で、ただ儀礼的に礼拝をささげています。これでは決して神はご満足されません。私たちは霊とまことをもって神を礼拝し(ヨハネ4:24)、全き信仰をもって、ずっと神の臨在に近づいて神を礼拝すべきです。

ヨハ 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

知識だけの礼拝、表面的な儀式だけの礼拝は、旧約の中庭の礼拝で、今日のクリスチャンの礼拝は至聖所の礼拝、すなわち神の臨在の中での霊とまことをもっての礼拝でなければなりません。

Ⅲ.20~21節、ともしび油

出 27:20 あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。
27:21 アロンとその子らは、あかしの箱の前の垂れ幕の外側にある会見の天幕で夕方から朝まで、【主】の前にそのともしびを整えなければならない。これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである。

このともしび油は上質の純粋なオリーブ油が使われました。そしてこれは「あかしの箱の前の垂れ幕の外」で夕方から朝まで一晩中、絶やさずともさなければなりませんでした。これは決して欠かすことのできない永遠のおきてです。


このオリーブ油とは、今日、クリスチャンにとっては聖霊を意味しています。聖霊を欠かしたなら、私たちはたちまち、心が暗くなり、神を見失い、信仰の火(意欲)を失います。
そのためにパウロは、
「神の聖霊を悲しませてはいけません。‥‥‥ 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(エペソ4:30,31)
「御霊を消してはなりません。」(テサロニケ第一5:19)
と警告しました。

怒りや憎しみなどの悪感情を心に抱くことによって、聖霊の火は消えてしまいます。
また、聖霊の示しが与えられているのに、それを無視して自分の欲を押し通したり、霊的に怠慢になったりすると聖霊はあなたから去ってしまわれます。
このことに特に、注意し、いつでも聖霊に満たされた状態を保ってください。

(まなべあきら 1989.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型(2013年の訪問時に撮影)。


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