聖書の探求(116) 民数記 22章8~21節 バラムの心のウラにある肉的な下心
8~14節、あなたといっしょにいるこの者は何者か。
7節で、モアブとミデヤンの長老たちが多額の謝礼金を持って、バラムの所に来たのは明白です。
民 22:7 占いに通じているモアブの長老たちとミデヤンの長老たちとは、バラムのところに行き、彼にバラクのことづけを告げた。
預言者バラムはすぐにその謝礼金を受け取って、神の民をのろうには良心が咎(とが)めたのでしょう。しかしバラムがその場ですぐにキッパリと断らなかったところに、彼の肉的野心が見えかくれしています。このように、すぐに断るべきことを、すぐに断らずに先に延ばすことによって、しばしば大きなわざわいを引き起こしています。
8節、その夜、バラムは使いの者たちを泊まらせていますが、本来なら、すぐに追い帰すべきではなかったでしょうか。
民 22:8 するとバラムは彼らに言った。「今夜はここに泊まりなさい。【主】が私に告げられるとおりのことをあなたがたに答えましょう。」そこでモアブのつかさたちはバラムのもとにとどまった。
バラムは、「主が私に告げられたとおりのことをあなたがたに答えましょう。」と約束しました。これはもっともらしい返事ですが、謝礼金に対する下心があったことが伺えます。バラクはバラムの下心を読み取ったので、バラムが神の民をのろうことを断っても、何度も使いを派遣したのです。私たちの心の内に、この世に対する下心や未練が少しでもあるなら、サタンはしつこく何度でも私たちを叩き落とそうと誘惑を練り返すのです。これは非常に危険な状態です。
9節、その夜、神はバラムに現われて、こう言われました。
民 22:9 神はバラムのところに来て言われた。「あなたといっしょにいるこの者たちは何者か。」
「あなたといっしょにいるこの者たちは何者か。」これは、主がバラムに質問したのではありません。これは、「いっしょにいてはならない者たちと一緒にいるのではないか。」という警告です。これに対して、バラムの霊性は鈍かったようで、神の警告であることが分からず、10~11節で、ていねいに神に説明しています。
民 22:10 バラムは神に申し上げた。「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこしました。
22:11 『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。いま来て、私のためにこの民をのろってくれ。そうしたら、たぶん私は彼らと戦って、追い出すことができよう。』」
11節のバラムのイスラエルの民に対する説明をみると、「エジプトから出て来た」と言って、モアブの王バラクが言ったのと同じ言葉(5節)を、繰り返しているだけです。
民 22:5 そこで彼は、同族の国にあるユーフラテス河畔のペトルにいるベオルの子バラムを招こうとして使者たちを遣わして、言わせた。「今ここに、一つの民がエジプトから出て来ている。今や、彼らは地の面をおおって、私のすぐそばにとどまっている。
恐らく、バラムは神の預言者の一人でありながら、イスラエルを「エジプトから出て来た民」としてだけ知っていて、「神ご自身がエジプトから導き出された民」であることを知らなかったものと思われます。モーセはイスラエルの民を主に執り成す時には、よく「あなたの民」と言って、神ご自身がエジプトから導き出された民であることを強調しています。しかしこのことは、神の預言者と言われている者にとって、ただ知らなかったではすまされない問題です。
これは、牧師、伝道者、教師と言われている者が、神の恵みのみわざを知らず、クリスチャンとはどういう民であるのかを知らないまま、奉仕しているのと同じです。しかし現実には、このようなことがしばしば教会の中で行われています。聖書の真理の奥義を知らない者が聖書を教え、救われていない者に洗礼を授け、主の恵みを経験していない者が、他人の指導や世話をしていることなどです。こうして次々と教会の中に争いや互いにのろい合うことが起きて、主の御名を汚しているのです。
バラムが多少なりとも、本当に神を知っている人であったなら、自分の野心のために神の民をのろうことに組みするというようなことは、考えられないことです。それ故、今日、教会の中からクリスチャンが互いにのろい合うということは、一掃しなければなりません。これが出来なければ、どんな大集会を開いても、神のみわざを拝することは出来ません。
12節、神のご命令は明らかでした。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。」その理由は、「その民は祝福されているからだ。」
民 22:12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」
神から祝福を受けているなら、周囲の人々からのろわれようと、小さく貧しかろうと、弱かろうと、少しも気を落とすことはありません。必ず、栄えていきます。迷うことは少しもありません。なぜ、教会とクリスチャンは自分の弱さや、群れの小ささの故に失望しているのでしょうか。主の恵みと祝福されていることを、信仰の目を上げて見つめてください。勝利はあなたの手に与えられているのです。
バラムの取るべき行動はこの主のみことばによって、はっきりと決まったはずでした。しかし、彼は煮え切らない態度を取り続けています。それは、彼の心が神よりも、バラクの謝礼金に動かされていたからです。
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)
私たちは、神の霊的祝福がはっきり示されたら、この世的な外側のことで迷ってはなりません。神の道をまっすぐに歩んでいくべきです。
13節をみると、表面的にはバラムはキッパリとモアブの王の申し出を断ったかに見えますが、内心はそうではありませんでした。
民 22:13 朝になると、バラムは起きてバラクのつかさたちに言った。「あなたがたの国に帰りなさい。【主】は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」
22:14 モアブのつかさたちは立ってバラクのところに帰り、そして言った。「バラムは私たちといっしょに来ようとはしませんでした。」
彼の内心にあったものが、神の道から離れて、最も愚かな者として滅んでいった原因であり、神の民にわざわいをもたらす原因となっていったのです。この危険はいつでも、私たちにもあります。この世の欲得にまどわされず、神の祝福だけを求めていくなら、必ず本物の豊かな祝福に到達するのです。
15~21節、魅力的な贈り物の危険
異教の王バラクは一度の拒否で、ひっこんでしまうような人物ではありません。私たちが一、二度誘惑を退けても、サタンはそれですぐに諦めるような者ではありません。彼は四度、五度と、更に魅力的な贈り物を付け加えて、誘惑を仕掛けてきます。主イエス・キリストを誘惑した時も、三度も手をかえ、品をかえ、誘惑を繰り返したことを覚えておかなければなりません。サタンの誘惑に対して勝つ方法は、ただ一つしかありません。神のみことばの上に立って「ノー」と言い続ける同じ態度を堅く取り続けることです。少しでも心にぐらつくものがあれば、サタンはすぐにそれを見抜いて、獲物を見逃さないのです。
バラクは預言者バラムの心が揺れ動いているのを知っていました。なぜ、分かったのでしょうか。それは、主に尋ねてみなくても分かり切っていることを、「主に尋ねてみます」と答えたからです。エバも蛇の誘惑を受けた時、即刻に拒絶せず、ああだ、こうだと、蛇の誘いに答え、分かり切っている神のみことばに対して、反発心を抱いたことを知った時、サタンはエバが落ちることを確信したのです。
これは私たちがしばしば取っている態度ではないでしょうか。既に、はっきりしていることなのに、すぐに決断して従わずに、「よく考えてみます。」と答えていないでしょうか。一体、何を考えるつもりなのでしょうか。それは自分のうちにある欲と相談してみるということではないでしょうか。このような人は、必ずサタンにやられてしまいます。
15節、そこでバラクは二度目に、前より大勢で、しかも位の高いつかさたちを遣わしました。
民 22:15 バラクはもう一度、前の者より大ぜいの、しかも位の高いつかさたちを遣わした。
22:16 彼らはバラムのところに来て彼に言った。「ツィポルの子バラクはこう申しました。『どうか私のところに来るのを拒まないでください。
22:17 私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。』」
22:18 しかしバラムはバラクの家臣たちに答えて言った。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、【主】のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。
これは、「バラムを大人物として認めているぞ」 という表示であり、見栄張りのバラクを自己満足させるのに十分な効果がありました。また「手厚くもてなします。」(17節)とも約束されました。
これらのことは自己中心の性質をもっているバラムには魅力的な贈り物でした。
18節で、バラムは口では、「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。」と言ったものの、心は大いに揺れ動いていました。
サタンは、肉的な、この世的な性質をもつ人を堕落させるのに必要なものが何であるかを、よく知っていました。それは、最も魅力的な贈り物でした。
預言者バラムの心が、この魅力的な贈り物に心が傾いていたことは、19節の言葉でよく分かります。
民 22:19 それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。【主】が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」
彼は、第一回目の使者が来た時、12節で神から、「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。」とはっきり警告されていたのですから、直ちに断るべきでした。しかし彼は、「主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」と言っています。あたかも、信仰的にていねいな処置のように見えますけれども、彼は、何か妥協点はないかと、考えていたのです。このような肉的営みは外からは分かりにくいのですが、本人とサタンと神にはよく知られていました。しかしこの時、既に神のみこころははっきり示されていたのですから、バラムは改めて神のみこころを問わなければならない理由は一つもなかったのです。
それ故、バラムは最初の13節と同じ返事、すなわち、「あなたがたの国に帰りなさい。主は私をあなたがたといっしょに行かせようとしないから。」と繰り返して、使者を追い返すべきでした。しかしバラムは再び、神に尋ねました。このこと自体が、神に対する不忠実です。神のみこころを十分に知っているのに、なおも妥協を求める動機で主に尋ね求めることは、不義です。私たちは、神のみこころがはっきり示されたなら、もはやそれ以上求める必要はないし、躊躇(ちゅうちょ)してはいけません。神のご命令に従うことだけが必要なのです。神のみこころが示されているのに、祈り続けていることは決して神を尊んでいることでも、敬虔なことでもありません。神を侮(あなど)っていることなのです。
バラムが再び祈ったのは、本心から神のみこころを確かめたかったからではありません。魅力的な報酬がどうしても欲しかったからです。私たちが神のみこころを知り、神のみこころに従おうとする時には、このような心のウラにある妥算的な下心の動機は潔められていなければなりません。
20節では、神がバラムの願いを受け入れたかのように見えますが、決してそうではありません。
民 22:20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」
心から全く百%神のご命令に従おうとしないバラムに対して、彼の選択にまかせたにすぎません。神は、信仰者を自由意志のないロボットのように強制的に動かそうとはされません。しかしその選択の責任は本人自身にふりかかってきます。
こうして、潔められていない肉的な人は、堕落の道へと迷い込んでいくのです。これは多くのクリスチャンが行っていることです。すなわち、主のみこころでないと知りつつ、それを行い、なおも、祈っているのです。このようにしていて、主に忠実であることは不可能です。本当に主に忠実であろうとするなら、主のみこころに直ちに従わなければなりません。一部、不従順なことをしつつ、他の面で主に忠実であろうとしても、それは主に受け入れられることではありません。
21節、「朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。」ここにバラムの本心が見られます。口でどんなに敬虔な祈りをしていても、その本心は実際の生活の中に現われてきます。私たちはしばしば、自分の肉的欲を押し通すことによって、自分の希望が実現できたかに思いますが、却って、神のみこころに逆らい、滅びに近づいているのだと、悟らなければなりません。神のみこころには、直ちに従うべきです。そしてサタンの誘惑がどんなに魅力的に見えても、断固として拒否の態度を取り続けなければなりません。
あとがき
最近、再び、聖書の探求のバック・ナンバーをお求めになる方が増えてきて、感謝しています。聖書は多くの方に探求していただきたいので、欠号になった号は増刷して補充するようにしています。いつでも全号を探求していただけるようにと思っています。
私共の教会でも、みことばが家庭や職場でも活用できるようにと言い続けてきましたが、それが身についてくるには、時間と信仰の意欲が必要です。しかしみことばを実際に働かせる人は確かに自分自身が成長し、勝利を経験しつつあります。みことばを実際に働かせない、何もしない信仰はあかしの力を持っていません。先ず、クリスチャンがもっともっとみことばに渇き、クリスチャンの内に、教会の内にみことばのリバイバルが起きるなら、それは外に対しても大きなあかしの力となって働きます。それは大集会が終わったら冷めてしまう熱気ではなく、ひとりひとりが各々の立場で実を結び続けていく、リバイバルです。私たちに必要なのは、このようなリバイバルではないでしょうか。
(まなべあきら 1993.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の写真は、ヨルダンのゼレデ川の川床あたりの風景。このあたりは古代モアブであった。現代でも放牧の民がテント生活をしている。(2016年2月訪問時に撮影)
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