聖書の探求(128) 申命記 序論(2) 大部分が預言的、申命記のキリスト(その1)

七、申命記は大部分が預言的です。

1、モーセは彼自らの預言者の立場を、十分意識していました。彼は自らを、時至ってイスラエルのために起きる真の預言者の予表として立っています(18:15~19)。

申 18:15 あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。
18:16 これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、【主】に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、【主】の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません」と言った。
18:17 それで【主】は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。
18:18 わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
18:19 わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。

そして、メシヤである主イエスの約束の成就へのイスラエルの望みは、おもにこの預言におかれています(ヨハネ1:45、6:14、使徒3:22,23)。

ヨハ 1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

ヨハ 6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

使 3:22 モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。
3:23 その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』

2、レビ記の終結をなしているイスラエルの未来の教示は、申命記(27~33章)において、更に多く語られています。

民の不従順に対して宣告された警告と恐るべきのろいとは、民に無視され、何の効果も表さないことが証明され、結局、イスラエルの民が地上の語族の間に放浪離散されるに至ることは、先見者モーセには明らかであった(28章)。

3、それでもなお、イスラエルの民の存在の継続が預言的に保証されています。

この戦慄すべき試練と、長年にわたる迫害と患難にも拘らず、彼らは絶滅しない。受難の中にあっても、神のご計画が成就されるまで、彼らは存続します。こうして再び破られることのない回復と祝福と平和は、彼らの嗣業となるのです(30、32章)。

八、申命記のキリスト

1、モーセ

旧約の人物の中で、モーセは最大の人物です。彼は預言者であり、立法者であり、歴史家であり、指導者であり、一人であらゆるものを具備していた人物です。この点でモーセは、キリストを予表している人物であると言えるでしょう。

モーセの死後も、モーセの名はイスラエル民族の心を指導し続けてきました。このようなことは、人類史上、主イエスを別にして、他に類するものがありません。ユダヤ民族は、このモーセを他国人には想像もつかないほど重んじてきました。モーセの書いたものは、ユダヤ文学の基礎となり、彼の立てた律法は不動のものとされ、これを否定しようとするユダヤ人は一人もいなかった。

モーセの両親はへブル人であるが、モーセは幼い頃からエジプトの王パロの娘の子として育てられ、その薫陶を受け、エジプトのあらゆる学術を身につけました。しかし事あってエジプトを去り、ミデヤンの荒野で四〇年間羊飼いとして暮し、ホレプの山にて神と出会い、こうして彼は、民の指導者として、また数々の重要な書巻の記者となる資格を訓練されていったのです。

申命記では、モーセの偉大な厳然たる人格が現われています。彼は四〇年以上も民を指導し、民がしばしば逆らってもそれを耐え忍んで教導し、彼がこの世を去ろうとする時(百二十才)になっても、目もかすまず、気力も衰えず、かくしゃくとしていました(34:7)。

申 34:7 モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。

彼はただ一度の失敗の故に、約束の地に入ることが許されませんでしたが、その為に民を恨むこともなく、彼の従者であったヨシュアが民を導いて約束の地に入るのを聞いて喜びました(31:23)。

申 31:23 ついで主は、ヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」

しかしモーセには、民を約束の地に導き入れることよりも、もっと大いなる光栄が備えられていました。即ち、時至って、モーセはエリヤと共に約束の地にある変貌山において、救い主イエスの御前に立ち、主イエスが十字架の死をもって贖罪のみわざを成し遂げられることについて、主イエスと親しく語り合う機会が与えられたのです(ルカ9:29~31)。

ルカ 9:29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。
9:30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、
9:31 栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

モーセは神の約束の地に入っていたのです。そればかりでなく、彼自身が預言した偉大な真の預言者とお会いし、驚いたことでしょう。

申命記では、モーセはイスラエルの子孫の放浪と背信を再述して律法を繰り返しています。この律法は約四〇年前にシナイ山で与えられたものであって、特に、荒野におけるイスラエル人の心得を示していましたが、申命記を書いた時は、民が約束の地に入ろうとしていた直前だったので、民の約束の地における生活の心得も強調して記しています。

十戒はシナイ山の頂きから、神の御声をもって、すべての民に与えられましたが、幕屋の構造については、シナイ山上で、モーセただひとりにだけ与えられました。ここにも主イエスの受肉の奥義が秘められています。

日常生活における聖潔についての実際的律法は、レビ記や民数記と同じように、いけにえの律法と混和して与えられました。

申命記で、モーセが民に要求している重要点は、服従の義務です。

2、服従

服従は、申命記の鍵語です。またクリスチャン生涯のあらゆる祝福の基です。

「どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。」(5:29)

これは服従の幸福です。これはシナイ山の恐るべき警告の中にも、神がその民に対して抱いている熱い望みです。神がこれらの律法を与えて、服従を求められたのは、幸いを与えるためでした。

「それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」(6:24,25)

ここで教えられている服従は、将来、神の恵みを受けるためではなく、すなわち、神から恵みを受けている故に、服従が要求されているのです。私たちは服従することによって、自らが贖(あがな)いを得るために召されているのではなく、既に贖(あがな)われた民であるが故に、服従するように求められているのです。

繰り返し、繰り返し、主が民に示されていることは、

イ、主が彼らを愛するが故に、彼らを選ばれたこと

ロ、主が大能の御子をもって、奴隷の鎖より贖(あがな)い出されたこと

ハ、それ故に、彼らは、主に聖なる民、神ご自身のために選ばれた特別の民であるということ

ニ、それ故に、心を尽くして主の律法を守り、喜びをもって主に仕えることが求められたのです。

これは、今日の私たちにとっても大いなる教訓です。神は、私たちが価なしに与えてくださる救いの恵みを受け入れることによって、神に従う能力を持つようにと、恵みの備えをされたのです。それにもかかわらず、いかに多くの人々が、自分の服従(努力)で、神の救いの恵みを買わなければならないと思っていることでしょうか。

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖(あがな)い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)

この聖句は、その真理を示しています。

主は、豊かな良い地、すなわち、主にある勝利と喜びの生涯に私たちを導き入れるために、私たちを罪とこの世の絆から贖(あがな)い出されたのです(申命記8:7~10、14)。

申 8:7 あなたの神、【主】が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、
8:8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。
8:9 そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。
8:10 あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜った良い地について、あなたの神、【主】をほめたたえなければならない。

申 8:14 あなたの心が高ぶり、あなたの神、【主】を忘れる、そういうことがないように。──主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、

しかし贖(あがな)われたクリスチャンたちの中で、どんなに多くの者が信仰と服従の不足のために、今なお、この良い地に入れないでいることでしょうか。

「それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」(ヘブル3:19)

モーセは、神のみことばに従わなかった故に、彼自身もまた、イスラエルの子孫もカナンの地に導き入れることができませんでした。これは一つの真理の模型です。モーセは律法を象徴しており、律法は私たちを約束の地、すなわち、キリストの福音の満ちあふれる恵みに導き入れることはできません。それは真のヨシュアなる主イエスが成し遂げられるために残されていたのです。

「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(ガラテヤ3:23~26)

3、献身

福音の満ちあふれる恵みを受けるための第一歩は、献身です。キリストの尊い血によって贖われたことを知っている私たちは、イスラエルの民がヨルダン川を渡る前にモアブの野で全く主にまかせた如く、私たちも一切を神にゆだね切ることができるはずです。その献身と服従が明白であるなら、モーセがイスラエルの民に告げたように、主もあなたに、
「きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。」(26:17~19)

奴隷が解放される年、その奴隷が自分の主人から離れたくなく、自分から長く仕えることを願うならば、主人はキリを取ってその奴隷の耳を戸に刺し通せ、と神は命じられました(15:12~17、出エジプト記21:5,6)。

申 15:12 もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。
15:13 彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。
15:14 必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、【主】があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。
15:15 あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、【主】が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。
15:16 その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、「あなたのところから出て行きたくありません」と言うなら、
15:17 あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。

出 21:5 しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、
21:6 その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。

この奴隷のように、全くその身を神にささげたしるしとして、主イエスに耳が潔められ、いつも聖なる御声に聞き従う人は、幸いです。

4、約束のメシヤ

申命記の中で最も重要なメッセージは、来るべきメシヤについての預言です。

モーセはメシヤの幻を示されました。

「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(18:15)

ここには、キリストが三重の職務、すなわち、祭司、預言者、王としての職務を果たすためには、必ず肉体をとって現われる必要があることを示しています。旧約時代において、この三職務は民のうちより一人の兄弟が当りました。

(1)、祭司について

「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ」(出エジプト記28:1)と命じられました。

主イエスについては、「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」(ヘブル2:17)と言われています。

(2)、王について

王についての神のご命令は、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、『回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。』と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。‥‥‥」(17:14~20)と言われています。

(3)、預言者について

預言者については、先に記した申命記18章15節にあるとおりです。

申 18:15 あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

モーセは、いろいろな点でキリストの型として見ることができます。

イ、幼児期に殺害をまぬがれたこと

主イエスも、幼児期にヘロデ王から命をねらわれましたが、エジプトに逃れて助けられました(マタイ2:13~23)。

マタ 2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事が成就するためであった。
2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年齢は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。
2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。
2:18 「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」
2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。
2:20 「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」
2:21 そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。
2:22 しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。
2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われた事が成就するためであった。

ロ、長い間、ほとんど知られずに、静かに教育を受けておられたこと。モーセはエジプトで、主イエスはナザレで。

ハ、自分の民を奴隷の絆から救い出すために、エジプトの王宮の生活を敢えて捨てたこと。主イエスもまた、天の御座を離れて地に下り、人となってくださいました(ヘブル11:24~27、ピリピ2:6~8)。

ヘブル 11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

ニ、柔和で、忠義で、神から託された使命を成し遂げたこと(出エジプト記40:33、ヨハネ17:4、19:30、ヘブル3:2~6)

出 40:33 また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。

ヨハ 17:4 あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。

ヨハ 19:40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。

ヘブル 3:2 モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。
3:3 家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。
3:4 家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。
3:5 モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
3:6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

ホ、神と民との間の仲保者として働いたこと(テモテ第一2:5)

Ⅰテサ 2:5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。

ヘ、顔と顔を合わせて神と交わったこと(出エジプト記33:11、ヨハネ1:18)

出 33:11 【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

ヨハ 1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

しかし、これらの型も、キリストを十分に写し出すことはできません。

イ、「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。」(ヘブル3:5,6)

ロ、モーセは民の罪を怒るあまりに、自らも主の聖を現わさないという罪に陥りましたが、キリストは全く罪のないお方であり、罪を犯されなかった(ヘブル4:15)。

ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ハ、モーセは一人で民を負うことができなかったけれども、キリストは十字架にかかられて、私たちの罪を負ってくださり、さらに私たちのあらゆる思いわずらいをも負ってくださるのです(コリント第一15:3、ペテロ第一2:24、ヘブル9:28)。

Ⅰコリ 15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

Ⅰペテ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

ヘブル 9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

ニ、モーセは約束の地に民を導き入れることができませんでしたが、キリストは私たちを導き入れ、キリストを信じる信仰によって罪を赦し、聖なる者とされた人々の中にあって、御国を受け継がせてくださるのです(使徒26:18)。

使 26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

ホ、モーセの言葉は、たちまち律法となりました。それは、彼の言葉が神のみことばであったからです(申命記4:2)。

申 4:2 私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、【主】の命令を、守らなければならない。

神のしもべが伝えてきた言葉でさえ、このように権威があったのであれば、まして神のみ子イエス・キリストのみことばに権威があるのは当然です。モーセのこの預言(申命記18:18,19)は、キリストに関するもので、すべて正確に成就しました(ヨハネ12:48~50)。

申 18:18 わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
18:19 わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。

ヨハ 12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」

私たちにとって大切なことは、キリストのみことばを信じて、従うことです。主イエス・キリストは、荒野でサタンの試みに会われた時、三度までも申命記から引用してサタンを撃退しておられるのは、このモーセの預言がキリストをさしていることを証明しています。

新約聖書中には、申命記から引用した言葉は九十九ケ所もあります。申命記31章9、24,25節によれば、申命記の記者がモーセであることは明らかです。

申 31:9 モーセはこのみおしえを書きしるし、【主】の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。

申 31:24 モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、
31:25 モーセは、【主】の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。

最後の一章以外はみな、モーセが書いたものです。モーセはキリストを証しして、「彼に聞き従わなければならない。」(申命記18:15)と言いましたが、

申 18:15 あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

キリストはモーセのことを証しして、「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」(ヨハネ5:46)と言われました。

変貌山上で主イエスがモーセとエリヤとに語られた時、ペテロは親しく主の栄光を目撃しました。 そして天から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」(マタイ17:5)という御声を聞いた。

そうですから、ペテロはユダヤ人の注意を喚起して、彼らが拒み、そして殺したイエスは、モーセが預言した預言者であって、すべてのこと、イエス・キリストに聞き従うべきであると告げました。

「そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。‥‥モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれ
でも、民の中から滅ぼし絶やされる。』(使徒3:14,15、22,23)

申命記6章4,5節は、キリストを表しています。

申 6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。
6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。

この句には、三位一体の真理が含まれています。4節のへブル語原語の直訳は、「私たちの神(複数)ヤーウェ、ヤーウェは一なり。」となります。ここに神の御名が三度記されていますが、「一」と訳した原語(echad)は、混成の結合を示す語であって、たとえば、「ぶどうの一房」「民はみな、いっせいに‥‥集まって来た。」(ネヘミヤ記8:1)
「こうして、イスラエル人はみな団結し、こぞってその町に集まって来た。」(土師記20:11)などの如くです。なお、ヘブル語の、絶対の「一」を表す語(yacheed)は、神が唯一であることを示すためには一度も使われていません。

5節は、人間が三位一体の神を愛するには、三重の性質、全霊、全生、全身をもって愛すべきことを示しています。5章6節以下には、モーセの十戒を再述していますが、主イエスはこの戒めを総括して二つにし、私たちに力を尽くして神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛すべきことを教えられました(マタイ22:37~39、ルカ10:27)。

申 5:6 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。
5:7 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
・・・・・

マタ 22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

ルカ 10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

私たちは三位一体の教理を知っているだけでなく、このお方を自分の全存在をもって愛しているでしょうか。この神を霊とまことをもって礼拝しているでしょうか。これこそ最も重要であり、主があなたに求めておられることです。

あ と が き

 一週間が飛ぶように過ぎていきます。「日よ、ギブオンの上に止まれ。月よアヤロンの谷にやすらえ。」(ヨシュア記10:12)と叫びたい気持ちです。日本中の多くの方々が私の健康のためにお祈りして下さっているお便りをいただいて、ますます、主のご用をしなければ、という思いに至ります。
 聖書の探求も、やっと前号から申命記に入りました。私の生涯のうち、どこまで行けるかが、私の一つの目標ですが、ここまでくるのに十年以上かかりました。しかし十年以上もこの冊子を続けさせて下さった主に心から感謝致しております。また読者の皆様のあついお祈りに心より感謝申し上げます。こうして聖書に取り組む時、人の一生の短かさをつくづくと思い知らされます。私は二十五才で信仰を持ちましたが、今は五十二才になってしまいました。あと何年、この執筆が許されるかは分かりませんが、私が許されている間は全力を尽くし、その後は、後継者が引き継いでくれるものと思います。お祈り下さい。

(まなべあきら 1994.11.1)

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、オランダの画家 Rembrandt (1606–1669)が1659年頃に描いた「Moses Smashing the Tablets of the Law(十戒の書かれた石の板を砕くモーセ)」(Wikimedia Commonsより)


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