第2章 愚かで、鈍感でも (主をわが前に置いた生活)

霊的に鋭敏な人は、そうはいないものです。聖書を熱心に読んだからといって、そうそう一足飛びに、深い信仰に到達できるわけではありません。クリスチャンのうち、高慢な人以外、大抵の人が、「自分は霊的に鈍感だ。」と思っています。

だれもが、「神様に自分の生涯をささげてしまったら、神様がよく分かるようになり、鈍感も少しはよくなり、過失も少なくなるのではないか。」と期待しますが、そのような献身を、どうすればできるのか、分かりません。この霊的に愚かで、鈍感なことは、容易に解決するものではありません。それで、「神様を信じていても、だめなのか。」と、神様に失望し、信仰に失望することも、少なくありません。

神様との交わりを研ぎ澄ましていくためには、神様と語り合うことを、いつも欠かさないようにすることが大切です。モーセも、サムエルも、ダビデも、毎日、事あるごとに、神様と語り合うことによって、神様のご人格と親しく交わるようになっています。アブラムは十三年間、神様と語り合うことをしなかった期間があります。それは、彼が主のみこころに反して、イシュマエルを産んでしまった時です(創世記16:16~17:1)。この期間、主はアブラムに何も語りかけてくださらなかったのです。

私たちは、大きな問題は、神様の所に持っていって、祈りますが、日常のごくささいなことは、神様に頼らないで、自分の知恵と力で処理してしまいがちです。これは、良くないことです。これは、私たちの生活の大部分を、神様と語り合わないで、自分の考えで処理してしまっていることになります。これが、霊的愚かさと、鈍感を作り出しているのです。

「主が私を愛してくださっている」ということは、私の個人的な、どんな小さいことでも、主は知りたいと思っておられることを意味しています。主は、私の日常のどんなささいなことも、ご自身の前に持ち出して、語り合って欲しいと、求めておられるのです。これは、私の心に、主を思う思いを持ち、神様の臨在(神様が、今、自分とともにいてくださること)を自覚するようになるのを助けます。これを続けていくと、私は、この世のささいなこと、すなわち、他人の批判的な言葉や態度にも、思いわずらわなくなります。これをしないで、自分の考えで解決しようとすると、小さなことでも、いつまでも悪い気分でいたり、腹を立てていたり、思いわずらっていたり、悪い方へ、悪い方へと、考えてしまうのです。このようなことは、私をますます愚かな者にし、霊的に鈍感な者にしてしまいます。

私たちは、毎日、思いを神様に向け、神様のみことばによって心が元気付けられ、慰められ、心の目が開かれる経験を積み重ねて、自分の霊魂を養い、育てていかなければなりません。この毎日の小さな信仰の行為の積み重ねが、神様と実際に交わる経験を確かなものにしていくのです。神様のみことばを実際の生活の「足のともしび、道の光」(詩篇119:105)としていくのです。ただ、聖句を覚えたり、解釈の説明ができるだけでは、みことばが「いのちの糧」になっていません。

もし、あなたが他人を恨んだり、批判したり、責めたりしているなら、それは、あなたが、愚かな思いを抱いていることです。自分自身を破壊してしまいます。日暮れまで、怒りや不満な心を抱いているのを止めましょう。

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ4:26)

これは、悪魔につけ込む機会を与えないためです。

私たちは、常に、神様のみことばと、イエス様の血潮と、聖霊を信じることによって、すなわち、真理を心に抱くことによって、神様の高潔な思いを受けて、自分の霊魂を養い、育てられていかなければなりません。毎日の、この心の営みなしに、神様と交わることを経験することは出来ません。聖書を読んだ後、その直後から、神様のみ言葉を離れて、自分の知恵と考えで、ことを行なっていませんか。神様のみことばが、実際の生活の中で、活かされていないのではありませんか。あなたが、そうでないことを期待しています。

「それで、たいせつなのは、・・・成長させてくださる神なのです。」(コリント第一3:7)

人間の指導者、牧師、教師を見て、心に不満や怒りを持たないようにしなければなりません。あなたの心を、いつも人間の指導者に向けるのではなく、イエス様に向けられ、全くささげ、神様に仕える思いで、働いているなら、人の言葉や態度に、いら立たされることなく、神様からの大きな喜びが与えられます。

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:23、24)

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

私たちは、自分の信仰を毎日の生活で活かし、実際に働かせるようにしなければなりません。眠っている時にも、肺はいつも呼吸して生きているように、神様に心を向けて信頼し、永遠のいのちを受けて安心し、一瞬たりともイエス様から目を離さないようにしなければなりません。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12:2)

イエス様から目を離して、風や波を見たペテロは、水の中に沈んだではありませんか。私が、他人の言葉や態度に腹を立てていれば、あるいは、富や地位や人の評価に惑わされていれば、心が沈んでしまわないでしょうか。

私たちが、信仰で歩まないのは、非常に危険で、主を嘆かせます。毎日、移り変わっていく、この世の流れに従って歩んで行くこと(エペソ2:2)は愚かなことです。必ず、神様の御怒りを受けないでは終わりません。この世の流れに従って歩むことに捕われて、それを楽しみにしていることは、滅びの道を歩んでいることです。真の幸いも、楽しみも、そこにはありません。そこには、エデンの園で、サタンがエバを誘惑した時と同じ、偽りの楽しみのワナが仕掛けられているのです。私たちの求める楽しみは、神様とともに歩み、愛の交わりをし、慰めを受け、喜びを経験することです。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。・・・あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8、9、11)

私たちは苦難の中に縛られると、そこから脱出しようとしてもがきます。すると霊魂においても、肉体においても、さらに苦しみに縛られるようになります。家族や友人たちは、苦しんでいる私を見て、何か悪い罪を犯しているのではないかと、私を責めたり、批判したりするでしょう。すると、私はさらにあせって、もがくようになります。そして、もがけば、もがくほど、私の言葉は荒々しくなり、粗暴になり、周りの人との関係を悪くしてしまいます。

自分の苦しみの中に閉じこもって、自分の狭い、苦悩だけを見つめている人が、身体の健康と心の健全さを回復したことは、聞いたことがありません。自分自身のありのままの姿(心)を、神様の光の中に差し出して、心に神様の新しい光を受けてこそ、初めて健康と健全性を取り戻すのです。

創世記に記されている、ヤコブの子ヨセフは、神様の幻を語ったために、兄たちにエジプトに奴隷に売られ、主人ポティファルの妻に欺かれて牢に入れられても、反抗的な心の状態になっていません。自分を全く神様に任せています。主のみこころが最善をなしてくださると、信じ切っていたからです(創世記37、39~50章)。

ヨセフの最後の試練は、救い出されるチャンスが来た時、エジプトの王パロに、自分の救出を訴えてくれるように頼んでおいた献酌官長が、二年間もヨセフのことを忘れてしまったことです。

人は、自分さえ助かり、自分さえ良くなると、他人のことなど、すっかり忘れてしまうほど、薄情なものです。ですから、他人を当てにしていると、失望させられることが多いのです。しかし、神様はヨセフのことを決して忘れていませんでした。二年の後、主は、パロに夢を見せて、献酌官長にヨセフを思い出させています。こうしてヨセフは、ついに日の当る世界に出て、偉大な働きをしたのです。この苦難の期間、ヨセフは、神様の器として、訓練され、これからの偉大な働きをするための信仰を、神様は育てておられたのです。この中で、ヨセフが学んだことは、苦難からいかに逃れるか、ではなくて、苦難の中でも、主とともにいて、恵みを経験することでした。

「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(創世記39:21)

「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことには何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(創世記39:23)

ヨセフは、主のみこころが成就することで満足し、苦しみにも、楽しみにも、導きのままに従ったのです。真実に主に任せ切った者にとっては、苦しみも、慰めも、同じになってしまったのです。私たちも、苦しみの中で、聖書を読んでも、祈っても、味気なく感じることがあるでしょう。嫌気を感じたり、空しく感じることもあるでしょう。しかし、主には、真実に、忠実に信頼して従って行きましょう。

主は「私が本当に主ご自身を愛しているか」を、試みておられるからです。神様は、アブラハムの心が、「神様から与えられた、ひとり子イサク」に向いてしまっていて、神様を第一に愛しているかを試みるために、イサクをモリヤの山で、全焼のいけにえにするように命じられて、彼の、神に対する信仰を試みられたのです。この結果はすでに、あなたがご存じの通りです。私たちにとっても、試みられない信仰はありません。主はペテロに対しても、「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15)と、神の愛(アガペー)で、尋ねられたのに、ペテロは三回とも、人情的な愛(フィレオー)で、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えています。この時のペテロは、まだ心に神様の愛を持っていなかったのです。彼は、聖霊に満たされることによって、心に神の愛を注がれ、満たされたのです。

苦難のときこそ、迷わずに、あわてずに、不平をもらさず、信仰を堅くして、全く主に信頼すべきです。それによって霊魂は神様の愛を受けて、大きく進歩成長するのです。モーセは主がともに行ってくださることを、第一に求めています。

「すると主は仰せられた。『わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。』それでモーセは申し上げた。『もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。』」(出エジプト記33:14、15)

主はヨシュアにも、ご自身の同行を約束されました。

「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア記1:5)

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄雄しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)

これらの聖書の記事を、知識として知って、励まされているだけでなく、あなたにも主ご自身が同行してくださって、ともに働いてくださることを体験することができるのです。体験すること以上に、よく分かる学びは他にありません。それは、主があなたに、次のように約束してくださっているからです。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:20)

あなたの今日の働きと、生活の中で、主ご自身があなたとともにいて、あなたとともに働いてくださり、みことばの真実を体験させてくださることを信じて、一日を過ごしてください。この心の営みが、あなたの心を成長させてくださいます。

これからも、私たちは苦難に会うかもしれません。私たちの周りで、わざわいや悲劇的なことが起きるでしょう。それが、私たちの身に及んでくることもあるでしょう。それを恐れてはなりません。人の心の中にある怒りや不満や憤り、冷淡さ、意地悪さは、恐るべきものです。これらがあると、わざわいは起こり続けます。しかし、私たちは、心の中にそのようなものが、いつまでも残っていないように、主に祈って、潔めていただくことができます。主は、みこころならば、人の行なった悪や、わざわいをも、益に変えてくださるお方です。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

しかし、私たちが主ご自身とともに生活するためには、自分中心の欲や考えから離れていなければなりません。肉の思いは、神様に反抗するものだからです。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:5~8)

自分さえ楽しければよいとか、不平不満、怒り、憤り、冷淡、憎しみ、快楽を追い求めることなどから、自分を守らなければなりません。これらの肉の欲は、信仰的な事柄の中にも入って来ます。

使徒の働き5章のアナニヤとサッピラの夫婦は、バルナバのような、高い敬虔な評価を、教会の人々から受けたかったために、大金をささげたのですが、その動機において、聖霊を欺いていたのです。

ペテロは主が捕えられた夜、火に当っていた時、女の人が「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」と言われたことを恐れて、イエス様を三度、「知らない。」と否定しています。

彼はまた、他の弟子(ヨハネ)のことを気にしています。さらに、弟子たちの中で一番偉い弟子になろうという思いを抱いて、仲間の間で争っています。これがペテロが不信仰の失敗を繰り返した原因です。

真実な心で主に仕えようと願う人には、神様はその人の心の中に神様の光を照らして、これらの肉の欲を悟らせ、弁(わきま)えさせ、潔めてくださいます。主は真実に仕えようとする人を、ご自分のみもとに招いてくださいます。

目次
1.一粒の麦
2.愚かで、鈍感でも
3.愛
4.霊的生活の基礎
5.神様に近づく方法
6.祈りと生活
7.どうすれば、いつも神様の臨在を感じることができるようになれるのか
8.神様の臨在の実際性(前半)
8.神様の臨在の実際性(後半)
9.病気、苦しみの中で