第7章 どうすれば、いつも神様の臨在を感じることができるようになれるのか。(主をわが前に置いた生活)
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)
トマスは、イエス様が復活された日、仲間の弟子たちと一緒にいなかったのです。仲間の弟子たちが、「私たちは主を見た。」と言っても、トマスは、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言ったのです。トマスは、イエス様がその場にいないと思って発言し、行動していたのです。八日後に、トマスも一緒にいる所にイエス様は現われ、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました(ヨハネ20:24~27)。
トマスは、イエス様の御姿を見て「私の主。私の神。」と言いましたが、イエス様は「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と仰せられました。
主の臨在は、目に見えません。ですから、目に見えるものにだけ、関心を向けていれば、目に見えない主の臨在が分からなくなります。
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)
信仰は、目に見えないものを確信させる霊的目なのです。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。・・・信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:1、3)
目に見えるものを当てにして、頼る生活を止め、目に見えない神様を、目に見えるものより、もっと確かなお方であることを信じて経験することが大切です。
みことばを使っても、祈りや賛美でも、目に見えない神様を経験し、会話においても、仕事においても、目に見えない神様の測り知れない知恵と力を受けて生活することです。神様の臨在感の実感は、ことごとく信仰と神様の愛を活用することによって身についてきます。
子どもが、自転車乗りの練習をしているとき、補助輪を付けている間は、なかなか上達しません。信仰においても、同じことが言えます。目に見えない神様よりも、目に見えるものに心が頼っている間は、いろいろ信仰の知識は増えても、実際に、神様だけを信じて歩むことができません。いざという時、直ぐに不信仰になってしまいます。
日常生活で、見えるものに心を向けずに、目に見えない神様だけを頼りにして、歩んでいる人は、いつも「生ける神様の同行」を経験しています。それが、普通のことになっているのです。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
神様の臨在を経験するためには、祈りの時に、心に主を思い巡らすことも大事ですが、それ以上に大切なことは、みことばと聖霊によって与えられた光に、実際生活で忠実に従い、行なうことです。この率直で明解な方法によって、神様を経験するようになり、神様に具体的に信頼し、愛するようになります。信仰の生活体験が、何よりも大事なのです。頭の知識の理解も、いくらかは助けになりますが、信仰を実際に生活体験で使い、目に見えない神様が、自分の生活の中で働いてくださることを経験すること以上に、私の心に神の臨在経験を分からせてくれるものはありません。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
このイエス様に従う信仰の光を心に持つことを、自分自身に訓練することによって、ほとんど途絶えることなく、神様の臨在の内に生活できるようになります。
これをコツコツと、今日一日、心に信仰の光を持って、日課の仕事につくことから始めます。自分自身に与えられた仕事の手順を定め、人と会うために主に祈り、心に新たな愛を受け入れます。そして、面倒な仕事や問題にも、その真の目的、理由、問題点を、主から悟らせていただいて、主とともに難しい問題や仕事に取りかかり、一歩一歩、乗り越えさせていただきましょう。
どんな仕事にも、この世とのつながりがありますから、幼い子どもが親に信頼するように、神様に信頼して祈り、待ち望んでいると、必ず解決の糸口が見えてきます。
エリヤがカルメル山で七回祈った時、人の手ほどの小さい雲が、地中海のかなたに見え始めたのです。エリヤはその神様のみわざのしるしを見逃しませんでした。私たちは、この小さな、かすかなしるしを見逃しがちなのです。そして、自分で考えたやり方でやってしまうので、わざわいへと落ちてしまうのです。
幼子の心で主に信頼して、祈りましょう。
「イエス様。あなたは今日も、私と一緒にいてくださいます。(一緒にいてください、ではありません。)私はこれから、あなたに心を向けて、この世の仕事を始めますから、どうぞ、必要なあなたの知恵と恵みの臨在で、一日中、包んでください。」と祈りましょう。
モーセは一日の仕事につく時、次のように祈っています。
「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(詩篇90:17)
「主は・・・ともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:20)
このようにして「わたしのすべての働きを受け入れてください。」と祈るのです。
日常の仕事に取りかかると、いろいろな思いが心の中を行き交い始めるものですが、その心の思いを主に向けて、主と親密に語り合い、交わり、物語り、密かに神様の愛が自分の心に注がれていることを味わいつつ、神様の知恵によって、仕事に必要な悟りや知恵や、発見を受けて、困難、課題を一つ一つと、乗り越えて行くのです。もつれていた糸が、ほぐれていくように、神様の御手によって、光が見えてくるのを経験します。こうして私たちのすべての仕事は、神様にささげられた、神様のお仕事になります。
一日の仕事を終えても、私たちの仕事は、いつも途中ですから、明日への備えが必要ですが、一旦、神様にお返しします。もし良くできていると思ったら、主に感謝して、一旦、主にお返しします。もし思ったようにいかなければ、主が別の、新しい知恵と悟りを与えようとしておられるのかもしれませんから、失望することなく、直ぐに心を取り直して、新しい神様のみわざの展開を期待します。どちらにしても、一旦、自分の仕事を、自分の心から離れさせて、神様にお返しすることが大切なことなのです。
このようにして、何度失敗しても、神様を信じて、立ち上がることを学び、その度に、神様の臨在を覚える練習を、私はさせられました。そうすることによって、最初のころは、神様を忘れて、神様を思わず、自分の考えで行なうことが多かったのですが、段々と、神様を心に思わないで仕事をすることのほうが、難しい状態になってきたのです。
まわりに何人もの人がいる中で、仕事をしている人は、いつも平安な、落ち着いた、静かな心の状態を保っていることが困難だと思います。
人にはいろいろな考えがあり、意見があり、判断があり、希望があり、欲があり、意見の衝突や、感情の衝突も起こるでしょう。それによって、神様の臨在感が打ち破られ、打ち消されてしまうこともあるでしょう。しかしそれで失望して、信仰の光に従うことを止めてしまわないことです。消えた光は、またつければいいだけです。信仰で、よくないことは、失敗や敗北をいつまでも悔やんで、中々、信仰の足で立ち上がろうとしないことです。霊的に停電になれば、原因をはっきりさせて、はやく修理して、もう一度、光を灯すことです。そのために、他人の批判や非難を気にすることはありません。いつまでも暗やみの中に止まっていないことだけが、大事なのです。
これこそ神様の臨在の中で、仕事をする訓練の場だからです。悪い環境の中にあっても、投げ出さずに、騒がしさの中でも、心に神様の静けさを発見する、最も良い訓練の場です。さらにすばらしい神様の臨在による慰めと祝福を発見するようになります。
私は、ある一枚の絵を見ました。それはごうごうと音を立て、水煙を上げている滝の途中に小枝が一本出ていて、そこに一羽の小さい小鳥が止まっている絵でした。まさに、ここに、私たちがこの世にあって、経験できる最も深い神様の静けさを見るような気がしました。これは私たちの信仰に、大いに参考になるでしょう。
もし、多くの信仰の指導書を読み、信仰の知識を知っていても、神様のみことばを自分の生活の中で行なわなかったなら、神様を、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛し、隣人を愛する生活をしなければ、書物から得た信仰の知識は、自己満足に終わってしまって、それで自分が成長したかのような惑わしに陥ってしまいます。書物から得た知識は、自分の信仰生活に実際に活用していかないと、自分のものにならず、他人を批判するための材料に使われてしまいがちです。知識だけの信仰は、人を高慢にします。
健全な信仰の知識を持つことは、大切なことです。しかし、その知識は、実際の生活で活用されてこそ、自分の信仰となるのです。
私たちが神様だけを愛して、神様を愛することを妨げるすべてのものを捨てて、この世で、神様以外の何ものをも愛さないと、決意して生活を始めても、その決意は立派でも、すぐに、それが自分にできないことに気づくでしょう。自分がひどい偽善者であることを自覚させられるでしょう。あわれな罪人のように感じます。信仰の訓練は、ここから始まります。そういう状態でも、神様を愛することを止めてはいけません。自分を愛するように、隣人を愛することを続けます。罪や愚かさや、弱さが示されたら、言い訳をせず、謙遜になって受け留めていきます。そのような私を、神様は慈悲深い父として、愛してくださっていることを信じます。それでも、神様を思う思いから、さ迷い出すでしょう。さ迷い出したら、何度でも、諦めずに、神様のみもとに引き返して来るのです。このように信仰の訓練をする生活は、容易なことではなく、また楽しいことでないかもしれません。むしろ、自己嫌悪を覚えたり、神様の臨在を感じさせないかもしれません。しかし、ここが肝心です。ここを突き抜けなければ、神様の臨在の山に到達することができません。失敗をして諦める人は、目的に到達しません。諦めないで、行ない続ける人だけが、暗い雲を突き破って、神様の臨在の経験の中に入って行くことができるのです。どんなわずかの時間でも、イエス様を思う心を持つこと、愛によって働く信仰を実際のことで使うこと、へりくだること、自己義を振りかざして他人と争わないこと、キリストの平安を心に持っていることを、追い求める人は、必ず、神様の臨在の中で生活するようになります。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(へブル12:14)
神様を思う思いは、仕事が忙しくなると、忘れやすく、失いやすいものです。それは、走り出すと、呼吸が早くなるのと同じです。酸素がより多く必要になりますから、もっと小刻みにイエス様の愛を心に受ける必要があります。これを何度、失敗しても続ける人が、いつもイエス様とともに生活する臨在の楽しみを味わうことができるのです。
私は、毎日の生活の中で、イエス様を信じる信仰を活用するのに、しばしば不十分であったり、失敗することを、繰り返してしまっています。しかし、それでも、イエス様に心を向けることを続けることによって、神様の恵みを経験してきました。その恵みは、すべて神様の愛とあわれみによるものと、自覚しています。神様は、私の出来具合が良かったので、恵みを与えてくださったのではありません。不十分でも、出来が悪くても、失敗しても、心をイエス様に向け続けて、信仰の活用を続けていることを見てくださったのです。神様の前に、自分を誇れる人など、一人もいません。私は、他のだれよりも劣っていて、能力もなく、音楽も出来ないし、特技もないし、何も出来ないことをよく知っています。地位も、財産もありません。しかし、神様の臨在の中に自分の心を置いて、主を賛美し、主に祈ることは、容易に、だれにでも出来ます。ダビデのように、自分自身の前に、いつも神様を置いて生活をすれば、主からの平安と喜びと楽しみを失うことはありません。夜もやすらかに眠り、健やかに目覚めることが出来ます。このことは、どんな立場にある人も、知識がある人も、ない人も関わりなく、だれにでも、今日から、すぐにできます。これによって、私たちの心は、神様と親密に交わるようになり、心に平安と、きよい霊の自由を味わいます。
神様と親しく交わっていることは、賛美においても、祈りにおいても、最も重要なことです。主がモーセの執り成しの祈りに、しばしば応えてくださっておられるのは、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」(出エジプト記33:11)ほどに、モーセが主と親密な交わりをしておられたことと関係があるはずです。
主が聖書のことばを通して、私に語りかけたり、メッセージを語りかけておられるのに、私がそれに気づかず、「どこかの、だれかに言われているのだ。」と、くらいにしか考えていなかったら、主と親しく交わることができません。
主と親密な交わりをする秘訣は、主が私に痛いメッセージを語られた時、それを素直に受け入れて、従順に従うことです。これによって、主は一挙に、私の身近な存在となってくださいます。これを続ければ、すぐに主と親しく交わることができるようになります。自分に痛く感じるメッセージを、心かたくなにして聞き、無視して、拒んで、避けていれば、神様のいのちの光は、失われてしまいます。
神様のみことばの光に対して、謙遜で従順に従って行く時、私は神様の臨在の中に入っていきます。それを毎日、生活の中で受け入れていくことによって、主と親密な交わりを経験するようになります。
(第7章 完)
目次
1.一粒の麦
2.愚かで、鈍感でも
3.愛
4.霊的生活の基礎
5.神様に近づく方法
6.祈りと生活
7.どうすれば、いつも神様の臨在を感じることができるようになれるのか
8.神様の臨在の実際性(前半)
8.神様の臨在の実際性(後半)
9.病気、苦しみの中で
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