第8章 神様の臨在の実際性(後半)(主をわが前に置いた生活)

 もし、自分が神様から離れていることに気づいたなら、思い悩んだり、躊躇せず、すぐにへりくだって、主のあわれみを求めて、神様のもとに、真理の道に立ち戻ることです。それで問題はすぐに解決します。その後は、悩まないことです。

 私たちが信仰の歩みをしていく時には、必ずと言っていいほど、まつわりつく罪にひっかかります。不安な思いや、心配、他人に対する嫌な感情など、まつわりつくものが出てきます。あるいは、自分が他人より優れていると思うような高慢な思いも、自分が他人より敬虔な人であるかのように思う思いなど、信仰的な、まつわりつく罪も生じてきます。このような思いは、すべて捨て続けなければなりません。

 祈りを、神様と交わるためではなく、自分の欲を満足させるための手段に使ってしまうことさえ起きてきます。

 私たちにとって、ただ一つの大切なことは、神様と共に生活することです。心に主を宿して生活することです。神様と愛と信頼の交わりをし、心に神様の光を味わい、困難の中で忍耐や謙遜になることを学び、主を心で賛美し、主の恵みに感謝し、自分の行なう信仰の働きを、主とともにしていくことこそ、私たちのただ一つの目的なのです。欲に惑わされると、神様からはずれて行ってしまいます。

 私たちは、信仰生活と言っても、しばしば日常の生活や仕事の重荷にとらわれてしまいがちになり、その中で信仰を使うことを、忘れがちになり、怠りがちになってしまいます。それは残念なことです。パウロは、
 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)と言いましたが、「あなたがたのからだ」とは、私たちの日常の、身体を使って営んでいる生活のことです。その生活を、神様に喜んでいただけるようにすることが、私たちがささげることができる「生きた供え物」です。そして、これが霊的な礼拝です。礼拝は、日曜日の朝の礼拝だけではありません。私たちの毎日の生活が、神様にささげる礼拝となっているのです。ところがそこで、信仰が働かないで、毎日の重荷で押しつぶされていれば、一日一日が恵みのないものになってしまい、霊魂は疲れ果ててしまいます。

 神様は、私たちに重荷を負わせ放しではありません。私たちは、自分に苦しみがあり、悩みがあると、だれか、頼りになる人に聞いてもらいたいと思います。そこから間違った歩みが始まってしまうことがあります。話した相手が、あなたを責めたり、侮るようになったり、批判するようになったり、他の人々に吹聴したりすることによって、わざわいを引き起こしてしまうことがしばしば起きるからです。

 主は、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)と招いてくださっています。

 苦難の中で他人に助けを求めても、何の役にも立たないことが多いのです。苦難の日に、主だけを呼び求める人は、最も安全です。どうしても、人の助けが欲しいと思う人は、自分を主の所に導いて行ってくれる、真実で、確かな人を選んで、相談しなければなりません。自分の考えや、自分の正義感で、ことを行なう人には相談すべきではありません。必ず、あとで、その人に悩みを打ち明けたことを、後悔することになります。

 たとい、わずかの時間でも、主イエス様を思い、心で主イエス様をほめたたえ、主に心を明け渡して任せて、平安になり、安らかな恵みを味わい、自分の思い、悩み、課題、願いを打ち明けて祈り、主と交わることは、非常に大切なことです。

 主が、私たちに求めておられることは、わずかな時間でも、できるだけしばしば、私たちが主から慰めや平安を受けていることです。十二年の長血をわずらっていた女の人が、イエス様の衣に触った時、「イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて」(マルコ5:30)おられます。

 あなたがイエス様から慰めや平安を受ける時、主はご自分の内から慰めや平安の恵みが、流れ出て行くのを気づかれるのです。あなたが心を主に向けて、主と交わる時、主もまたあなたにみこころを向けて、交わってくださっています。

 主は、あなたがほんのわずかの時間でも心を主に向けることを、いつも喜んでくださいます。仕事中でも、他の人と話している時でも、心を主に向けると、主はいつでも喜んで、あなたを受け入れ、その人に話すべき知恵を与えてくださり、喜んでくださり、あなたの霊性を明るく照らしてくださいます。他の人と話している時は、声を出さなくても、心の中で主を呼び求めると、いつも主はあなたの内に、人に与えるべき恵みのみことばを与えてくださいます。

 神様とともにいるために、いつも教会にいなければならないというのではありません。いつも聖書を開いて、読んでいなければならないと思う必要はありません。自分の心を、神様と交わる神殿として、いつも自分の思いの前に主を置いて、主の光を心に受け、霊の交わりを楽しみ、謙遜な心になり、柔和になり、愛と信頼と、従順な服従をもって、主と語り合うことは、だれにでも出来ます。主は、私たちにそれができることをご存じです。それは、恐れず、心配せず、何も思いわずらわずに、自分の心を主に向かって開くだけです。太陽に向かっている窓を開けば、光が一杯に入ってくるのと同じです。今すぐ、この場で、一秒でも、二秒でも、心の底から主に向かって、素直な、自由な、明け渡した心になってみてください。キリスト教の形式や規則に捕われないことです。これまで聞いていた他人の言葉にも、捕われないことです。神様の前では、ありのままの姿が一番大事です。素直な、幼子のようになって、愛と信頼、謙遜と従順を心に抱いて、何事も行なってください。それが霊的な礼拝です。

 巧みな、上手な言葉で祈る必要はありません。普段使っている言葉で、人格をお持ちの神様に、あたかも目の前にいる人に語るように、実在されるイエス様に、直接お話してください。イエス様のお姿はあなたの肉眼に見えていなくても、主はあなたとともおられて、あなたの祈りに、あなたの話しかけに耳を傾けてくださいます。

 「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」(詩篇145:18)

 私たちの心は、この世の雑念や迷いや他人の言葉や、自分勝手な思い込みなどに陥って、思いわずらい、悩まされてしまいやすいのです。私たちの心は、しばしば勝手に思い浮かんでくる心配なことや、様々な思いによって、迷わされてしまいやすいのです。これを追い払って、心をイエス様に集中させ、心に恵みと平安や、確信を取り戻すためには、私たちの意志を働かせて、イエス様に集中することです。しかし、私たちの心の中には、自分の意志よりも強くて、私たちを悩ませる支配力を持っているものがいます。パウロは、それを「私のうちに住みついている罪」だと言っています(ローマ7:15~23)。

 これは、いかなる訓練によっても、取り除くことが出来ません。これは真理のみことばによって、聖め別たれなければなりません。

 「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)

 さらに「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)
 そして、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理によって、罪と死の原理から、解放される(ローマ8:2)時に、すべての悪い習慣に打ち勝つようになります。

 私たちは、自分の力で熱心になればなるほど、信仰に迷うようになります。自分の知恵と考えによって、熱心に傾いていくからです。多くの言葉で、長く祈れば、祈るほど、「祈った。」という自己満足に陥りやすいのです。自分の熱心さに誇りを感じ、高慢な心が芽を吹き出してくるのです。律法的に正しく、真面目になればなるほど、自分の正しさや、自分が罪を犯していないことに頼って、イエス様に信頼することが薄れて、心は神様の愛とあわれみを失うようになり、他人の弱点、欠点、罪を見つけては、自分の正義感から、他人をさばき、批判し、責めるようになります。このようにならない人は、一人もいないと言ってもいいでしょう。それほどに、私たちの心には、神様の愛とあわれみが、留まっていないのです。その代わりに、自分の正しさが心を占領しているのです。イエス様は、姦淫の女の人を、石打ちにするように責め立てていた律法学者とパリサイ人たちに、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)と言われました。他人の罪を責めている者で、「自分に罪なし。」と言える人はだれもいません。

 「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:1、2)

 私たちの信仰が安全に守られるためには、私たちの心が片時も、主イエス様から離れなくなることです。もし、少しでもイエス様から迷い出したと気づいたら、すぐに、神様のみことばと、イエス・キリストの十字架と、聖霊を信じて、神様のみもとに引き返すことです。こうして、いつも心に主を持って、主の臨在の中で生活することは、何ものにも代え難い、価値高い経験です。だれでも、この生活ができるのに、これを求める人は少ないのです。いや、稀なのです。

 「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)

 私たちは、主から恵みを多く受けているのに比べて、主をほめたたえたり、感謝することが、少なすぎるように思います。賛美歌を歌うのが、少ないと言っているのではありません。賛美歌を歌っていても、霊魂が主をほめたたえる思いで、満ちあふれていないのです。賛美歌の練習は、音符どおり歌う練習に偏っていて、霊魂が少しも歌っていないのをよく見かけます。

 主が与えてくださった恵みを、自分で喜び、楽しむことは、良いことです。しかし、それによって、さらに主を証しし、主の光を輝かせる生活を営むことを意欲的に、積極的にしたいものです。主は、私たちが主を愛して、主に仕えるような思いを持って、互いに仕え合い、助け合い、愛し合っている姿を見たいと、切に望んでおられます。

 「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」(マタイ20:26、27)

 「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:22、23)

 「このように、あなたがたの光を人々の前に輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)

 私たちの心が、二心では、このことはできません。私たちの心がまっすぐ主に向いている時、自分の心は、健全で、きよめられた心の状態になっています。その時、神様の愛が心に注がれています。

 主に全く信頼すればするほど、無限に主の恵みを受けます。この恵みの力によって、すべてのことをすることができます。この恵みがなければ、私たちは主のみこころを何一つすることができません。そして、自分を誇り、罪に陥ってしまいます。

 私たちは、サタンの誘惑と攻撃が激しいこの世にあって、神様の実際的な恵みを受けなければ、毎日、多くの危険から逃れることが出来なくなってしまいます。

 ですから、心を主に向けて、絶えず祈るべきです。しかし主を心に持たないで、いかにして神様に祈ることができるでしょうか。祈りの言葉を口から出すことは出来ても、神様と交わる祈りをすることが出来ません。主はいつも生きていて、私のためにとりなしてくださっているので(へプル7:25、ローマ8:34)、私たちは神様に、祈ることができるのです。

 「したがって、ご自分によって、神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

 「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

 イエス様をよく知るためには、学ぶことと共に、イエス様を愛して従い、イエス様とくびきをともに負って、生活のあらゆる場面で、イエス様と苦しみをともにし、喜びをともにし、よく交わることです。土の器の中に、イエス・キリストという宝を持って生活することです。宝のある所に、私たちの心もあるからです。

 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19~21)

(第8章後半 完)

目次
1.一粒の麦
2.愚かで、鈍感でも
3.愛
4.霊的生活の基礎
5.神様に近づく方法
6.祈りと生活
7.どうすれば、いつも神様の臨在を感じることができるようになれるのか
8.神様の臨在の実際性(前半)
8.神様の臨在の実際性(後半)
9.病気、苦しみの中で