第5章 神様に近づく方法 (主をわが前に置いた生活)

神様に近づき、交わる道を神秘的なことに求めても、道を誤るばかりです。聖書は、神様に近づく道を、はっきり示してくれています。

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。」(詩篇15篇)

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ書55:6、7)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:16)

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(へブル10:22)

自分がどんなに真面目に生活し、道徳的に正しいと思っていても、それに頼っている間は、それが自分の高慢となり、神様に近づく妨げになってしまいます。

逆に、自分がいかに罪深い人間であり、駄目な人間であるかを、自己診断して、「こんな自分はとても神様に受け入れられないだろう。」と思っている人も、神様と交わることができません。

「自分で、もっと努力して、正しい人間になれば、神様は喜んで受け入れてくださるだろう。」と思っている人も、神様に受け入れられません。

私たちは、自分の知恵による考えと、努力によっては、神様に近づくことができません。

第一に、イエス様は、「正しい(と自負している人、自己判断している)人を招くためではなく、罪人を招くために来てくださった」(マタイ9:13)ことを知ることです。

五人も夫を持っていたサマリヤ人の女の人も、姦淫の現場で捕えられた女の人も、取税人の長のザアカイも、その他、福音書に記されている、イエス様に救われた人々はみな、罪深い人たちです。「自分は正しくて、立派な人間だ。」と思っていた律法学者とパリサイ人は、イエス様を捕えて、殺しています。良いサマリヤ人のお話の中でも、祭司とレビ人は、神様の愛とあわれみを持たない、冷淡な、宗教の専門家として、描かれています。
そこで、私たちが神様に近づいて、交わるためには、へりくだって、胸をたたいて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)と祈った取税人のように、自分の罪深さを悟り、そのためにイエス様が十字架にかかってくださり、その罪を赦してくださったばかりでなく、この私の霊魂の内にイエス様の御霊が今、お住みくださって、私を受け入れ、神様の子とし、「アバ、父。」と呼ばせてくださり、神様の愛を注いでくださっていることを、信じることです。これが、「わたしが道です。」と言われた、イエス様によって父に至る道なのです。

自分の真面目さ、正しさに頼ってはいけません。それを心密かに、誇りに思っていてはいけません。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5)と言われている通りです。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

自分の知恵による判断に惑わされないようにしなければなりません。サタンは私たちの知恵に入り込んで、滅びの道を、まっすぐな道に見せ、完全な道のように見せるからです。

神様に近づくのに、自分の状態や出来具合を見て、躊躇してはいけません。神様の恵みとあわれみは、イエス様を信じる者すべてに与えられるからです。自分が正しい、罪を犯していない人だから、立派な人だから、神様に近づくことができるのではありません。イエス様の十字架のあがない(私の罪のために、イエス様が身代わりの十字架の代価を払ってくださっていること)があるから、神様は喜んで、私を受け入れてくださるのです。

この心の中の信仰の営みを、毎瞬、毎瞬、神様に向けていくことです。これが、自分の心を神様にささげていることです。これが、自分の心を神様に明け渡していく経験です。この時は、ただ、主に感謝をささげれば良いだけです。迷ったり、疑ったりしてはいけません。イエス様が、私たちとともにいてくださることを、信じるだけです。その信仰の営みの中で、私たちはイエス様の愛をひしひしと感じ、主とともに歩むことの喜びを経験します。イエス様の限りない愛を、親しく味わって、主を賛美せずには、いられなくなります。これによって、一日一日、主に仕える生活ができます。

こうして、私たちは、自分の罪のために失望したり、落胆したり、絶望することなしに、全き信頼をもって、主イエス・キリストの十字架のあがないにより頼み、主の限りない十字架の功績を、素直に、従順に心に受け入れ、主の赦しと潔めを信じて受けます。

「したがって、ご自分(イエス・キリスト)によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(へブル7:25)

私たちの思いが、神様の臨在からさ迷い出したり、主の恵みの助けを求めることを忘れたりしている時は、私たちの思いは、自分の出来具合とか、他人の評価に向いてしまっています。そうすると、私たちの心には、失望が襲ってきます。他人より自分が優れていると思えば、高慢が侵入してきます。こういう時は、主は私たちに恵みを与えることができません。しかし、あなたの思いが主を見失わない限り、あなたの思いが主に向けられている限り、主はあなたに恵みを与えないことは、決してありません。あなたが主を愛し、主に信頼し、主を喜ばせること以外、どんな野心も、思いも持っていないなら、主は、あなたから光を取り去ることはしません。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

神様が与えてくださる聖潔は、私たちの仕事の内容を変えることではなく、今まで自分の利益のために働いていた仕事を、神様の栄光のために、神様を喜ばすために働くという、心の中の動機を変えることにあります。神様を愛して、神様を喜ばせるために、すべてのことをするという、心の動機を持つ者にしてくださることが聖潔です。それが心の平安になり、隣人を愛することになって現われるのです。

ところが自分中心の利己的な欲のために、自分の人生の手段である仕事を、人生の目的と取り違えてしまって、自分中心の欲を満たすことだけのために働くと、不平不満、怒り、憤り、争いなどを引き起こして、十分な働きができなくなり、心は毎日、うつ状態に陥り、行き詰まり、主の恵みを受けられなくしてしまうのです。平安な生活ができなくなります。これは実に悲しむべきことです。この状態でいくら働いても、幸せにはなりません。

私たちが神様に近づくために、聖書が示している最善の道は、私たちのごく日常の生活を、自分を喜ばせるためではなく、神様を愛し、神様を喜ばせるために働くことです。

「私たち力ある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」(ローマ15:1~3)

「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや、神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」(ガラテヤ1:10)

「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」(エペソ6:6、7)

「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:22~24)

(第5章 完)

目次
1.一粒の麦
2.愚かで、鈍感でも
3.愛
4.霊的生活の基礎
5.神様に近づく方法
6.祈りと生活
7.どうすれば、いつも神様の臨在を感じることができるようになれるのか
8.神様の臨在の実際性(前半)
8.神様の臨在の実際性(後半)
9.病気、苦しみの中で