第8章 神様の臨在の実際性(前半)(主をわが前に置いた生活)

 信仰の書物を読んで、そこに書かれているような生活をしようとすると、すぐに難しさを感じます。ある牧師が、信者の人に、祈りについての、強力なメッセージが書かれている本を貸してあげました。強力な祈りの人になっていただきたかったからでしょう。しかし、信仰の弱い人が一足飛びに、祈りの巨人になることを、望むことは、無理な点があるでしょう。勿論、それが絶対に出来ないとは言えませんが。その本を借りて読んだ人は、祈りを、ますます難しく考えるようになって、「祈ることが出来なくなりました。」と言って、その本を返したとのことです。その相談を受けたことがあります。その本は私も読んだことがあり、大変感銘しましたが、その祈りは、その人自身の祈りであって、全員が、その人と同じ祈りをすればいいのかというと、そうではありません。父なる神様は、私たち一人一人をご自分の幼子として、全く信頼して何でも祈ることを、求めておられるのです。大人ぶっている人は遠慮がちに、気を利かせて祈るでしょう。しかし単純に、ありのまま、幼子になり切って祈る人は、全く何の遠慮もせず、あからさまに祈るでしょう。主は後者の人を喜ばれるのです。神様の前では、上手も、下手もありません。自分のありのままの心を明け渡すことが大事なことです。神の前に、自分自身を取り繕わないことです。

 信仰は、学んで、そのとおりにしようとすると、難しさを覚えるものです。これは見知らぬ地に、案内地図を書いてもらって訪ねて行くのと同じです。その案内地図が正確でなかったり、省略されていたり、間違っていたりすると、道に迷ってしまいます。しかし、その他に詳しい人が案内人になって、同伴してくださると、私は何も心配することもなく、容易に目的地に着きます。

 勿論、信仰の書物から学ぶべきものは、多くあります。しかし信仰は知識の理解ではなく、実際の生活の営みですから、私の人生を道案内してくださるお方が、必要です。それは、「信仰の創始者(導き手)であり、完成者であるイエスから目を離さない」(へプル12:2)ことです。

 イエス様は、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)と言われましたが、その「イエス様に従う。」ことが、どうすることなのか、分からない人がいます。毎週、休まずに教会に行っていれば、イエス様に従っていることなのか。道徳的に戒めを守っていれば、イエス様に従っていることなのか。自分の知恵で考えて、迷っているのです。

 しかしこのみことばは、そういう外的なことを言ったのではないことは、少し霊的なことが分かっている人は、すぐに気がつくでしょう。これは実に、人格的なことを言われたのです。これは何を、どうするかよりも、それを行なったことによって、自分の内に「いのちの光を持つ」経験をすることです。そこに、このみことばの奥義があります。生涯、一回も、日曜日を休まずに教会に行っていても、その功績によって、天国に行けると思って、自己満足しているなら、その人の内に「いのちの光」はありません。マタイ19章の、金持ちの青年のように、戒めを全部守って、真面目に生きてきた人でも、自分の財産を惜しんで貧しい者を助ける愛(隣人を愛する愛)を持っていなければ、その人の内に「永
遠のいのちの光」はありません。

 イエス様が言われたことは、何を、どうするかではなくて、何を心に持ってするかを言われたのです。「イエス様に従う」とは、儀式的に、律法的に守り行なうことではなくて、心にどんな動機や目的、霊的思いを持ってするかが大切なのです。

 パウロは、当時の奴隷にされていたクリスチャンたちに対して、「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:22~24)と教えています。

 信仰を知識の理解や思想や哲学のように考えると、霊的いのちの実際性を失ってしまいます。すなわち、大事なことを知っているけれど、何の役にも立たず、使い物にならないのです。ただ議論や争いの材料にされるだけです。私自身の内に体験され、日常の生活の中で、力を発揮して働かせてこそ、イエス様が言われた「いのちの光」を経験するのです。

 イエス様が私と共におられ、私の内におられるという神の臨在感は、確かに主観的な経験ですが、それには確かな証拠が伴います。私の心に神様の愛が注がれ、忍耐できるようになったり、謙遜になれたり、隣人を助けたり、困難や課題を簡単に諦めて、投げ出したりしなくなります。神様は罪深い私にとっても、私を滅ぼして地獄に投げ込む、恐ろしいお方ではなくなり、私の救い主、購い主となってくださり、大きな喜びと慰めを与えてくださるお方となったのです。何度失敗し、敗北しても、私が主から離れない限り、主は私をお見捨てにはならず、愛してくださるのです。このことを経験させてくださったのは、主イエス様を信じる信仰よってです。それ故、神様の臨在感は、単なる主観的な感覚だけではないことが明らかです。神様の臨在の中には、確かに、神様のご人格と私の人格の間に、交流があることは明らかです。

 神様は、人間の観念によっては、言い表わすことができません。神様を人間の理性で、すべて捕えてしまうことができないのです。しかしイエス様を信じて間もない頃、一所懸命、自分の理性をフル回転させて、神様をあっちから考えたり、こっちから見つめたりして、神様を理解しようとしていました。この愚かな努力が、自分を悩ませたり、苦しめたりしてきたのです。

 幼子のように、ありのままの自分を主に明け渡して信頼せずに、「神を礼拝するとは、何だろう。主を、霊とまことをもって礼拝する、と言っても、自分は本当に礼拝したのだろうか。」と考えて、悩んだり、自分が過去に犯した罪が、いつも思い出されて、これで本当に罪は赦されているのかと、悩みました。こんなことを経験した人は、私一人ではないでしょう。イエス様を信じたことが、私の悩みとなり、受けた恵みが、苦しみの原因となってしまったのです。

 このように感じてしまったのは、私が信仰よりも、自分の理性を働かせてしまっていたからです。信仰が働いていない人間の理性で、神様を考えると、神様ご自身が私に敵対して、罪を責めて、滅ぼそうと、刑罰を下そうとしているように見えるのです。イエス・キリストの購いの信仰が心で働いていないと、いつでもこのように見えます。神様が私たちに与えてくださったのは、信仰だけなのです。「幼子のように」とは、ありのままに、主に信頼する信仰だけを働かせている人のことなのです。ここに到達すると、それまでの迷いは、全くなくなります。

 「このような恵みを受けているのは、自分の思い過ごしではないか。」と思ったり、一寸した困難が起きると、すぐに心が折れて、落ち込んでしまいます。「本当は、自分は救われていないのではないか。」と考えてしまったりするのは、すべて信仰のない自分の知恵による理性に頼っているからです。この実体を知れば、少しも恐がることがなくなります。私たちが持つべきものは、イエス様が、私を全く救う、救い主であることを信じる信仰だけなのです。

 「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(へプル7:25)

 私たちは罪から救われるだけでなく、自分の知恵に頼る理性からも、救われなければなりません。この正体を見破って、主に、ありのままの姿で、幼子のように信頼するようになった時、主に信頼することから迷い出すことはなくなり、いろいろな困難がやってきても、自分の奥深くにある、キリストの平安を保ち続けることができるようになります。

 信仰を持って間もない頃は、何をするにも、特に、熱心であろうとしていました。しかしイエス・キリストが私の中に住んでいてくださることを信じた時、特に、熱心であろうとする熱意が必要でなくなりました。むしろ、主が私とともにあり、私のうちにあって、導かれること、指示されることに従順に従い、主が喜ばれることを、私も喜ぶように変わりました。謙遜と愛との信仰により、神様の前にあること以上に、幸福を感じさせてくれるものはありません。

 それでも毎日、自分の意志で仕事をしています。困難な課題は次々と出て来ます。しかしそれらを自分で解決しなければとは考えません。神様が解決してくださるのを待つだけです。こうすれば人との不必要な争いはなくなります。しかし信仰だけは、譲りません。主のみこころを行なうことだけは、譲れません。そうすれば、神様は真実で、愛のお方ですから、必ず助けてくださいます。

 ある時、「お祈りは、朝早く起きてしたほうがいいでしょうか。夫を会社に送り出し、子どもを学校に送り出してから、お祈りをしてもいいでしょうか。」と質問を受けました。私は、「あなたがゆっくりと、心を落ち着けて、自分の心を神様にささげて、真実に集中して、主と交わる時間に、祈ったらいいでしょう。」と答えました。

 また他の人は、「一日に何時間、祈ればいいでしょうか。一時間、二時間、三時間祈っている人がいるのですが。」と言いました。

 祈りは、時間帯や、時間の長さで効果が変わると、思い込んでいるようです。確かに、イエス様は、まだ暗いうちに、お一人で山に入って行かれて、祈られています。それを真似して、早朝、暗いうちに、山に行って祈る人もおられます。それは良いことです。イエス様を思うことにつながるでしょうから。しかし早朝の暗い間だけが、神様が私たちの祈りに耳を傾けてくださる時間帯ではありません。イエス様は昼も祈られ、グッセマネの祈りのように、夕方や夜も祈られたはずです。早朝の暗い時間帯だけを、祈りの効果のある特別な時間帯と思い込むのは間違いです。不健全な思いになります。夫や子どもを送り出した後、心を落ち着けて、主に集中して、主と交わる祈りの時を持たれるほうが、大事です。

 また時間の長さを気にしつつ祈るのは、止めましょう。主は、私たちの祈りの時間の長さを、ストップ・ウオッチで測っておられるお方ではありません。主が見ておられるのは、心の中の動機や、信仰の中身、愛や謙遜なのです。祈りのことばが短いとか、上手でないとか、そういうことを気にしてはいけません。主はそういうことで、あなたの祈りを聞いてくださらないことは、決してありません。むしろ、飾らない、たどたどしい短い祈りを、愛して聞き届けてくださいます。

 最もよくないことは、疑いながら祈ることです。主に信頼もしないで、習慣だけで祈ることです。

 私は身体の疲れの程度や、仕事の都合で、真夜中に祈ったり、早朝に祈ったり、日中に祈ったり、列車の中で祈ったり、航空機の中で祈ったりして来ました。祈りに時間や場所の制限を、勝手につけてはいけません。

 ただ、人は怠惰になりやすいので、日常生活の中で、自分で祈る時間や場所を決めておくことは、必要なこともあるでしょう。その時でも、その時間や場所に縛られる必要はありません。

 大事なことは、何をしている時にも、神様の臨在の中にいることです。私はこの大気の空気の中にいなければ、働くことができないばかりでなく、生きることすらできないように、もし私が神様の臨在の外で、何かをしているなら、私の霊魂はたちまち死んでしまうでしょう。

 ある信者の人が、「私はお客様を相手にして仕事をしているから、祈りなから仕事をすることができません。」と言いました。しかし、自分の心の中で主に信頼する思いを持って、人と接することはできるでしょう。私の心を主に向けているなら、主の方から光を照らしてくださり、お客様に話すべきことも、教えてくださることもあるはずです。信仰者が途中から、不信者になってしまうのは、神様の臨在の外で、仕事や生活をしてしまうからです。これでは霊魂が死んでしまいます。

 以前は、私も祈る時間帯を決めていましたが、今では、主が目覚めさせてくださった時に起き、自分の疲れとも相談しつつ、主と交わっています。どんな黙想も、祈りも、時間で定めることを、止めました。むしろ、イエス様に信頼し、主のみこころがなされるように、心を用いるようにしています。これによって、主から多くの語りかけやメッセージを受け、恵みを受けるようになりました。時間を限った祈りは、それが終わると、「祈ったぞ」と、安心して、心が主から離れやすい危険があります。

 私たちの生活のすべての中に、神様がおられることを自覚することが、神様の臨在の実際性です。

 「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)

 神様の臨在を経験するためには、自分の知恵で、あれこれ考えないこと、思いわずらわずに、心を神様の前で沈黙させ、神様と密かに語り合う心の営みをすることです。アブラハムは、神様の約束のみことばを信じて待っていることよりも、自分の考えで、妻サラの提案を受け入れて、女奴隷ハガルから、イシュマエルを産んでしまった時、神様との交わりが十三年間も途絶えてしまいました。神様の臨在の交わりを失うのは、明らかに自分の知恵と考えに頼っているからです。そこで、神様は、そんなアブラハムに「わたしは全能の神である。あなたは私の前を歩み、全き者であれ。」(創世記17:1)と命じられました。これによって、アブラハムはもう一度、神様と交わる喜びを回復したのです。

 ある人たちは、神様と自分だけでは、退屈なことだと思っています。これは思想や哲学や考えの中で、神様を思っているからです。しかし神様の聖霊は、私が罪深い者であり、怒りやすい、惨めな者であることを悟らせ、罪や咎を犯して、神様に逆らって来た者だったことを悟らせてくださいました。そして、その罪と咎を、イエス様がすべて、私の代わりに十字架で負ってくださいました。このことを私が信じた時、神様がどんなに私を愛して、私の身近にいて、私と共に喜んでくださっているかを経験したのです。

 主はあわれみに満ち、善に満ちたお方で、私を罰するには遅いお方であり、いつも愛とあわれみの中に、包んでいてくださるお方です。私の罪を赦し、すべての悪から私を潔め、平和の神ご自身が、どんな時にも私とともにいてくださって、私の心に光を与え、力づけ、希望を持たせ、喜ばせてくださるのです。神様は愛をもって、私が知らない所でも、気づかない時にも、私を導いて、みわざを行なっていてくださることを見せてくださいます。

「イエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)と言われていますように、いつも心を、イエス様に向けて生活するという、ごく普通の方法で、しばしば喜びを経験します。それは羊飼いのイエス様のふところに抱かれた子羊のような安心感に包まれます。

 「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ書40:11)

 主は、私の霊魂を主と同じかたちに変えようと、毎日、主の栄光を私の霊魂の内に照らして、御霊によって働いてくださいます。こういう時、粘土は陶器師の手に自分を任せて沈黙しているだけです。私たちも、自分に臨んでいてくださる神様を深く心に思って、自分の考え方が、どうだ、こうだ、という議論を止めて、ただ素直な心になって、主に任せていることが大事です。自分の出来がいいとか、悪いとか、他人の批判や責めを気にすることなく、陶器師であられる主の御手に自分自身を任せます。すると、神様の平安が私たちの霊魂の中心にまで入ってきて、神様の臨在の中に、しっかりと留まることが出来ます。

 このような神様が与えてくださった平安な状態は、怠惰やサタンの惑わしや、他人の言葉を気にすることによって、破られることがありますが、心を主に向ければ、すぐに回復することが出来ます。主が支えてくださるからです。この平安の中に住むことを繰り返しているうちに、段々と妨げられないように、平和の神ご自身が私の霊とたましいと、からだを守ってくださっていることが分かってきます。

 イエス様のほかに、私たちの霊魂を喜んでくださるお方は、いないからです。もし私たちがサタンの惑わしの中にいたり、思いわずらいの中にいるなら、神様は、火の中の燃えさしのように私を取り出して、お救いくださいます。

 「これは、火から取り出した燃えさしではないか。」(ゼカリヤ書3:2)

 ですから、私たちはますます、主だけをほめたたえるようになり、主にだけ望みを置くようになり、霊とまことをもって、主を礼拝することが、喜びとなるのです。

 私たちが苦難に会う時には、主が私たちの霊魂の内に、この世的なものを見つけて、それを取り除き、私たちの行く所、どこにあっても、主を見つけ出すようにするためです。どんな状況の中でも、私たちと共にいてくださる主に、すべての信頼を置くことを、学ばせてくださるためです。こうして、主の約束が確かなものであることを経験させてくださるのです。主は、私たちが最も危険なことに出会っても、主にだけ信頼するようにさせたいためです。それは嵐の中のガリラヤ湖で、荒波の中で苦しんでいた弟子たちに、イエス様を呼び求めさせ、主が舟に乗ると、嵐が止み、静かになることを、経験させたのと同じです。

 ですから、ごくわずかの時間でも、主に心を向けて、主に信頼して、主に希望を抱くことは、神様を礼拝していることです。どんなに短くても、それは神様への祈りです。神様は必ず、喜んで受け入れてくださいます。この小さい、ごく短い礼拝をする人は、あまりいませんが、この小さい礼拝を毎日、繰り返すことは、だれでも容易にできます。これによって、主を思う思いはますます深まっていきます。そして、この小さい礼拝は、私たちの霊魂に、最も適切で、最も必要な礼拝です。私は毎日、一、二回しか、深呼吸をしませんが、ごく小さな呼吸は、絶えずしていますので、生きていられるのです。それと同じで、私たちの霊魂は、日曜日の、週一回だけの礼拝だけでは、生きていくことが出来ません。毎日、ごく小さい礼拝を続けていくことが、私たちの霊のいのちを、新鮮に支えてくれるのです。

 神様とともに歩むことで、最も大切なことは、心を尽くして主を愛することです。神様を愛する心がなければ、どんな敬虔を養う修行も、訓練も、学びも、むなしく、偽りに終わってしまいます。神様の臨在を経験することは、どんなに習慣的になっていても、主を愛することを忘れて、失ってしまったら、なおしばらく、その霊的雰囲気に浸っていても、主は、サムソンに力を与えるのを止めてしまわれたように、やがてサタンの誘惑にひっかかるようになり、自分の知恵に頼るようになり、他人のことばで動かされるようになります。そして霊的力を出そうと思っても、主が自分から離れてしまって、力が働かない、力が出ないことに気づかされるのです。

 霊の力は、努力して出せるものではありません。日々に、心を尽くして、主を愛していることによって、自分の弱さの内に、神様のカが与えられ、現われるようになります。

 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(コリント第二12:9)

 もし雑事で心が思いわずらい、神様の臨在から離れてしまったなら、主は、すぐに、私たちの霊魂に、霊の光が消えていることに気づかせます。そして、私の心を主のもとに、呼び戻してくださいます。このとき、ザアカイのように、「ザアカイ。急いでおりて来なさい。」と呼ばれたなら、いろいろ理由をつけずに、すぐに喜んで従うことです。

 自分の心に働く、神様の引力に忠実に従うことです。ただちに、神様の方に心を向けて、従順な、柔和な心を持つことです。

 「主よ。あなたのみこころのとおりにしてください。」と祈りましょう。

 愛の言葉とは、「愛しています。」と言うことだけでは、ありません。「主よ。私はあなたのものです。あなたのみこころのとおりにしてください。」も、愛の言葉です。この祈りが心からささげられたら、私の心に、神様の光が再び回復します。

 神様は、愛のお方ですから、私の愛が真実であるなら、神様は、私のわずかの、舌足らずの愛の告白でも、十分に喜んでくださり、満足してくださいます。これが、私にとっては、深い神様の平安として、感じられるのです。この体験によって、私の霊魂に神様が満ちていてくださることを、確信するのです。

 パウロは、「私たちは、この宝を、土に器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(コリント第二4:7)と言いました。

 しかし、畏れおおくも、まさか自分の内に、このような大きな宝庫があることに気づかずにいた者が、この真理を体験し、平安と満足と喜びを受けています。この宝庫は、恐れや不安を心に抱きながら、捜し求めて見つけたのではなく、私の前にすでに、ずっと以前から開かれており、私が求めさえすれば、自由にこの宝を自分の経験とすることができる状態にあったのです。これからも、この状態は続きます。イエス様の再臨の時まで。

 しかし私の霊の目が開かれておらず、盲目である時には、あまりにも、ごくわずかの恵みしか経験しておらず、それで満足している、あわれな状態でした。神様の宝庫は、果てしない大海のようなのに、私が毎日、経験していた海は、岸辺に打ち寄せてくる、さざ波のようなもので、わずかな信仰の祈りと、賛美と、みことばの理解による、神様との交わりで、満足していたのです。私の霊の目が十分に開かれていなかったので、イエス様が、「木のようなものが歩いているように」(マルコ8:24)しか、見えていなかったのです。そういうイエス様を経験することで満足していたのです。この小さな満足が、大海のような恵みを味わうことを妨げていたのです。私の心を全開にして、全くイエス様に信頼して、すべてをお任せした時、主はその私の信仰を見て、心にあふれるばかりの恵みを注いでくださいました。あふれる恵みが注がれていなければ、その流れをせき止めている障害物があるはずです。その障害物は罪だと思って、捜しても、見つからないことがあります。それは、わずかの恵みで満足している信仰であることがあります。「私はもう、これで十分です。」と思っている時、恵みにあふれさせようとしておられる主は、悲しまれます。

 私は自分の愚かさのために、自分の知恵で、「徐々に、少しずつ恵みを味わっていけばいいんだ。」と考えて、神様の大いなる恵みを知らないで、恵みの流れをせき止めて来たのです。「すべてのことは、神様がなされるがまま」にすることが、最も良いことだと知りました。そうすれば、まわりで何が起きても、思いわずらうことがなくなりました。空が黒雲でおおわれても、それは神様の恵みの大雨の兆しであることを知ったからです。神様の恵みを妨げるものは、自分の知恵による考えであることが、多かったのです。これを止めることによって、私の内に、主の宝の恵みが、注がれる道が開かれたのです。これによって、これまで失って来た時間をあがなう(買い戻す)ことが出来ます。いつまでも到達できなかった自分の人生の道が、急速に目的に向かって近づくことができるのです。神様のご目的と、神様の知恵と力が与えられたからです。

 私たちは、明日も、今日と同じように、いつまでも続いていくと思っていないでしょうか。しかし、イエス様の再臨の日は迫っています。イエス・キリストを自由に信じて、経験できる時代が閉じられる時が、近づいて来ています。その時、私たちの霊魂が、サタンと肉の欲の惑わしに従っていて、滅びの火で苦しまないように、神様に会う備えを、十分にしておかなければなりません。

 「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4:12)

 「私は罪を犯していないから、大丈夫。」と思っている人もいるでしょう。しかし、マタイ19章の、永遠のいのちを求めて来た、真面目で「すべての戒めを幼い頃から守ってきました。」と言うことが出来た金持ちの青年は、貧しい隣人を愛して施す愛を持っていなかったために、悲しい顔をしてイエス様のもとを立ち去っています。彼は神様に会う備えが出来ていなかったのです。

 ルカ16章の金持ちも、貧しいラザロを助ける、あわれみの心を持たず、自分だけ、ぜいたくに暮らしたために、ハデスで苦しみ、後悔して、地上に残っている家族に、ラザロを遣わしてくださいと、アブラハムに求めていますが、聖書の教えに耳を傾けないなら、死人の中から生き返った人が行って話しても、聞き入れはしないと、言われています。

 ルカ12章の金持ちの農夫も、豊作の穀物を蓄えるために、新しい倉を建て、自分だけが食べて、飲んで、楽しむ生活しかしなかったために、神様から「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」と言われています。そして、すべての人に、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ12:21)と警告されました。

 「自分は真面目で、罪を犯していないから、天国に行ける。」と安心しているクリスチャンは、次のことに注目してください。

 新約聖書には、悪い罪を犯していなくても、自分の財産が減ることを惜しんで、貧しい隣人を愛せず、助けなかったり、他人の罪や欠点を批判して、さばいたり、争いを起こしたり、仲直りしないままになっている人が、イエス様から「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7:23)と言われていることに心を留めて、良いサマリヤ人にならわせていただきましょう。サマリヤ人は、ユダヤ人から侮辱され、忌み嫌われていましたが、そんな人にさえ、愛の手を差し伸ばし、自分の富と仕事の時間をさいて、傷ついたユダヤ人を助けたのです。

 神に会う備えとは、主を信じていることと共に、神様の愛を隣人に与える生活をすることです。

 「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒の働き20:35)

 「もしあなたがたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」(ローマ12:20)

 天国へ行く信仰の道は、具体的で、この地上の生活をしている間に、行なうことの出来る道なのです。この準備をおろそかにしてはいけません。

 「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)

 「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一3:18)

 私たちの心に、聖霊によって神様の愛が注がれ、その愛によって信仰を働かせているのでなければ、私たちの霊的生活は徐々に、後退していきます。しかし聖霊を内に信じて、心に神様の愛と平安を持っている人は、絶えず、霊魂が成長し続けています。もし、何らかの事情で、自分の心に波が立ち始め、嵐になりそうなら、弟子たちが舟のともの方で眠っておられたイエス様を呼び起こしたように、イエス様を呼び求めることが必要です。イエス様だけが、その嵐を静めることが出来るからです。

 主はエペソの教会の信者たちに、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」(ヨハネの黙示録2:4、5)と命じておられます。

 先には、信仰でよく走っていた人が、恵みを受けて、幸せになり、すべてのことが順調に進んでくると、自分の知恵を優先させるようになり、その祝福に慣れてくると、最初の主に向けていた愛を失ってしまい、自分の関心事に一所懸命に、夢中になってしまいます。それがたとい教会の働きでも、伝道の働きに熱心であっても、主を愛する愛が忘れ去られてしまうのです。すべてが愛によって働く信仰ではなくなり、自分の熱心による努力になってしまいます。ここに落し穴があります。

 何か、心に霊的な違和感や、自分の力みのようなものを感じつつも、何が狂い始めているのか、はっきりつかめず、ずるずる主から遠ざかって行ってしまうこともあります。これを心配すると、あまりに主観的に警戒してしまって、何をするにも、危険を恐れて、何も積極的に出来なくなってしまう危険もあります。かえって、自分の知恵の主観で、神様のご計画を潰してしまったり、妨害をしてしまうことにもなりかねません。両方に、極端になる危険があります。ここから守られるためには、何をするにも、みことばと、キリストの十字架の購いと、御霊を信じる信仰を確信して、行なうことしかありません。

 「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。・・・信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:22、23)

 もし少しでも、イエス様に対する愛が、冷やかになったと感じたなら、そのままにしておかず、初めの愛を取り戻そうではありませんか。その手だては、神様のみことばとキリストの十字架の血潮と、聖霊を信じて、心のうちに受け入れる経験をすることだけです。心にまつわりついていた、自分に頼ろうとする気持ちを、主に渡して、もう一度、新たに、主に信頼する信仰に立ち戻るだけです。消えた火は、真理によって、もう一度、燃やすことが出来ます。

 「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」(テモテ第二1:6)

 私が祈る時、一番、心していることは、自分の願いも、欲も、考えも、空にして、ありのままの自分で、全く心を主に明け渡し、すべてのことを、必ず、主が成し遂げてくださることを信じて、信頼して、任せ切った心を主に向けることです。自分の思いや願いを主に、ぶっつけるのではなくて、苦しいことも、願いたいことも、主に任せれば、主が成し遂げてくださることを信じて、透明な光の中で、主を待つ気持ちを持つことです。

 私が、主のみことばを話す時、聞かれる人が私のことばとして聞くのではなく、主がお一人お一人の心に語りかけてくださるように、主の御声を聞かれるようにと、祈りの心を定めております。自分の解説のうまさや、下手さを気にしないことです。私の話を聞かれる人が嫌がったり、傷ついたりすることもあるでしょう。しかし、イエス様の御声を聞いてくださるなら、主は私のことばで傷ついた傷も、いやしてくださると信じています。

 私がどんなに熱烈に語っても、私の話すことは、実現しません。ただ、主が語られたみことばだけが実現するのです。

 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)

 私の心の中から、自分中心の欲をなくして、空の器にして、主の前に出るとき、神様が、その空の私の心を恵みで満たしてくださいます。器の中に、自分の思いや、主張や、欲が残っていて、渦巻いていると、主は、私の心をご自身の住まいにしてくださいません。だから、主の臨在は私にはありません。自分の心の内をいくら点検しても、主の臨在は分からないのです。主は、私をみこころのままに用いることができないから、私の内にお住みくださらないのです。

 人間の経験としては、神様と霊的に交わる生活をすること以上に、うるわしく輝いて、心を満たす生活はほかにありません。これは自分を空にして、心に神様の御霊が満ちてくださることを経験した人だけが、味わい知る奥義です。心を空にして、主に全面的に信頼する人なら、だれでも、今すぐ経験できます。

 これは神様と私たちの愛の交わりなのです。これは神様の愛の原理です。これほどに、私たちの信仰で、すばらしく大切なものは、ほかにあるでしょうか。

 どんなに熱心に教会に通っている人でも、また教会の活動に熱心に参加している人でも、神様を自分の前に置き、神様の臨在の中で生活すること、神様の御霊を自分の内に宿して生活すること、すなわち、信仰を日常生活で活用することなしに、恵みに満足することはできません。キリストの平安に満たされた生活をすることができません。

 ですから、できるだけ多くの時間を、自分の内に主の御霊が満ちてくださり、主と共に歩むことを自覚し、霊魂が安息を続けているように、信仰を働かせることに心を用います。主が私の内にいてくだされば、恐れも、不安も、空しさもなくなります。

 ほんの少しでも、ペテロのようにイエス様から目を離し、この世の風や波を見て、この世の人の声に耳を傾けると、たちまち、私の心は沈み始めます。

 「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけた。」(マタイ14:30)

 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へプル12:2)

 「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」(ローマ8:15)

 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(ヨハネ第一4:18)

 神様と全く一つになり、神様と霊的に交わる喜び、平安、楽しみを経験している人は、ほかの楽しみに心を移すことは考えられません。

 「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩篇16:8、9)

 私たちは信仰生活において、「ああしなければならない。こうしなければならない。」という模範的な、律法的な思いに縛られてはいけません。聖なる自由の中で、主に仕えて生活すべきです。心迷ったり、動揺したりせず、信じて何事をもなすべきです。

(第8章後半に続く)

目次
1.一粒の麦
2.愚かで、鈍感でも
3.愛
4.霊的生活の基礎
5.神様に近づく方法
6.祈りと生活
7.どうすれば、いつも神様の臨在を感じることができるようになれるのか
8.神様の臨在の実際性(前半)
8.神様の臨在の実際性(後半)
9.病気、苦しみの中で