第6章 祈りと生活 (主をわが前に置いた生活)

祈りのために定められた時間は、特別に聖なる時間であって、その他の日常生活をする時間とは異なると思うのは、大きな惑わしです。神様が与えてくださった時間に、聖も、俗も、ありません。その違いは、私たちの心が、神様に向いているか、自分の欲に向いているか、神様の臨在の中にいるか、自分中心の思いの中にいるかの違いです、もし、あなたが祈りの時に、全心を神様に向けて祈っているなら、それと同じように、普段の仕事や働きの時に、全心を神様に向けて働いていれば、祈っているのと、全く同じです。神様の臨在の中にいて、神様とともに働くことができます。祈りの時間と、仕事をしている時間とに、少しの違いもありません。

私たちの祈りは、自分の口から、どんな敬虔な祈りの言葉が出るかではありません。自分の心が、主に対して全く信頼し、主を愛し、主の臨在を心に信じているかにあります。それ以外には、何もありません。私たちの祈りは、神様と自分の間の霊的交流にあるからです。私の霊魂が神様の愛を持っている時、祈っている時間も、祈り終えた後の時間も、全く違いがありません。祈り終えた後も、私は続いて、神様とともに歩み、主イエス様とともに、くびきを負って学んでいます。神様を賛美する心に満たされており、主の恵みと祝福を味わっています。ですから、
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ第一5:16~18)の心の状態で、生活できるのです。

この経験の中で、私たちが学ぶことができることは、神様は、この心の状態が強められるために、私たちに苦しみの試練を与えることもあることです。ですから、試練が来れば、苦しみますが、驚いたり、あわてたりしてはいけません。心を尽くして、全く主に信頼し、主は私たちを欺かれたり、失望させたりされるお方でないことを確信して、主にお従いすることです。

「主はいっくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり黙って座っているがよい。
口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
主は、いっまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは思っておられない。」(哀歌3:25~33)

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(ペテロ第一2:6)

次のみことばは、極めて重要なことを約束しています。

「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることばありません。」(マタイ10:42)

「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富(この世で使うお金のこと)に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。」(ルカ16:10、11)

「主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」(ルカ19:17)

私たちは、神様を愛するために、ごく小さい事、ほんのささいな事も、おろそかにすべきではありません。心を尽くして、主に対してするように、信仰の心を働かせることが大事です。

神様は、私たちの働きの大きさを見ておられるのではなく、小さいことを成し遂げる時の、愛の心を見ておられるのです。

しかし、そうは言っても、愛の心を用いて行なうことを、忘れてしまうことも、しばしばです。いつもの調子で、やってしまうことも、多くあります。しかし、そのように神様を愛することを忘れたからと言って、それを気にして、悩むことは、すべきではありません。信仰生活には、失敗、敗北は、しばしば経験します。神様は、私たちが完壁にできる人間になることを求めておられるのではありません。失敗した時こそ、自己批判したり、他人の批判を気にして落ち込んでいたりせず、すぐに、へりくだって、再び、すぐに主に信頼し、主を愛することを、取り戻すことです。これを繰り返していくうちに、段々と、苦労なく、いつも忘れることなく、主を愛する愛の心が、私たちの内で働くようになります。そして大きな喜びを味わうようになりますので、安心してください。絶対にしてはいけないことは、自分の失敗をいつまでも、くよくよ、嘆き続けていることです。

「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)

宗教の本質は、「信仰と希望と愛です。」(コリント第一13:13)

信仰とは、神様のみことばの約束と、キリストの十字架の購いの血潮と、聖霊のみわざとを、自分のものと、受け留めることです。

希望とは、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせた方の御霊が私の内に住んでいてくださって、私の死ぬべきからだをもよみがえらせてくださることを信じることです(ローマ8:11)。この希望は、復活の希望です。

愛とは、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、私の神である主を愛し、私の隣人を私自身のように愛することです。(マタイ22:37、39)

これ以外のことは、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため(ビリピ3:14)の方法、手段として用いるものであって、それらのすべては、この三つの信仰と、希望と、愛の中に、含まれているものです。

イエス・キリストの購いを信じる人には、救いに至るすべての道が開かれ、可能になります。キリストによる復活を望む者には、さらに困難、迫害、試練に耐える力が与えられます。主を愛し、隣人に神様の愛を現わす人には、なお一層、主は喜ばれて、栄光を現わしてくださいます。

私たちが、この地上の生活で味わうことは、永遠の神の御座の前で礼拝する前に、この地上において、霊とまことをもって主を礼拝するようになることです(ヨハネ4:24)。

パウロは、この礼拝について、

「あなたがたのからだ(生活)を、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)と言いました。

これは、信仰と、希望と、愛を、私の日常生活の中で活用して生活することです。「礼拝は、日曜日に教会に行くことだ。」と考えているなら、それは形式的で、うわべだけの儀式を守ったという礼拝で終わってしまいます。預言者イザヤが、イザヤ書6章で経験した、イエス様の栄光を経験する礼拝(ヨハネ12:41)はできません。しかし、自分の内に、イエス様の御霊を持って、主を礼拝するなら、すぐにイザヤのように、自分が聖なる神様に仕えて礼拝するのにふさわしくない者であることに気づきます。毎日の様々な出来事を通しても、足りない者であることを、悟るでしょう。忍耐も、寛容も、従順もなく、気質においても、行ないにおいても、さらに謙虚にならなければならないことを知るはずです。霊とまことをもって、主とお会いする礼拝をささげている人は、必ず、こういう経験をします。こうして、主を礼拝することは、私たちの霊魂を陶冶するのです。このことが起きない礼拝は、ただの儀式だけです。

このような、主と交わる礼拝をささげていくと、他人から非難や攻撃がかけられても、惑わし、欺き、反対、誤解、わざわいが、持ちかけられることがあっても、怒りを持って仕返すこともなく、心が平安に守られ、神様がすべてのことを益にしてくださる恵みを信じて、受け留めることができるようになります。

私たちが、ますます、霊とまことをもって、イエス様の栄光を経験する礼拝を渇き求めて生活するなら、ますます神様の恵みに信頼するようになります。

「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」(ペテロ第二3:18)

(第6章 完)

目次
1.一粒の麦
2.愚かで、鈍感でも
3.愛
4.霊的生活の基礎
5.神様に近づく方法
6.祈りと生活
7.どうすれば、いつも神様の臨在を感じることができるようになれるのか
8.神様の臨在の実際性(前半)
8.神様の臨在の実際性(後半)
9.病気、苦しみの中で