第3章 愛 (主をわが前に置いた生活)
私たちの信仰は、愛の神学で止まっていてはいけません。小さい者の一人に、水一杯でも与える、愛によって働く信仰を持っていなければなりません。
主は律法学者が、「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」と尋ねたとき、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:37、39)と答えられました。
ルカの福音書10章の良いサマリヤ人のお話では、サマリヤ人は外国人で、律法も学んでおらず、ユダヤ人の儀式も守っていなかったのに、彼の心には、自分を嫌悪していたユダヤ人の傷ついた人を助ける愛があったのです。このサマリヤ人には愛の神学はなくても、愛を働かせる心があったのです。このお話を読んで、どんなに多くの人が神様の恵みを経験したことでしょうか。これに比べて、神の律法の専門家であり、神殿で人々の礼拝を指導していた祭司とレビ人は、愛の宗教の神学を持っていながら、一人の傷ついた同胞を助ける愛によって働かせる信仰を持っていなかったのです。
パウロは、次のように言っています。
「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)
私の身近な友人たちが、私の欠点、弱点、過誤を取り上げて、非難することがあるでしょう。それで気持ちが落ち込むこともありますが、いつまでも思い悩んではいません。私が地上に生きている限り、私の欠点、弱点、過誤の誤解などは、なくなることはありません。それが他人の目には、気に障ったり、とても悪い罪に見えてしまうのです。それで、非難されるのです。それを指摘され、非難されたら、へりくだって謝ります。「そんなこと、だれにでもある。あなたにもあるよ。」と言って、反論すれば、高慢の落し穴に陥ります。
しかし本当に大事なことは、欠点がなくなることではなく、神様の愛を失うことなのです。心の中から平和の神を失うことです。いつも、聖霊によって、神の愛が注がれていることを、信じていましょう。
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケ第一5:23)
「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)
神様を愛することを、私のすべての行動の目的とし、神様の愛を私の心の動機とするようにした時、神様との交わりは十分に満たされるようになりました。これが、
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに(神様との)交わりを保ち、」(ヨハネ第一1:7)
と言われていることの体験だと知ったのです。
カリスマ的な神の賜物を一つも求めず、ただ、神様を愛することだけに心を用い、神様を愛するために、毎日の小さいこともするなら、神様との交わりは、ますます深まります。
「神様から嫌われているのではないか。神様から見捨てられているのではないか。もしかしたら、地獄に行かされるのではないか。」と心に思っている間は、いつも不安や恐れがつきまとっています。パウロも、次のように言っています。
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)
この思いは、どんな助言を受けても、変えることができません。しかし、この心境を変えるのは、神様の愛を経験した時です。
「私が滅びる、と言われようと、地獄に行く、と言われようと、また、幸いにして、救われていようと、天国に行こうと、私はただ、ひたすらイエス様を愛して生きます。私の身の上に、どんな非難、攻撃が加わっても、苦難が来ても、私の心は、神様を愛することを止めることはできません。死に至るまで、主を愛することだけのために生きるのです。」と叫んだ時に、心は肉の欲から離れるのです。
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35~39)
私が、「自分は真面目で、正しい行ないをして、教会の活動にも熱心である。」と思っている間は、自分に自己満足していましたが、神様との霊的交わりは失われてしまい、喜び、賛美、感謝の思いが満ちあふれて来なくなり、内心、自分を誇るようになり、他の人を批判する思いが心に忍び込んできました。このような高慢な罪がある間は、神様との交わりは途絶えてしまいました。その時、「私はこのように罪深い者で、神様の恵み深い交わりを受けるのに、ふさわしくないものです。」と、真実な気持ちで、ありのままの自分を神様の前に差し出した時、神様は直ちに、豊かな恵みで、私の心を満たしてくださいました。主は本当に、「へりくだる者に恵みをお授けになるのです。」(ヤコブ4:6、ペテロ第一5:5)
私は、自分の考えと自分の力と決心で、自分の肉の欲の問題を解決しようとしてきました。これは、人の目には、真面目で、真剣のように見えますが、神様の道ではありません。どんな小さいことをするにも、すべてのことを主に申し上げて、主の導きと、みわざをいただく習慣を身につけることが、大切です。
ダビデは、失敗や罪を重ねた人でしたが、主がダビデを助け続け、祝福し続けたのは、どんな時にも、ダビデが主に尋ねて行動したからです。自分の考えによる判断によって行動しなかったからです。彼が自分の知恵によって判断した時には、いつもサタンの誘惑を受け、高慢や罪に陥っています。いつも、心に神様を持っていて、神様の語りかけを受け、自分の心を神様に向けて、主の細い御声のささやきを聞き漏らさず、聖霊の光を受ける心のアンテナを張っているように備えていることです。これは、日常の生活で、いつも信仰を活用するようになると、神様の愛が心の中に働いてくださって、何の困難もなく身についてきます。ただ、日曜日に教会にいる間だけの信仰では、これは身につきません。
主は、私たちにしばらく楽しい時を与えられた後、再び、苦しみ、悩み、試練の時を与えられることがあります。このことは生涯の間に、何度も起こるでしょう。しかし、主は愛を持って、私たちの信仰を成長させるために、その試練を与えているのを知るのです。そして、その試練を乗り越えるための、信仰の忍耐も、能力も与えてくださっています。もともと、自分自身の力では何もできないことは、分かっていますから、あわてることはありません。何かをしなければならない時、大きな山を乗り越えなければならない時、いつも、「イエス様、私にはこれを乗り越える力がありません。あなたがカを与えてくださらないと、このことをすることができません。」と祈って、待っていると、主が十分な力を与えてくださいます。大事なことは、主を愛し、隣人を愛する心を持って、主を待ち望むことです。主は、必ず、答えてくださいます。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(コリント第二12:9)
私が仕事に失敗した時には、主に、「あなたが私とともにいてくださらず、私とともに働いてくださらなければ、私は失敗するほかありません。私が敗北しないように、倒れないように、助けてくださるのは、あなた以外にありません。」と祈って、後は、思いわずらわないことです。
自分の仕事について、研究することは良いことです。しかし、いつまでも自分の失敗を思いわずらっていては、失敗から立ち上がれません。自分の狭い、暗い思いの中に首を突っ込んでいる人が、元気と平安を回復したことはありません。主の方に心を向けて、心に新しい光を受ければ、直ぐに回復します。神様の光は人の霊魂にいのちを与えるからです。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
事実、主がともにいて、助けてくださらなければ、だれも勝利を得ることはできません。
「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア記1:5)
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(コリント第二4:7~9)
私がイエス様に信頼し、イエス様とともに行動し、いつも率直にイエス様に話し、お祈りし、助けを求める時、主は必ず助けてくださいました。これからも助けてくださいます。だれでも主の御名を呼び求める者を助けてくださるのです。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)
歴代誌第二20章15節に、「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」とあります。主から委ねられた仕事でも、目の前の仕事となると、「自分の仕事」と思い込んでしまいがちです。自分の仕事だと、自分の心の中に取り込んでしまい、すぐに、その仕事が苦難に変わります。
私たちは神様から委ねられた日常の仕事を、勝手に自分の仕事と思い込んで、うまくいかないと、すぐに苦しみ、悩んでしまうのです。しかし主は、「この仕事は私の仕事だ。」と言われます。
タラントのたとえでも、主人がしもべたちにそれぞれのタラントを預けて、主人の仕事を任せています。私たちは、自分の人生を自分の責任で生きていると思い込みがちです。それで、うまくいかないと、悩み苦しむのです。しかし神様から預かった、いのちと人生を働かせていることに気づくことが大切です。人生は、この世的に成功させるよりも、主に喜んでいただける生活をすることが大事なのです。なぜなら、私たちの人生は、この地上で結果が出てしまうものではなく、地上の生涯の後に、主の喜びをともに喜ぶことにあるからです。この地上の成果だけで、成功した、失敗したとは、言えないのです。
詩篇138篇8節に、「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」とあります。たいていの人が、このみことばを主が私の人生に関することを、すべて成し遂げてくださると思っています。しかし、「なぜ、主は私の生涯で、私に関わることを、すべて成し遂げてくださるのでしょうか。」それは、私の生涯が、神様から預かった神様のものだからです。ですから、毎日の私の仕事は、神様の仕事なのです。うまくいっても、いかなくても、神様がすべてのことを、一日一日成し遂げてくださっているのです。そう思い込むのではなくて、これが事実としての現実なのです。「そう思うと、気が楽になる。」という人がいますが、それは、思い込むことであって、信仰ではありませんから、再び、思いわずらいに陥ってしまいます。私たちはしばしば、自分の目で見た方向からしか判断していませんので、逆に見えてしまっているのです。聖書を読む時でも、神様のみことばを自分の知性で受けて、理解しようとしがちです。だから、道を迷いやすいのです。神様が送ってくださった光の方向から、神様のメッセージを聞くことが必要です。私がどう理解する力ではなく、神様の語られた意図を心の中で聞くことです。
私たちは、自分に適した仕事をしたいと思いますが、実際に自分がする仕事は、自分に不向きな仕事をすることになるほうが多いのです。それで、自分に向いた仕事を捜して、仕事を転々と変わる人がいますが、それを繰り返すことによって、何もできない自分にしてしまうのです。どのような仕事についても、まず、祈りをもって、神様を愛するために、神様を喜ばせるために、苦手な仕事もしていくという信仰を身につけていくと、神様の恵みによって、豊かに成長させてくださり、さらに良い仕事に導いてくださり、上達もできます。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)
どんな小さい、つまらないと思えることでも、神様を愛して、神様を喜ばせたいという思いで取り組めば、それが楽しみとなり、希望となってきます。時には、今まで築いて来ていた地位や技術が活かされない所に行かされることもあるでしょう。また、ゼロから苦労するのかと思うと、気が重くなることもあります。その時も、大事なことは、神様を愛すること、神様を喜ばせたい、その一つの思いだけを持って働くなら、再び輝いた道を見つけ出します。このことをするのに、特別な神経験を必要としません。しかし、ただ、知識として納得しているだけではできません。
毎日の生活の中で、小さなことで、心をイエス様に向け、ことごとくイエス様を愛して行なうこと、イエス様に喜んでいただこうという思いを抱き続けることです。この信仰の思いを持ち続けることが、私を「神の友」にしていくのです。
「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:14、15)
このことをするために、特別な密室の祈りの時間を取る必要はありません。小さな事をする度に、主イエス様を愛し、主を喜ばせたいという思いを主に向けることが、私と主との交わりだからです。
毎日、決まった時間に、祈りの時を持つことは良いことです。しかし、そのあと、一日の仕事の中で、神様を愛する思いを持たず、主を喜ばせようとする思いを持たず、主に心を向けることもせず、主と交わることもせず、一日を過ごしてしまえば、その祈りはむなしくなってしまいます。どんな重大な仕事でも、どんなに忙しくても、どんな困難な仕事でも、自分の心を主イエス様から引き離さず、主を愛し、主を喜ばせたいという思いを抱き続けることが大事です。これによって、確かに、私は主イエス様の近くに、主とともに生きることができるのです。
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35~39)
私たちは、一日に、何時から何時まで、何時間、祈るように、神様から求められていません。しかし、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)と、求められています。このみことばを、心の中の愛の深さのことと思って、内面的に心の状態を掘り下げている人がいますが、現実の実際的な愛の行ないと生活を忘れてはいけません。「私は、愛の動機でしたのだから、いいんだ。」と言って、他人を平気で批判したり、さばいたり、争いを起こしたりする人がいますが、これは思い違いをしています。信仰が思想的探求に向かうと、主イエス様が命じられた意図から、はずれてしまいます。どんな小さなことをも、主を愛して行ない、主に喜んでいただくために行なうなら、心の中の、神様を愛する愛が深まっていくことを実際に経験できます。
それは必ず、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:39)となって現われてきます。
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:23)になって現われてきます。
神様が私たちに求めておられることは、
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ第一5:16~18)
神様は、ヨシュアに、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア記1:5)
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄雄しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)と約束されていました。しかし、ヨシュアはいつも主の臨在を実感していたでしょうか。ヨシュア記5章13~15節を見ると、ヨシュアがエリコとの戦いを前にして、エリコの巨大な城壁をいかにすべきか悩んでいた時、ひとりの抜き身の剣を持った人が現われた時、ヨシュアは直ぐに、主だと気づいていません。彼がいつも、主の同行を意識して、信じていれば、「主ですか。」と言っても良いと思われます。しかし、彼は「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」と尋ねています。主はお約束どおり、ヨシュアとともにいてくださいました。しかし、ヨシュアの心は主から離れていたのです。主のお約束のみことばすら、心になかったことを表わしています。
弟子たちも、ガリラヤ湖で、向かい風で悩まされていた時、夜中の三時ごろ、イエス様が湖の上を歩いて来られるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言っておびえてしまっています。私たちは、イエス様が、ともにいてくださっていても、見間違ってしまっているのです。それは自分の知恵と考えで判断しているからです。よくよく、神様のみことばを心に経験していないからです。
ヤコブは、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)と、言っています。
主イエス様は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださいました。しかし、私たちは、主に「毎日、私とともにいてください。朝も、昼も、夜も、寝ている時も、私とともにいてください。」と求めます。これは良いことです。そして主はヨシュアに対してと同じように、私たちとも、共にいてくださいます。しかし、私たちの心は、そう祈った次の瞬間から、主を離れて、この世の楽しみを求め始めたり、この世の平安に誘われて行ったりして、主イエス様を求めなくなってしまっていませんか。これでは、主が共にいてくださっても、その恵みを自分のものにすることができません。主がともにいてくださることの実感を経験するためには、主に求めるだけでなく、自分も主の側にとどまっていなければ、主がともにいてくださることは、分かりません。主だけを自分に向けさせておいて、自分は他のところに遊びに出かけているようでは、主の同行を経験することができません。友だちを自分の家に来てくれるように頼んでおいて、友だちが来た時、自分は他の所に行っていれば、次に、その友だちに何を頼んでも、引き受けてくれないでしょう。イエス様に対して、このような態度をとっていないか、よくよく考えてみてください。
過失や失敗は、よく犯すものです。そしてそれには、いつも神経質に、敏感に反応してしまいます。悔しがり、悲しみますが、そのために、いつまでも失望していてはいけません。それを主に申し上げたら、それで決着をつけて、主がともにいて、助けてくださることを信じて、すぐに自分の心を立ち上がらせましょう。嘆きに任せて、自分の心を怠けさせておいてはいけません。「この働きは、私だけの仕事ではなく、神様のお仕事だからです。」と祈ったら、いつまでも嘆きの気分に浸って、思いわずらっているヒマはありません。すぐに、いつものように、神様を愛する心を取り戻し、神様に喜んでいただく思いを持って、働きについてください。
私の心に、心配や、課題や、悩みがある時、「一人で抱えておくことはよくない。」と言って、だれにでも、やたらに相談してはいけません。かえって、問題の傷を広げたり、混乱を起こしたりするだけです。他人に相談して、信仰の光による良いアドバイスが得られることは、稀です。ほとんどの人が、「神様に委ねなさい。」とか、ありきたりの、自分が知っている信仰的な言葉を言うだけで、自分でも、明確な道を知らないまま、答えているのですから、悩みが増えるだけで、他人に相談したことを、後悔することになります。
ただ、「神様が、私とともにいてくださる。」という信仰の光をもって、神様の導きを待ってください。あなたが主を信じて、主を愛して、心を主に向けているなら、主はあなたを見放したり、見捨てたりしません。どんな時にも、あなたがすべきことがあります。それは、何事にも、あなたの心を神様に向けて、神様を愛して、神様を喜ばせたいという思いを抱いて進むことです。この仕事は、神様があなたに任せられた仕事だからです。このことをひと時も忘れてはいけません。
思いわずらいは、すべての善の働きを妨げてしまいます。この思いわずらいは、直面している課題を好転させることをしません。ただ気分を滅入らせるだけです。そして段々と、不信仰な思いを抱かせるようになります。直ちに、その思いわずらいの思いを追い出して、あなたの心を神様のみことばに向かわせて、キリストとの霊の交わりに心を引き戻してください。
よく、「祈っている時は、イエス様を意識していて、心が平安に落ち着いていられるのですが、祈り終えたとたんに、直ぐにまた思いわずらってしまうのです。」という嘆きの告白を聞きます。これは、その人が、いかに常日頃、自分の知恵と考えだけに頼って生きてきたかを、告白しているのと同じです。ダビデのように、ことごとく主に祈って、うかがい、主のみこころを確かめて生活して来なかったかを示しています。信仰は、日常の実際生活の中で活用することによって、養い育てられるのです。もし、祈る時だけ、心を神様に向けていても、教会に行った時だけ、心を神様に向けていても、思いわずらいから解放されることはできません。祈った後、日常の大半の時間を、自分の楽しみや欲を満たすために使っていれば、思いわずらいから解放されることはできません。祈った後の時間こそ、主のみこころを求めて、主に心を向けた生活をすることが大切です。実際の生活が、神様に心を向けた時と、自分の欲の満足を求める時との、二つに分裂していれば、これは神様とこの世の両方を手に入れようとしているので、主を悲しませています。心の中に、いまだ潔められていない罪の性質が残っているのです。ですから、祈っている間は、心が平安のようであっても、祈り終えると、たちまちこの世の思いと、自分中心の思いが自分の心を占領して、思いわずらいに陥ってしまうのです。
初めのころは、祈りによって心の転換をするようにしていても、しばらくして祈りの時に心がさまようになり、この世の思いや、思いわずらいが心に入り込んで来るようになります。その時には、できるだけ早く、その場で主のみことばに心を向けて、キリストと交わり、平安を取り戻すことが大事です。思いわずらうのは、心がイエス様と繋がっていないで、自分の欲とこの世の楽しみに向いているからです。次の静まる祈りの時が来るまで、思いわずらい続けているのは、愚かなことです。「今は仕事中で、忙しいから、心をイエス様に向けられない。」とか、「聖書が読めない。」とか、言い訳をする人がいますが、信仰の心があるなら、短い聖句を覚えておくことができるし、小さいカードに、みことばを書いて、ポケットに入れておくこともできます。しばしば「聖書のどこにあるのか知らないけれど、こういうことばがあるでしょう。それで、励まされています。」と言われるのを聞きます。その個所を、お教えしても、相変わらず、その言葉を認識しないで、同じように言っている人がいます。神様が、自分個人に与えてくださった、大切ないのちのみことばだと信じているなら、それをカードにでも書き出して、しっかり自分のものにするはずです。相変わらず、「聖書のどこかにあるけれど、こういうことばで、慰められています。」と言うことをやり続けているのは、主のみことばを、軽視しています。これでは、祈った後、直ぐに思いわずらいに陥るでしょう。
私たちは、定まった時間でもなく、定まった場所(密室や教会)でもなく、今すぐ、心の中の、奥まった、隠れた所で、主と交わることが大切なのです。初めのころは、周りにいる人たちの声や、ざわつきに気が散りがちですが、続けていくうちに、周りとは関係なく、心が主に向かって交わることの楽しさを味わうようになります。
生活の糧を得るための仕事でも、愛によって、主に仕えるような心で、主を喜ばせるのでなければ、朽ちる糧を得るだけで、毎日が、不満と恐れと、いらだちになってしまいます。愚痴と不平と、他人を批判、非難、攻撃するだけの生活になってしまいます。このことを、よくよく弁(わきま)えて、心にイエス様の御霊を迎え入れて、潔められ、毎日、どんな仕事をするにしても、愛によって働く信仰を活用し、神様を喜ばせるためにするという心の営みをもって働く時、毎日の生活が輝いてきます。こうして、神様と交わることが何か、実際の経験として分かってきます。神様との交わりは、本で学んでも、その味わいを知ることはできません。自分で経験しなければ、実際には分かりません。知性を働かせて、理解することと、意志を働かせることとを、はっきり区別しておかなければなりません。知的理解や納得は、あまり価値がありません。私は、よく聞いてきました。「自分で納得しないと、信じません。」という言葉を。これは、弟子のトマスが「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ20:25)と言ったのと同じです。その後で、トマスは復活されたイエス様を見て、「私の主。私の神。」と言いましたが、イエス様はトマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と言われました。
もし、聖書の教えを理解していても、信じて自分の生活の中で、意志を使って行なっているのでなければ、「知っていても、行なっていない」のですから、神様のさばきを受けることになってしまいます。
「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17)
「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)
イエス様は、良いサマリヤ人のお話の最後に、律法の専門家に向かって、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言われました。多くのクリスチャンが毎週、聖書のメッセージを聞いていますが、そのメッセージをその週のうちに、どれくらいの人が実際に活用しているでしょうか。
パウロは、「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)と教えています。信仰者にとって、神様の愛の意志を表わして働くことは、極めて重要なことです。
私たちの生涯で、唯一の重要な仕事と言えば、神様を愛することだけです。それ以外のことはすべて、それに付随することです。そして、神様と霊において交わり、自ら喜びと平安を経験することです。
パウロは、「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(コリント第一13:1~3)と言いました。
どんなに多くの努力を重ねても、神様を愛する心を失っていたなら、罪は潔められません。私は、どんなときにも、自分で思いわずらうことを止め、悩み続けることを止め、イエス・キリストの血潮に信頼して、聖潔を求め、日々に、心に聖霊によって神様の愛を注いでいただくことを、求めるようにしています。
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)
これによって、主はどんなに罪深い者にも、あわれみ深い、最良の恵みを与えてくださいます。
この世界で起きる、どんなひどい苦痛も、イエス様のゲッセマネの苦しみに比べることはできません。それは、私の罪を身代わりに負ってくださったからです。私の罪の重大さが、主の苦しみに現わされています。
「そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏して、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』(マルコ14:33~36)
また、この地上で起きるどんな大きな喜びも、イエス様の救いを受ける喜びに比べることはできません。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)
それ故、どんな苦難にも、いつまでも思いわずらっていないで、主に信頼し、不安になって、恐れることなく、他人の助けを望まず、期待せず、ただ心に主を求めて祈り、主を愛し、主を喜ばせることを求めて、生活を実行していくのです。失敗や不出来を、恐れません。他人の批判も恐れません。ただ、心を主に向けていることだけが大事なのです。
そうすれば、私には、何のためらいも、後悔も、恨みも、怒りもなくなります。私が働きで失敗しても、すぐに、次のように主に祈ります。「私は一人にされ、自分の力で仕事をすれば、このような失敗しかできないのです。」と。素直に認めて、主に言い訳を言わず、へりくだるのみです。もし、働きが実を結べば、「主の知恵とカが、私を通して現われたからです。」と、自分で認めて、主に感謝します。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(コリント第二4:7)
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(コリント第二12:9)
キリストの力が私をおおうためには、私が仕事に成功した時や、喜んでいる時よりも、仕事に失敗し、苦しみや痛みを覚え、自分の弱さを覚えて、その弱い自分をありのままに、主に差し出していることが、必要なのです。パウロも、そのようにして、主の恵みを経験したのです。
弱さ、失敗、痛みは、それで悔やんで、嘆いていれば、自分自身を崩壊させていきますが、それらによって、謙遜になり、ありのままの自分を主に差し出すなら、主の恵みと力は、その弱さの内に、十分に現わされることを経験するようになります。私が主に信頼することは、私の心が主を喜んでいる状態です。主をほめたたえている心の状態です。主を愛して、感謝している状態です。主もまた、恵みを与えてくださいます。
主が、私を欺いたり、失望させたりすることはありません。私の心を主に全く明け渡して、信頼して従っている時、主は私を見捨てて、長い間、放っておかれることはありません。放っておかれているように見えていても、実は、主が私の信仰を試みておられ、私の信仰をさらに深くするために、訓練してくださっている時であることが分かります。
「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」(詩篇138:8)
私に、次の仕事をする前に、わずかの時間がある時、主は私にすべてのことを準備していてくださって、そのわずかな時間にするための仕事を与えてくださいます。それを前もって、考えるようなことをしないでも、その時が来れば、ちょうど、きれいに磨かれた、澄んでいる鏡を見るように、私がその時、何をなすべきか、主は教えてくださいます。ですから、自分にどんな仕事がふさわしいかと悩んだり、思いわずらったりすることはありません。取り越し苦労することもありません。この経験に到達するまでは、自分がする働きに、ずいぶん迷ったり、思いわずらったりしました。以前は、自分の働きに良い成果があると、喜んで誇ったり、成果がないと失望し、一時、やる気を失ったりしたものです。しかし今は、時が良くても、悪くても、成果があっても、なくても、自分の働きは主のお仕事なのだと分かってきましたから、良い成果が与えられれば、喜んで主を賛美しますが、成果がなくても、失望して、やる気を失ったりしません。その働きがいつ実を結ぶか、私は知らないし、どこか私の知らない所に流れ着いて、そこで実を結ぶかも知れないからです。これが成功するか、あれが成功するか、二つともうまくいくか、私には分からないからです(伝道者の書11:6)。
私は、先の食事で何を食べたのか、聞かれても思い出せないような者ですが、私の目の前の今の目的は、ただ一つ、主イエス様を愛して、主イエス様のために、すべての事をすることです。一人でも多くの人の心が、主イエス様と出会って、主を愛する人になっていただくことです。それが、主が最も喜んでくださることであると、知っているからです。この目的のために、神様が私に日ごとの仕事をさせてくださっています。
時には、外部から問題が持ち込まれて、この思いが妨げられ、乱されることがありますが、自分の思いを主に向けて、いつものように、主の働きに取りかかると、神様からの新鮮な思いに心が包まれて、また主のお仕事に専念することができます。心が乱された時は、その問題に長く関わっていないで、できるだけ早く処理し終えて、自分を主の仕事に向かわせることです。そうすれば、私の心も主の思いに包まれ、回復します。そうしているうちに、難しい問題にも解決の道が開かれてきます。
もし、形だけの祈りをするのに、時間を取ったり、知識の納得を得るためだけに、聖書を学んだりするのなら、その時間を過ごした後、霊魂は無味乾燥な状態になってしまいます。神様と私の霊が、結びついていないからです。これには日常の一般の仕事をする時にも、主と心が交わり、主に仕えている動機を持ってすることが大切です。時折、何かにつけて、「主のために、こうしろ。ああしろ。」と忠告してくれる人がいますが、こういう忠告は害あって益なしです。信仰的忠告も、他人を責めるための教えであれば、それが正しくても、効果はありません。無益です。私の心に主イエス様を愛する心があってこそ、日常の一般の仕事が主に仕えるようにできます。忠告されたからと言って、それで主に仕えるように、仕事をすることができるようにはなりません。主を愛する心があってこそ、すべての働きが生きてくるのです。
これから後の私の上にも、大きな苦難や困難が襲ってくるかもしれません。私が望むような快適な日々ばかりがやって来るのではないでしょう。しかし私にとって、起きてくる最悪の事態は、肉体的病気でもなく、経済的な困難でもなく、これまで保って来た神様との交わりが途絶え、失ってしまうようになることです。信仰が知識の満足や、儀式を守っていることで安心していたり、自分の真面目さや正しさに頼って、「自分はそれで、大丈夫。」と安心するようになるなら、知らず知らずの内に、主との生きた交わりを失っていきます。
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)
イエス・キリストの十字架には、肉体的激痛が起きたことは、事実です。しかし、イエス・キリストにとっての最大の苦難と危機は、父なる神様との交わりが、一瞬であっても、途切れてしまったことです。それがイエス様の十字架上での絶叫となったのです。
「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」(マタイ27:46)
しかし愛の神様は、御子イエス様を見捨てなかったように、あなたをも決して見捨てられません。あなたのほうで、神様を見捨てない限り、神様があなたを見捨てることは、決してありません。なぜなら、どんなに罪深い者であっても、神様ご自身の愛される御子イエス様を十字架にかけられたほどに、あなたを愛してくださっているのですから。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネ4:18)
また、わざわいや苦難にも、神様が耐え忍ぶ力を与えてくださると、信じているなら、何事も恐れなくなります。
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント第一10:13)
また、自分の苦難や霊魂の状態について、他人に相談しても、解決したことはありません。他人に相談すると、いつも必ず、混乱が起きます。ただ、他の人々に、言いふらす材料を与えるだけです。私たちの心のうめきを知ってくださるのは、イエス様の御霊だけです。御霊との交わりと、御霊の執り成しによってだけ解決します。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(ローマ8:26、27)
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15、16)
イエス様を愛し、イエス様に全く信頼して、謙遜に、従順に従って行く生活の営みは、天の御国に到達する確実な道です。この道を歩んで行けば、私たちは毎日、十分な光が与えられて、今日一日、何をなすべきか、悟らされます。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)
この信仰の生活を、神様の光を受けて営んでいくためには、自分中心の自我を捨てなければなりません。他人より自分が賢いと思ったり、自分の方が正しいと思って、他人を批判したり、自己主張をくり返したり、他人を軽んじたり、侮ったり、見下げたり、すぐに言い返して、言い争ったり、自分の悪感情をむき出しにして議論することなどは、すべて自分中心の自我から生じています。
この自分中心の私(自我)がキリストとともに十字架につけられて、取り除かれ、今は、イエス・キリストが私の内に住んでいてくださることが、必要です。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
この恵みを心に持てば、嵐の中でも、心にはキリストの平安があるし、喜びがあります。苦難に会っても、すぐにイエス様により頼んで、平安を保つことができます。これによって、すべてのことを主とともに、くびきを負って、心やすらかに乗り越えることができます。
しかし私たちが、人の前に立派なあかしをし、告白をし、儀式を守り、人の評価を得ようとしていれば、神様との交わりは経験できません。神様を愛することをしていないからです。心が神に向かわず、人間のほうに向いてしまっているからです。
(第3章 完)
目次
1.一粒の麦
2.愚かで、鈍感でも
3.愛
4.霊的生活の基礎
5.神様に近づく方法
6.祈りと生活
7.どうすれば、いつも神様の臨在を感じることができるようになれるのか
8.神様の臨在の実際性(前半)
8.神様の臨在の実際性(後半)
9.病気、苦しみの中で
「主をわが前に置いた生活」が、アマゾンから出版されました
まなべあきら牧師のプリント・シリーズとして販売され、このホームページにも掲載されている「主をわが前に置いた生活」が、遂に、アマゾンから出版されました。
「主をわが前に置いた生活」は、A4のプリント・シリーズの中でも購入される方が多く、また、ホームページでもアクセス数が多くなっていて、特に、第7章の「どうすれば、いつも神様の臨在を感じることができるようになれるのか」は大変人気のある記事です。
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毎朝のデボーションの時に、また、試練にあって途方に暮れた時に、この本を何度も読むことよって、主とお会いすることができ、聖霊からの導きを得られることと思います。
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