第9章 病気、苦しみの中で (主をわが前に置いた生活)

私はこれまで、重い病気や死に臨んでおられた兄弟姉妹、生まれながらに心臓に穴があいていた少年や、重大な障害をもって生まれた幼子のために、長い間、祈ってきました。その方々の悩みや苦しみ、痛みは、取り去られることはなかったでしょう。その苦しみの中でキリストの平安を味わい、永遠のいのちの希望を見い出し、苦しみを乗り越えられる力が与えられるように、祈らせていただいています。

主が最善と思われる時に、すべての信仰者は、この地上で経験している苦しみ、悩みから解放されると、信じています。ですから、それまで、主とともに、苦しみを負うことを、忍びたいものです。それには、必ず、豊かな栄光の報いが与えられます。

「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)

「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主は、いつまでも見放しておられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。」(哀歌3:25~32)

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

この世を愛する人にとっては、その苦しみは、自分を破壊する苦しみにしか考えられません。それは、心にイエス・キリストを宿し、キリストを愛する愛を持って、苦しんでいないからです。その人は「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。」(詩篇119:71)と言うことは出来ないでしょう。この真理は、神様の愛を心に持っている人にだけ、知ることができるものです。神様から流れ出ている愛の中でだけ、味わうことのできる苦しみだからです。

苦しみや悲しみは、人の心に大きな打撃を与えますが、その苦しみの中で神様に対して信頼する人は、その苦難のもたらす、無限の、永遠の価値と慰めを見つけるようになります。神様は、ご自身を愛している人を、いつまでも、苦しみに耐えているままに放置しておくことはありません。

私たちは、健康でいる時よりも、病気や苦難の中にいる時のほうが、さらに神様の近くにいて、神様ご自身も、ご自分を現わしてくださることがあります。

信仰者の死でさえも、その真理を悟れば、それは栄光の主のみもとへの凱旋であって、決して悲しむべきものではないことを知るでしょう。信仰者は、地上を去る、その一瞬、御使いによってパラダイスに移されています。

ルカ16章22節で、ラザロは死の瞬間に、御使いたちによってアブラハムのふところ(パラダイス)に連れて行かれています。間違って、死を悲しむヒマなどありません。

ルカ23章43節では、イエス様は、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人に、彼が、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」という願いに対して、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束してくださいました。

このように、主に全く信頼して生活することは、驚くべき勝利をもたらすのです。現代人は、薬を乱用しすぎている傾向があります。どんな薬も、正しく用いなければ、有害になってしまいます。薬も、医術も、神様の用いられる道具と思って、主を信じて、必要な時に、必要な分だけ用いることが大切です。私のいのちも、健康も、神様が与えてくださった、神様のものだからです。私の霊も、心も、身体も、平和の神ご自身に守られることによって、平安があり、慰めがあるからです。

ある時、私は、入院中の一人の兄弟を見舞うために、ある病院を訪れました。その時、院長と話す機会が与えられ、その院長は、「ここの患者さんの心に平安があれば、全員、すぐに退院することができるのだが。」と言われました。

私は、ある方々が、難病の中にあられることを知って、祈り続けています。しかし、身体が難病の中にあっても、霊魂が罪赦され、潔められ、主の平安と、愛と、慰めを受けて、主の愛と善なるみこころを信じ続けておられるのを聞く時、神様にある本当の幸せを知らされます。

主は、私たちに知らされていない目的のために、ヨブのように、知らされていない主のみこころによって、病いの中に私たちを置くことがあります。それは、苦痛が伴い続けて、忍耐が試されます。しかし、主の愛と善なるみこころに変わりはありません。肉体に苦痛があれば、生活に楽しみを感じることは少なくなります。しかし、その分、主を自分の近くに感じ、主の愛を身近に経験することもできます。

主は、私たち一人一人を、各人の状況や環境の中に置かれます。一人として、同じ状況に置かれることはないでしょう。病いの中にある人は、健康な人を見て「どんなに幸せなことだろう。」と思われるでしょう。

ある人を、病院にお見舞いに行った時のことです。入院中の患者さんの一人が、道路に面した窓辺に立って、こう言ったのです。「入院しているヤツも多いが、元気なヤツも多いな。」と。

しかし、真理を十分悟った人なら、病いの中で、主とともに苦しみを味わうのでしたら、その苦痛も、パラダイスとなりましょう。もし身体が健康で、神様を離れた生活をしているのでしたら、その楽しみは、その人にとって地獄をもたらすものとなるのです。身体が健康でも、病気でも、真理を悟る者にとって、主とともに苦しみ、主のために苦しみを味わうことは、主の恵みと喜びと慰めとなるのです。

「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」(使徒の働き5:41)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:6)

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33後半)

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:29)

信仰は、イエス様のみことばを、ただ信じることから始めます。やがて、そのみことばの意味を悟り、イエス・キリストの十字架の奥義を悟り、聖霊のみわざを経験して信じるようになります。さらにキリストと苦しみのくびきをともに負って信じるようになり、そして、ヨブと同じように、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ記42:5)という信仰に至ります。主の臨在を自分の内に体験して信じる信仰に到達するのです。

主はペテロに「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」(ヨハネ21:18)と言われました。これは、ペテロがどのような死に方をして、神様の栄光を現わすかを示して言われたことであった、と記されています。これは、すべての信仰者に言えることです。どんなに元気で、健康で、活躍している人でも、老年になると、不自由さを覚えたり、苦痛を感じたりするようになります。その時、自分の元気さだけで動いていて、内的神経験の信仰を養っていなければ、むなしさや、霊的孤独や、失望の日々を送ることになってしまいます。

老年になれば、だれもが自分の歩きたい所を、自由に歩き回ることができなくなります。経験したくない生活へと追い込まれてしまうのです。伝道者の書12章1~8節の、夕日がさす日が来る前に、「すべてが空」と言う日が来る前に、「あなたの創造者を覚え、」神様の御前での信仰の実践の経験を積んでおくことが必要です。それによって、身体が衰えた時も、病気の苦しみも軽減することが出来、やわらげることができるのです。

苦しみや痛みは、私たちの心の中に、疑いや、不安や、恐れを生じさせることがあります。その時こそ、御父は、愛する子を懲らしめられるお方であられることを思い起こしてください。

「主に責められて弱り果ててはならない。」(へブル12:5)

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」(へブル12:7)

苦しみの時こそ、勇気を出して主に近づき、主を愛して、主に全く信頼して、ヨブのように自分の苦しみをありのままに、主に注ぎ出して祈ってください。

パウロも、肉体の苦痛のために三度、主に、苦痛を去らせてくださるように、願っています。主はパウロに答えてくださいました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(コリント第二12:9)

主は、苦痛を取り除いてくださることもあります。完全に取り去られない時でも、それをやわらげてくださったり、乗り越えるための愛と、慰めと、力とを、必ず与えてくださいます。

自分に弱さを感じ、覚えている時には、特に、主に全く信頼して祈り、主と交わるようにしてください。アブラハムは、甥のロトの救出のために、執拗に主に祈りました(創世記18章)。エリヤは雨を求めて、カルメル山頂で、七度、ひざの間に顔をうずめて祈りました(列王記第一18:41~46)。

この祈りは、自分自身を主にささげる祈りです。苦しみの中にあっても、心だけは主の前に謙遜になり、主への愛を示して、ありのままの従順な心になって、父を慕う幼子のように、主に抱かれてください。そうすれば、神様の慈愛に満ちたみこころと、一つになることができます。

主は、いろいろな方法をもって、私たちを主のみもとに引き寄せようとしてくださっているのです。ある時は、私たちを喜ばせて、引き寄せてくださいます。また別の時は、苦しみや懲らしめをもって、ご自身のみもとに引き寄せられます。どちらも、神様の愛に変わりはありません。時には、主が私の前から姿を消してしまわれたかのように、ご自身をお隠しになることもあります。どんな時にも、私たちは、みことばの約束と、イエス・キリストの十字架の購いと、聖霊の内住を信じる信仰により、それを土台にし、心の支えとしてください。そうすれば、主が私をどのように取り扱われても、私の心は揺るぐことがなく、安らかに住むことができます。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩篇16:8、9)

主は、私たちを一瞬でも、見捨てられないお方です。私たちは、見捨てられて孤児にされることはありません。

「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネ14:18)

私たちが、神様を捨てない限り、神様が私たちをお見捨てになることは、決してありません。あの、三回も主を「知らない。」と否定したペテロでさえ、主はお見捨てになりませんでした。

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:31、32)

主は、私たちの信仰がなくならないように、日々に祈っていてくださるので、今日も、主を信じていることができるのです。いつも、主とともに生きる者とならせていただきましょう。

身体に苦痛がある時、心も病んでくることは、よくあることです。しかし、主を愛する心の営みをしている人は、その愛が苦痛をやわらげ、苦痛の中にも霊的意味を見出し、喜びと勇気さえ持つようになることも事実です。

しかし、霊魂に不安、不純、腐敗があれば、健康な身体も、やがて蝕んで破滅に陥れます。ですから、身体の苦痛がいやされること以上に、霊魂がいやされ、主を愛するようになり、主を賛美するために、心を尽くして祈り求めることが必要です。

主なる神様は、私たちのすべての病気をいやしてくださる、ただお一人の医者なる神様です。主は、悩める者、苦しむ者の父であり、私たちを救い、助けるために、いっも完全な備えをしておられる神様です。私たちの神様は、私たちが考えているよりも、はるかに優って、限りなく私たちを愛して下さっている神様なのです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:10)

私たちが苦しみの中にある時、次のみことばを心に持つことは、大いに役立つでしょう。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」(へブル5:7~10)

私たちが苦しみの中にある時、神なるイエス・キリストも、ともに苦しんでくださっているのです。そのイエス様に、勇気と謙遜と、愛と忍耐と、苦難を乗り越える力を与えてくださるように祈ってください。苦しみが大きくなってきても、それにまさる神様の愛を与えてくださいます。イエス様とともに苦しみ、イエス様を心に持っている経験は、この地上でのパラダイスの経験です。苦しみの中にあって、神様の愛と平安を味わい、神様と交わることのうれしさを経験できるのです。

ですから、苦しみの故に、私たちの霊が、神様から離れて、さ迷わないように守られなければなりません。私たちの心の中に、平和の神ご自身を宿して、私たちの霊と、たましいと、からだが完全に守られるように、信仰を働かせて生活しましょう。

私たちの心を、神様の宮とし、たえず、主を喜ばせる思いで、主を礼拝しているなら幸いです。主を悲しませることを思ったり、考えたり、他人をさばいたり、批判したり、悪く言ったり、責めたり、行なったりすることから、守られていてください。そのような思いが、あなたの心に入って来ようとするなら、ただちに、信仰により、「サタンよ。下がれ。」と命じてください。このように、あなたの心がキリストの御霊によって満たされているなら、苦しみの中にあっても、神様とともにある霊の喜びと、慰めを味わっていることができます。

霊的な経験は、いつでも最初は、単純な信仰だけで始めなければならないので、大変、困難に思ってしまいます。しかし、「神様の恵みによって、必ず、できるのだ。」と、心にしっかりと信じて、始めることが必要です。イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と約束してくださいました。主は、忍耐強く主を求める人を、決して、お見捨てになりません。信仰の手をもって、今すぐ、神様の門を叩いてください。主はあなたのために恵みの門、いのちの門、交わりの門を開いてくださり、あなたの求めに答えてくださいます。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:16)

神様は、あなたが最も必要としているものを、よく知っていてくださいます。神様が、あなたに対してしてくださることは、すべて善なることで、あなたにとって益となる恵みです。もし、神様があなたをどんなに愛していてくださるかを、あなたが知ったなら、あなたにとって、苦しく思えることも、楽しいことも、同じ神様の愛の御手によってなされていることを、悟れるようになります。

父なる神様は、しばしば愛するが故に、「わが子」を試練に会わせられるのです。その試練によって、私たちをへりくだらせ、主に全く信頼させ、主のみを求めるように導かれるのです。

主を愛すれば、愛するほど、主を知るようになります。主のみこころを知れば、知るほど、主を愛するようになります。主との交わりが、深く、親密に結びついたものになります。こうして、悲しい時も、苦しい時も、喜びの時も、変わらない愛を持って、神様を愛する者となります。

私たちに与えられる恵みが、どんなに大きいものであっても、私たちは一歩一歩、一日一日、主を信じて歩むという信仰の働きによって、神様に近づいていくのです。同じ課題でも、毎回毎回、信仰を働かせて、主を求めましょう。主の導きは、毎日、毎回、異なるからです。昨日の惰性で、今日を生きないようにしましょう。

主は、遠くにおられるお方ではありません。主は、私たちの内におられます。神秘的になって、自分の手の届かない、遠くにおられる神様を求めてはいけません。

「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」(詩篇145:18)

私たちは、神様に喜んでいただくことを忘れてしまうほど、雑事に忙しくなり、主を一人置き去りにしてしまわないようにしなければなりません。主を置き去りにして、自分ひとりで悩み、苦しんでいることのないように、しなければなりません。これを続けていると、神様のお怒りを招くことになると思います。それは、私が主を見捨ててしまっているからです。

私たちの、毎日の日常生活を、神様にお任せする生活にしましょう。主に信頼して、心を主に向けているなら、私たちの心は、いつも主が満ちてくださり、私たちの思いや、動機を潔め続け、聖霊によって神様の愛を私の心に注いでくださり、謙遜になるように、働いてくださいます。

主を、求め続けていれば、私たちの心は、いつも、主のいのちの水できよらかに、さわやかに、新しいいのちが与え続けられます。そして、神様が私たちの心を、全くいやしてくださることを、経験するのです。

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことはありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)

「すると主は仰せられた。『わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。』」(出エジプト記33:14)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)

この手引書を、一、二度読んで、終わりにしないでください。ここに繰り返し記されている聖書の言葉を覚えるだけで、神様の臨在を求めることは、終わったと思わないでください。ここに記されていることのうち、ご自分にすぐに適用できるものから、実際の生活で、使ってください。必ず、主イエス様が、「あなたと一緒にいてくださる。」ことを、ご自分で体験するようになります。それが、本当の信仰生活であり、霊的礼拝です。

(主をわが前に置いた生活:完)

目次
1.一粒の麦
2.愚かで、鈍感でも
3.愛
4.霊的生活の基礎
5.神様に近づく方法
6.祈りと生活
7.どうすれば、いつも神様の臨在を感じることができるようになれるのか
8.神様の臨在の実際性(前半)
8.神様の臨在の実際性(後半)
9.病気、苦しみの中で