第一コリント13章「愛の章」第11回 「愛の耐久性(1)-完全なものが現れたら」
色とりどりのアネモネ。春のイスラエルであちこちに咲いています。
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コリント人への第一の手紙13章9~10節
「というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。」
お祈り
「完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます」
天の神様、完全であるお方のイエス様が天をお降りくださり、この地上においでくださり、大いなるあなたの愛と真理の啓示を与えて、私たちの目を開いてくださいました。
そして、あなたによって救われたところの御国に、私たちを導いてくださる大いなる特権にあずからせていただいていることを感謝いたします。
主よ、どうか、もう一度新たににあなたに満たされてこの信仰生活を営み、一回だけの生涯を歩んでおりますが、最も素晴らしい生涯にあなたが変えて下さることを感謝いたします。
今日も心の掛け金、心の扉をすべて開いて、イエス様あなたの豊かな恵みを十分にいただき、その心の内を占領し満たしていただき、導いてくださいますように。
一切のことをあなたにゆだねて、生涯をあなたと共に歩ませてください。
ひたすらお願いいたします。
みことばを祝してください。御霊が教えてくださるように。
この一週間の旅路にも、また今年残された一か月にも、あなたの勝利を与えてください。
私たちが主の栄を現わし、証をし、イエス様あなたの恵みを他の方がたにも分け与えることのできる力を、この朝、私たちに、もう一度新たに、お与えくださることを信じて感謝を申し上げます。
この時を主の御手にゆだねて、尊いイエスキリストの御名によってお祈りいたします、アーメン。
はじめに
12月に入って、イエス様のご降誕の月になりましたが、私たちは引き続き第一コリント13章からキリストの愛をいただきたいと思います。
飼い葉おけのお話もクリスマスのメッセージですが、私たちの内にイエス様の愛が満ちることもクリスマスのメッセージであります。
実は私たちが毎週こうして聞いているメッセージも、私たちだけでなくして、何十人もの方がたが聞いていてくださるわけですけれども、そしていろんな方からお便りをいただきます。信仰が変えられたとか、生活が変わったとか、というお手紙をいただくんですが、これは非常に大事だと思うんです。
何度もお話していることですが、こうして聖書の話を聞いて、感動して、慰められて、
それで終わってしまいやすいということです。それでは本当の意味で、メッセージの役目を果たしたことになりません。自分でもその恵みを受けよう、自分もそういう人になろう、と思っていただきたい。人間というのは聞いて、そうだなあと思っても、自分もその人になろうと思わないわけです。ですから、自分もその人にならせていただきたい、こういうふうに信仰を持って立ち上がっていくことが大事だと思うんです。
魚のなかに「鯛(たい)」と「鱒(ます)」があるそうなんですが、「なり鯛」というのと「なり鱒」というのは違うというんです。その通りであります。
ある人にとって、説教を聞いたり、あるいは本を読んで慰めを受ける、というのは結構なことでありますが、しかし、どうか自分の実際の生活が変わって、輝いてこなければ、生き生きしてこなければならない。
今年、まもなく一年が過ぎようとしていますが、みなさんどうですか。ついこの間お正月を迎えたと思うでしょ。その時に、今年はどんな年にしようかと考えたでしょ。
12月の初めですから思い出していただきたい。輝くようになったでしょうか。生き生きしてきたでしょうか。私たちは神様から与えられている恵みを、他の人にもわけ与えられるようになっているでしょうか。こうなってくるのが本物の信仰だと思います。
私たちは、生きていれば必ず成長するんです。私たちの心に生き生きしているものがあれば、必ず勝利を得られます。
本当に恵みに満ちてくると、人はじっとしておれなくなる。
聞くところによると、間もなくボーナスが出るんだという話ですね。出るとじっとしておれない奥さんがいるでしょ。どうしてですか。ボーナスを持っているからでしょ。私たちは神の恵みが満ちてくると、じっとしていられなくなってくるんです。これは本当なんです。みなさんがじーっとしておられたら、まだ満ちていないということです。
私は今まで30冊ぐらいの本を書きました。いつも、私が心にしていることは何かといいますと、慰められるだけではなくて、自分で立って、歩いて、それを活用して、輝いた生活を送っていただく、ということです。
ある集会で、私は使徒の働きの中から、青年たちにお話をしました。
あの「美しの門」に足の不自由な人が座っていました。ペテロとヨハネがやってきて、自分の足で立つことを教えました。ナザレのイエス・キリストの名によって立って歩きなさい、と教えたんです。ペテロとヨハネがその足の不自由な男になにがしかを与え、ただの慰めで、「明日もまたここに座っていなさい、慰めを運んでくるから」なんて、そんなこと言わなかったんです。
みなさん、私たちは自分の足で立たなければなりません。歩き出さなきゃならない。私たちの生活は輝かなければなりませんよ。他の人に分け与えられるように。私が書いた本はどの本を読んでも、そのようになっていると思いますよ。
なぜ私がそのように書いてきたかというと、聖書が示す道だからです。
みなさんはこうしてここに座って、直接、聖書のメッセージを聞いておられますが、慣れてくるとその意味を失っていくんです。初めてここに来られて話を聞いた時には、うらやましいなあと思ったかもしれません。しかし慣れてくると、静かなものですよね。
どうかみなさん、「私もそういう人になろう」と信仰を持って立ち上がっていただきたいと思うんです。そういうふうになれるかどうかなんて、心配しなくて結構です。なれるかどうかは神様がしてくださって、こっちは「なろう」と立ち上がるだけなんです。
子供が歩きはじめる時、どうですか。立って歩けるかどうか心配していたら、永遠に歩けないですね。転ぼうとなんであろうと立って歩くでしょ。
立って周りの人に神様の恵みを与えましょう。何度も失敗するかもしれません。
失敗してもかまいません。やがて、私たちは自分の足で歩けるようになります。
私たちのところに与えられた恵みを、自分のところにプールしておいてはいけませんよ。ため込んでいたらいけないんです。雨水をため込んでおくとボウフラが湧きますよね。
自分のところに送られてきた恵みを流さなくてはなりません。どうか他の人に回してあげていただきたい。お歳暮のたらいまわしじゃありませんよ。
神様の恵みを分け与える。
さて、みなさん、どうしたら私たちはそうできるか、ということですが、私たちが眠っている間に自分の人格が変わっていくんじゃありませんよ。
目が覚めたら、神の愛に満たされた人になっているのではありませんよ。
私はある時、こんな証を聞いたことがあります。ある集会のあと、近くに森があったので、その人は祈りながら眠ってしまったんだそうです。何時間か眠ってしまって、目が覚めると、その人は「目が覚めた後、私は聖められていた」という証をしました。
しかし、眠っている間に聖められることはありません。
この人が経験したことは何でしょうか。この人が言っていることは、祈り疲れて数時間眠って目が覚めた時、さわやかだった、ということです。
お疲れで、熟睡して、涼しい風が吹いてきて目が覚めたらさわやかだった、という経験ではありませんか。
神様の御業は、眠っている間に、知らない間に、気付かれぬ間になされる、ということはありません。私たちが、自分の意志で、自分を神様に明け渡し、主を全く信じる時に、神の御業がなされるんです。これを信じることですね。
こっちが知らないうちに神様がしておいてくれた。
知らないうちに泥棒が入って、家の中を掃除してくれた、なんてないんです。
神様の御業は、私たちに慰めを与える以上のものですね。
必ず、他の人に分かち与えることができるほど、愛に満たされるものです。
みなさん、おすそわけっていうのがありますね。富士山の裾を分けたらどのくらいになるでしょうかね。考えたことありますか。富士山の裾には、裾野市、という市があるくらいですからね。
私たちが考えるおすそわけっていうのは、ほんの少しですけれども、神様の「恵みのおすそわけ」というのは大変なことですよ。世界の人を潤してもまだ余る。ですから、どうぞ、私たちが神の愛に満たされましたら、他の人に分け与えていただきたい。
しかし、どうでしょう、私たちは。慰めの座に、座り込んでしまっていませんか。
慰められることは非常に素晴らしいことです。しかし、そこで座っていてはならない。それは、勝利のしるし、ではありません。勝利者は必ず、愛に満たされたならば、他の人に分け与えることができる人です。
私は多くのクリスチャンは、慰められるともうそこに座り込んで動かない。そういう姿を見てきました。自分だけの自己満足に浸っているんです。
みなさん、自己満足というのは、最初はいい気持ちですよ。しかし、だんだん虚しくなるんです。
みなさん、お食事している時、最初の一口は美味しいでしょ。でも腹一杯になるともうイヤになりますね。私は子供のころおはぎが食べたかった。一つ食べるとすごくおいしかったですよ。お腹がいっぱいになっても、もっと食べようと思っているうちに、だんだん頭がおかしくなってきましたね。
そりゃ神様が与えてくださる恵みは素晴らしいものですよ。この神様の恵みによって私は慰められた。でもそこにじっと座っていたならば、慰めは変わっていくんです。
他の人へ分け与えるほどの恵みになっていかないといけません。
億劫(おっくう)に思っちゃだめです。損をすると思っちゃいけません。
私たちクリスチャンは、自分が幸せになることを願うでしょう。
私たちは、自分の家族が幸せになることを願うかもしれない。しかし、他の人にも幸せになっていただかなくてはなりません。神様は、自分一人だけが幸せになれるようにはお造りにならなかったんです。
日本は、今たくさんお金をかき集めているようです。でも日本が世界で一番お金もちになったら、何が起きるんですか。中国とか、周りの国とか、もっと貧しい国は、どう思うでしょうか。「あー、日本は富むようになって良かったね」、と言ってくれるんでしょうか。いいえ、言ってくれないでしょ。みんな、「あいつ、どうやって金を集めたんだろう」、と言っているではありませんか。
私たちは、自分だけ幸せになることはできないんです。
自分だけ良ければいいというのは、クリスチャンの罪だと思いますね。
自分が幸せになり、家族が幸せになるのは結構なことなんです。悪くないですよ。それは幸いなことです。
しかし、それはもっと他の人に潤いを与えていく、他の人々にも神の恵みを分け与えるものなんです。主の御心をわきまえない自己中心のクリスチャンは、やがて滅んでいきます。
なぜ神様は私たちに恵みをくださったんでしょうか。
内側のポケットに入れておきなさい、そのためですか。そうじゃありませんね。
私たちはそこから立ち上がって、慰めの座から立ち上がっていかなくてはなりません。
本当の神の愛を経験したら、そこに座り続けることはできませんよ。
ずいぶん前に、私は穴井善三君にお会いしました。彼は心臓の手術を2回もしたんです。彼は天に召されましたけれども、彼は病院中を駆け回って、自分の知っている人全部にイエス様の話をしたんです。
一週間か10日後に彼は亡くなったんですけれどもね。神様を知ったならば、じっとしていることができないんですよ。本当に私たちは、神様が分かってくるとじっとしておられないんです。
私も同じです。神様が分かった時にじっとしていられなくなる。
何をするかって、自分のできることはなんでもするんです。冷静さを保っているなんてことはできなくなる。
私たちは、神の愛が内側に灯ったならば、さて、何したらいいか、なんて考えませんよ。何をしようかでは、まだ神の愛に満たされていないかもしれない。
私たちは神様の愛を真剣に求めたいと思うんです。自己中心の態度を捨てて、他の人に神様の愛を分け与える人になりたい。そういう人を、神様は祝福される。
しかし、もし私たちが立ち上がらなかったら、神様はどうされるでしょうか。
私たちを使わないでしょう。他の人々をお用いになるんです。勿論、みなさんが立ち上がらなくても、主は他の人をもお用いになるでしょう。
しかし、私たちがなぐさめの座布団にじっとしていたらば、私たちは座布団のうえで屍(しかばね)と化してしまうでしょう。
今、日本の人達は非常に虚しさを覚えています。そして、みんな虚しさから抜け出そうとしています。しかし、どうやればいいかというのを誰も知らないんです。私たちはこれらの人に、神の愛を分け与えなければならないんです。ですから、みなさん、慰めの座布団から立ち上がっていただきたいんです。
今年は暖かい冬ですけれども、人間というのはぬくもりのある座布団から立ち上がるのが、だんだん億劫(おっくう)になるでしょ。そして冷たい床の上に立って歩いていくのは、勇気がいるでしょ。
私はよく見てきました。「ぬくもりのメッセージ」とか「温かい教会」だとか聞きました。これも結構ですよ。
しかし、「木枯らしの吹く教会」とか、「北風の吹く教会」なんていうのはあまり聞きませんね。木枯らしや、北風に向かって歩くクリスチャンの話、これは大事だと思うんですよ。
みんな、温かいぬくもりから出ようとしない。これが現在のクリスチャンの姿です。
スポルジョンという人がね、こんなことを言いました。
「牧師は北風に向かって歩かなきゃだめだ」
牧師だけじゃありませんよ、クリスチャンみんなそうですよ。
だから、私はね、教会っていうのは、温かみがあってね、ぬくもりがあってね、出て行かないクリスチャンばかりじゃダメだと思うんです。
暖かくぬくぬくしていたら、扇風機を回して出て行かせるとかね、熱風を吹かせて出て行かせるとかね、大事だと思うんですよ。
確かに、傷がついている時は保護が必要ですよ。しかし、傷が癒されたなら、大空に放たれなければならない。いつまでも巣箱の中に飼っておくことはできない。
今、私は、クリスチャンの姿を見ると、動物園の檻の中の動物に見えて仕方がないんです。自分ではジャングルに出て行かない。いつも飼育係にバナナをもらっている。そして、「このバナナはおいしい」とか「おいしくない」とか「まだ青い」とかね、それでお互いに取りっこしてね。狭い檻の中だから、喧嘩になったり争ったりするんでしょ。
猿がひったくったりしているのを見たことがありますか。
私も帽子をかぶって動物園に行きました。すると、猿がとんできて帽子を取っちゃうんですよ。「この野郎」と言って取り返して、また取られて、友達も取られてね。先生が「もうあきらめろ」と言って帰ってきたんですけどね。
傷ついた動物は保護が必要であります。
しかし、癒された動物はジャングルに出ていくべきなんです。
私たちにとって、教会は動物園の檻のようなものですね。
クリスチャンは檻の中で争ってはいてはならない。
神様の愛を受け取ったなら、ジャングルのようなこの世に出ていかなくてはならない。
この世には傷ついて倒れている人が大勢いると、イエス様は仰いましたよ。
そういう人の心に癒しを与える必要があるでしょ。
クリスチャンはキリストの愛に満たされて、出ていくべきだと思います。
ある教会にこう書いてありました。入口のところに英語で書いてある。
日本語で言うと「来たりて、見よ」と書いてある。
出るところを見ると、「行きて、告げよ」と書いてある。いいなあ。そう思いませんか。
向こうから入ってくるときには「来たりて、見よ。」、出る時には、「行きて、告げよ。」と書いてあるんですよ。いいですねえ。
今度教会を作る時には、そういうのを作りましょうかね。
余計なことを言っているとまた時間がなくなりますがね。
さて今日の聖書のことばに入りたいと思います。
Ⅰ.パウロは、9節~12節において、愛の耐久性について三つのことを語っています。
(1)、9節~10節では、
完全なものが現れると、不完全なものがすたれていく、ということが言われていますね。
(2)、11節では、
幼稚なクリスチャンと、大人の成熟したクリスチャンのことが書いてあります。
(3)、12節では
鏡に映る虚像と、実像の問題を取り上げている。キリストの実体に到達できる、という話をしています。
今日は、その一番目のものについてお話します。
パウロは9節~10節で、私たちの知っている信仰的な知識も断片的で、未完成で不完全なものであると言いました。私たちの預言とか教えも、まだ不完全である。
しかし、キリストの愛は完全である、とこう言ったわけです。
不完全なもの、未完成なもの、断片的なもの、そういうものの中にも、幾分か真理は含まれています。けれども、永遠に耐えられるものではない。
みなさん、この世の中で存在するもので、永遠に耐えられる書物というのは多くないんですよ。それは聖書しかない。
確かにパウロが言っていることは真実ですよ。みなさん、考えてごらんなさい。
この二千年間、無数のキリストの教えについての学問が発表され、もうあげることができないほどとても多いんです。
キリスト教的哲学、キリスト教思想、キリスト教教育、キリスト教音楽、キリスト教芸術、キリスト教建築。
今でもですよ、みなさん。毎日ですよ、何十冊ものキリストに関する本、教会の本、キリスト教に関する本が新刊されているんです。
読み切れないんですよ。
みなさんが、もし、スーパー的な読書力を持っていたら別ですけどね。
毎日出てくる新刊の本を全部取り寄せて、朝から晩まで読んでも読み切れないと思いますよ。この二千年間に発表された、キリスト教の研究、神学、哲学、思想、出版物、それらのものを全部集めても、聖書以外で完全なものは一つもない。
そうでしょ。たくさん出る、ということは、どれも完全なものは一つもなかった、ということでしょ。
私もよくいろんな本を読んで学んでみます。どれ一つとして満足なものはないんです。
「ようし、俺が満足なものを」と言ってやっても、やっぱり満足じゃないんです。
それで結局どこに行き着くかというと、聖書ですね。聖書があれば一番よろしい。
サムエル・チャドウィックという人がいます。「いろんな本を読んだけれども、最終的には聖書しかない、それでもう聖書しか読まない」と彼は言っているんですね。
いろいろな書物が出てきますが、不完全なものは、そのまま永遠にとどまり続けることができません。あるものは、究極のキリストに向かって、次々と学説は改められるでしょう。進歩して行くでしょう。しかし、究極のキリストに取って代わる、ということはないんです。ある学説や思想は消え去っていく。あるいは人々の心に間違った思想を植え付けていくんです。
パウロは、今、私たちが持っている未完成で、断片的な知識や預言、教えが悪いと言っているのではありません。そういうものが全然価値がないと言っているのではありません。しかしそれは完全ではない。
イエス様に取って代わることはできないと言っているんです。
私もイエス様をお伝えするために30冊以上の本を書きました。しかし、それはみんな不完全なんです。書いている本人がそう言うんですから、間違いはありません。断片的な真理しか含んでいないんです。それらを通して、人々が究極のイエス様を知るようになる、イエス様の愛を心の中に迎えていただく、そのためであります。
ですから、もし私たちが、完全な究極のイエス様の愛に到達したのならば、そういう書物は不要になるんです。私の拙い書物も、この10年で約10万人の方が読んでくださいました。そんなことを私は考えてもみなかったんですが、気付くとそうなっていた。非常に幸いなことなんです。そのことを通して、イエス様を信じるようになった人はたくさんいます。
しかし、一方では残念なことが起きている。
本は読むけど、聖書そのものを読まない人が出てきた。
どんな書物も聖書に取って代わることはできないんです。
人々が聖書を読まない理由は分かりますよ。自分で聖書を読んでも、なかなかそこから神様の恵みを汲み出すことができないからだと思います。
しかし、みなさん、汲み出すことができなくて読まなかったら、いつまでも汲み出すことができないでしょう。ですから汲み出せなくても聖書は読んでいただきたい。
ある程度、信仰が身に付き、聖書を探求しなければ、私たちは聖書そのものから恵みを汲み出すことが困難かもしれません。
しかし、信じて5回6回と読んでみるうちに、染み出てくるものがあるんですよ。
みなさん山に登った事がありますか。山の斜面から水が染み出て湧き出ているでしょ。
水ってものは染み出してくるんですよ。
聖書の間からも染み出してくるんです。
絞ってもダメですよ。圧力掛けてもダメですよ。
神様の恵みは読むうちに、私たちの内に染み出してくるんです。
そのための必須条件は何か。
「読む」ということですよ。「信じて読む」ということです。
何もしないで、神様の恵みに到達することはできませんよ。
不完全で未完成のものを読んで、完全なものを読まない人が出てきたというのは、これは残念なことです。
やがてすたるべきものにすがりついて、全き真理に向かおうとしない人は、大きな間違いを犯しています。
パウロは10節で「完全なものが現れたら、不完全なものはすたれる」と言いました。
完全なキリストの愛が、私たちの内に体験されると、私たちの人格の中で根を下ろして、
イエス様の愛が私たちを支配するようになったら、何が起きるんでしょうか。
ヨハネはこう言いましたね。ヨハネの第一の手紙2章27節
「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」
これはですね、イエス様が自分の内側に宿ったら、もう何も学ばなくてもいい、ということを言っているのではありません。
ここで言っていることは、自分の魂の内に霊的人格的な力を受けるには、聖書と聖霊だけが必要であると言ったんですね。他の人の不完全な教えを必要としなくなってくる、ということです。
ですから、何も勉強しなくていいと言っているわけではありません。
へりくだって、もっともっと聖書を学ぶようになるということは事実ですけれども、そして私たちは一挙にこの水準に到達しないかもしれませんが、ここに向かって進んで行かなければならない。
パウロは第一コリント1章30節で言っています。
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖(あがな)いとになられました。」
ここでパウロは、「もし、あなたがたがキリストを宿して、キリストに満たされているならば、自分で一所懸命に努力して救われようとすることは自然にやめます」ということです。キリストの完全は、私たちに救いを与えてくれるからです。
みなさんが、キリストの聖きを自分の内側に持っておられるなら、自分で努力して、
自分を聖くするというわざをやめる、ということを言ったわけです。
多くのクリスチャンを見ると、自分の出来具合を見て慌てたり、悩んだり、焦ったりしていますね。
どうですか、みなさん、自分の出来具合が良いと喜びますか。
しかし、その喜びの背後には、「私も捨てたもんじゃない、たいした者だ」と思ってしまうんじゃないですか。
「私はへりくだっている、たいした者だ」って思っていながら、へりくだっていることになるんでしょうか、本当に。
意味がお分かりになったかどうかわかりませんけど。
内側に、完全なキリストの聖きを経験していれば、私たちはそこに安んじていることができる。出来が良かろうが悪かろうが、それは問題じゃない。とにかく、私たちは、自分の焦り、自分の努力、自分の悩みを一切やめてしまうということです。
どうしてやめないのか。それはキリストが自分のものになっていないからです。
パウロはこう言っている。
「キリストは私たちとって、神の知恵、義、聖め、贖いとなられた。」
一生懸命に努力して救われ、私たちは天国に行くんじゃないんです。
完全なものが実現すると、不完全なもの、つまり自分の努力、聖め、自分で救われようとすること一切が、すたれていく、と言うんです。自然に消えていくということです。
みなさんは、すでにこのことを経験しているでしょうか。
それともまだ、頑張っているでしょうか。
なるべく早く、このイエス様を、全面的に受け入れてほしいんです。このことを言っているんです。
完全なものが現れたら、不完全なものはすたれていく。
どうぞ、みなさん、イエス様にすべてを任せていただきたい。
そうすれば、私たちの内に、完全なキリストの愛を経験することができる。
この「完全な」というのを、どこにつけるか、間違わないでくださいよ。
「完全なキリストの愛」ですからね。「完全な私」ではありませんよ。
みなさんが心配していることを、神に任せてごらんなさい。信仰というのは非常に具体的なことですよ。イエス様に信頼して従うことです。やってみることです。みなさんが完全なものを経験できるのは、これだけです。
霊的なことというのは、私たちは見たり触ったりすることができないんです。
みなさん、自分が信仰があるって、どうやって探すことができますか。
心の中を、こうやって、ああやって、あれこれ探して見つかりますか。見つからないんです。私たちは信じて、そして、やることです。そうすれば、そこに信仰があるってわかるんです。
Ⅱ.私たちは長い間、不完全な断片的なものにしがみついて、自分の安全を守ろうとしていることに慣れてきている。
ですからどうです、あのペテロのようにガリラヤ湖で舟に乗ってね、嵐がやって来たんでしょ。向こうから、イエス様が歩いて来られました。ペテロは何て言ったんですか。
「主よ、私に来たれ、と言ってください」。
イエス様は「来なさい」と言ったんです。
ペテロは船から降りてガリラヤ湖の上を歩いたんです。しかし彼は恐れましたよ。風を見て、嵐を見て、恐れた彼は沈んだ、と書いてあるんです。
みなさんもそうじゃないですか。
長い間、不完全な断片的なものにしがみついて自分の安全を守ろうとする。
だからイエス様が、そういうものを「放して、放して、放して、わたしに全部信頼して任せて、来なさい」と言われたら、それこそ舟の上から降りてガリラヤ湖の上に立ってみたものの、やっぱりペテロのように恐れてしまうんじゃないでしょうか。
全ての真の信仰者は、みなこれを経験したんですよ。ヨシュアもそうですよ。モーセもそうですよ。みんな自分を守ろうとしてきた。
その断片的で不完全なものを放して、そして水の上に立つような信仰に入っていった。ただの物語じゃありませんよ。
私たちは各々やることは違うかもしれません。しかし、同じなんです。
これを乗り越えないで、私たちは信仰によって歩くことを、絶対に身に着けることができないんです。幼子が歩くことを怖れていたら、自分の足で歩くのを嫌っているのと同じで、いつまでたっても自分で歩けないんです。
私たちはしばしば、「すたれていくもの」、「過ぎ去るもの」、「朽ちていくもの」にしがみついてそれを放そうとしないんです。
この世ではすたれていくものの中に、素晴らしく美しいものたくさんあるでしょう。欲しいなあと思うものが、たくさんあるでしょう。私たちを熱中させるものはたくさんあります。しかし、それは必ずすたれていくんです。そしてみなさんを失望させる。
例えばここに一人の、足を怪我して杖をついていた人がいたとします。
「先生、この杖はね、中はレバノン杉でつくられていて、外側は金張りで、30年も持つ立派なものですよ」
みなさんどう思いますか。何かおかしいと思いませんか。
「この人はこれから、30年も杖を突いて歩くつもりなんだろうか」
おかしいでしょ。やがて必要でなくなるものを、すたれていくものをいくら誇っていてもなんの意味があるでしょうか。30年使えるかもしれないけれども、「あなた、早く足が治りたいと思わないんですか」。
ヨハネは、愚かな人がよく、自分の暮らし向きの自慢をする人の話をしました。
Ⅰヨハネ2章16節で「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」と言いました。
「先生、このタンスは100年も使えるんですよ」
私は「この人はこのタンスを100年も使うのかな」と思いますね。
私たちは、やがて朽ちていくもの、過ぎ去るもの、すたれていくものに夢中になりすぎていないでしょうか。
自分の目の欲、肉の欲、よく見えるもの、欲しいと思うものを手に入れようと夢中になっていないでしょうか。
ヨハネは、第一ヨハネ2章15節で
「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」
また、第一ヨハネ2章17節で
「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」と言いました。
それらは、束(つか)の間の快楽と満足を与えるでしょう。しかし、永遠のいのちをもって、永遠の御国に入ろうとする者が命をかけるものではない。価値あるものではありません。
イエス様はヨハネの福音書6章27節で
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」と命じました。
確かに給料をもらうために働くのも結構です。しかしこれは、ほどほどにしなければなりません。
みなさんどのくらいの給料があれば満足しますか。
毎月300万円くらいですか、400万円くらいですか。
どんなに多く給料をもらっても、財産を築いても、永遠にみなさんのものではないでしょ。
そう考えてみたことがありますか。
私の友達はこう言いました。「残業して金を増やすくらいなら、私はやめて自由時間のために他の勉強をしたい」賢いなあと思いました。
いまだに給料が上がらなくて、一生懸命勉強をしていますがね。私は、見上げたものだなあ、と思うんですね。
永遠のいのちを持つものは、朽ちないことのために働き、それにふさわしい報いを受けるんです。物事の重要さの度合いを、私たちはよく考えなければなりません。
多くのクリスチャンはこう考えています。この世ではやっぱりお金が必要だと言って、働いている方がいるかもしれません。
しかし、いくつか例をお話します。
私の両親はもう死にました。家族一人ひとりに生命保険を掛けました。その時代の一番大きなお金が100円でした。100円札、大きな100円札でした。今は100円札はないですね。
戦争が終わりました。生命保険会社から連絡がきました。
「満期になりましたので受け取りにきてください。」
親父もおふくろも、もらいに行かないんです。
私は聞いたんです。「どうして行かないの。せっかくくれるんだから。」
「貰って来たって駄目なんだよ、これは。行って帰ってくる電車賃の方が、かかっちゃうんだ。だから行かない。」って言うんですね。いまだに記憶していますがね。
両親は全く無駄のために、長い間働いたんですよ。
別にそんなことは言いませんでしたがね。
「何年も何年も、どうしてこんなバカなことをしていたの。」
「そんなこと、戦争が起きるなんて、知らないじゃないの。」
みなさんの中で、1ドルが360円だった頃を知っていますか。今は1ドルが120円台になっていますね。1ドルの価値は三分の一に下がりましたよ。考えてごらんなさい。一生懸命にやってきたことが三分の一。
数年前に3000万円だった土地が今1億円しています。お金の価値は三分の一になりました。土地の値段が上がって、喜んでいる人があるかもしれません。
やがて一億円していた土地が三分の一になることもあります。そんなことはないだろうというかもしれませんが、歴史的にはあるんです。
そればかりではありません。多少お金が増えたクリスチャンは、主から離れていきました。お金を第一にするようになって、主から離れてしまった人は大勢います。
私は何カ月か前に、500円札を持って買い物に行きました。
するとレジの女の人が、「これ、使えるの?」。
別の女の人が言いました。「まだ使えるんじゃあない」
だんだん500円札は使えなくなるんじゃないでしょうかね。
2,3週間前、古い1000円札をもって銀行に行って、コンピューターに呑み込ませようとしたんです。とても呑み込むのを嫌がるんです。
銀行員の人が出てきました。「おかしいね」
私はこう言ったんです。「このコンピューターは古いお金は嫌いなんじゃない」
「どうもそうみたいですね、じゃ、窓口へ」
窓口の人は嫌いじゃなかったようですね。
古いお札はもうコンピューターにはインプットされていないんですね。
みなさん、世界には使えないお金があることをご存じでしょうか。
かつての南部アメリカのドルは使えなくなりましたよ。南北戦争のあとにね。歴史によると壁紙になったというんです。壁にベタベタ貼って、お札ですよ。
今も使えないお金がありますね。ソ連のルーブルです。
たとえ私たちが使っている円が使えなくなっても、全世界で使える唯一の通貨があるんです。それは「キリストの愛」なんです。これはどこに行っても通用するんです。
私たちは何で財産を持っていますか。円ですか、ドルですか、フランですか、マルクですか。やがてみなさん、私たちはそういうものでは通用しない国に行くんですよ。
私たちは、どこへ行っても通用することができる通貨をもっていなければならない。
天の御国で通用できる通貨は、今私たちが生活している中でも、円とかドル以上に通用しますよ。
みなさん、やがてお正月がきて、お孫さんにお年玉をあげるでしょ。でもどうですか、彼らはもらったら、あっちに行ってもう終わりですよ。
愛をばらまきましょう。愛の通貨を持たなかったら、悲劇が起こるんです。
円の通貨に献身する者はたくさんいます。しかし、愛の通貨に献身する者はわずかしかいません。
私たちは今、イエス様を知っています。神のことばを知っています。幾分かでもキリストの愛を知っています。
私たちの第一目的は何なんでしょうか。
円の通貨を獲得することですか。
みなさんが持っているすべてを、円の通貨で獲得しようとすると全部失ってしまいます。私たちは自分のしようとすることに対して、はっきりとした責任を取らなくてはならないんです。
イエス様を信じている多くのクリスチャンたちが、この世のすたれていくものを求めたために、キリストの愛を失っていってしまったんです。自分の肉に従ったからですね。
みなさんは自分の一生涯、本当に十分な勝利と報いを受けたいと思うならば、考えなきゃなりません。すたれるものを求めないで、完全なもの、キリストの愛を求めることが必要です。
間もなくクリスマスがきますよ。その中で何を歌うんでしょうか。ジングルベルでしょうか。トナカイの歌ですか。ケーキにツリーにサンタクロースやプレゼントが飛び交います。人々はそういうものに浮かれていくんです。
しかし、みなさんはよくご存じですね。それが本物のクリスマスじゃないってことを。
そういうものが、すぐにすたれていくってことを知っているでしょ。
12月25日を過ぎるとどうですか。いわゆるクリスマスソングが世の中からパタっと消え去りますね。途端に一曲も歌われなくなり、「もういくつ寝るとお正月」が歌われます。
ツリーがなくなって何が出てくるんですか。門松が出てくるんですね。なんとすたるのが早い事ですよ。
サンタクロースがいなくなって何が出てくるんですか。
お年玉に福袋。なぜでしょうか。
本物のクリスマスを持っていないからですよ。クリスマスとはキリストを礼拝することです。完全なものを持っていなければ、私たちはすたれるものを持ってしまうんです。
すたれるものを求める人の人生は、すたれます。
自分の生涯が虚しくなるとしたら、すたれるものを求めていたからです。
完全なものを求めている人は、たとえ自分が孤独になっても死に臨んでも、すたれることはないんです。
私たちは消えていかない、すたれていかないものを持たなきゃならないでしょ。
みなさんの生涯において、たくさんの目的を持つことはできません。
一つだけの目的、第一に目的にしなきゃならないものは何なんでしょうか。
それはみなさんの人格の中で、完全なキリストの愛を満たすことなんです。
クリスマスがもうじきやってくる。
クリスマスはいったいどういうことなんでしょうか。
私たちの心にキリストが宿ることなんです。イエス様の愛を中心にして、自分の人格を建て上げていくことなんです。
それは自分だけを幸せにしませんよ。他の人、周囲の家族、友人に良い影響を与えるんです。
私たちは、どういうふうにして他の人に素晴らしい恵みを与えようかと思っているかもしれません。もし、本当にそう思われるのなら、ご自分の人格をキリストの愛によって建て上げるんです。これに専念するんです。このために献身しなさい。このために生きてごらんなさい。価値ある生涯を送ることができます。
聖書は、愛と信仰と永遠のいのちを結び付けて私たちに教えていますね。
ヨハネは、ヨハネ3章16節でこう言っていますね。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
ヨハネはこう言いました。
神の愛と、御子を信じることと、永遠のいのちを持つこと、これを結び付けているんですね。私たちがキリストを信じることは、神の愛を持つことを意味しますよ。神の愛を持つことは、永遠のいのちを持つことを意味しているんです。
みなさん、素晴らしい真理でしょう。
この完全な真理が自分の内に実現するならば、不完全なものはすたれていく。こう言っているんです。だから、私たちはイエス様をたたえるんですよ。私たちはこのキリストの愛に献身したいんですね。
世界で最も幸福な人とはどういう人でしょうか。自分の内側に完全なキリストの愛を実現している人ですね。
この世は、きらびやかで人目を引く、すたれていく虚飾で飾り付けられていますね。
私たちは、完全なものを内側に持って、飾ることができるんです。みなさん私たちは、これを経験していただきたい。これを内側に持ったならば、今年はさらに素晴らしいクリスマスを迎えることができると思うんですね。
どうぞ願わくは不完全なすたれるものを求めないで、バランスをよく考えていただきたい。一体何が自分にとって一番大事なのか。
完全なものが現れたら、不完全なものはすたれる。
完全なものを内側に実現させていただきたいと思います。
お祈り
完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
恵みの深い天の父なる神様、イエス様の大いなる恵みを感謝します。
主がこの地にお降りくださったのも、完全な恵みを、イエス様の愛を、実現させるためでした。
このことを私たちが信じる時に、内側に経験することができます。
そして私たちの生涯が最も優れたものに変えられていくことを感謝いたします。
様々な課題があるでしょう。また、私たちが生涯を過ごす時にいろいろな必要が生じてくるでしょう。そのバランスをよく考えて、イエス様、あなたが最も与えたいと思っていることを私がしっかりと握りしめるなら、勝利は私たちの手にあります。
どうかこのことを深く心に留めさせてくださって、私たちの一人ひとりが、その人にならせてくださるよう、ひたすらお願いいたします。
尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧
第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容、親切、ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半
コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節
12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)
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