第一コリント13章「愛の章」第10回 「決して絶えることのない愛」

イスラエルのネゲブ砂漠に植えられたナツメヤシの幼木

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今日も1節だけですので、ご一緒にお読みさせていただきましょう。
毎週1節づつぐらいしか読んでいないから、お覚えになっていると思いますが、
今年は、子どもたちはこの13章を暗誦するので、楽しみにしていただきたいと思います。
8節をご一緒にお読みさせていただきましょう。

コリント人への第一の手紙13章8節
「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」

お祈り

愛は決して絶えることがありません。
天の父なる神様、こうしてあなたのみことばの中に私たちをお招きくださり、そしてあなたを信じる者のうちに、神様の愛を与えてくださいます。
決して失望に終わることがない、絶えることがない、すたれることがない、止むことがない、神の愛を与えてくださいます。
この愛を今朝も私たちは十分に、内に満たされるほど持って、今週の旅路に船出することができることをありがとうございます。
イエス様、あなたの愛を心からほめたたえ、またこの愛によって生きる力をみなぎらせてくださることを、感謝いたします。
いかなる艱難、いかなる障害がありましても、神の愛に満たされるとき、すべての山は海に移ってしまうほど、神の恵みが豊かに注がれることを感謝いたします。
今日もみことばに仕えようとしています。御霊が働いてください。私たちは御霊が働いて下さる時だけ、みことばの真理を悟ることができ、自らの力とすることができます。
ですから今日も御霊が働いてください。そして私たちのいのちとしてください。
みことばを祝してください。
卑し愚かな者を助けて下さり、みことばの中に記されているあなたの真理を取り次ぐことができるように、自由に御霊を用いてください。
この時をすべてあなたにおゆだねします。聖霊が働いて下さることを待ち望んでいます。
尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

今日は、「決して絶えることのない愛」という題を付けさせていただきました。
いよいよ私たちは「愛の特性」について最後の項目に辿りつきました。

Ⅰ.今日は8節から、「愛の永遠性」について考えてみようとしています。

この問題に入ります前に、みなさんに一つ質問をさせていただきたいと思います。

A.「みなさんは、神の愛をお持ちでしょうか」

私がこの質問をしたのは理由があります。この質問をした時に、私が知りたいことは何かというと、みなさんが心の中でどんな反応をしたか、ということです。全然反応しなかったら具合が悪いですよ。
「みなさんは、神様の愛をお持ちですか」。どうでしょうか。
返事がないから、みんな持っていないんでしょうね、おそらく。
ある人はこんなことを考えたと思うんです。
さあ、自分の心の内側のどの辺に神の愛があるんだろうか。
心の中を探したかもしれません。
心の中を探すと、だいたいないんです。ありましたか。
頭のどこかの隅のほうか、心臓の裏か。
探してあるものではありませんよ、愛というのは。
クリスチャンの中には、内側を探す人が多いんです。どこかに神様の愛が残っていないだろうかと、よく探します。自分の内側にイエス様が宿っていますか、と聞くと、イエス様がどこにいるか探します。あなたは永遠のいのちを持っていますか、と聞くと、永遠のいのちがどこに残っているか探します。
見つかった試しがないんです。
それはそのはずです。イエス様も、神様も、永遠のいのちも、物ではありませんから。探しても見つからないんです。そうでしょ。
多くのクリスチャンたちは、どこにあるんだろうか、と自分の心の中を探しますね。
みなさんは探しませんでしたか。
私が、神さまの愛を持っていますかと聞いた時、「あ、自分は持っているだろうか、どうだろうか」、と考えませんでしたか。これ、探している、ということなんですよ。
それでは見つからないんです。神の愛は絶対に見つかりません。自分は持っているんだろうか、持っていないんだろうか。探しても見つからないんです。
「あなたは神の愛を持っていますか」、「あなたは、イエス様を宿していますか」、「あなたは永遠のいのちを持っていますか」と聞かれて、すぐに「私は、神様が愛を下さっていると信じます」という心の営みをする人は、その人は神の愛を持っている人なんです。
探してもわからないんですよ。探しても見つからない。物ではありませんから。
神様の愛は信仰でしか、分からない。

日本人は信仰というと、「ハエが手を擦る、足を擦る」みたいにね、こういうわけが分からないような信仰しか持っていない。
みなさん、信仰というのは、教会に来る前の時のような、神社でガランガランしたり、鐘をチンチンするようなものをまず忘れていただきたい。
信仰というのは、私たちの人格的なものなんです。神様を自分の内側に受け入れること、心の中にイエス様を迎え入れること、これを信仰というんです。
人と人の間でも、信用したり、信頼したりしないと、相手を受け入れないでしょ。
まさか、人と人が信用するのに、頭をコンコンと叩いてみたりしますか。スイカを買う時は叩くかもしれませんけど、いい音がしたから相手を信じられるなんて、しないわけです。
私たちが信じるという時は、それは神様がそれを下さっていると信じることですね。
イエス様を宿していますかと聞かれて、イエス様を信じている人はイエス様を宿している人です。永遠のいのちを持っていますか、と聞かれて探したって見つからない。
私たちは、神様がそれをくださったと信じる時、それを持っている。

宇宙飛行士がロケットに乗って、地球から少し飛び出して、ぐるぐるっと見回して、そのうち宇宙飛行士は「神はいない」と言ったそうですがね。
何を見ているのか、と思うんですよ。
別の人が行って、またぐるぐるっと地球を回って、「確かに神はいらっしゃった」と言ったんですよ。どっちが本当なのか。
私はどっちも本当だと思います。
信仰なくして神様を見たって、見えませんよ。しかし、信仰を持って見るなら、私たちは何もロケットに乗らなくても分かるんです。
私は知っていますよ、宇宙に果てがあることを。行ってみなくても。
なぜですか。神が創造されたものですよ、被造物です。被造物には必ず果てがあるんです。
私たちは見なくても分かる。信じることによって分かる。

信仰というものは偉大なものですよ。
日本人は信仰を愚かなものだと思っているでしょう。病気の人とか、弱い人とか、お年よりとかがやるものだと思っているでしょ。
若くて学問があって、お金があって、地位がある人がやることじゃないと思っている。
しかし、どうですか、世界を見てごらんなさい。
地位もある人、学問もある人、お金もある人、素晴らしいと思われている人はみんな神を信じているんですよ。
日本人では、信仰者をたくさん挙げられませんよ。信仰を持っている人があまりいませんからね。

ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、真部明も持っていますよ。
みんな同じ信仰を持っているんですよ。
どうも日本人は、頭が悪くて、心が悪くて、どうにもならない人、そういう人達が信仰を持つという考えがあるでしょ。それは「NO」ですよ。
信仰は、人間が持つ最も尊いものなんです。これがなかったら、人間らしく生きることができないんですよ。どうぞ、考えを入れ替えて変えていただきたいと思います。

私たちは、神の愛を持っているかと言われたら、「はい、私はイエス様が下さったことを信じています」と答えたら、持っているんですよ。
探し回っているということは、いくら探してもそれは見つかりません。だから、最初から罠をかけたわけじゃありませんけれどもね、是非このことをしっかり覚えておいていただきましょう。

クリスチャンになりましても、「私は神の愛を持っているんだろうか」と心配になる。
愛は物ではありませんから、見つからないんです。
私たちは信じて聖書を読めば、そこから神様が力をくださるんです。
神がいらっしゃるということが、分かるんです。
信じて賛美を歌えば、私の喜びになり、パワーになるんです。
私たちの心の中を顕微鏡で探しても、神の愛は見つからないんです。
信じること、なんです。
どういうふうに自分の心の中で感じているか、いくら探っても見つかりません。
すぐに信じることです。

ですから私はこう聞くわけですね。
「あなたは今日、本当にイエス様を持っていますか」と聞かれた時に、「私はイエス様を信じています」と答えてごらんなさい。キリストが自分の内側に生きておられることが分かる。
これなんですね。さあ、これを心に留めておいていただきたい。

それでは今日のテーマに入りたいと思います。「愛の永遠性」について考えてみたいと思います。
なぜ「愛」は永遠なのか。
なぜ「愛」は決して絶えることがないんでしょうか。

もちろん、ここで言っている愛というのは、恋愛の愛とか、夫婦の愛とか、親子の愛ではありませんよ。こういうたぐいの愛はすぐに破れてしまうでしょ。失敗に終わってしまうでしょ。崩れてしまうでしょ。
ここでいう「愛」は、神様の「愛」、アガペーの「愛」ですね。
「愛」が永遠なのは、「愛」が決して絶えることがないのは、神がその「愛」だからなんです。

ヨハネは何度も言いました。「神は愛です」(Ⅰヨハネ4章8節、16節)
ここでいう神様の愛は何かというと、これは、神さまは何でも好きなことをさせてくれる、我がままを赦してくれる、それは愛ではありません。
神様は愛ですから、懲らしめます。
神様は愛ですから、叱ります。
神様は愛ですから、戒めます。
神様は愛ですから、訓練します。
そうすることによって、私たちが神の道から迷いださないように、まっすぐ真理の道を歩み、成長して、イエス様の恵みに満ち満ちたものになるように願っておられるんです。

日本人の多くの人は、「神は愛である」という言葉を誤解していると思います。
自分が苦しいことに出会うと、「神様は愛じゃないではないか」って言いますね。
「牧師も愛じゃないではないか」と言われますよ。
牧師なんて元々愛なんてないんですよ。あるなんて思うからいけない。ないと思ってください。万が一あったら儲けものでしょ。
神様は愛だ、と言っていますが、牧師は愛だ、とは言っていませんから。
言い訳しているわけではないんですけれども、聖書のどこにも書いていないんです。
みなさん、正しくみことばを知る必要があります。

何でも子供の言いなりになっている親というのは、本当の愛ではないと思います。
愛のある親は、子供が健全な人格を持って育つように、懲らしめたり、戒めたり、訓練したり、制限したりしますね。
子供が何かやっている時は、ろくな事をやっていないんですよ。ダメだということをやっているんですよね。
子供を見ていますと、道を歩いている時も、真ん中を歩けばいいのに、わざわざ端っこの板の上を歩いている。そこを歩くんじゃない、って言っても、端っこのカタカタいうところを歩く。
愛のある親というのは、危険を教えますね。

B.なぜ愛が最高で永遠であるのか。

それは神が愛だからなんです。この言葉に尽きてしまうんです。

けれども、この言葉だけでは納得しない方もいらっしゃると思いますのでね、この言葉だけで分かっちゃったら大したものですよ、でもお分かりにならないかもしれないので、
もう一つ、愛の永遠性について、非常に大切なことをお話しておきたいと思います。
これからお話することは、本当に大切ですからね、生涯、心に留めておいていただきたいんです。みなさんが生きている限り、地上を去ったらいいですけれどもね、これからお話することは大事ですから、是非覚えておいていただきたい。

8節に、「愛は決して絶えることがありません」と言われていますが、これはね、
「決して絶えることがない」というのは、「決して失敗しない」「決してしくじることがない」という意味を持っています。
ですからね、「愛は決して失敗することがない。」「愛は決してしくじることがない」という意味なんです。
「永遠性」と聞くと私たちは、何か、ながーい、っていう感じがするでしょ。
ある教会の先生がですね、お年寄りの方に、
「あのね、天国って終わりがないんですよ。」って言ったらね、
「たいへんだあ、何するの、そこで。」と聞いた人がいたって。
「先生、私は何十年も生きて、それ以上天国に行ってもまだ長いんですか。」と仰った。
これはねえ、永遠という意味が分かっていないんですよ。
永遠というのは、ただ長くて終わりがないとうだけではないんですよ。

失敗しない、しくじらないということがなぜ私たちにとって大切なのか。これを考えてみましょう。
もしもみなさんが神の愛を宿し、神様の愛によって生涯をたどるなら、みなさんの生涯は決して失敗することがない、という意味ですよ。決してしくじらないという意味ですよ。素晴らしいと思いませんか。みなさんは今までに何回もしくじったでしょう。言いにくいですけれども。
ところがね、クリスチャンはこのことに気づいていないんです。この大切な真理をクリスチャンですら気づいていないんです。人間は真理の重要性を知って、初めて大切にするんです。ですからこの朝、私はみなさんに是非この真理を知っていただきたいと思うんです。
私たちは一生涯において、多くのしくじりをします。失敗します。
もうすでに私たちは、たくさんしくじりました。そうでしょ。受験でしくじったかもしれない。仕事でしくじったかもしれない。結婚でしくじったかもしれない。家庭建設でしくじったかもしれない。生涯で一度もしくじらない人は、いないんです。
私たちは多くのしくじりを経験して、いろんなことを学びますけれども、しかし、そういうしくじりというのは、私たちの生涯の一部分で起きたことなんです。
しかし、もし、神様の愛を持たない生涯を送るなら、どんなにこの世で成功しても、
巨万の富を得ても、有名になっても、その人の生涯は全部しくじってしまうんです。
その人の心は荒れ放題になります。神のいのちを持っていないからなんです。その生活、その家庭、その永遠が破壊的な影響を受けていくんです。
愛というのは、簡単なように見えますが、非常に恐ろしい。

パウロはここで、何度も失敗した人であっても決して失敗しない道がある、ということを教えたんです。
それは、この神の愛を宿して生涯を送ることです。内側にキリストを宿した生活をすることです。そうすれば、その人が事業に失敗しようと、結婚生活に失敗しようと、その人の生涯は決して失敗しない、と言ったんです。

ジョン・ウェスレーという人がいます。この人は結婚生活に失敗したんです。
優れた人を見ると、何から何までうまく行っていると思うんです。
伝道者ウェスレーという人は、英国をくまなく馬に乗って伝道した人なんです。彼の机は馬の上にあった。伝記を見ますと、馬の上から5回か6回落ちているんです。居眠りしてではないですよ。本を読んでいて落っこちた。偉いものだなあと思いませんか。

私も中学の頃でしたがね、自転車に乗って学校に通っていました。ブレーキがあるでしょ。普段あまり使いませんから、ブレーキのところに英語の単語帳をはさんでね、行ったんですけれども。

ウェスレーはもっとすごいですよ。
馬もよくできたものですね。手綱がなくても行くんですから。ウェスレーは馬の上がテーブルですよ。こういう人でした。
奥さんは初めはついてきたんですが、とうとうついて来なくなっちゃった。
みなさんの夫がそうだったら大変でしょ。ごはん食べるのも馬の上ですからね。
とうとう奥さんはついていけなくなった。
それからこの奥さんは、ずいぶん焼もちやきだったそうです。ウェスレーのところに、たくさん信仰を求めて女性たちが集まってきたわけです。とうとうこの奥さんは家を出て行ってしまった。二度と帰ってこなかった。
ウェスレーは、追いかけていかなかったそうですがね。ウェスレーの生涯は奥さんが家出をしたことで、少しも傷がつかなかった。彼は結婚生活に失敗しました。
しかし彼の生涯は失敗しなかった。

これは一例ですが、私たちは生涯の中でいろいろと困難に出会うでしょう。失敗するかもしれません。作った会社が倒れてしまうかもしれない。これからみなさんはいろんな困難に出会うと思いますよ。
しかし、私たちが心の中に神の愛を持って生きていくなら、決してしくじることはない。
失敗することはない、というんです。
問題は、私たちがどういう問題を持つか、ということではない。困難に出会わないことを願うんじゃなくて、出会っても失敗しない神の愛、を持っているということですね。
神さまの愛は、必ずみなさんの生涯を成功させるんです。
決してしくじることがないんです。

なぜ愛にはそういう力があるか、というと、神が愛だからです。
愛があるところには、神はおられますよ。「神様はどこにおられるんでしょうか」と聞く人がある。愛があるところに、神がいらっしゃる。
みなさんの心の中に愛があるなら、神様はみなさんの内におられますよ。みなさんの内にキリストがおられるなら、そこには神の愛があるんです。
愛がある人は、神と一緒に歩んでいる人です。
ですから私たちは、偏見を捨てます。打算を捨てます。利益だけを求めないで、神様の愛を動機として何事でもすることです。そうするなら、しくじることがないんです。

みなさん、愛を必要としている人は、どんな人だと思いますか。貧しい人ばかりではありません。金持ちの人も孤独で愛を求めています。同僚や上役も、慰めや励ましを必要としているんですよ。私はそれを経験しました。
年下の者だけではありません。年上の者の方がもっと慰めを必要としている。愛のメッセージを必要としているのは会衆だけではありませんよ。私は知っています。
牧師や説教者は、一番愛に飢え渇いているんです。みなさん考えたことがありますか。
牧師は、愛ではないじゃないか。信者は、愛ではないじゃないか。
牧師や説教者は、愛があるなんてそれは嘘です。

銀行に行けばお金がワンサカあるんですか。銀行に行って聞いて御覧なさい。「銀行には、ここにはお金はありません」て言いますよ。多少はありますよ。ですからみなさん、銀行強盗をしても大して儲かりませんよ。襲うんなら日本銀行とか印刷機を襲ってきなさい。偽札をいくらでも作ってくれますからね。
教会でえらいことを教えてしまいましたけれども。ほんとにやっちゃだめですよ。

愛を必要としている人は、悩み苦しんでいる人だけではありませんよ。
優勝してチャンピオンになった人、喜んでいる人も愛を必要としていますよ。私はいろんな人から話を聞きました。
有名なスポーツマン、有名な俳優、有名な歌手たちが、大拍手のその影でむなしさを覚えているんです。彼らは浴びるほど酒を飲んでいますよ。麻薬を常用しているではありませんか。華やかな舞台に躍り出てくる人ほど、愛に飢え渇いているんです。
人々から羨ましがられる人。みなさん、羨ましがられるような人を、羨ましいと思ったことはありませんか。みなさんが羨ましいなと思う人ほど、愛に飢え渇いているんですよ。お腹がいっぱいな人ほど愛に飢え渇いているんです。
私たちは、困っている人を助けよう、と思います。それも大事でしょう。しかし、実は困っていない人が困っているんです。私たちが自分の内側に神の愛を持っているならば、周囲の方々に分けてあげることができますね。

どうやって神の愛をあげることができるんでしょうか。
ある人はこういいました。「花束をさしあげたらどうでしょうか」
みなさんどうですか。花束は高いかもしれませんがね。しかし、毎日花束を贈るわけにいかないでしょ。
私はここでみなさんに、最も大切なことをお教えしたいと思います。すること、やることは、これまでと同じで結構です。特別に何かしようとするからいけない。
やることは同じでも、その一つ一つに、神の愛の動機を十分に込めて、することです。
挨拶の言葉一つにしても、仕事の一つ一つにも神の愛を込めてすることです。
軽い調子で「オハヨ~・ゴザイマ~~ス」というのと、「おはようございます」と心を込めて言うのとでは違うでしょ。
「このコピー取ってもらえる?」。
あっち向いてね、「ハ~~イ」と言われるのとは、どうですか。
神の愛をこめて、何事もやることです。このことをまず始めてごらんなさい。何が分かるかって、すぐにまず自分の中に変化があることに気づきます。全てが生き返ってきます。生き生きしてきますよ。
愛はいのちです。いのちのエネルギーを持っているんです。それがだんだん相手の心に届くようになります。

これまでクリスチャンは、「神の愛は、どのようにすれば現わすことができるか」という議論をしてきました。しかし、私が今みなさんに話したことは、あまりして来なかったんです。神様の愛を現わすのに、私たちは、何か特別なことをする必要はないんです。
神様の愛を現わすのに、私たちは日常のすべてのことに、行いに、神の愛を込めてすることなんです。

今日は愛を現わすために赤飯にしよう。明日、愛を現わすために栗ご飯にしょう。明後日は芋ご飯にしよう。その次は何にしますか。もう種が尽きちゃう。
みなさん、特別なことをするんじゃなくて、日常のすべてのことに、言葉使いに、愛を
込める。難しいですか。今週はこれをやってみませんか。思いを込めるだけですよ。

私は戦争に行ったことはありませんがね、ドカーンと弾は入っていないけど、音だけするのがあるでしょ。スズメ脅し、っていうのがあるでしょ。ドカーンと音だけで脅すんですけれども、最初は逃げます。でもスズメもバカではありません。そのうち逃げなくなります。音がしても知らん顔しています。スズメもバカじゃないですよ、神様がお創りになったんですから。
私たちも、空ごとばかりをやっているんではないですか。「はい、はい」って言っていますけど、空です。中みがぜんぜん空っぽでしょ。
愛がこもっていなければならない。

私たちの人生は一度きりです。そんなことは、誰でもわかっていることです。
しかしみなさん、今日という日が一度だけだ、ということを考えたことがありますか。
今こうして過ごしている時間は、二度と来ないんですよ。今日自分でできることをしなかったら、私たちは永遠にそれをすることができないんです。

みなさん、こんなことを考えたことはありませんか。「あの時こうしておけばよかった」ってことはあるでしょ。終わったことはもう神に任せましょう。
ああすればよかったと思う暇があるなら、今、何をすればよいかの方が、よろしい。
みなさんに、今日、慰めの言葉をかけたほうが良い人がいるならば、明日に伸ばしちゃだめです。今は便利な時代ですね。今したいと思ったときに、今できるではありませんか。
自分が今日できることを明日に伸ばしていたら、私たちは永遠にできないんです。
例えば、母の日と父の日が過ぎてもう半年たちましたね。
それから今まで、なにか感謝の言葉やねぎらいの言葉をかけたでしょうか。
私たちは、文句や抗議や要求は毎日やってますよ。
「お父さん、お母さんありがとうございます」、これは母の日と父の日だけでいいんですか。それを言うためだけの日なんですか。
一言でいいんですよ、「お父さんありがとうございます」って言ったらね、親なんてバカなものですよ、喜んで会社に行くんですよ。「小遣いクレ、小遣いクレ」ばかり言っていると、いい加減イヤになっちゃう。
お母さんだってね、単純なものですよ。「お母さん洗濯ありがとう」って言ったら、明日から鼻歌を歌いながら洗濯できるんですよ。そうでしょ、お母さんの人。
「お母さん、今日の食事美味しかったよ」って言ったら、すぐに喜んでね。
家庭を幸せにするのは、そんなに難しい事ではないんですよ。愛の水をそそぐだけです。
神様の愛を注ぐことはそんなに難しい事なんでしょうか。
特別な日に花を贈っても、日常生活でこのことができていないと、人は幸せにはなれないんです。

私は人間というのは、本質的には、何か物だけを求めて生きているのではない、と思うんです。
私たちは、自分のことを考えてもそうだと思いますけれども、自分の心に愛を注いでくれる人がいるかどうか、誰か私に愛を注いでくれる人はいないだろうか、と思っていませんか。
植木鉢をごらんなさい。誰か水を注いでくれないかといっていませんか。
愛をね、「恥ずかしい、言いにくいから」とか言って、先のばしにしたり、無視したり、そのうち忘れてしまったりすることから不幸が起きるんです。
私たちは、今日という日を二度と繰り返すことができません。

今お話したことは、私たちにできる一例ですね。
それに似たようなことは、職場とか、学校とか、あらゆるところで応用できますね。
私たちができる愛の行為とは、難しい事ではありません。
ですから、今すぐそれをやりましょう。クリスチャンは今すぐやる。
明日に延ばすから、愛が死んでしまう。

私は子供の頃、うさぎを飼ったことがあります。中学のころ、試験が始まりましてね、一週間くらい餌をやるのをすっかり忘れてしまったんです。試験が終わってうさぎのことを思い出したんです。こりゃいけないと思って、草を刈って行ったんですが、うさぎは半分死にかけていました。しょうがないから、お医者さんのところに行ってぶどう糖をもらってきてね、うさぎの口を開けてやったんですが、もうアップアップでしたね。うさぎがぶどう糖を飲むなんて話は聞いたことがありませんでしたけれどもね。二匹とも死んでしまいました。
明日に延ばすからですよ。明日に延ばすと、愛は死んでしまうんです。どんなかわいいものでも、みんな死んでしまうんです。

みなさん、私たちの人生は、神の愛があれば決して失敗しないんです。たとえ私たちが具体的なことで躓くことがあったとしても、それは失敗ではないんです。
「愛はすべての咎を覆う」と書いてありますでしょ。
愛は私たちの生活を、人生を、生涯を成功させるんですよ。愛を失ったらだめですよ。
私たちは、あれが失敗した、これが失敗したということばっかりが頭の中にあるでしょ。
もっと大事なことがある。

パウロは「愛は決して絶えることがありません」と教えたのはこのことなんですね。
私たちはこのことを一生涯、心に留めたい。そしてその道をコツコツと歩んでいきたい。
みなさんは、自分の生涯を成功させたいと思うでしょ。そう思うならこの道です。
神の愛を持って生きる道ですね。

Ⅱ.さてパウロは「預言の賜物ならすたれます、異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」と言いました。

ちょっと難しいですよ。これは1節、2節で言われていることを繰り返しているんです。

1節では
「13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」
これは神の愛と異言を比較しましたね。

2節では
「13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」
預言の賜物と知識について、愛と比較しました。
パウロはここで、預言の賜物や異言や知識は価値がない、と言ったんじゃないんですよ。
どれも愛に比べると、愛よりも優れたものではない、と言ったんです。
愛を失ったら、みんな虚しくなってしまうと指摘したんですね。

たとえばどんなに大きな家を建てても、その家の中で毎日争いが起きていたら、その大きな家は意味がないでしょ。逆に、どんなに小さな家でも神の愛が満ちているならば、その家は輝いているでしょう。みなさんのお宅はどうですか。輝いていますか。
今日から輝かそうと、思ってるんですか。
昨日までは薄暗かったかもしれませんが、今日から輝かせばいいですね。
しかし、家そのものは朽ちていきますよね。
愛だけがいつまでも輝くんですよ。

ですからパウロは、愛こそ最高の財産であり、最も価値があると強調しました。
この地上にあるどんな美しい花も、やがてはしおれて枯れていくでしょう。どんなに繁栄した文化も経済も、必ずかげりを見せるんです。衰えるんです、すたれるんです。
預言においても、知識においても、言語文化においても同じです。
神の愛だけが、色あせることがない。衰えることも、しおれることも、すたれることもない。パウロは人々が価値があり大切だと思うものを三つ取り上げて、それらは神の愛より優れているものではない、ということを主張したんですね。

A.まず、「預言の賜物ならすたれます」と言っていますね。

預言の賜物とは何か。
神のことばと、神のみ旨、神の御計画を解き明かす力のことですね。
ここに「預言」と書いてありますでしょ。
預金するの「預」で、あずけるという意味の言葉が当てはめられている。
「天気予報」の「予」とは違います。
「預」はあずかる、という意味がありますね。「預言」というのは未来のことを言うだけではありません。時にはそういうこともありますけれども、本質的には神のことばを人々に語ることを預言というんです。
ですから、預言ですから、時には過去のこともあるし、現在のことも話します。現在の方が多いんです。未来のことを話す時は非常に限られています。
たとえば預言によって、神の愛のメッセージを話します。話が終わったならば、もう預言の働きは終わってしまうんです。
そのあとは、それを聞いた人々の心の中に、神の愛が働き始めるんです。預言の働きは終わりますが、愛は生きて働き始めるんです。
旧約的な最後の預言者であるバプテスマのヨハネは、このことを適切に話しました。
ヨハネの福音書3章30節に「 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」とあります。
イエス様は永遠に盛んになるが、どんなに優れた神の人も、やがてその力が衰えていくんです。

あのモーセすらそうでした。世々の聖徒もそうです。私たちもそうです。神様のみことばを話すことは、人間にとって最も素晴らしい働きです。それはどんな博士号を持っていても、ノーベル賞を持つことよりも、素晴らしい働きなんです。
ですからみなさんも是非、神のことばを語る預言者になって頂きたいと思います。
しかし、どんな素晴らしい働きも、神に取って代わることはできない。
預言の働きは、その働きを終えると、一つ一つとすたれてしまう。
今日もまた、私はみなさんに、神の愛のお話をしています。これが終わると私の働きは終わります。
いつまでも話をしろ、というわけにはいかないんです。話は終わってしまう。
明日、みなさんの心の中で愛が働きだすことを祈るのみですね。
私も今までに話した説教ノートが、たくさんあります。今は働きを終えて休んでいる。
ノートは休んでいる。二度とお話することがないものもあるでしょう。
人に働くところの預言はすたれていくんです。
しかし、イエス様は決してすたれない。

B.次にパウロは異言を取り上げました。

異言は、コリントの教会で問題を起こしていた一つですね。ですから、これを取り上げているのだと思いますが、コリントの教会でなぜ異言が問題を起こしていたかは、すでにお話しているので、ここでは繰り返しません。

パウロがここで、コリントの教会のクリスチャンに対して異言と言ったとき、使徒の働き2章で、聖霊に満たされた弟子たちがいろいろな外国の言葉で話したことではなくて、
ここでは異教社会で使われているような、異教的な性格を持った、そういう色の濃いところの奇声であると思います。
そういうものも、その場の興奮で終わってしまいます。
異言というのは「タングズ」という言葉が使われていますが、「タン」というのは「舌」
のことですが、言葉を使うのに「舌」がいるでしょ。いろいろな言語を「異言」と呼んでいるわけです。それも滅びていく運命を持っているんです。

例えばパウロの時代の共通語はギリシャ語です。
しかし今は限られた国でしか使われていません。また当時の重要な言葉はラテン語でした。ラテン語はローマで使われていた言葉ですが、今は死語です。ごく限られた研究者が使っているだけです。日本語だってそうでしょ。明治時代に使っていた文語は、今ほとんど使っていないでしょ。
明治時代ですらそうですよ。江戸時代、ずっとさかのぼっても、もう使っていないでしょ。
学校でいろんなことを学びなさるでしょう。草枕、もっとさかのぼるとなんですか、増鏡(ますかがみ)とか今鏡(いまかがみ)とか、あと知りませんけど。方丈記とか、徒然草とか、暗記させられましたけど、もう忘れましたが。文語だって、今はほとんど使われていない。

確かに言語はキリストの福音を伝えるために、またクリスチャンを訓練するために
非常に多く用いられてきました。
今、世界は3500種ぐらいの言語があると言われていますね。正確には分からない。そのうち3000語ぐらいの言葉に聖書は翻訳されています。
言語は、キリストの福音を伝えるのになくてはならないものですけれども、すたれていく運命にあるわけなんです。しかし、言語によって伝えられたキリストの愛は、人々の心の中に永遠に残っていくんです。

C.パウロはさらに進めて「知識はすたれる」と言いましたね。

ニュートンが万有引力を発見した時は、世界を驚かすような発見でありました。
ニュートンはその時、こう言ったんです。
「私の発見は、大海の水をスプーン一杯すくうようなものだ」と。
その通りになってしまいましたよ。
今や子供でも、スペースシャトルに乗って、地球の重力の働かないところに行くことができることを知っていますよ。神様がお創りになった星だけでなく、人間が作った人工衛星が地球を回っていることも知っている。

スコットランドのエンジニアであるジェームス・ワット、彼は1世紀半ぐらい前の人ですけれども、蒸気機関車を発明しました。
あれは偉大な発明ですよ。この蒸気機関はその時代の産業を変えたんです。
それまでは何でやっていたんですか。牛と馬ですよ。
シューシューとやかんを見てやったという話しですが、本当にそうなのか知りませんけれども。
しかし、今は、レールの上から蒸気機関車は消えたではありませんか。
リニアモーターの時代が到来しました。
ワットの技術はどうなったんでしょう。
知識は毎年すたれていっている。新しい知識が登場してくる。

私がまだ化学者を目指していました頃ね、ワーッと驚くことがありました。何かというと、世界の研究者の発明、発見、実験研究の成果が「ケミカル・アブストラツ」から発表されるんです。それが何十冊という本になって出てくるんです。これを調べるのに一年じゃ足りないですよ。
だから、私は本だけ並んでいるのを見ているんですが、これだけ研究している人がいるんだなあ、と思ってねえ。
今はコンピューターを使って、自分が知りたいところを取り出して見ることができるんですけどね。契約しておくと、資料が入手できるようになっているんです。
世界の知識、思想、哲学、科学、医学界、どこにおいても、毎日塗り替えられているんですよ。
これから、イエス様の再臨が延びて50年後、世界はどうなっているでしょうかね。
私はこう思います。共産主義の思想は昔の遺物ですね。過去の遺物になっている。
資本主義の社会だって、今のままではないと思います。

道を歩いていると目につくものがありますね。門のところに古新聞が出されているのを目にします。あれを見ると、あー、知識はすたれた、と思うんですよね。
フォードが奥さんと一緒に納屋の中から、エンジン付きの4輪車に乗って飛び出し
てきたときに、人々は驚いたんです。
しかし、今は、子供たちは車を驚かないでしょ。
「危ない、危ない」だけですね。今や日本は、道路の長さよりも、車の長さの方が多い、たくさん保有されていると言われています。解体工場に行くと、新型だと言われていた車が鉄くずになっている。
すたれた知識の塊なんです。やがて遺物の展覧会になってしまう。

パウロはここでは、富、財産、名声、地位権力については取り上げませんでした。そういうものは取り上げる価値もないと、彼は考えたんでしょうね。
パウロはこれらのものがあってはいけません、と言っているのではないけれども、数年後に、数十年後にもうすたれてしまうもののために、自分の生涯を費やして、自分の生涯を失敗させてしまうなら、それは愚かな生き方だと彼は教えたんです。

私たちは苦労をして、幾分かの財産を築くでしょう。地位や権力も手に入れるかもしれません。しかしそれだけで、誰一人幸福になった人はありません。神の愛を求めなかったからですね。
みなさんの目には、地位とか肩書、財産が大きく見えるでしょう。
私はある時、名刺を貰いました。表も裏も肩書がたくさん書いてある。
しかし、これらは必ずすたれるんです。それは最高のものではありません。
私たちにとって最高で永遠になくならないものは何なのか。
それは私たちの人格の中に与えられる、神の愛なんです。
人間にとって人格は、物や富や地位、名声よりも大切ですよ。
人格に神の愛が宿るということは大事なことです。

私たちは、喧嘩をしたり、人をののしったり、時には人の物を盗むかもしれません。それらはみんな罪ですよ。それは赦される罪であり、回復可能な罪なんです。だからやっていい、というわけではありませんよ。
しかし、神の愛を拒んだら、それは私たちの生涯全部をそこなってしまう罪なんです。
私たちの生涯の中で、いろいろと失敗したり、しくじったりすることがあるかもしれない。しかしそれはごく限られた分野なんです。

もし、この地球が平らだけで出来ていたら、平原だったらどうでしょう。人間の足腰は弱くなったでしょうね。
ありがたいところですよ、この横浜というところは。
下れば上る、下れば上る。皆さん、駅に行くまでどうです。上ったり、下ったりね、感謝ですよ。神様に感謝ですよ。心臓も強くなるし、足腰も鍛えられますよ。
私たちの生涯には山坂がある。問題はそこでコケるかどうかじゃない。神の愛を持ってそこを乗り越えて行けるか、ということです。神の愛を失ったら、人生の生涯の全部を失ってしまう。このことを心に留めさせていただきたいですね。

最後にもう一度、最初の話に戻させていただきましょう。
神の愛は決して、みなさんの生涯を失敗させない。
みなさんは、仕事の上で何か失敗するかもしれない。しかし、神の愛がみなさんの内側にあれば、みなさんの生涯は決してしくじることがない、ということです。
それは「愛は決して絶えることがない」という意味ですね。
どうぞ、イエス様を心の中に迎え入れていただきたい。

一番はじめに質問しました。「神の愛はありますか」と。
あるかどうか調べるんじゃないんです。
「ありますか」と聞かれて、「イエス様がそれを下さったことを信じます」と答えたら、
みなさんのうちに神の愛がありますよ。
昨日信じたか、ではありません。今日、持っていることが大事です。
昨日のことは神にゆだねるしかないんです。
持っていなかったなあ、と悩む必要はない。今日、持っていることが大事。
神の愛を宿したなら、先ほど話した通り、毎日今までやってきたことに、神の愛を込めてやりましょう。
そのことを始めたら、まず、自分の内側に何かが始まったことに気づきます。私たちは自分の内側に何かが変わったことに、気づくようになります。
そしてやがて、その愛は周りの人々にも通じていくようになるんです。

どうぞ、今週これをやってみましょう。
花束をたくさん買うのは大変でしょ。
でも愛を込めることはできますね。すぐにできますね。
そしてそこから私たちは、奇跡が始まるんです。
8節はそのことを言っていますね。「愛は決して絶えることがない。」
みなさんが、自分の生涯を失敗したくなかったら、神の愛によって歩んでください。
そうしたら。神の愛が私たちを成功させてくださる。
喜ぶ生涯を送っていただきたいと思います。

お祈り

「愛は決して絶えることがありません」
天の神様、私たちは愛が何であるか、愛をどういうふうに現わすか、いかに哲学的に思想的に考えても、何の効果もありません。
しかし、イエス様が私の内側に住んでくださる時、イエス様、あなたを受け入れる信仰に立つとき、私たちは内側に愛を持っております。
そして、その愛を込めて、今まで毎日、日常にしてきたことを行い始めた時に、
まず私たちの内側に、神様あなたが働いて下さることを知ることができるようになります。
やがて、それは、パウロの時代を見れば、世界に広がっていくほどの大きな力になりました。
私たちの周囲にいる人、悩んでいる人も悩んでいない人も、愛に飢えているということです。
どうぞ、イエス様、私たちはこの愛を分かつことができる人に、あなたがしてくださいますように。
どうぞ、今週、あなたが私たちに示されたこと、教えられたことをやり遂げることができるように、導いてください。
私たちには山坂が与えられています。
問題はそれをどうするかではなくて、愛を持って乗り越えて行くことでございます。
イエス様はすでに、その力を私たちに与えてくださいました。
心の内をいくら探っても愛は見つかりません。
あなたを信じ、あなたに心を向ける時、あなたがそれを伝えて下さることを知り、心から感謝いたします。
御霊がどうぞ働いてください。
この真理を知的に知るだけではなくて、身を持って体験できる者にしてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によっておいのりいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容、親切、ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


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