第一コリント13章「愛の章」第5回 「愛の特性(3) 怒らず」

イスラエルの砂漠に自生するサボテン。その実の名はサブラ、トゲはあるが果肉は甘い。「近づきがたいが、中身はフレンドリー」なイスラエル人の愛称とされている。

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コリント人への手紙第一13章5節
「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、」

今日は、「怒らず」というところだけお話させていただきます。

お祈り

「愛は怒らず」
恵みの深い天の神様、あなたのみことばから、神様の愛が私たちの心に宿る時に、あなたは私たちをどのように変えてくださるか、みことばを通して教えてください。
私たちはあなたに信頼し、聖霊を受け入れる時、あなたのみことばの通りにしてくださることを感謝いたします。
イエス様、今日もあなたのみことばをいただこうとしています。
御霊が働いてください。
一生懸命に頑張っても、結局私たちはどうすることもできない自分であることを知りました。
もう一度あなたの前にぬかづきひれ伏しております。
へりくだり、あなたの助け、あなたの憐れみ、そして神様ご自身が私たちの内側に住んでくださるのでなければ、結局、私たちは滅びるということを悟らせていただきまして、心から感謝をいたします。
今日もこのみことばを通して、あなたの真理を体験させていただけますように、霊の奥深くに、聖霊のみわざを与えてください。
愛のみわざを行ってくださいますように、心よりお願いいたします。
この時を主の御手にゆだねまして、卑し愚かな者を顧(かえり)み、御霊の手によって握りしめて、用いてくださいますように、ひたすらお願いをいたします。
尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

はじめに

今日は「愛の特性」の3回目になりましたが、「怒らず」というところだけをお話したいと思います。
何度も何度もお話してきたことですけれども、大切なことは何度もお話する必要があると思います。だいたい人間は100回か200回ぐらい聞いて、やっと分かるというものなんですね。こうして私も何千回とお話しているわけですけれども、お話していることはいつも同じことなんです。

みなさん、「今日は、怒らずかぁ」、なんて聞いておられますけれども、大事なことは何度も聞く必要があると思うんです。
神様の愛というのは、神様から与えられるものであって、私たちが自分で努力したり、決断したり、修行することによっては、作り出せないということです。
日本人は真面目な方が多いですから、「今日からこれをする」と、よく決心をする。
「今日から愛の人になろう」と、みなさんも思ったかもしれない。
しかし、なれない。
「愛」は私たちで作りだせないんです。
「愛」は神様から与えられるものなんです。

「真の愛」、ギリシャ語でこれをアガペーと呼んでいます。それは自己犠牲の愛です。
私たちが求めているこの愛は、この世のどこを探してもないんです。生まれながらの人間の心の中に、見出すことはできないんです。自己中心の心の中のどこを探しても見当たらないんです。
「真の愛」というのは、私たちの罪のために十字架にかかられたキリストによって、
初めて、はっきりと、人類に示されたものなんです。
そして私たちがイエス様を信じる時に、聖霊によって、私たちの心の中にその愛を注いでくださる。

パウロはローマ人への手紙5章5節で、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」と言っています。

夏、ジョウロで植物に水を注ぐと、生き生きとしてくるでしょ。これと同じで、私たちの心の中に神様の愛が注がれると、私たちは生き生きするんです。
愛が切れてくると、ショボーンとするんです。皆さんも経験があるでしょ。がっかりしたり、失望したり、やる気を失ったりするのは、愛が切れてきているんです。
ですから、ジョウロではありませんけれども、聖霊が私たちの心に愛を注いでくださると、私たちは元気になってくるんです。
聖書はそう教えているんです。

さあ、みなさんの心には、神様の愛が注がれているでしょうか。
多くのクリスチャンはね、「あなたの心に神様の愛が注がれていますか」と質問すると、きょとんとしていますよ。つまり、何のことか分からない。
言葉の意味は分かりますが、心の中の経験として、何も分からないんです。
みなさんは、きょとんとしていますか。
きょとんとしていては、ダメなんですよ。
なぜきょとんとしているかというと、具体的に経験していないからです。
これを経験しようと思ったら私たちは、毎日信仰生活を営んでいなくてはならない。

信仰というと、みなさん教会に来た時だけが信仰ではないんですよ。
日本人の非常に悪い習慣というのは、神社仏閣に行った時だけが信仰だと思っているでしょ。お正月とお盆と、あとは命日だけなんですよ。冠婚葬祭だけの信仰なんですよ。
聖書が言っている信仰はそうではないんです。毎日、365日なんです。
日頃、私たちが信仰によって歩んでいると、神の愛が自分の心に注がれているな、ということが分かるんです。神様は毎日何かを私たちに注いでいるんです。

植物を見ていてもそうじゃないですか。雨が降らなくても、夜露が下りるとかして、生き生きとしているではありませんか。
私たちも同じですよ。
きょとんとしている人は、普段の生活を信仰で営んでいないんです。ですから自分の心の経験がありませんから、聞かれても何を言っているのか分からない。
みなさんはお分かりですね。大丈夫と思いますけれどもね。

私たちがこの神様の愛を心の内側で経験する前に、私たちは愛のようなものを持っていました。あれは一体何だったのでしょうか。
親子の愛とか、夫婦の愛、人類愛だとか、博愛だとか、愛と言われているものの本質は一体何だったのでしょうか。
それらは実に美しい衣を着ております。しかし、神様の愛が心の中に宿っていない間は、どんな博愛であろうと、どんな人類愛であろうと、夫婦の愛、親子の愛、いろんな愛を持ってきても、中身を開いてみると、みんな自己中心なんです。

私たちは確かに、神様を知らない間も、他人に対して非常に親切にしたことがあったでしょ。自分でも「あれえ、こんなこと自分でするのか」と思うほどの親切をしたことはありませんか。あんまりないですかね。
ま、たとえ驚くほどの親切をしてあげたとしても、次の瞬間は非常に腹を立てたりする、ということはなかったでしょうか。
あれほど、天使もしないほどの親切をした人が、ちょっとしたことで腹を立てる。
一見、自己犠牲的な愛の行いができたかのように見えるんですが、その内心は自己中心がそのまま残っているということですね。
ですから人間の決心、努力、修行による愛は、この域から出ていない、ということです。

日本人は修行するのが好きですね。
最近はあまり修行をしないかもしれませんが、修行するのが好きな人はたくさんいますね。徹夜やってみたりね。これ、修行とは言わないかもしれませんが。お百度参りをしてみたり、水ごりしてみたりね、みなさんそんなことをしていないでしょ。
とにかく、頑張って真面目にやるというのが好きです。
しかし、それによって、本当に私たちの心は変わったかというと、全然変わっていない。
そして、真面目に自分の内面を見つめた人は自分に失望してきたんです。
あるクリスチャンたちは、一生懸命になって愛の人になろうと努力する。
努力すればするほど、それとは違った人間であることを発見するわけです。

私も中学のころは机の脇に、「努力・向上」なんて書きましたけれどもね。全然努力しない。みなさんも、いろいろ書くでしょ。書くけれども、全然それとは違った人間のままですね。いろんなことを書くということは、それに届かないということなんでしょう。

ほかのクリスチャンを見ると、これもあまり大したことはない。
すると、「まあ、キリスト教もこれくらいなのか」とまた失望してしまうわけです。
これはいかにクリスチャンが、神様の愛を経験しないで、自分の力と決意と努力によって、愛の人になろうとしているか、ということです。
私は、このことを何度でも、すべてのクリスチャンに警告する必要があると思います。
それは愛ではありません。少なくとも、聖書が約束している神の愛ではないんです。
ですからそれをやっている限り、必ず失望します。本物に到達しない。届かないんです。

クリスチャンと言われている人の中には、キリスト教を教えの宗教だと思っている人がいます。それは聖書の中に、たくさん優れた教えが記されているからなんです。
聖書を見ると、素晴らしい教えが書いてありますよ。みなさん、どこでも開いてご覧になってみなさい。どこからでも、素晴らしい教えを読み取ることができる。ですから、キリスト教を教えの宗教だと思うんです。
そしてその教えを守り行うことによって、クリスチャンになれると考えるわけです。
神の国、天国に入れると思うんです。
しかし、真面目に聖書の教えを行い始めてごらんなさい。すぐに挫折しますよ。
例えば、「いつも喜んでいなさい」ということ一つとっても、大変なことですよ。
「いつもお祈りする」ということだって大変なことですし、「感謝している」ということだって大変なことです。
皆さん、先週を振り返って、何回感謝しましたか。
すぐに挫折します。自分にはそれを行うことができない。自分にはできないということが分かると、失望するんです。
いい教えが書いてある、しかし、自分にはそれができない。
だから失望する。

こうなるのは、出発点が間違っているからなんです。
出発点が間違っていると、どこまで行っても目的地に到達できませんよ。
みなさんが京都に行こうと思ったら、上野からどっち向きの列車に乗ればいいんですか。
方向を間違えて乗ったらどこまで行っても、まあ、札幌から北陸を周って行っても行けないことはないでしょうけれどもね、そういう屁理屈を言う人があるかもしれないですが、出発点で間違った道を歩き始めると、どこまで行っても目的地に到達しないんです。
何を間違えたかというと、キリスト教を教えの宗教だと思ったところから、間違いが始まってしまった。

それでは、キリスト教とはいったい何なのか。

確かに聖書の中には、他には見られないような非常に優れた教えがありますよ。
箴言を読んで御覧なさい。どの行を読んでも優れた教えです。そうでしょ。
先ほど読んだところでも、「あ、これも私にあたる、これも私にあたる」って思ったんじゃないですか。素晴らしい教えがたくさん書いてある。
箴言に書いてあることを全部やれ、と言われたらもうお手上げになる。

イエス様は、非常に優れた教えをお話してくださいました。
こんなに、たくさん優れた教えがありますが、それでもキリスト教は教えの宗教ではないんです。
キリスト教は生きた人格の宗教です。

イエス・キリストの愛が、生きた私たちの人格の中に宿る。
これがキリスト教なんです。
聖霊によって注がれると、先ほど言いました。それを私たちが信仰によって受け取り、信仰によって営む宗教。
それがキリスト教なんです。

ですから、「愛」は律法的な教えではありません。
「これをしてはならない、これをしなくてはならない、だからしなければ」というのではないということです。
愛は生きた人格です。
愛っていうのは、大体そういうものでしょ。
「愛は・・・」と、パウロはいろいろ書いていますけど、律法ではないんです。
愛はそういうものの中では生きられないんです。

魚の中に鮎っていうのがいますね。
鮎は清流でないと生きられないという話ですね。どぶ川では生きれないんですよ。
下水の中で泳いではいませんね。
きれいな水、澄んだ水の中でしか生きられない。

同じように愛はね、生きた人格の中でしか生きられないんです。
愛は、律法の中では生きられないんです。
ですから、もし、私たちが律法的な生き方、規則の中にはまり込んだ生き方をすると、愛は死滅してしまうんです。そういうものなんです。

昨今、というか、だいぶ前から、中学生や高校生の学校の校則をどうする、こうすると言われていますが、これはもう、半世紀も前からずうっと言われていますよ。
この頃の学生は帽子をかぶりませんが、私の頃は帽子をかぶっていました。私の友達に非常に短いつばの帽子をかぶっているのがいましたが、帽子のつばが長いとか短いとか、そんなのはどっちでもいいんじゃないかと私は思います。
いろいろな校則問題が取りざたされていますよ。
校則を強めるか、撤廃するか、生活を指導するのか、しないのか、
こんなことをいくらやってもね、先生と生徒の信頼関係なんて生まれないんです。
家庭だって同じですよ。規則でいくらがんじがらめにしても、規則を取っ払っても、それで解決する問題ではない。この問題は、規則とか法則の問題ではないんです。
先生も生徒も愛を宿す人格に育っていないですからね、愛が住む場所がないんです。
鮎をどぶ川に放っても、すぐに死んでしまうんです。鮎を泳がそうと思ったら、きれいな川を作らないとならないでしょう。
同じなんですよ。

現代の問題は何かと言うと、人間の本質的な人格に欠陥があるんです。
ですから教育制度を変えても、規則を変えても、解決するような簡単な問題ではないんです。老人ホームを作ったら、問題が解決するかというとそうじゃない。
神様の愛を受け入れる人格を育てるところから、始めなきゃならない。
心の中に神様の愛を与えようと思ったけれども、愛を受け入れるところの器がないんですよ。

昔お豆腐を買いに行く時に、みなさん、鍋とか鉢とか、入れ物を持って買いに行ったでしょ。今はパック売りですけれどもね。
当時は、器がいるわけですよ。まさか両手でお豆腐をもって帰る人はいないでしょ。
神様が私たちに愛をくださろうと思っても、それを受け取るところの心の人格がない。
まずこれを作らなきゃならない。
ですから教会の使命というのは非常に大きい。
神様の愛なしに、また神様の愛を受け入れる人格なしに、人間はどんなに福祉が行き届いても、どん底に落ちるばかりです。愛を失った人間は獣以下になりますよ。
今こそクリスチャンが、こういう面で正しい信仰経験を体験していただきたい。
キリスト教が、良い教えではあるけれども、それを行うことができなかったならば、非現実的な宗教でしょ。そうじゃないんですか。

みなさん、鮎の形をした焼き物がたくさんあっても、食べられないでしょ。
飾って置くにはいいかしれない。
魚屋さんに行って、鮎の置物を売っていたらどうですか。
魚屋さんはこう言いますよ。
「この置物の鮎を、塩焼きしたらおいしいですよ。」
これは非現実的ではないですか。お笑いになるかもしれませんけれども。
もし、聖書に、素晴らしい教えが書かれているけれども、それが自分のものにならなかったら、そういうことと同じじゃないんですか。
キリスト教が教えの宗教だったら、まさに鮎の置物ですよ。
キリスト教はそんなものではない。生きた、人格的、現実的な宗教であることを、私たちは自ら体験する必要があると思うんです。
良い教えをいくら教えたって、自分のものにならない。
それは、料理学校にいって栄養学を学んでも、おいしい料理は作れない、自分のものにならないのと同じですよ。

人間はこの真理によってでしか救われないし、人格の回復をすることができないんです。
このことをまず、しっかりと心に覚えていただきたいと思います。

今日も、愛のお話をしようと思うんですけれども、まず私たちがこのことを十分に悟った上で信仰生活を送っていかなくてはならない。
いくら愛についての話を聞いても学んでも、その教えが高度になればなるほど、ただの教えで終わってしまっているなら、より厳しい律法に変わるだけなんです。
お分かりですか、言っていることが。

竹の先にムチをつける。最初は細いひもを付けても痛くないでしょ。
そのうちしっかりした皮の紐を付ける。だんだん痛くなるでしょ。
次に鎖を付けたら、余計に痛くなるでしょ。
高度になればなるほど、厳しい律法になるだけ、自分を苦しめる縄目に変わるだけなんです。
良い教えというのは、そういうものなんです。

よく、いろんな宗教をなさっておられる方がお話しなさいます。
「キリスト教も、私がやっているのも、同じような教えだから。」
冗談じゃないっていうんです。
お宅の宗教は良い教えでしょ。でも、うちのは、教えじゃないんです。
「お宅のは置物の鮎、私のは生きている鮎で、塩焼きにできるんですよ。」
「お宅のは飾り物で、うちのは食べることができるんですよ」
みなさん魚屋に行って、どっちをお買いになりますか。夕食のために。
食べられる方でしょ。そうじゃないですか。
置物は明日になってもまだ使えますが、自分のものにはならないんです。
みなさん、こういうことをしっかりと覚えておいていただきたい。

良い教えでも、ただの教えであれば、その教えが高度になればなるほど、より厳しい掟、律法、ムチに変わるということです。
ですから、私たちが、ただの教えとして聖書を学ぼうとするならば、より自分を苦しめる縄目になってしまうということです。

そこで今日は、愛の特性の中の「怒らず」に入りたいと思います。

1.こんなことを質問するのも、下の下かもしれませんけれども、「お怒り」になったことはありませんか。

私はある時、聞いてみました。集会でね。
「短気な人、ちょっと手を挙げてください」
誰も手を挙げなかったんですけれども、
「短気じゃない人、手を挙げてください」
これも誰も手を挙げなかった。みんな短気なんですね。
なかなか手を挙げにくいですね。短気じゃない人っていないんです。

昔ね、釣りをする人は気が長い、って言われましたが、あれ、嘘ですね。釣りをする人ほど、気が短い人はいないなあ、と思うんです。
私も釣りをしたことがあるんですけれどもね、浮きがね、「動かない、動かない、動かない」って、ずうっとそう思っていますよ。浮きが動いて、魚が上がってきてね、エサが取られていると、「コノヤロー」ってね。飛び込んで行ってね、魚の頭でもコツンとやってやろうかと思うくらいですよ。
自分の経験からしても、釣りをする人は気が長いと言われていますけれども、本当は気が短いんじゃないかなあ、と思います。どうでしょうか。

イエス様もお怒りになりました。
パリサイ人とか、祭司長とか、律法学者たち、ある時は神殿の中で商売をしている者たちに激しい怒りを現わされました。
「じゃあ、イエス様は愛がないんじゃないか。」と思われるかもしれませんが、ここで言われている怒りは、そういうイエス様の怒りとは違う。

ここで言っている、今、学ぼうとしている「怒り」というのは、愛が乏しくなることによって起きてくる「怒り」なんです。
この世で起きている「怒り」はほとんどこの種のものですね。
愛が欠けてくると怒りだすものです。
そんなこと、いちいち言われなくても、我が身をもって分かっていますよね。

私たちは今まで、「愛は寛容である」とか、「愛は親切である」とかを学んできましたが、寛容であるとか、親切であろうとすると大変だなあと思うでしょ。
だけど「怒る」時って、「大変だなあ」、と思いますか。
気が付いたらもう怒っていますよ。これが自然ですよ。
なぜかって、性質だからですよ。すぐ、出ちゃうんです。
自己中心の性質を持っているとね、何もなくても怒りっぽくなりますよ。
それが自然なんですよ。
逆に引っくり返して言えばね、私たちの心の中に、神様の愛が留まっていると、寛容とか親切も自然になります。
みなさんも経験があるでしょ。
「どうしてこんなに私は、親切なんだろう」って思ったことはないですか。
あまりないかもしれませんが。
親切は愛の性質なんです。だから、性質があると私たちは、無理をしないんです、自然なんです。寛容だ、親切だと力まなくても、大騒ぎしなくても、自然にその性質を持っていると、そういうふうになっていくんです。
これは性質が与える愛なんです。

ところがこの愛が、だんだん途切れてきてね、扉でも油が切れてくるとギリギリ音がするでしょ。心にだいぶ油が切れてくると、カリカリするのをみなさんも感じるでしょ。
そうすると、だんだん怒りっぽくなるんです。
家内に言わせると、私はいつも怒りっぽい、っていうんですけれど。
愛が切れっぱなしかもしれませんね。神様に注いでいただきかなきゃいけない。
でもね、顔がこうですからね、ちょっと見ると怒りっぽく見えてしまうんです。
「怒ってないんだ」っていくら言っても、信用されませんね。

2,この「怒る」というのは、何も大喧嘩をすることだけではありませんよ。「怒る」というのは、「苛立つ」ことや「恨みを抱く」ことも含んでいます。

恨みとまでいかなくても、心の中にある人に対する悪い感情を持つこと、
あるいは行動として、辛辣な意地悪や不親切も、「怒り」の部類に入るんです。

いろんな例があるでしょうけどもね。
「ちょっとこんなことをしてあげたら、楽なんじゃないかな」、と心に思うけれども、
「えい、いいや、ほっとけ」、ということありませんか。
具体的なことを言うと、あちこちに差しさわりが出てくるかもしれません。
「こうすれば、あいつも助かるんじゃないか」と思って、やる気もあるんだけど、
急に、心に何か好かないことがあって、「あんなの、ほっとけ」ってなることあるでしょ。これはね、まだ角を出してはいませんけれどもね、何かの拍子にすぐに角が出るんですよ。怒りの気持ちがある。そういう時はね、心の中に「愛」がないって証明しているんです。
神様の愛が心の中に宿る時に、「愛」はすべてのものに勝利を与えるというんです。
怒りを止めよう止めようと、いくら決心してもダメなんです。
「愛」さえちゃんと入れば、止まってしまう。
「愛」さえあれば、努力とか決心なしに私たちは勝利を得るんです。
クリスチャンの戦いというのは、戦って戦って、やっと勝利を得るんじゃないんです。
戦わないで、勝つんです。

私たちにとって大事なことは何か。
「愛」を持つ人になろうと、一生懸命に頑張ることではないですね。
神の愛をもつことです。
「いい人に変わる」、「これからね、お母さんはね、人が変わったようになるから」って言っても、子供は「なれは、しないよ」と思っていますよ。

神の愛を持つことによって、私たちは自然に変わる。
イエス様を私たちの心に受け入れてごらんなさい。変わらざるを得ないんです。
心のすべてを、神様にお任せする。そうすると神様は、私たちの心を愛でお満たし下さるんです。私たちは努力なしに、勝利を得る。

努力には、していいものと悪いものがあります。
「教会に来ると何にも努力しなくていいんだ」と思っちゃいけませんよ。
努力はしなきゃならないものもある。
例えば勉強や仕事。これは努力なさってください。
けれども自分の人格とか、自分の心の中は、努力してはいけないんです。
これはイエス様にしてもらうんです。
自分の努力では変わらない。かえって、わざわいをもたらすことになります。
どんなに他の点で成長して徳のある人になっても、「怒り」だけは神様の愛なしには勝つことができないんです。
親切な人、穏やかそうな人、あらゆるものが整っているようだけれども、「怒り」だけはなかなか困難なんです。
「怒り」が、バーッと爆発したら終わりになってしまうでしょ。

ある短気な男の人がいました。
彼は何とかして「怒り」に勝ちたいと思ったんです。
カーッとすると、家族とか周囲の者に迷惑をかけて苦しめてしまう。
それで、どうしようもなくなって、彼は「怒り」を静めるために、脳外科のお医者さんのところに行ったんです。
すると、医者はこう言ったんです。
「そうですか、では脳手術しましょう。耳のちょっと上に怒りの感情を司るところがあるので、そこにメスを入れると怒らなくなりますよ。すぐ終わりますから。」
これ、本当にあった話ですよ。
「そんなうまいことがあるんですか。」
その人ね、手術をして切ってもらったんです。
確かに怒らなくなった。そのかわり、仕事も生活も何もやる気がなくなっちゃたんです。
死んだような人間になっちゃった。
脳を手術しても「怒り」をコントロールできないんです。細胞を滅ぼすことはできますよね。だけど、人間てそんなに簡単に造られていないんですよ。
忘れたいことがあって、脳外科に行って、覚えている細胞をメスでとってもらう、というわけにはいかないでしょ。他のものもおかしくなってしまいますよ。

この人が、手術してまでも「怒り」を解決したいと思ったほど、「怒り」を最悪のものと考えたことは、正しかったでしょう。
「怒り」がどんなに害を与えるかが分かった、「怒り」が非常に破壊的なものであることも知ったことも正しかった。
ここで間違ったことは何か。
それは「怒り」の解決法が間違った。
彼は神の愛による解決を求めないで、外科手術を求めたんです。
そして自らを破滅させてしまった。安易すぎますね。
私たちの信仰生活というのは、神様の愛というのは、本当に、副作用がありませんよ。
神様の愛、痛くもない。メスも入れないんですからね。

今の人は、なんでも病院に行っちゃうんですね。
登校拒否の子供を、病院に連れて行ってどうするか、とかね。
風邪をひいて病院に行くのは結構ですよ。
家庭の悩みも病院に行くわけですね。
何もかも病院に行けば治っちゃうんでしょうか。

時々、私、こう思うんですね。
医者になっていればよかったなあってね。いろんな薬を作ってね、これは夫婦の問題に効く薬、これは登校拒否に効く薬、これは交通事故を起こさない薬とかね。
どうでしょうか。
私は、現代人がなんでもかんでも病院に行くのは、一種の偶像礼拝ではないかと思うんですよ。
神様の愛を体験しないで、自分を滅ぼしていくんじゃないかと思うんです。

もう一方で、私たちは別の危険を冒している。
それは何かというと、「怒り」くらい、「短気なこと」ぐらい、たいしたことじゃない、無害な欠点だ、ぐらいにしか思っていないんじゃないでしょうかね。
だいたい世の中の人はそう思っています。怒りなんてそうたいしたものではない、とね。
しかし実際はそうではないですね。

私は、夫婦喧嘩から始まって離婚に走った夫婦を知っています。
こんなことを詳しく話すと長くなるんですけれどもね、村祭りに行くか、行かないかによってね、最後は離婚しちゃっているんですよ。
ご主人が包丁を持って走り回っているんですね。私が包丁をもらったんですけれどもね。
何やってんだ、って言いたくなる。遊んでいるんじゃないんです。
私たちは、「怒り」とか「短気」がどんなに大きな破壊力を持っているか、気づいていないんです。
売り言葉に買い言葉っていうのがありますけれども、怒りというのはすぐに乗っちゃうんですよ。エスカレートしてしまってね。思いがけないところに到着するんですよね。
冷静になって一晩寝てから、どうしてこんなになっちゃうんだと考えますとね、糸をたぐっていくと、つまんないことですよ。
だからね、怒りというのは恐ろしいんです。命を失わせてしまうんです。

短気はね、生まれつきの欠点だとかね、遺伝的な弱点だとかね、親が短気だったからなんていう人もありますけれども、そんなのはごまかしですね。
怒りなんてそんなに簡単なものじゃない。
みなさんがお怒りになった時、体中の血がガーッと洪水のように頭に押し寄せてくるのを経験したことはありませんか。
その時、足のつま先あたりの血液はどうなったのかな、と冷静に考えられたら怒りもいくらかは下がると思うんですけれどもね。
血圧は上がり、体が震えだし、自分が何を言っているか、何を考えているか分からなくなるでしょ。
お笑いになりますけれどもね、本当に全部をぶち壊してしまうんです。
どんなになっても構わない、と思ってしまうんですよね。

こうなると人格が異常ですよね。異常人格って言いますけれどもね、みんなそういうところがありますよ。怒った時を見てごらんなさい。異常ですよねえ。
怒った時に急いでビデオカメラを回して、後から見たら自分がどういう人間か分かりますからね。
時々家内に言われるんですけど、「今言ったことをテープに取っておけばよかった」ってね。

何もかもぶち壊しになってしまう。
私たちがこうして神様の愛を追求していく時に、「怒り」って何なのか、ということがだんだん分かってきます。
普通は、「怒り」ってたいしたことのないように思っていますけれども、神様の愛を求めていくと、「怒り」は反対側の王座を占めている存在だということが分かってきます。
「怒り」というのは、私たちの人格の中で非常に大きな支配力を持っている、ということが分かりますね。
まあ、我がままとか欲張りというのも困りますけれどもね、「怒り」というのはもっと始末の悪いものですね。もうブレーキがかからないんです。
怒り始めたらブレーキがかからないでしょ。すぐにブレーキがかかって止まる、なんていうのは「怒り」ではないですよ。
いろんな怒り方がありますね。今日は、そのリストを挙げる時間はありませんけれども。

聖書は「怒り」について、繰り返し繰り返し、語っています。
まず最初に、神様はどういうお方なのか見てみましょう。
出エジプト記34章6節をご覧いただきましょう。
「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、」

「怒るのにおそい」、と書いてありますよ。

神様はね、お怒りにならないわけではありません。
しょっちゅう、小言ばかり言っている小言幸兵衛ってのがありますがね。そういう人の小言ってあまり怖くないですね。
神様は普段、全然怒らない。
けれども、いったん怒るともう止めることができない。完全に刑罰が終わるまで、決して怒りを止められない。
イスラエル民族を見ると、神様の怒りが70年も続いているんですよ。70年も続いたら、人間の一生は終わってしまいますね。
神様は、70年もカーッとお怒りになったままですよ。でも70年が来たら、ちゃんと赦すんですからね。
あれは人間には真似できませんよ。
神様は怒るにおそい、つまり忍耐深く寛容なお方です。
あくまでも神様は、私たちが罪を悔い改めて、立ち返ることを求めておられる。
待っていてくださるんですね。
ですから、この神様の愛に私たちは信仰を持って応えたい。

箴言でも「怒り」について多く語っています。そのいくつかをご紹介してみましょう。
まず、箴言の14章29節と30節をご覧いただきましょう。
「14:29 怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。
14:30 穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」

怒りをおそくするだけでもね、どんなに多くの恵みと祝福を受けるか、ということです。
「怒りをおそくする者」というのは「怒ることのおそい神様」と同じ性質だということなんです。
「怒ることのおそい神様」と同じ性質を宿さないと、私たちは怒ることにおそくならないんです。
ここに解決法が暗示されていますね。
どうすれば私たちは怒りにおそい人間になれるか。
「神様と同じ性質をもつことだ」、と言っているんです。

ところが、30節を見ますとね、
「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」

この「骨をむしばむ」という言葉に、目を留めて頂きたいんですが、体が痩せていくというだけでも生易しいものではありませんよ。
骨をむしばむというのは、体の中心的働きをしている骨が崩れていくというんです。
骨が崩れていったら、もう回復不可能です。
家に例えれば、壁が落ちてもまだ補修できますけれども、柱が虫に食い荒らされ、骨組みが崩れてしまったら、もう回復の余地はないんです。
「むしばむ」っていうのはね、一度にどさっと崩れるんじゃないんです。
じわじわと、しかも完全に食い荒らしてしまうということです。
「むしばむ」ってのがよく分からない人は、教会の前の小さいミカンの木を見てください。「むしばむ」ってあれですよ。アゲハの幼虫が食べたあとがあります。緑の葉なんてもうほとんど残っていない。
最初は、青虫が食べたくらいは大したことないと思いますが、行き着くところは、食べ尽くしているんです。葉っぱが一枚もないでしょ。最後は、アゲハ蝶がいっぱい飛んで来て、ハゲハになってしまいましたがね。
こういうのを「むしばむ」って言うんです。
骨がむしばまれたら恐ろしいですよ。どうしようもない。
みなさんの家庭は、怒りによって夫婦の骨組みがむしばまれていませんか。
親子の骨組みがむしばまれていませんか。
激しい思いは、大変なことになってくるんです。

次に箴言の16章32節をご覧いただきましょう。
「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

私たちは戦いというと、外敵、外側の敵と戦うことだけと思っています。
勇士というと外敵を倒すことだけと考えている。
しかし、自分にとって最大の敵は、自分の内側にいるんです。
そして、決心とか頑張りによってでは抑えきれないのが、怒りですね。
怒っている人というのは、自分で自分をどうすることもできない。
自分の怒りの感情をコントロールできる人は、勇士である、とこう言っているんですね。
勿論これは、自分ではどうにもなりません。
イエス様が私たちの心の中に満ちてくださる時だけ可能なのです。

怒れる獅子が、みなさんの内側にいるとしたら、これを倒すことのできる人は、神の愛を持っている人だけなんです。
ここに書いてあるでしょ。
「自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

どれほど大きな力が必要かということですよ。
もはや、自分の力では困難です。

最後に箴言29章8節をご覧いただきましょう。
「あざける者たちは町を騒がし、知恵のある人々は怒りを静める。」

どういう人が怒りを静めることができるかというと、「知恵のある人」だと言っていますね。ここで、「知恵のある人」というのはキリストだと言っていいでしょう。
私たちの心の怒りを静めることのできるお方は、キリストだけです。
イエス様は、荒れ狂う嵐をお静めになったでしょ。

29章の9節もご一緒に読んでみましょう。
「知恵のある人が愚か者を訴えて争うと、愚か者は怒り、あざ笑い、休むことがない。」

愚か者は、いつもイライラしていて、いつも怒りっぽく、いつも八つ当たりして、休むことがない。いつもブツブツ文句ばっかり言っている。

29章を見ると面白いですね。だんだん激しくなっています。
11節を読んでみましょうか。最初の行です。
「愚かな者は怒りをぶちまける。」

最初は、怒り、あざ笑い、やすむことがなかったんですが、
11節では、とうとう、ぶちまける。爆発させてしまう。そしてすべてを破壊してしまう。恐ろしい事ですね。

さらに、もっと激しいですよ、怒りは。22節に飛んでみましょう。
「怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。」

怒る者は、夫婦の間で争いを起こす、親子の間で争いを起こす、兄弟の間で争いを起こす、友達の間で争いを起こす、同僚の間で争いを起こすというふうに、どこでも必ず争いを起こすんです。
そしてついに神に対して、多くの罪を犯す、と書いてあります。
怒りは激しいですよ。

伝道者の書の10章4節の終わりを見ますとね。
「冷静は大きな罪を犯さないようにする」

と書いてあります。
怒りっていうのは、最初はちょっとした、たいしことのないもの、八つ当たりとかブツブツ言ったりするようなものですが、やがて爆発してしまって、
それどころか、周囲にいる者にも火をつけて、つぎつぎと争いを引き起こし、とうとう神様に対しても罪を犯してしまう、と言っているんです。
とんでもないことになってしまうんです。

パウロは怒りについて、クリスチャンはこうしなさい、と教えています。
エペソ人への手紙4章26節
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」

怒ると、クリスチャンでも神の道から反れやすい。これは危険ですね。
時にはイエス様にまで悪態をついてしまう。
「キリストを信じていたって、なんの役にたつか」なんて言って、言いたくないことまで言っちゃうんですね。
怒っても、罪を犯さないでいなさい、と言っていますけれども、これはイエス様の聖なる怒りの時だけです。
愛なき怒りの感情の爆発は、必ず、罪が伴います。

その次に、
怒っちゃったら、もうしょうがない。
「じゃあ、それは、ま、いいか」というと、「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」と、パウロは教えてくれました。
パウロは、怒りをその日の内に解決するように、と言っているんです。
夕方に怒っちゃうと、速く処理しなきゃいけませんよ。
日が暮れてやった場合、「先生、次の日までいいですか」なんて聞く人がいますけど、

どうしてこういうことを言ったかというと、翌日まであとを引いちゃいけない、というのは、怒りが長引くと、それが憎しみに変わるんです。
心の奥底に怒りが根を下ろすんです。
根を下ろすと大変ですよ。5年も10年も続くことがありますから。
怒りは、心の中で憎しみや恨みになって心の中に住みつき、むしばみ始めるわけです。
ですから私たちは、怒りを簡単な悪い気分とか感情くらいに思ってはいけません。
怒りは非常に激しい破壊力を持った罪でありますから、パウロはその日のうちに解決しなさいよ、と言ったんです。

罪には、欲張りとか、わがままのような、誰でもすぐに分かる罪と、いらだつとか、性急だとか、怒りっぽいとか、気質的な罪もあります。
気質的なものというのは、いつも罪を犯しているわけではありませんから、ま、いつもやってる人がいるかもしれませんが、よく分からないことがありますね。

ルカの福音書15章に放蕩息子のたとえ話が出てまいります。
弟の方は誰が見ても、「これは罪だなあ」と思うでしょ。親から財産を貰っちゃってね、貰うというよりふんだくってね。どっか行って遊んで使い切っちゃってね、豚小屋の番人になって、ボロボロになって家に帰ってきて、確かにこれは罪を犯していると分かるでしょ。
問題はお兄さんの方。こっちの方は、真面目の上に何かつくような人間。
お父さんの下で一生懸命に働く一見立派で聖徒のような人。
しかしそれは外面であって、内面はいつも苛立っている。
親に対して不満を抱いて怒りっぽく、弟が帰ってきた時は、ひねくれた態度をとって、家の中に入ってみんなと一緒に食事をしない。
お祝いもしない、よかった、よかったとも言わなかった。
「お父さんは、俺には子ヤギ一匹殺してくれない。あんなくだらない弟が帰ってきた時には、どんちゃん騒ぎしてお祝いする。とんでもないことだ。」
確かにこのお兄さんの方は、具体的に目に見えるところでは罪を犯していませんよ。
だけど彼の内面は、弟が帰ってきた時にお父さんと一緒に素直に喜ぶことができなかった。愛の欠如、愛が欠けている、というところがあるでしょ。
みんなが喜んでいる時に、「俺は違う」と思うんです。
そういうのってないですか。ひねくれているの。

みなさん、私たちは、「キリストの愛を心に持たないことは罪だ」と思わないかもしれない。自分の心の中に愛がないということが罪だ、ということにみなさん気づいていますか。
キリストの愛は、持っていても持っていなくてもどちらでもいいんじゃないんです。
愛が欠けると、愛が欠如すると罪を生む、ということに気づかないといけません。

私たちは、このお兄さんのように、道徳的にまじめで、勤勉でよく働き、忍耐強く、親孝行するよくできた人かもしれません。まあ、そうでしょう。
しかし、ただ一点問題があるとすれば、怒りっぽい。
ルカの福音書15章28節を見ると、こう書いてあります。
「兄はおこって、家に入ろうともしなかった。」

このお兄さんの態度。この態度にお父さんはどんなに、心を痛めたか分からない。
父なる神様にとって、愛なる神様にとって、真面目で勤勉でよく働くけれども、怒りっぽくて、いつもひねくれている人より、罪を悔い改めて神のもとに立ち返る罪人の方を喜んで受け入れてくださったんですね。

今も真面目で一生懸命生きている人の中に、お兄さんみたいな人がいますね。
神様の愛を受け入れようとしない、真面目な人間。
残念ながらこういう人は、愛も喜びも感じないような人生しか送ることができない。
このような生き方を、自分たちは大して悪い生き方だと思っていないんです。
むしろ真面目でね、尊敬されると思っているんです。
けれども、愛の神にとっては、これは最も哀れで悲しい事なんです。
よく考えていただきたいと思うんですね。
親から愛されない、愛することを心に経験しないで育てられた人間は、心の中に輝きを失っています。その人の生涯は、私は悲惨だと思いますよ。
神の愛を宿すことができる心を持たない人間は、悲惨だと思います。
怒りっぽい、ひねくれている、こういう卑しい人間になっていってしまう。

お金を得るために一生懸命に働くかもしれない。しかし心の中は、非常に卑しい存在になってしまう。
怒りはジワジワと、しかも確実に人格をむしばんでいってしまう。
こういう怒りが、一面洗練された真面目な人間の心の中に、住んでいるんです。
この怒りの中身は、嫉妬であり、自己中心な自尊心であり、強情であり、焦りであり、不機嫌であり、苛立ち、短気、こんなものがいっぱい含まれています。
これで、家庭も、自分の生涯も、薄暗い、陰気なものにしてしまうんです。

怒りというのは、火山の下のマグマみたいなものです。
マグマのエネルギーがだんだんたまってくると、ワアーッと爆発するでしょ。
みなさんもそろそろマグマがたまってきたなあと感じるでしょ。感じませんか。
怒りが爆発するときは、マグマと同じで、言わなくてもいいことまで、腹の底にたまっていたものが出てきてしまいますね。
全部しゃべってしまって、「あーあ」と思ってしまう。
怒りは、人間の心の中にある冷酷な性質です。
普段は沈静化していますが、マグマがたまってくると爆発する。たちまちエネルギーがバーッと出てくる。
あんまりたまっていると、連続爆発とか、群発地震とかがありますけれどもね。
ちょうど火山の爆発と同じようにね、山が吹き飛んでしまうように、怒りが爆発すると、忍耐が吹き飛び、寛容が吹き飛び、親切が吹き飛ぶわけでしょ。
また、作り直すのが大変ですね。

私はこれまで、聖書を調べてみますとね、人間がどんなに怒りで苦しんでいるかが分かります。
これを解決するために、私たちが一生懸命に努力してもダメなんです。
神様の愛を心に宿す時にだけ、解決できる。
「怒らず」と書いてありますが、「怒ってはいけません」とは書いていないんです。
神様の愛を心に宿してください。そうすればこれから解決できる。

お祈り

恵み深い天の神様、今日もあなたのみことばをいただきありがとうございます。
怒りは私たちの大きな敵でありますが、私たちの力では解決することは不可能です。
イエス様、あなたが私たちの心の王座にお住みください。
あなたの愛が私たちの心を満たしている時、怒りは過ぎ去り、抜け出していることを私たちは知っています。
どうか願わくは、一生懸命に頑張って愛の人になろうとせずして、イエス様あなたの恵みとあなたご自身の愛によって、私たちを愛の人に変えてくださる、ということを信じて、イエス様、私たちの日ごとの生活を営ませてください。
私たちの心の中に、怒りがこみあげて来ようとする時に、私たちは、歯を食いしばって頑張っても、止めることはできません。
しかし、あなたのもとに逃げ込み、イエス様、あなたの愛を心に満たしていただけるなら、私たちは神様の愛によって、冷静な、穏やかな心を持ち続けることができることを、感謝いたします。御霊がその御業を私たちに与え、そのことを私たちがはっきりと体験させてくださるようにお願いいたします。
この時を感謝して、イエス様の尊い御名前によってお祈りいたします。
アーメン

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容 親切 ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず 礼儀 自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


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