第一コリント13章「愛の章」第9回 「愛の訓練(2)」

イスラエルでもっともポピュラーな花、アネモネ。地中海地方が原産地。

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コリント人への第一の手紙13章7節
「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

私たちは「愛」について学んでいるわけですけれども、今日は13章8節に移るかなあ、と思われてきた方もおられるかもしれませんが、もう一度、この7節からお話をしたいと思っています。

お祈り

「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
天の神様、一週間の旅路を終えました。
あなたの「愛の訓練」の場に遣わされて、もう一度あなたの御もとに帰ってまいりました。
主よ、どうぞ、船がドッグ入りするように、あなたの御もとに集まり、そしてもう一度心が整えられて、船出することができるように、豊かな憐みと助けを与え、今日、また、もう一度、真理を深く心に悟らせてください。
そして新しい船出に備えて、イエス様あなたの恵みに満ち、また、あなたが与えてくださる愛を十分に心にいただいて、今週の新しい旅路にスタートさせてください。
みことばは私たちに真理を教えてくださいます。
また、愛の力を注いでくださいます。
「聖霊によって、あなた方の心の内に神の愛がそそがれる」と約束をくださいました。
今日も真理で立ち上がらせてください。
この時を主の御手にゆだねます。卑し愚かな者を助け、また兄弟姉妹たちお一人びとりに、聖霊の豊かな愛の注ぎを与えて下さることを、ひたすらお願いをいたします。
御業が魂の奥深くになされますように。
尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

はじめに

今日も「愛の訓練」のパート2ですが、先週「愛の訓練」についてお話をしまして、
本当は8節に行こうかな、という気持ちがあったんですが、まだお話しておきたいこともありますので、今日もう一回だけ「愛の訓練」についてお話させていただきたいんです。

「愛の訓練」をコツコツと、信仰によって自分に当てはめていけば、必ず成長する。
知らず知らずのうちに、自分の内側に、
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、
これ、ガラテヤの5章に記されている御霊の実なんですけれどもね、今、いくつ言ったかご存じですか。指で数えていたかどうか分かりませんが、九つあったわけですね。
自分の内側に実ってくると、こういうことがだんだん気付くようになります。
果物を作っておられる果樹園の方は、果物が実ってきたことをいちいち調べないと思うんです。モモを作っている方が、いちいちどのくらい熟したか調べて、指で押したりしていないと思うんです。
それをしていたら、熟してくる頃には、ぶよぶよになりますからね。
だから触らないでそっとしておくのが大事だと思うんですが、「愛の訓練」をコツコツやっていますと、やがて自分の内側に実ってきているなあ、と気付かれるようになってまいります。
人格的訓練は、ある程度時間がかかるのは事実ですね。しかし、必ず成長してくる。
時間がかかる、時間がかかる、と言いながら、いつまでも時間ばっかりかかって実がならないのも困りますけどね。

この「愛の訓練」について、前回時間が無くなってお話できなかったこともありますので、少し付け加えておきたいと思います。

クリスチャンはよく、その場では感動する。
感動することと、実際に訓練することとは別なんです。
涙を流して喜ぶ。感動する。しかし、それはまだ訓練していないわけですよ。
メロドラマで涙しても、あとの生活では相変わらず夫婦喧嘩している、ということはいっぱいあるわけですからね。
私たちはよく「愛」という言葉に感動してしまいます。しかし、感動してもすぐに忘れてしまって、前と同じ生活をやってしまう。
これは実ってこない。訓練ではありません。
愛によって働く信仰の原理を、自分に適用しなければ訓練にならないわけです。

日本人の好きな言葉の一つに「愛」がありますが、聖書の言葉だけを聞いて、言葉に疑問を持ったり、言葉に躓いてしまうという人も結構多いわけです。
どうぞ、聖書の言葉を感動だけで終わらせないでいただきたい。
自分でやってみて感動するのはいいですよ。聞いただけで感動するのも悪くはないんですけれども、それで終わりにしないでいただきたい。
また「あ、そうか」と、理解しただけで終わらせないでいただきたい。
信じて自分に当てはめる。
それは大事なことですが、自分で当てはめると、もう一つの危険があります。それは「これはダメだ」と思う人が出てくるわけで、「私にはとてもできない」と捨ててしまう人も出てくる。
これは訓練になりません。

イエス様はヨハネの福音書の7章17節で、
「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」

神のみこころを行おうと願う者は、神から出たものか、自分からのものかそれが分かるというんです。
「愛」についても同じなんですね。
感動していても、書かれていることばの意味は分かりません。
知識で理解していても、書かれていることばを悟ってはいないんです。
理解しているんだから、悟っているんじゃないの、って言うかもしれませんが。

たとえば、みなさんはお砂糖を知っていますね。どんな味がするんですか。甘いでしょ。
砂糖を舐めたことがない子供に、「この白いツブツブは、舐めると甘いんだよ」と教えて、さて、この子供は砂糖を知りましたか。
ぜんぜん知らないんです。
それよりも指先に着けてなめさせると、甘いとは何か分かるでしょ。

聖書もそうなんです。神様が下さることばは何か。
感動して理解するだけでは何も分かっていない。
覚えているだけでは何一つ分かっていない。
自分で信じて、自分で舐めてね。
だからイエス様はこう仰ったでしょう。
「わたしを食べる者は、わたしを飲む者は」と言いましたでしょう。
「わたしを考える者は、わたしを理解する者は」とは仰らなかったんです。
自分に当てはめて体験して訓練することによって、この真理を味わうことができる。
本当の意味が分かるんです。

ですから聖書の真理は、考えに考え抜いて分かるものではありませんし、議論に議論を重ねても何も分かりません。
信じて、自分でその道を歩いて、体験して、自分で味わってみて、その真意、本当の素晴らしさが分かってくる。
ですから、イエス様は真理を教えられただけではなくて、自分で歩いて見せて、私たちにお示しになったわけです。
ヘブル人への手紙の5章7節~9節にかけて、こう書いてありますよ。
「5:7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、」

ペテロはこう言いました。ペテロ第一の手紙2章21節
「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」

みなさんはこういう聖書の言葉を聞くと不思議に思わないでしょうか。
私は不思議に思うんです。

キリストには、苦しみによって訓練されなければならないような、何か不従順な性質があったんでしょうか。
イエス様は、お父さんやお母さんに教えて貰わなければならないような、ダメな子どもだったんでしょうか。
イエス様は大声で、叫びと涙をもって祈らなければ身につかないような不敬虔なお方だったんでしょうか。
何かイエス様は、不敬虔なものを持っていたんでしょうか。
イエス様は取り除かれなければならないような高慢を持っておられたんでしょうか。
キリストの愛は小さくて、弱くて、マリヤやヨセフから訓練されてやっと成長してきたような愛だったんでしょうか。
聖書を見ると、彼は生まれた時から聖霊に満ちておられた。神の愛を受けて成長しておられた。彼は永遠に神の神であるお方ですよ。彼は全く完全な神なんです。
それなのになぜ彼は従順な訓練を受けたんでしょうか。彼はなぜ苦しみ、大きな叫び声をあげて神に祈ったんでしょうか。
イエス様に、従順を学ぶ必要が何かあったんでしょうか。
イエス様は敬虔を身につけるために、何か訓練を受ける必要があったのでしょうか。
そんなものはなかった。
イエス様は最初から従順なお方なんです。イエス様は最初から敬虔なお方、イエス様は最初から愛に満ちたお方ですから、訓練を受ける必要は全くないんです。
それなのに、なぜキリストは、そのような苦しみの訓練を受けたのだろうか。
みなさん、聖書を読みなさいと言われて、ただ読むだけではダメなんですよ。考えながら読んでいただきたい。聖霊に教えられながら読んでいただきたい。
その目的はただ一つです。ペテロはこう言いましたね。
それは、キリストの足跡に私たちが従っていくための模範を残すためだったと。

今年の夏、私たちはバイブルキャンプに行きました。
帰り道、バスは通っていたんですけれども、バスが通らない道を歩いて帰って来たんですね。山の斜面を切り開いた山道を歩いて下りました。40分か1時間近くですかね。懐かしく思い出すでしょ。
その時に私はこう思ったんですよ。
山の斜面ですから細い道ですよ。昔、初めてこの道を切り開いた人は大変だったろうな、と思ったんです。
私たちは、わざわざ自分でシャベルやつるはしをもってきて、新しく道を切り開きますか。それが近道になっても、人が切り開いてくれた道を歩く方が楽ですよ。
今日は3メートル掘り進んで歩いた、というのはとても大変でしょ。

もし私たちの前に、「愛」の道とか、「敬虔」の道とか、「信仰」の道とか、「祈り」の道とか、どれも切り開かれていなかったら、どうやってそれを見つけることができますか。
おそらく誰も見つけることはできない。
ですからイエス様は、やがてついてくる私たちクリスチャンのために、私たちを道なき道に連れて行くんじゃなくて、ご自分の足でちゃんと踏み固めてくださった。
ご自分で愛の訓練を受けて、この道を行けば成長していけるんですよ、という道をご自分で踏み固めてくださったんです。
私はね、若いころは山に登るのが好きだったんですよね。すると道が途中で分からなくなることがある。山には人間だけではなくて獣もいますからね。いのししとか熊とかね。熊が踏み固めている道もあるんです。
間違った道を行くと、熊に出会いますからね。「くまったことになりますよ。」
人間の道か、熊の道か、獣の道かを見分けるのにはどうしたらいいか。すぐ分かります。
熊はガムを噛みますか。噛まないでしょう。
しばらく行ってね、ガムの皮とかね、ジュースの缶とか捨ててあれば、それは獣の道じゃない。10分か20分歩いても何も落ちていないと、これは危険かなと思って、帰って来る。
誰かが歩いてくれている。踏み固めてある道は、私たちが歩きやすいですね。
ですからイエス様はその道をつけてくれた。そして、この道を歩いてくれば、必ずわたしのところに到達しますよ、とこれを示してくださった。

イエス様は大工の家で何をしていたんでしょうか。
ルカの福音書の2章51節を見ますと、「両親に仕えておられた」と書いてあります。
彼は学んでいたんです。イエス様は訓練を受けておられたんです。
完全に神であるお方が、不完全な親に仕えている。
なんとも滑稽ではありませんか。なぜそんなことをしたんでしょうか。従順を学び敬虔の修行をされたんでしょうか。

イエス様ご自身にそれが必要だったからではないんです。
私たちに必要だったからなんです。知恵に満ち、恵みに満ち、愛に成長していくことができる道が、どこにあるかということを、私たちにはっきりと示してくださったんですね。
ですから、みなさん、今置かれている場所から愛の道がつながっている、ということを覚えたいですね。これが分かると、今自分が置かれているところに、あまり文句を言わなくなりますね。
パウロはピリピのクリスチャンに言いましたよ。ピリピ2章14節で「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」と命じています。

「愛の訓練」と聞くと、何か、花園でやるような気がするでしょ。さあ、みなさん「愛の訓練」をしましょう。その実体は一体どういうものでしょうか。
神様の愛の訓練は、花園で、空気も良くて、トレーニングしてくれる人は洗練された人で、嫌みの一つも言わず、かゆいところに手が届く、そういうような人がいてやってくれるんでしょうか。

Ⅰ.どういう場所で訓練が始まるか。

➀、いつまでも果てしなく続く苦痛の生活。
これが「愛の訓練」です。「やだあ」と思いませんか。

②、つまらない社会や、つまらない環境、つまらない職場の中で働く生活することです。これが「愛の訓練」。
こういうところで「愛の訓練」が行われる。「あ、うちだあ」と思いませんか。

③、みなさんの周りには、さもしい心を持っている人がいるかもしれない。イライラさせる人。私もそういう人かもしれませんがね。とにかくいつも人をイライラさせる人がいる。そのような人と一緒に働いたり、生活したりすること、これが「愛の訓練」です。
「ある、ある」と思いませんか。「あ、あの人だ」、向こうも「あ、あの人だ」、
とこっちのことを思っているかも知れませんよ。

➃、あるいは、いくら祈っても、祈ってもなかなか事が片付いていかない。
こういうのも「愛の訓練」。
この苦しみはいつまで続くんだろうか、この悩みがずっと続くんだろうか。
そういうところで「愛の訓練」が行われる、というんです。

岩登りのトレーニングというのがありますね。
あれ、平らなところでは意味がないんでしょ。訓練にならないですね。
広場にある山登りのトレーニング、なんてとてもできないでしょ。
子供たちが教えてくれました。
「テレビなんかで、山登りのことやってんの、あれ、嘘なんだよ」
「ほんと?」
「平らなところを這いつくばっているんだよ」と教えてくれました。
見たことはないけど、そうかもしれませんね。

「えっ、これが愛の訓練ですか」と言われる方があるかも知れません。しかし、それが「愛の訓練」ですよ。私たちはどこか素晴らしい、整ったところでトレーニングが行われるんじゃなくて、イエス様は、みなさんを愛の訓練所に連れていかれる。
みなさん、心の中でここが愛の訓練所だと思いますか。思ったらみなさんは素晴らしいんですよ。
ところで、みなさんはそこから逃げ出したくなりませんか。できたら、どこか別のところへ行きたい、と思いませんか。逃げだしたら、これは自己逃避ですから成長することができない。
だから、いつもミルクばっかり飲んでいるんですよ。
こういう中で、神様は私たちに「愛の訓練」を行う。忍耐の訓練、謙遜の訓練、寛容の訓練、献身的生活の訓練を、実際生活の中で行うのです。

創世記の1章2節を見ますと、「地は形がなく、何もなかった」と書いてあります。
私はここを読みますときにね、クリスチャンの人格もこれだなあ、と思います。
はっきりした信仰による人格形成、人格の確立がなされていない人が多いんです。
聞いてみると、確かにイエス様を信じているというし、心の内にイエス様を宿していると言うし、永遠のいのちを持っていると言うし、信仰を持っていると言うし、これは事実なんです。
「地は形なく、何もなかった」と書いてありますが、材料がなかったわけではない。
整っていなかったんです。秩序正しくなっていなかった。モヤモヤっとした状態。
みなさん、自分の心の中が、全部スパーっと整っていますか。

みなさんの家に整理ダンスというのがありますか。
整理ダンスっていうのは、言葉のとおり整理するためにあるんでしょ。整理ダンスが、時々ゴミ入れダンスになっていますね。一段目はこういうゴミ、2段目はどういうゴミですか。

私たちの心の中はどうですか。いつもモヤモヤした状態ではないですか。はっきりと自分の人格の中で、形が造られていっていない。確立していないということが多いんです。
これではね、これから訓練する必要がありますね。
愛の訓練をすることは、教えられているかもしれません。
だけど、教えられている、ということと、訓練をしている、こととは別ですよ。
自分に当てはめて、自己訓練しなければならない。信仰による訓練とか、人格による訓練とかは、すべて自己訓練です。自分で自分に当てはめない限りダメなんです。他人が自分の人格を訓練できないんです。

今日も子供たちに、「神様も先生も、みんなの代わりができないことがたくさんあるんだ。ご飯も代わりに食べてあげられないし、おやつは代わりに食べてあげられるかもしれないけど。勉強も代わりにしてあげられない、罪も代わりにできない。」って言ったんですけど。
自己訓練もそうなんです。お前の代わりに訓練を受けておくから、というわけにはいか
ないんですよ。自分でやるしか方法がないんです。

私は、クリスチャンが実際に成長していかない最大の原因は、ここにあると思う。
本を読めば読みっぱなし。話を聞けば聞きっぱなし。すべてを忘れてしまう。
一向に自分に当てはめようとしない。あてはめて生活しようとしないんです。

ヤコブも私と同じ考えを持っていたようですね。
これを読むと慰めを受けますね。変な慰めですけれども。
「ヤコブ1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。1:23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」

ヤコブはここで、自己訓練をするように、自分に当てはめてするようにと教えているん
です。なぜ、ヤコブはこんなことを書かなければいけなかったんでしょうか。
それは初代のクリスチャンの中にも、神様のことばを聞きっぱなしにするクリスチャン
がいたんですね。だから、慰められる、と言ったんですよ。人間は少しも変っていない。

私たちは、自分で自分に対して愛の訓練をしない限り、いつまでも自分の内側をモヤモ
ヤした状態にし続けて、一向に人格的成長をすることができないのです。
ですから私は、子供たちや大人の人にも少し厳しく聞こえるかもしれないけれども、
「愛の訓練」をするように呼び水を与えているわけですが、それでも結局は、自分で自分に当てはめて愛の訓練をするまでは、なんの効果も表すことはできません。
ですからどうぞ、自発的に喜んで愛の訓練にいそしんでいただきたいと思うんですね。

イエス様がみなさんの心の中に手を入れます。そしてみなさんの魂を練り始めます。
伸ばしたり、引っ張ったり、丸めたりするでしょう。そういう時にね、私たちはその手を跳ね除けないようにしたい。
イザヤ書なんかを見ますと、ちょうど主は陶器師のようだといっていますね。粘土をこねて形作るでしょ。失敗するとコネコネにしてまた始めますね。心の魂もそうですよ。こちらが堅かったりすると、柔らかくされてね。神様の御手の中で、練って形造られていく。
しかし、私たちにとっては、イヤでイヤで仕方がないことがある。痛みを覚えることがあるかもしれない。感情を損ねることがあるかもしれない。しかし、神様が練って作られる人格は、必ず美しく堅固になっていきます。時間がかかりますよ。
しかし、神様がなさいますから、失敗がないんです。
パウロはガラテヤのクリスチャンたちに対して次のように言っています。
最初は、ガラテヤのクリスチャンたちは立派によくできていたんです。ところが途中で、偽りの教師たちの教えに傾いていってしまった。それでガラテヤのクリスチャンたちは変なふうになってしまったんです。
そこでパウロは、ガラテヤ4章19節で、
「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」
と、こう言ったんですね。

パウロは、彼らが愛の訓練をしないで、偽りの教師に従っていったために、最初はイエス様の人格ができ始まったにも関わらず、途中で壊されてしまいました。そこで、もう一度最初から生むところから始める、と言ったんです。
人の人格の中に、キリストの人格を築き上げていく、ということは聖霊の働きです。
けれども、そばにいて、助産婦役をする人がいるわけですね。
パウロはそれです。それがまた霊的なエネルギーを費やすんですよ。
みなさんね、人間の人格を作るほど疲れる事はないんです。子供さんが真っすぐに育つってことは、なかなか難しいでしょ。杉の木をごらんなさい。しょっちゅう枝をふり落としていますね。人間の人格は、神様のように真直ぐに育つというのは難しいんです。パウロは何度でも失敗すれば、何度でも産むところから始める、と言った。

ジョン・ウェスレーのお母さんで、スザンナ・ウェスレーという方がいらっしゃいます。
お子さんが十何人かいたんです。意外とこのお母さんは厳しかった。お父さんが「いい加減にしたら、どうだ」と言ったら、お母さんは「19回言って分からなかったら、20回言います」と言ったそうです。これじゃあ、まいってしまいますね。
とにかくちゃんと分かるまで言う、って言うんですよ。
普通のお母さんならいい加減にイヤになってしまうでしょ。「もう勝手にしなさい」なんて言ったことは、ありませんか。
ウェスレーのお母さんはそう言わなかった。「あんたは私の子供だから、言うことを聞くまで言う」って言うんですよ。根気がいる仕事ですよ。疲れると思いますよ。一人二人の子ならまだいいですよ。十何人も子供がいるんですからね。あーっ、疲れますね。
一週間に一人づつ呼んでやった、と言っています。一人づつ10分やっても大変ですからね。こっちがグロッキーになりますね。それで素晴らしい人間が出来ていったわけですよ。
人間の内側にキリストの人格、素晴らしい人格を築き上げていこうというのは、本当に大変なエネルギーを要するものなんです。
クリスチャンはどうです。教会に出席しているということだけでは、ダメですよ。
イエス様の人格が、ちゃんと自分の内側に築き上げられていくためには、最大のエネルギーをつぎ込まなければならない。

みなさんの身の上に起きてくる様々な試練、こういうものを愛の訓練として信仰によって受け止めていただきたいんです。
その一つ一つが、私たちの人格を成長させていくんです。
こういうのは来ない方がいいな、ああいうのは来ない方がいいなと思わずに、来たものは何でもかんでも、神様の恵みとして 、愛の訓練として、受けさせていただきたいんです。
私たちの生涯において、困難や障害は必ず起きてくるんです。何もない生涯なんてないわけですから。その時はどうぞ避けて通らないでいただきたい。その時こそ、神様に近づいていただきたいんです。それが愛の訓練ですね。

ゲーテという人はこう言いました。「才能は孤独の中で造られる」「人格は、人生の流れの中で造られる」と言いました。
才能は孤独の中で造られ、人格は人生の流れの中で造られるとゲーテは言いましたが、これは彼自身が経験したことなんです。
確かに霊的な才能は、神様と一対一で交わる孤独の中で育ちますね。

ここに子供たちが来ていますが、いろいろな子供がいる。2歳ぐらいで、なにかクチュクチュと祈っている子供がいるんですよね。あ、これはすごい子供になるなあと思っていたら、中学生くらいになると普通の子になってしまうんです。残念なことなんですけど。

しかし、神と一対一で交わる孤独の中で、祈りとか、信仰、献身、みことばの黙想、悟り、肉眼で見えないものを見る力、というのは、みんな、孤独の中で神と交わることによって身についてくるものです。
そして、そのようにして身につけた霊的な力は、今度は実際の自分の生活の流れの中で、具体的な問題や課題に自分が直面していく時に、クリスチャンとしての人格に磨きがかかって成長していくわけですね。
だからゲーテはそういうふうに言ったわけですね。

もし私が大教会の牧師の長男に生まれていたら、トントン拍子に神学大学を3つ、4つ卒業して博士号を3つ4つ持っていたら、今日のような説教はしなかったなあと思うんですね。どこに行ってもトップで卒業してね、入る時もトップ、出る時もトップですよ。なんか、そういう洗剤があるそうですけど。
とにかく、そういう人生を歩んでいたら、本当の意味における今日のようなお話はできなかっただろうな、と思います。

みなさんは、実際に愛をどこで学ぶことができるでしょうか。
教会です、と言う人があるかもしれません。
教会はその原理を学ぶだけですよ。
実際に自分のものとしていくためには、みなさん自身の生活の中、それは家庭であるかもしれません、学校であるかもしれません、職場であるかもしれません。実際の問題の中で学んでいくわけです。トレーニングですからね。

Ⅱ.次に、どのようにすれば愛の訓練をすることができるのか、をお話してみたいと思います。

なぜお話したいかと言いますと、大勢の人たちはね、間違ったやり方をしているんです。
間違ったやり方をすると、どうしても身に着かない。
ある方はこう思っていらっしゃるかもしれませんね。
これまで、愛の特性について学んできましたね。寛容であるとか、親切であるとか、ねたみませんとかってあるでしょう。
「そうか、じゃあ、これを一つ一つやっていけばいいんだ」と思った人はいませんか。
こういう人は、一つ一つを気にして、これもだめ、あれもだめ、と失望してすぐに疲れ果ててしまうんです。

そこでちょっと私は、別のお話をしたいと思うんです。次の私の実験に注目していただきたい。
私が中学生のころ、理科の実験室に入っていきました。実験台の上に、手で回すことのできるハンドルのついた円盤があり、その円盤に、24色だか36色だか忘れましたが、扇状に沢山の色がついていました。私はハンドルを握ってグルングルンと円盤を、かなり速い速度で回し始めました。さあ、この円盤の色は何色に見えたでしょう。
「白」です。つまり、円盤状にあった様々な色は、「白」を作り出すための色の一つ一つの要素だったのです。

「白」を「愛」だとしましょう。
そして、寛容とか、親切を、色の一つ一つの要素だと考えておきましょう。
そうしたら、寛容とか親切を混ぜたら「愛」になると思うでしょ。
そういうふうに思うのは素人なんです。
「白」を作り出すには、いろいろな色があるだけでは「白」は作り出せないんですよ。
もう一つ絶対に必要なものがあります。
それは何かというと、光なんです。なーんだと思うでしょ。
コロンブスの卵と同じなんです。答えを聞けば誰でも分かるんです。
私たちが「白」と見えているのは、実際には円盤上には白は描いていないわけですから、
それが白に見えるのは、円盤を速く回転させることによって、さまざまな波長の光が、次々と視神経に向かって飛び込んでくる。それを私たちが感知しているわけなんです。
私たちは、光が当たって反射して目に入ってくる波長の長さによって、その色を識別している。
速く回転することによって、私たちは、それを「白」と認識しているんです。
ちょっと難しいですか。物理の話ですからね。ま、我慢してください。
そういうふうに神様は私たちをお造りになった。
色を識別するためには、光の波長の異なった長さを識別するように造ってくださったわけです。

ところで「愛の訓練」とどんな関係があるのでしょうか。
白い色は、いろんな色を混ぜ合わせてできるんじゃないんです。
寛容だ、親切だと一つ一つ組み合わせていっても「愛」になっていかないんです。
そうでしょ。円盤の上に色を並べたって白くならない。
白を作りだすには、光と、光の波長を感じ取る能力が必要だということです。
つまり私たちが「愛の訓練」をしていくためには、愛の特質の一つ一つを自分の内側に
作り出そうと思っても、それは無理だということです。不可能だということです。

だからそれをやめる。
今日は寛容になろう、明日は親切になろう、明後日はねたまない、これをやってもダメなんです。
「愛」にならないんです。そうじゃない。
光であるキリストと、光の波長を感知することができる信仰の力を養っていくという
ことなんです。

絵を描く人が、カンバスのうえに色を塗れば色がつくと思うならば、その人は何も分かっていない素人なんです。画用紙の上にクレヨンを走らせれば色がつくと思うでしょ。
本当に素人なんです。
専門家は光を非常に気にするはずです。光によって、絵は生きたり死んだりするからです。どんなに優れた画家だって、光を創り出すことはできないんです。

それと同じように、私たちはキリストの光を自分の内側に創り出すことはできません。
キリストを、私たちは受け入れるだけです。神様からいただくだけですね。イエス様がその光を私たちの心に与えてくださる。それを受け入れるだけですね。イエス様の光を心に受け入れる時に、愛がそこに生まれてきます。

私たちは、優れた聖徒たちの祈りを真似してみたり、生活を真似したりします。それはあくまでも真似ですね。悪くはありませんよ。しかし真似するだけでは、いくらやっても聖徒にならないんです。
自分で持つことができないからです。
聖徒が内側に宿していたキリストを宿せば、自分も聖徒の一人になれるんです。

愛は、私たちの信仰の条件を果たした時に生まれてくる、心の状態なんです。結果なんです。
光が円盤に当たり、ぐるぐる回転させてその波長の光が次々と私たちの目の中に飛び込んで来るときに、「白」だと感じて「愛」だと受け止めることが出来る状況であり、結果なんです。
愛は、一つ一つの愛の特徴の要素を組み合わせて、組み立てて出来上がった結果ではないんです。
分かりますか。余計に分からなくなってしまったかもしれませんけれどもね。

光であるキリストがみなさんの心を満たして、みなさんが信仰でキリストをしっかりとらえた時にね、そこに愛が生まれるのです。
光をとらえることのできる能力、それは信仰ですね。
ですから「愛の訓練」において、第一に私たちがしなきゃならないことは何なのか。
寛容とか親切とかがどうなったか、探し調べることではないということですね。
みなさんの心の内側に、キリストが宿っていてくださるか、まず確かめましょう。
光がなければ色は問題外になりますね。

このことをしないで、寛容とか親切を探しても愛の訓練にはなりません。
砂漠で泉を見つけるのと、私たちが持っている小さな水筒にどのくらい水が残っているかを調べるのとでは、どのくらい違いがありますか。
泉を見つけたら問題はなくなるでしょう。
水筒の中にあと半分くらい水が残っていても安心できないでしょ。すぐになくなっちまうんですから。
多くのクリスチャンは、私は寛容です、私は親切です、と、探すことによって愛の訓練をしているつもりになっていますよ。
しかしね、愛の源であるキリストが見つかっていないんですよ。
水筒を見て、「まだ、あるなあ」なんてね、思ってる。

よくハイキングに行って、子供たちが「今日はね、先生、紅茶が入っているんだ」「ジュースが入っているんだ」と言いますけれども、飲んだらなくなってしまうではありませんか。
みんな、寛容か親切か、こんなことばかり点検して探している。
それを愛の訓練だと思っている。だから、いつまでも成長しないんです。
このことをお話しておきたかったんです。

愛の訓練の第二の分野は、どんな光の波長も感知できるように集光能力を訓練することです。光を集める訓練ですよ。

このことを赤ちゃんで考えてみましょうか。
人は生まれてすぐは、集光能力はあまりないんです。なぜかって、胎内にいる時は光はあまり必要ないですからね。まさか、お腹の中で「お母さん、肝臓が悪かったよ」なんていう赤ちゃんはいないんですよ。
人はオギャーと生まれて10歳ぐらいまでにだんだんと集光能力を増していきます。
ですから、太陽光線の強い戸外で遊びまわっている子供は、光を直接身に受けますから、
その訓練が自然と出来ていくわけですね。
ところが最近は、赤ちゃんが生まれてもあまり外に出さないでしょ。風邪をひくとかいって、なるべく外に出さない。大きくなると家の中でテレビゲームばかりやっている。
そうするとね、急速に弱視の子供が増えるわけです。集光能力を訓練しなきゃいけない。
9歳ぐらいの子供なら、集光能力を訓練することによって集中力を付けることができる。

クリスチャンも信仰を持ってすぐは、赤ちゃんと同じです。
信仰を集める能力が少ないんです。
➀、イエス様が一緒にいてくださっても、全然気が付かないんです。エマオに行く途中のクレオパもそうでしょ。イエス様がお話しているのに気づかない。赤ちゃんですよ。髭を生やしたね。
②、イエス様がみことばによってお話してくださっても、全然気が付かない。
③、お祈りに応えてくださっているのに、全然答えてくれない、って言っているんですよね。
➃、イエス様が課題を与えてくださって、訓練が始めてくださっていても、それに気づかず、「嫌だあ、嫌だあ、大変だあ」、こればかり繰り返しているんです。
つまり霊的な、信仰的な感知能力が非常に乏しいんです。
救われて間もなくは乏しいですけれども、自己逃避して苦しいことから逃れていきますとね、力がついてこないんです。
信仰によって正しく受け止めていくなら、必ず成長していくんです。

「おぎゃあ」と子供が生まれたらね、だっこして外にお連れください。光が照っている所に連れて行ってね。子供が空を見ると「眩しい」と言って目をこするでしょ。パチクリするでしょ。あれは集光能力を駆使しているんですね。
クリスチャンの愛の訓練も、受け取る力、これが大事なんです。
神様が語りかけてくださることを受け取る力です。
イエス様が共にいてくださるという慰めを受け取る力、課題が来た時にこれは神様が私を訓練するために送ってくださっているんだと、信仰によって受け止める力、
みんな違っているわけですけれども、徐々に徐々に訓練されて力がついてくると、私たちは、もっと大きなものを受け止められるようになるんですね。そのためにはまず、神様に信頼しなければいけない。神様は、愛以外の何ものでもないお方だ、ということを心の中にしっかりと受け止めておくことです。
神様は私をいじめているんじゃないだろうか、こういう考えを一切持たないこと。
神は私に対して、最善、ベスト以外のことは絶対にやらないんだ、ということを疑わないこと。これを堅く信じて、その信仰に立っておく必要があります。
「神様は、わたしが愛だよって言っているけど、本当はどうなるんだろう」という気持ちがあったら、受け止められなくなってしまうでしょ。
神は愛であって、私に対して最善以外の何ものもなされないんだと、この上に立って初めて、愛の訓練が成り立つんです。

みなさんがもし、怪我かなにかしてね、リハビリテーションに行ったとします。
「大丈夫ですよ、伸びるようになりますよ。」
「ダメですよ、伸びないんですよ。イテテテ。この人、私を痛めつけて、腕を折るんじゃないか」ってトレーナーの人に言いますか。
そう思っていたら訓練はできないでしょう。
「何とかこの人は、私の手や足を動くようにしてくれているんだなあ」と思ってやるんでしょ。相手を恨みながら、憎しみながら訓練はできないでしょ。

ヨハネはこの奥義を私たちに教えてくれましたね。
ヨハネの第一の手紙4章10~11節で
「4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」

自分はキリストによって愛されているということを、現実に知っている人。こういう人は、「イエス様はあなたを愛しているんですよ」と、言うことができるんですねえ。
私たちは、イエス様が自分を愛してくださっていることをはっきり知って、それから、
他の人にも愛の火をつけていくことができるんです。

キリスト教はね、神学を広める宗教ではないんですよ。
キリストの、神の愛を、他の人の心につけていくんです。
クリスチャンは放火魔ではありませんけれども、他の人の心にイエス様の愛をつけていく。マッチ売りの少女みたいなものですね。人から人へと、その心に愛の火をつけていく。それがキリストの愛のリバイバルですよ。
人を通して、イエス様は私を愛してくださっている、イエス様はあなたも愛しておられる、これを人々に叫ばせるのが、愛なんですね。

穴井善三君という子がいました。18歳で亡くなりましたけれどもね。
亡くなる前にお見舞いに行きました。病院でも自分の友達みんなに、イエス様のことを話しているんです。「ああ、彼はキリストの愛を知ったんだなあ」と、思いました。
本当にイエス様の愛が心に分かったら、黙っていられなくなるんです。心を圧倒するんですね。心を溶かすんです。新しい心を造ってくださるんです。
ですから、イエス様が自分を愛してくださっているんだ、という信仰の自覚をまず自分が持つことなんです。
みなさん、光が当たると分かるでしょ。太陽が出ている日に、光は背中に当たるとどうですか。ポカポカするでしょ。暖かいでしょ。分かるでしょ。なんて言うんですか。
「今日はいい日よりですねえ」とか、「今日はいい天気ですねえ」とか、言うでしょ。

みなさんが、もしここで、「すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」というパウロの言葉を一つ一つ、今日から実行しましょう、努力をしましょうと、やろうとしてもそれはできない。
一時的にできるかもしれませんよ。でもその先はどうなるんですか。
「私、できました」、と高慢になったりしてね。
これでは愛の人になっていないではありませんか。
4節の終わりで、愛は自慢せず、高慢になりません、と書いてありますから、
やりにくいですねえ。

「愛の訓練」とは、光であるキリストを受け入れて、光の波長を感知する能力である信仰を訓練することなんですね。
イエス様が共にいてくださる。イエス様は私に教えてくださる。イエス様は私に慰めを与えてくださる。イエス様はこの課題を乗り越えさせてくださる。
そう受け止めて、やることですね。
これが、本質的には正しい訓練なんですね。
なんと多くのクリスチャンが、これをしていないことでしょうかね。

「今日こそ寛容だぞ、今日こそ親切だぞ、今日こそねたまない。
また、ねたんじゃった、よし、明日こそは。」
これ訓練じゃない、って言っているんですね。よろしいでしょうか。
この正しい訓練をしていかないと、キリストに似た人格を持つことはできない。
しかし、私たちがそういうルートを辿っていけば、無理なく、イエス様のような人格を私たちの内側に宿すことができる。
気がついた時に、ここで記されているような寛容とか、親切とかが、自分のものになっているわけです。

願わくは、光と、光を感知する能力。
光であるキリストを受け入れ、光を感知する能力である信仰を訓練しましょう。
あのぐるぐる回る色の一つ一つをやってみよう、と思っちゃだめだということですよ。
どうぞこの部分を間違わないで頂きたい。
訓練、訓練というと何か一生懸命やることらしく感じますけれどもね、実はそうではない。
是非お話しておかなきゃならないと思って、このステップ2をお話しました。
これを心に留めて、今週の旅路を歩ませていただきたいと思います。

お祈り

天の神様、こうしてあなたの恵みを感謝いたします。
神様が、まず私たちを愛してくださいました。
このことのゆえに、私たちは大いなる喜びをもって、この神様の愛を内側に持つことができ、周囲の人々にも本当に、心の中に、イエス様、あなたの愛の火をつけてまわることができる様な人に、あなたが変えてくださることを感謝いたします。
イエス様の光はいつでも与えられています。
私たちがイエス様の光を受け取ることが出来、それを感知する信仰の力をどうぞ訓練させてください。
イエス様がいつも私を愛してくださっているということを、心に留めることができるように。神は愛である。神様は善以外にできないお方であります。
このことを深く心に留めさせてください。
私たちがどういう場所に置かれていても、どういう課題に直面しておりましても、
神様、あなたは私を愛しておられます。
あなたの力を頂いて、一つ一つを乗り越えていくときに、一貫してあなたの愛の訓練が始まっていることを自覚できますように、今週の旅路にあなたの導きと顧みを加えて深い悟りを与えてくださいますよう、さらにお願いいたします。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。                   

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容、親切、ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


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