第一コリント13章「愛の章」第13回 「愛の耐久性(3)-”今” と ”その時”」

オリーブの木の下にいるロバ、ロバの上には白い鳥が乗っています。(ナザレのナザレ村にて)

 

第一コリント13章12節
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」

お祈り

「その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。」
恵み深い天の父なる神さま、イエス様の憐みによって私たちはあなたの御許に、また、内にイエス様をいただくことができる、この大いなる恵みに与(あずか)らせていただきましたことを感謝いたします。
イエス様、どうかこのみことばの真理を私たちが深くとらえて、イエス様あなたを本当に心のなかに宿し、体験し、あなたと顔と顔とをあわせて相まみえるほどに、イエス様の豊かな憐みを私たちの内に与えられますように、どうぞ導いてください。
心の中に閉ざしているものがあれば、全部、明け渡してあなたを待ち望むことができるように、あなたはそのことを深く期待し、求めておられます。
どうぞ、豊かに主が顧(かえり)みを与えてください。
今日もみことばを祝福し、御霊がお一人ひとりの中に働いてください。
聖霊のみわざ、奇跡のみわざが魂の奥深くなされて、変貌した人に、イエス様の似姿に近づくことができるように、聖霊がどうぞ働いてください。
この時を御手にゆだね、主の語りかけを待ち望みつつ、尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

はじめに

私たちは9月23日の聖日から、この「愛の章」に入りました。そして3カ月、愛についてメッセージを聞きました。
愛のメッセージも、12節と13節を残すところとなりましたが、愛について記した本というのは、たくさんあります。けれども、このコリント第一の手紙の13章以上に優れた愛の本は他にないと思われます。私たちは世界で最も素晴らしい「愛の章」から愛について学んでいるわけなんです。そういう自覚をお持ちでしょうか。
「また13章か」という気持ちの人もあるかもしれませんが、人間というのは不思議なもので、貧しい時には、ちょっとしたものでもとても美味しいように思うのですが、贅沢で物があふれる生活をしていると、またか、という思いになります。私たちは、最も素晴らしい章を読んでいる、という自覚を持たせていただきたいと思うんです。

みなさんの心には、キリストの愛が宿るようになったでしょうか。
「愛」っていうのは一体何なんだろうか。いろいろ思います。ある人はこう教えました。
あなたに本当の愛があるなら、「先生、これはどうしたらいいでしょうか」とは聞かないって言うんです。
愛があれば自分でどうしたらいいか分かるって言うんです。
ただ聞いて、聞き流して、再び忘れてしまうようでは、3カ月前のみなさんと少しも変らないわけです。キリストの愛を心に迎え入れましょう。その愛に生きようとした人は、必ず成長し始めます。
愛というのは火のようなものですから、燃え始めると、次々と燃え移っていくんです。
そして近寄れないほどに熱を発する。キリストの愛は私たちに、責任感とか、積極性とか、強い意欲を与えるんです。愛は私たちにいろいろな知恵を与えます。

最近の人は、私が見ていて残念に思うことは、何か出来上がっているものがなければ、何もできない、ということです。
反対に、ちょっと何かできる人は、あれはダメ、これはダメと言います。
私はそういう人は何もできない人だと思うんです。みなさんは、食べる物がなくなったら、なんでも探して食べるではありませんか。
この前ビデオを見ましたね。母親が石を食べている。そういう経験がありますか。
私たちは、石は食べられない、これは食べられない、あれはできないと、すぐに考えます。
愛がないからなんですよね。愛は私たちに強い意欲を与えます。何でもすることができるようにします。命を超えてできるんです。キリストの愛とはそういうものでしょ。

イエス様は、十字架を超えてその愛をくださったんです。もし、私たちが輝いた日々の生活を送ろうと思うなら、この愛が必要です。そして、愛はいつでもどんなことにおいても喜びを与えます。
愛は私たちに、絶えず祈るように教えますね。私たちは祈ろうとするときに愛が必要ですよ。愛がなければ祈ることはできないんです。
全てのことに感謝する。愛がなければ感謝できないんです。みなさん先週、何回感謝しましたか。感謝するのに愛が必要ですよ。イエス様を愛して御覧なさい。すべてのことに感謝する生活に変わりますよ。
どうしてこんなにつまらない生活なんでしょうか。どうしてこんなにつぶやきがたくさんあるんでしょうか。
キリストを愛する愛がないからです。

人の人生には、輝いている時期よりも、輝いていない時期の方が長いんじゃないかと思うんです。失望したり、薄暗く落ち込んでいたりする、灰色の時期というのがあるでしょう。あなたのこれまでの半生を振り返ってみてください。
若い人は振り返りようがない生涯しかありませんけれども。5年や10年振り返っても、まだ何も見えないんです。しかし、20年、30年、40年と振り返ってみると、ある程度人生を歩いてくると、心が輝いていた時と薄暗く沈んでいた頃がある、とお気付きだと思います。さあ、どちらが長かったでしょうか。
若い時は、自分は何でもできると思って得意になってやります。そして、ひどい目にあって失敗する経験もあるわけですね。それもまた、勉強になっていいわけですけれども、自分の人生を振り返って見つめるとなかなか輝いた時期を見出せないものなんですよ。みなさん、パッパッと思い出せますか。
むしろ失望や落胆や虚しさを味わったことを思い出すでしょう。そういう日数の方が多いように感じるわけです。
ベットに横になって病に伏している人だって、輝いている人はいます。
両手両足揃って好きなことをしながら、絶望して虚しい生涯を送っている人だっているんです。もし、みなさんが、生き生きと輝いていたという時期があるとするならば、それはみなさんが、愛によって生活していた時期であるということに気づくはずです。
お金があったか、貧しかったか、そんなことは問題ではない。心が愛に満たされている時に、生活そのものが甦ってくるんです。毎日が充実し、毎日が感動の日々です。
何も詩人に頼まなきゃ感動しないわけではないんです。誰かの小説を読まなきゃ、私たちは感動しないというわけではないんです。
私たちは、心の中にキリストを宿すと、小説以上の、詩以上の感動の日々を送ることができる。しかし、こういう日々は、イエス様を知らない間はなかなか見つけ出せないんです。
私たちは一生の間に、楽しいこともあるでしょう。華やかなこともあるでしょう。しかし、それらは一時的ですぐに色あせてしまうんです。みなさんがペンキを塗って御覧なさい。しかし、太陽光線に当たるとみんな色あせていくんです。赤とか黄色は速いですね。最後まで残っているのは黒ですね。
人生にはいろいろあって、金回りのいい時もあれば、窮乏状態の時もある。しかし、どんなに贅沢した時代があっても、貧しい時代が来るとすぐに虚しくなるでしょ。どんなにお腹がいっぱいになっても、お腹が減ったらまた虚しくなるのと同じですね。
しかし、コリントの第一の手紙の13章にある、愛による生活をしていると、金回りがどう回っても、神様によって輝いていることができるんです。
若者だった人が中年になり老年になっても、この輝きは変わらないんです。

私が本当に残念だと思うことは、お年寄りを見ると、年を取った、ということだけで輝きを失っていることです。若ければいいんでしょうか。「わかい」に点々を付けたら何になるんですか。それ以上は言いませんけれども。
年を取ったから輝きを失ったんではないんです。輝きがないのは、私たちの心の中にキリストの愛がないからなんですよ。いつも生き生きと新鮮に生きていくとき、輝きが溢れているんです。それはどんなに楽しかった時代よりも、ひときわ飛び出して目立っているんです。みなさんの人生において、本当に良かったと言える時はどういう時か。
それはイエス様と愛の生活をした時なんです。

悔いのない生涯とは一体何なんでしょうか。お金をたくさん握ることですか。いつまでも健康でいることですか。多くの学歴をつけることですか。
神の愛によって生きることなんです。たとえ他の人から報われなくても、私たちの心はいつも充実していることができるんです。それは聖書が教えている。
聖書はこう言いましたね。愛は決して絶えることがありません。あなたの生涯を失敗させないとお話しました。私たちの心は、絶えることのない愛に満たされるんです。みなさんはこれを経験しているでしょうか。

もう一つ、大切なことをお話しておきたいと思います。それは13節でもお話することですが、パウロはガラテヤの5章6節でこう言っています。
「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」

特にこの終わりです。愛によって働く信仰だけが有益だ、益になる、大切だ、インポータントだ。愛によって働く信仰だけが大事ですよ、と言いました。
私たちが神様のみ前に立つとき、私たちの受ける報酬の基準は何だと思っていますか。
天の御国に行って自分の名前が呼ばれて、「はあい」と出ていきます。
「あなたにはこれを差し上げましょう。」と言われた時、神様は何を基準にして私たちに報酬をくださるんでしょうか。
みなさんは働いて報酬を受ける時、何時間働いて、成果はどうだったか、どういう契約だったかで報酬が払われるんでしょ。
私たちが神の御前に立つとき、神様の報酬の基準は何でしょう。
地上で、どのくらいの時間をかけて神様のために使ったか、でしょうか。
みなさんが、どのくらい信仰深かったか、でしょうか。
地上でどのくらい努力して事業を成功させたか、でしょうか。
どのくらいの地位で、どのくらいの財産を築いたか、この世で名が知られたか、でしょうか。それらのことは基準にならないんです。
クリスチャンの中にも、そういうものを求めている人はいるでしょう。
しかし、私たちが神から受ける報酬の基準は何なのか。
それは、私たちの日常の生活の中で、私たちの周りにいる人々にキリストの愛をどのように示したか、ということです。
自分の安全のため、自分の利益のため、自分が助けられるために用いた信仰は、その基準に入らないのです。みなさんが、他の人々にどれほどの愛を分け与えたか、それが受ける報いの基準になるんです。
私たちが、愛を示すことに怠慢であるならば、さばきの対象になるのです。
もちろん私たちが、イエス様を知る前のことは対象外ですよ。しかし、私たちがイエス様を信じた後、誰にも愛を示さなかったら、怠慢であったなら、それはさばきの対象になります。
ですからパウロは、「愛によって働く信仰だけが益である」と教えたのです。十字架にかかって差し出されたキリストの愛を内側に経験して、そのクリスチャンが自分だけにとどめておいて、他人には差し控えてしまう、隠してしまう、それはキリストのみこころを否定することです。
すなわち、私たちはイエス様にこう言っているのと同じです。
「イエス様、あなたは十字架にかかったけれども、それは私の心になんの影響も霊的改革も与えませんでした。他の人々のために愛を使うなんていう心の改革はありませんでした。」こういうことなんですよ。
イエス様が、十字架にかかって死んでくださったことを無駄にするのと同じなんです。
それでイエス様は喜ばれるでしょうか。「ああ、そうでしたか、それではこちらにおいでなさい、報酬をあげましょう」。そんなことは仰らないんです。
「イエス様、あなたの十字架は結局無駄だったではありませんか。イエス様を信じても私は変化しませんでしたよ。相変わらず欲張りで自己中心で、こんなふうに生涯を送っていたんです。あなたの十字架、力がなかった。」こういうことを言っているんじゃないですか。

ヨハネはこう言いました。ヨハネの第一の手紙の3章16節で、「 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」と言ったのです。

イエス様は、私たちのために十字架にかかって、ご自分の命をお捨てになったんですよ。
この愛を私たちはいただきました。ありがたいことです。信仰の第一ステップです。
第一ステップがあれば第二ステップがあるんです。第二ステップにつながらなきゃならない。一段だけの階段なんて天に届かないんです。
キリストの愛を知ったら、私たちの周りにいる者に対して、イエス様がご自分の命を捨てて愛してくださったその愛を分けてあげることなんです。私たちの自己犠牲、自己否定の態度をもって、キリストの愛を分け与えるべきなんです。

ところがクリスチャンはなんと言っているんでしょうか。「それは私にはできません」、「それはちょっと難しい」、それはどうだ、こうだといくらでも理由を付けます。
しかし、キリストが理由を付けたら十字架にかかりませんよ。ローマ兵に、
「痛くないようにお願いします、釘の細いやつでね、そっとね、神経の通っていないところに差し込んでください」、なんていう注文をつけましたか。
私たちはどうでしょうか。誰かを愛そうと思ったら、自分が傷つかなきゃならないんですよ。愛は自らを傷つけるんです。そうでしょ、それが十字架なんです。痛くないように傷つけられますか。画鋲を踏んだだけで飛び上がるではありませんか。
キリストの愛を知った人なら、必ずこの愛を、自己犠牲、自己否定をしてでも他の人に分け与えたいと思うんです。そういう動機を持つんです。そうせざるを得ないんです。
愛というのはそういうものです。火が燃えているんですよ。その火は固まっているものなんでしょうか。そんなことはない。
火事を見たって分かるではありませんか。大火事になって、どんどん延焼するではありませんか。消防車が何十台来ても、消えやしないんですよ。
キリストの愛は、もっと、もっと大きいんでしょ。

愛は私たちの生活の中で花開くんですよ。愛は神学の中で、教会組織の中で実るものではありません。
しばしば起きるクリスチャンの過ちは何か。
私は正しい神学を知っています。だから天国に行けます。NOです。
私は正しい儀式にあずかりました、正しい神学を持っています、教会組織の中にいます、だから私は天国に行けます。そんなものを隠れみのにしていてはいけないんです。
愛の生活をしないで、自分は正しい教え、正しい儀式、教会にいるから安心だ、それは自己満足というものですね。正しい教会の中にいても、それは自己欺瞞ですね。自分に嘘をついているんです。自分を欺いているんです。
私たちは、聖書の知識の多くを持っているだけでは安全ではありません。キリストはなんて言ったんですか。周りの人にキリストの愛を分け与えなさい、と言ったんでしょ。それが生きた信仰なんです。

神様の前に大胆に立つことも信仰ですよ。豊かな報酬を受ける信仰ですよ。イエス様はこう仰いましたね。「わたしの名前で、冷たい水一杯与えた者でも、私は決して忘れない、必ず報いをあげますよ」と言いました。
イエス様は、良いサマリヤ人の話をしましたでしょ。強盗に襲われて半殺しになったユダヤ人がいましたね。サマリヤ人は助けましたね。なぜイエス様は、その話をなさったんですか。最後にこう言われました。
「あなたも行って、そのようにしなさい」
私たちの周りには、慰めを求めている人がワンサといるではありませんか。
しかし私も慰めを求めている。結構なことですよ。
キリストは私たちの心が満たされればそれでいい、と言ったんでしょうか。そうではないんです。
私たちは、神の前に立ってご褒美をいただくことが、大きな仕事ではありませんよ。
冷たい水一杯を、イエス様のお名前によって分け与えることだ、と仰いました。
私たちは、できないことをいくらでも考えて、それはできませんと言います。
しかし、できることは、ワンサとあるではありませんか。
キリストの御名において、私たちの隣人に、キリストの愛を分け与えることです。
これがキリスト教ですね。イエス様が仰ったことはそういうことです。
そして、その働きには、必ず豊かな報いがあるんです。

今日は、「愛の耐久性」の三番目を話そうと思っているんですが、それは、「影と実体」、「鏡に映る虚像と実像」の問題なんです。

Ⅰ.12節を見ますと、パウロは「今とその時」という言葉を使いました。

そして、これを、「影と実体」という言葉と対比させています。

そこで「今とその時」とは、一体いつのことなのか、をお話しておきましょう。
それは二通りの意味があります。

A.まず、「今」とは、11節のつながりから考えますと、子どもであるコリントのクリスチャンの状態を話しています。

もしそうであるなら、「その時」とは、クリスチャンが「おとなになる時」のことを言っているんですね。この観点から見ますと、幼い信仰者の持つ信仰経験は、おぼろげであります。成熟したクリスチャンの信仰経験は、より鮮明です。正確であるということもできますね。確かにその通りです。詳しい事はあとでお話しましょう。

第二の観点は、「今」とは、クリスチャンが肉体を持って、地上の生活を行っている時のことです。「その時」というのは、キリストの再臨ののち栄化され、天の御国に入る時のことを指していると思われます。パウロはおそらく、この両方のことを意味したんです。
確かに私たちは、クリスチャンとしてどんなに霊的に成長しても、やはり信仰によって主と交わりをしているわけですから、肉体という弱さや制限を受けていますので、主と顔と顔をあわせる、というわけにはいかない。
けれども、イエス様が再臨されて栄化された時、神の御前に立つとき、もはや私たちは信仰を必要としないんです。なぜなら、主とお会いするからですよ。
みなさんはどなたかとお会いした時に、「あなたのためにお祈りしています」というかもしれませんが、「あなたを信じています」とは言わないですね。
お会いしているから信仰はいらなくなるんです。
だから、私たちはずうっと主を信じているんではない。あとは、イエス様とお会いする。そうなるとイエス様を愛して、礼拝して、賛美するだけのことなんです。それしかなくなってしまいますよ。もはや「イエス様、あなたを信じます」とは言いません。
信仰が必要ではなくなるからですね。
「イエス様、あなたを愛します」
「イエス様、あなたを礼拝します」
「イエス様、あなたを賛美します」
こういうふうになるんですよ。

みなさん、私たちはこう祈りましょう。「神様、私にこれください、あれください」という祈りばっかりでなく、「主よ、私は心からあなたを礼拝します。主よ、あなたを心から愛します、イエス様、あなたを賛美します。」こういう祈りをしたいものですよ。
私たちは、直接イエス様とお会いするまで、どんなに成長して、どんなに親しく交わっても、信仰が必要です。信仰で歩んでいる間はなお、おぼろげな部分がいくらか残り続けるということですね。

Ⅱ.そこで「今」と「その時」についてもう少し詳しくお話してみましょう。

まず「今」ですが、パウロは、「今、私たちは鏡にぼんやりと映るものを見ていますが、」と言いました。これは信仰による神経験の不鮮明さを言っています。

もちろん、これは、クリスチャン一人ひとりの信仰の程度によっても違うんです。
例えば、2歳ぐらいの子が、さっちゃんが私に折り紙を教えてくれました。カラスの折り紙を教えてくれたんですが、口ばしのところがどうやるか分からない。さっちゃんが「分かんない」と言っていると、2年生のれいちゃんがやって来て、
「これはこうするんだよ」って教えてくれた。2歳の子と2年生と違うでしょ。幼児と小学生は違いますね。中学生と高校生とも違う。大人でも違う。
同じようにクリスチャンでありましても、一人ひとり知識や経験が異なっている。
ですから、理解度の深さが異なっているんです。パウロは、霊的な経験の不鮮明さを、鏡の中に映った像でたとえて説明しています。

今の鏡は何でできているんですか。ガラスのうしろに銀が張り付けてあるんですね。アルミホイルを張り付けたんじゃないんですよ。銀鏡反応っていうのがあるんです。銀メッキです。
昔は何で作っていたんですか。銅ですね。銅板をよく磨いて作った。銅板の銅は、使う時によく磨いてから使うんです。すぐに曇るんですよ。10円玉は銅でできていますね。いつも曇っているでしょ。私たちは「鏡」と聞くと、「見る」とか「映す」を連想するでしょ。当時の人にとって「鏡」と聞くと「磨くもの」を連想した。いつも磨かないと映らないんです。ですから、パウロは、信仰経験の説明をするのに、銅の鏡を取り上げたのはそれなりの意味があったんです。
私たちの信仰、霊的状態も、毎日、みことばと祈りと献身によって磨いていないと、すぐに曇りがかかって見えなくなってしまうでしょう。みなさんもそういう経験をしたことがありませんか。
あまりお勧めしませんけど、2,3日聖書を読まなかったりすると、心が渇いてきて
「あ、聖書を読まなきゃ」と思いますね。一週間経つと、心に曇りが出てくる。一か月経つとどうですか。イエス様を心の中にもう映さなくなってしまう。
「ま、いいや、面倒臭い」になる。そのうち忘れてしまう。無関心になっていくんです。
そうでしょ、心に曇りがかかってくる。
教会の出席はどうですか。一回休むと、心に渇きを覚えるでしょ。2,3回続けて休むとどうですか。渇きは消えてしまう。一カ月休むと、ますます曇ってしまう。
未信者の人と同じように無関心になっていきますね。やがて生活も堕落していくんです。聖書とその鏡のことを教えているんです。
こんな状態になっている人はたくさんいますよ。

自分の心の状態を、いつもみことばや祈りや献身で磨かなかったらこうなる。
信仰というのは、一回持ったらいいのではないんです。絶えず更新し続けるんです。
車の免許をお持ちの方はご存じでしょう。更新し続けるでしょ。放置していてはいけないんじゃないですか。
信仰の更新を続けずに放置しておくと、自分勝手な道を歩んでしまうんです。

これから年末になると、大掃除をする家庭も出てきますね。みなさん、大掃除は終わりましたか。一年間使い続けたところ、油がこびりついているガスレンジ、取るのが大変ですね。簡単には取れないんですよ。

ずいぶん前の話で恐縮ですけどね、若いころ、富山市で開拓伝道を始めるために、教会の応援に行ったことがありました。とても暑い夏だったんですが、一日の奉仕が終わりましてね、夕方になって風呂に入って汗を流そうということになりました。風呂を沸かすことになったのですが、その風呂はまだ煙突がついていたんです。薪(まき)で沸かすんですが、まあ、どうもその煙突を掃除したことがないらしい。焚口(たきぐち)から薪(まき)を入れると煙がもうもうとしてきて、煙突からは全然煙が出ていかないんです。
ゴホンゴホン言いながらやりましたけどね。
教会の奉仕が終わって、次の日に私たちは屋根の上にのぼって煙突掃除をしました。どうやって掃除するかご存じですか。長い竹竿なんてないんです。私は考えました。ぼろきれの中に石を入れて綱を付けて上からドスンドスンと落としたんです。凄いんです。バケツに2杯とかススがどんどん出てくる。これじゃ煙が出るわけない。ススが詰まったままなんです。借家でしたけど。
そこの牧師が借りたんです。煙突のことまで考えなかったんでしょうね。
懐かしい思い出ですよ。
しかし、私たちの霊的な心の状態もススだらけだったら、クリスマスの前になって大急ぎでスス払いをして、よくイエス様がよく映るようにするなんて、なかなか無理ですよ。
聞くところによると、神社仏閣でも一年に一回スス払いをするんだそうですね。
一年に一回だけで払えるわけがない。お寺では畳をバンバン叩くんだそうですが、新しく替えてもいいのに、そんなに叩いたら畳がなくなってしまいます。

みなさん、私たちの信仰の鏡は毎日磨かなきゃならないですよ。私は眼鏡をかけていますが、一日に何回も拭かないとよく見えなくなります。
当時は、鏡というのは非常に高価な装飾品でもあったんです。特にコリントの町というのは、鏡の生産地でもあったんです。ですから、パウロが鏡の例をあげて話をしたのは意味がある。コリントのクリスチャンに話せばすぐに分かったんです。現代の私たちには、少し説明を加えないと分かりませんね。

さらに、もう一歩突っ込んで考えてみましょう。パウロはここで、当時のギリシャ人やコリント人が好んで使っていたプラトン的な哲学の考え方を利用しているんです。
鏡の話とプラトン哲学をくっつけたわけなんです。
パウロという人は、優れているなあと思いますね。そう思いませんか、みなさん。
パウロはここで、キリストの愛の実体と、コリントの人々が誇りとしている知恵を比較したんです。鏡を使ってね。
鏡に映っているのは虚像ですよ。偽りの像です。実体は鏡のこちらにいるんでしょ。
美しい人が鏡を見て映って、二人の美しい人がいるとは誰も思わないでしょう。
向こうから手を出して握手できますか。鏡に映っているのは、実体の虚像です。
理科の時間に習ったでしょ。

パウロがここで教えようとしていることは何なんでしょうか。
コリント人が誇っていた知恵は鏡に映った虚像であって、内住の内側にいらっしゃるキリストの実体ではない、ということを教えたんです。虚像は、実体があって、映し出されるものです。実体そのものではない。実体そっくりですが、実体ではない。

イソップの話にこういうのがありますね。欲張りで馬鹿な犬がいました。犬は肉をくわえて丸木橋の上にやってきました。下を見ると、もう一匹、肉を加えた犬が川の水の中にいるではありませんか。「ようし、あいつを脅してあの肉も自分のものにしよう」と思って、「ワン!」と吠えたら、くわえていた肉が、川に落ちて流れて行ってしまいました。
欲張りになって、自分の強いところを見せて脅かしてやろう、という人はこの世の中に沢山いるんじゃないですか。それは、虚像を追いかけていって、実体のイエス・キリストを見失ってしまうのです。私たちも、これに気を付けなくてはいけません。
人の才能を見る。自分の才能の方がある。地位がある。財産がある。学問がある。いっぱいある。確かにそれは、イエス様が祝福してくださったものかもしれない。しかし、それは鏡に映った虚像なんです。
「ワン!」と鳴けば、みんな消えてしまうんです。このことが分かっていないんじゃないしょうか。

私たちは、イエス様ご自身を求めないで虚像を求めやすい。だから、みんな失ってしまうんです。イエス様を信頼しないで、イエス様がくださったものに頼る。虚像に頼る。
コリントのクリスチャンは、初めはイエス様を求めた。しかし彼らは、自分たちは才能がある、知恵がある、財産がある、名誉がある、何だってあるんだ、と思い始めた。
そして、だんだんとコリントの教会は混乱し、破壊していったんです。

ここに一匹の欲張りの猫がいたとしましょう。この猫が、鏡に映った鯛に向かって飛び掛かっていったら何が起きますか。鏡は壊れる。猫の僅かな額に傷がつく。うっかりすると死んでしまいますよ。

パウロが言わんとしていることは一体何でしょうか。
鏡に映っている影とか虚像は、偽りだということなんです。実体はそこにはない、ということです。
私たちは、一生懸命に、自分はどうしよう、自分はこういうものを持とう、力ある者になろう、としますが、みんな虚像です。実体であるイエス・キリストの存在から映し出しているものであっても、それらは、実体ではない。実体であるイエス様を不完全にしか映し出していないと、言っているんです。
クリスチャンの中にも、この虚像によって信仰を判断しようとする人が、たくさんいますね。そうでしょ、私はたくさん聞いて来ましたよ。
大きな教会堂ができました。大勢の人数が集まっています。だから素晴らしい教会です。そうなんでしょうか。それは虚像であって、信仰の実体は別のところにある。
教会に長い事来ております。聖書の理屈も言えます。だから、立派なクリスチャンなんでしょうか。果たしてそうなんでしょうか。これは実体ではなくて、虚像で判断しているんですね。
私たちにとって本当に必要なのは、虚像、偽りのものではなくて、実体なんです。
どんなに才能があっても、どんなに賜物があっても、どんなに知恵を持っていても、どんなに知識を持っていても、内側にキリストを宿していなければ、何もないんです。
みなさんお考えなさい。世界で一番大きな財布を買った男がいたとしましょう。しかし、いくら財布をはたいても、空気しか出てこなかった。
さあ、どうなんでしょうか。似てるでしょ。

パウロはこのことを訴えているんです。「今、私は一部分しか知りません。」と言っているんです。この一部分の知識で、すべての実体を判断し決定するなら、あやまちを犯すことになる。一部分の知識で判断を下す時、その外の大部分には何が入っているんだろうか。自己中心と、この世の価値基準なんです。だからあやまってしまうんです。
そしてこのような人々は、なかなかこのことに気付かないんです。だんだんイエス様から離れていきます。キリストに忠実であるよりも、この世に忠実になることがどんなに幸いであるか、と考えるようになるんです。そして、このような人々は、キリストが何であるか、分からなくなってしまうんです。

Ⅲ.パウロはこう言いましたね。

「その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。」

「その時」というのは、先ほどもお話しておりますが、イエス様の再臨の時かもわかり
ません。けれども、第二コリント3章18節をご覧ください。
ここでパウロはもう一つのことを言っています。
実はここにも「鏡」が出てくるんですがね、「鏡」の話しを聞いてこの箇所を思い出した方があれば、素晴らしいと思います。
ここは私もよく読む聖書の箇所ですが、素晴らしい節だと思います。ご一緒に読んでみましょう。

コリントの第二の3章18節、
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

地上の信仰生活の中でも、顔と顔を完全に合わせることはできませんが幾分かは経験できますよ、と言っている。

モーセは、主と顔と顔を合わせて物語った人物である、と聖書は言っています(民数記12章8節)。しかし、パウロはここで、前の方を読みますと、御霊の御業を受けているクリスチャンと、イエス様を内に満たしているクリスチャンの経験は、モーセ以上である、と、こう言ったんです。
確かに、成長して聖められたクリスチャンはこういう経験に到達できますね。
パウロは18節で、「鏡のように」と言いました。同じコリントの人ですからね、ここでも「鏡」の話をしている。この鏡は、よく磨かれた鏡のようですね。
しかし、ここでよく読んでいただきたい。
「鏡のように」という言葉の使い方に注目していただきたい。
この箇所の聖句を読んでみますと、パウロは、「鏡のように」とは言っていますが、実際には「鏡」を使っていないんです。お分かりでしょうか。聖書をよく読みましょう。
違いがあるんです。

「鏡」を使う場合は、実体と虚像があるわけで、実体と偽りの像とは向かい合っています。ここでは、鏡はないんです。主の栄光、つまり、イエス様の人格と私の人格が向かい合っている。鏡はないんです。
ただ私の人格が、イエス様の栄光によって変貌させられて、栄光から栄光に、無限に私のほうの人格が変わっていって、そして、イエス様の姿と同じように変えられていく。それで、あたかも鏡に映っているかのように見える、と言っているんです。
お分かりですか。私の顔を見てもだめですよ。

私たちは聖霊の御業によって、自分の人格がイエス様の栄光によって、鏡に映るかのように、イエス様の姿に自分の人格が変貌していく、変えられていく、と書いてあるんです。気が付くと、ピタっと鏡に映っているかのごとくに変えられていくと、パウロは言ったんですね。
ですから第二コリント3章18節は、どちらも実体である事が言われています。
実体の人格的変貌のことが、言われているんです。
これは御霊の働きだ、って言ったんですね。
ですから私たちは、この地上生涯において、虚像の繁栄を求めるのではなくして、内なる人格が、聖霊の働きによって、イエス様と同じ姿に変えられていく、実体の変貌を求めなければならない。
パウロがすべてのクリスチャンに勧めていることは、このことであります。
イエス様が私たちに求めていることも、それなんです。パウロが言わんとすることがお分かりですか。

もう一度、コリントの第一の方に帰りますがね、パウロはこの後半の部分で「その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言っています。

私たちはイエス様を十分によく分かりません。しかし、イエス様は、私のことを全部知っているんです。生まれた時から、その性質、その願い、みんな知っているんです。
ですから、すべてイエス様にゆだねて信頼している人は、主にすべてを知られていますから安心します。そうでしょ、安心できるんですよ。
ところが、神様に全部知られたらまずいと思っている人もありますね。
大変困るという人もある。しかし、神様の前で何か一つでも隠すことができますか。
罪を犯したアダムとエバはどうですか。エデンの園の茂みの中に隠れました。しかし、それは隠れたことにならなかったではありませんか。神の御前ではすべて露わなんです。心のそこまで全部お見通しです。
私たちは素直になって、すべてを告白し、赦され、聖めの御業を受けたいものですね。
躊躇し、隠し持っているのは愚かだと思います。隠しおおせない方の前で、どうやって隠すんですか。そんなことに気を使っているなら、もう全部神に告白して、神の前にゆだねる方がさっぱりするではありませんか。
全てを主に任せます。お任せした方がいいと思いますね。そうすれば安心します。
神様は善なるお方です。決して悪いようにはしません。すべてみなさんにとって、最善なことをされるんです。

使徒ヨハネに、ポリカルポスという友人がいました。彼はこう言いました。
「私は80年間主に従って来ましたが、主は一度も私に悪をなさいませんでした。」
80年というと、ほとんど人生の全部でありますよ。
私も振り返りますと、23年間イエス様に従って来ましたが、イエス様は私に善以外のことをなさらなかった。私はずいぶんイエス様に悪を行いましたがね。ですから、いつでも、イエス様にすべてを任せることができたんです。

それだけではありませんよ。私たちが、主と同じ人格を持つようになるに従って、イエス様の御姿をだんだんと正確に、深く、完全に近い姿で、知ることができるようになる。
キリストの実体を理解する力は、聖霊によるものです。ですから、聖霊によって私たちの人格が変貌されるにしたがって、イエス様の御姿が完全な姿でわかるようになってくる。だんだんとですがね。
この完成は、キリストの再臨と栄化の時ですけれども、この地上生涯でもそれに向かって進んでいくことができるわけです。
パウロはそのことを教えたんですね。

キリストの愛は、私たちの内側に、この偉大な変貌を成し遂げていってくださるわけなんです。ですからみなさん、この世の御利益(ごりやく)宗教のように、たとえそれがイエス様から与えられる祝福であっても、影とか、虚像を求めないで、イエス様ご自身を求めましょう

クリスマスが近づいています。子供たちによく話しておいてください。ケーキを食べる時ではない。プレゼントをもらう時ではない。サンタクロースの誕生日でもない。トナカイの誕生日でもないという話をね。
本当は私たちは何を求める時ですか。イエス様を求める時なんですよ。
これが大事なんです。私たちにとって大事なことは、能力を持つようになるか、才能を持つようになるか、地位を持つようになるか、財産を持つようになるか、大きな教会堂を持つようになることか、そんなことは目的ではありません。
私たち一人ひとりの人格が、イエス様と鏡に映してもいいくらいになっていくことじゃないんですか。一言でいえば、私たちがイエス様と似た人格を持つことではないですか。
それが、クリスチャンがこの地上生活で歩んでいる最大の目的ですよ。
クリスチャンだけではありません。すべての人がそうですね。そのことをしてくださるのは、聖霊です。
御霊の働きだ、とパウロは教えました。
ですから、私たちはそれをしていただくには、自分の心の中にあるものすべてを神に
お任せしなければならないんです。全部信頼して任せなければならない。

みなさんは手術を受けたことがありますか。どこか怪我をしたり病気になられてね。
しかし、みなさんが手術をお受けなさる時に、相手の医者の素性を調べますか。どこで生まれて何をして、過去にどういうことがあったか全部調べて、「お願いします」と言ってハンコをつくんですか。ハンコをつく時に、「命が亡くなってもかまいません」、ということを言うんでしょ。そうじゃないんですか。万が一、命がなくなっても、医者にハンコをついて渡すではありませんか。恐ろしいでしょ。
ところが、イエス様に対してはどうなんですか。
「あなたは、わたしに全部任せませんか。」
「いいえ、あなたは危ない、どうするか分からない。」というんですか。
イエス様はこう言われますよ。
「この2000年間で、わたしが失敗したことをあげてみよ。」
「あげられませんけど、調べられませんよ。だって、あなた馬小屋で生まれたっていうじゃありませんか。素性が分からないではありませんか。」
マタイの福音書の1章を読んでごらんなさい。ずうっとイエス様の素性が書いてありますよ。
「でも聖書の約束はあてにならない。」
「じゃあ、またマタイの福音書を読んでごらん。これ成就した、あれ成就したって書いてあるじゃない。それでもまだ信じないのか。」
「やっぱり心配で・・・」
これがクリスチャンの姿ですよ。
キリストは悲しまれますね。

主を喜ばせるためにはどうしたらいいんでしょうか。私たちの心が、神によって変えられていくにはどうしたらいいんでしょうか。
お医者さんに全てをお任せします時のハンコと同じですよ。これからの生涯をイエス様に全てお任せしますと、ハンコをつくんですよ。
そうしなければ、私たちの心の中は変わらないんですよ。天の御国に行って、
「さあ、素晴らしい報酬を受け取りなさい」と言われる人にならないんです。
私たちの信仰は、ハンコを押すだけではなくて、毎日、聖書の言葉で磨きましょう。信仰によって磨きましょう。献身によってよく磨いていただきたい。
そうすれば、みなさんの心はいつでも、イエス様の御姿を鮮明に映しだすことが出来るんですよ。素晴らしいではありませんか。そのことをイエス様は約束されたんです。

天の御国に行くまでイエス様と、顔と顔を合わせる、ということはできませんが、それに近づいていくことはできるんですよ。せっかく近づいていくことができるのに、なぜ遠くから見え隠れしながらついて行くんですか。電柱の影とか、ビルの影とか。かくれんぼしているんじゃないんです。
どうか、願わくは、私たちはね、神様はこういう約束をして、求めて、期待して、私たちのために備えてくださったんですからね、この朝、「クリスマスが来るまで待ちましょう」じゃなくてね、「新年を迎えてから」じゃなくてね、手遅れにならないように、今日、神様にすべてを任せましょう。
「イエス様、あなたの御心のごとく」ってマリヤが言っているじゃないですか。「私は主のはしためです」って言いましたね。「はしため」というのは、あなたのしもべ、奴隷ということです。奴隷というのは、主人の言われた通りのことをやるんです。
「あなたのみことばどおり、この身になりますように」
本当にそうでしょ。神様にすべてを任せましょう。
この朝、何が起きても神様にお任せしましょう。そうしたら私たちは変わるんです。
どうか虚像ではなくイエス様を求めたいと思います。

お祈り

恵みの深い天の神様、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくと、パウロは約束してくれました。
これは御霊の働きだとも仰せになりました。ありがとうございます。
イエス様、この朝、心の中にあるものを一切あなたに差し出します。
御霊が働いてください。イエス様と同じ姿に変えられていくように。
努力しても、ここに到達できません。しかし、御霊が内側に働いて下さる時、この御業がなされて、私たちはこの地上生涯で、周囲にいる者に対して光を放つことができるように変えられていくように、顧(かえり)みてください。
変えられていくことを感謝します。
この時を感謝して、どうぞお一人ひとりの心の中になされますように。
この時を感謝して尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容、親切、ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


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