第一コリント13章「愛の章」第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」

上の写真は、イスラエルのいちじくの木。イエス様は、「その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。」と言われました。

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それでは今日も、聖書をご一緒にお読みさせていただきましょう。
コリント第一13章6節、非常に短いですから、ご一緒に読んでみましょう。
どうぞ。「不正を喜ばずに真理を喜びます。」
ひとことお祈りをささげましょう。

お祈り

恵み深い天の神様、こうしてあなたの恵みの中に10カ月お守りいただきまして、新しい月の第一の聖日を主の前に守らせていただき、感謝をいたします。
あなたは永遠のみことばを私たちにくださいました。
このみことばが、私たちのいのちとなり、生活を支え永遠を私たちに下さる。
私たちが毎日の生活の中で直面する様々な課題を支え、それを乗り越えさせ、勝利の一つ一つをお与えくださる力となるのは、あなたのみことばの真理であります。
これが、私たちの信仰により、また聖霊によって生き働かせていただく時に、私たちは弱い者でありますが強くせられ、内に神のいのちが満ち満ちて、あふれるほどの力を体験することができます。
イエス様、そういう経験をしている人が一人二人と起こされていることを感謝します。
しかし、願わくは、多くの者があなたを知り、みことばを通して神のいのちが満ちあふれる人に変わっていくことができるように、これがイエス様の深い願いでございます。
どうか今日も、このみことばの時を祝福してください。
私たちの魂の奥深くまで、あなたのいのちが満ちあふれることができるように、どうぞ
顧(かえり)みを与えてください。
この卑し愚かな者を助けて下さり、御霊によって用いて下さい。
この時を主の御手にゆだねます。尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。

はじめに

今日は「愛の特性」について5回目になりますが、「不正を喜ばずに真理を喜びます。」をご一緒に考えたいと思っております。

私は一つの野心を持って生きているところの人間です。
聖書は、野心を持ってはいけないようなことが書いてありますが、私は野心を持っています。それは何かといいますと、この日本にキリストの愛による革命を起こすこと、であります。リボリューションという言葉がありますけれども、キリストの愛の革命、そして世界を見ますと、確かに今は革命の時代なんです。

ご存じの通り、世界の多くの国々で革命が起きています。
かつての革命はどういう革命かというと、共産主義の、ファシズムの革命でありました。しかし今は、キリストの愛による革命が起きているということは、みなさんご存知でしょう。
ソ連においてもそうです。ペレストロイカはゴルバチョフ一人でやっているんじゃないんです。多くのクリスチャンたちがやっているわけです。
ルーマニアにおいてもポーランドにおいても、いろいろな革命が起きていますが、その根底にあるのはキリストの愛です。韓国においても中国においても同じであります。
ただ世界で革命が起きていない国が一つある。それは日本です。私たちの国だけ、キリストの愛の革命が起きていない。

なぜでしょうか。それは革命の愛の種が消えかかっているからなんです。
昔はよく炭火を使いましたね。タドンを使ったご家庭もあるかもしれません。寝る前に火鉢の炭火に、灰をかぶせてからお休みになる。朝起きると灰をどかして、種火があれば小さな消し炭を上に置いて、フーフー吹くではありませんか。そうすると、またカンカンと火が起きてくる。そして堅炭を置いて、やかんをかけてお湯を沸かす。
ちょうど私たちの国は、フーフーやらなきゃならない時代なわけです。私たちの国では、神の愛による革命がまだ起きていない。

アメリカでもこれが起きました。アメリカにたくさんいたヒッピーたち、彼らにキリストの愛の火が灯ったわけです。虚しく、麻薬に明け暮れていた若者たちの心に、キリストの愛の炎がついたんです。今、私たちの国にこれが必要なんです。私はこの野心を持っています。

消し炭を起こす時は大変なんです。吹き方が悪いと灰がバーッとそこら中に散ってしまう。しかし信仰と聖霊によってこれが行われる。
愛がなければ、どの人の心にも革命は起きません。どの家庭においても、革命は起きません。私たちの生涯、永遠においても、革命は起きません。しかし、神様の愛が私たちの心に灯ったならば、革命は起きるんです。愛の革命とは何か、なんて考える必要はないんです。革命が起きたならば、私たちの心に何が起きたかを知るんです。

聖書が示すキリスト教は、華やかで表面的なイベント的なキリスト教ではありません。今日本では、愛の革命がなにも起きていないんです。だから、イベント的なものがたくさんあります。世の中を見ても、愛の革命はなにも起きていないんです。だから、博覧会を次々とやらないといけないんじゃないですか。
人間はみな、飽き足らない生活をしているんです。本当に満足している生活をしていれば、イベントなんていらないんです。毎日の私たちの生活が満ち満ちていてごらんなさい。私たちはもはや、イベントなんかいらなくなるんです。
なぜ次々と、いろんなイベントをやらないといけないんでしょうか。私たちの心が虚しいからなんです。キリスト教もまた同じなんです。

聖書が言っているキリスト教は、イベントキリスト教ではない。聖書を見ると、私たちの極めてごく生活的なことである、ということが分かります。使徒の働きからずうっと読んでごらんなさい。非常に生活的ですよ、キリスト教は。
そしてこの愛の革命はどこで起きるのか。
それは後楽園のドームの中ではありませんよ。武道館の中でもありませんよ。
どこで起きるんですか。大きな集会所の中でリボリューションが起きるんですか。
違うんです。私たちの生活の中でなんですよ。みなさんの家庭で起きるんです。みなさんの職場で起きるんです。みなさんの生活のその場で起きるんです。
聖書はこれを言っているんです。

ですから、私はこのことを求めています。イベント的なキリスト教ではなくて、自分の日ごとの生活、日常生活の中で燃える火を持っていなければならない。
これを知ることが大事です。

これが起きるために、パウロは聖書を記しているわけですけれども、私たちは愛について考えていますが、愛がその革命を私たちに与えます。

さて、まずその前に、信仰というのは、霊的であり人格的なものですから、次の三つの点に注目しておかなければいけないと思うんです。
日本人は、教えると、知識を持てばそれですべてが分かった、と思うんです。それは学校が教える知識であって、本当の私のものではないんです。まだ血となり肉となりには、なっていないんです。
私は、子供たちやみなさんにお話するときに、覚えてもらって帰ってもらって満足はしません。心の中に、私たちの人格の中にあるものを、経験する必要があります。

まず第一に、大切なことは何かというと、はっきりとキリストを信じて救われていること。新生経験をしていることです。魂が生まれ変わるということですね。
神のいのちをもっているか、ということです、永遠のいのちをもっているか、ということです。

日本人には、こういう人が非常にたくさんいます。
「私は教会に行ったことがあります」という人、「子供のころ行っていました、」という人です。しかしこういう人たちは、自分の人格の中に神のいのちを持っているか、というと、持っていないんです。リボリューションが起きていない。革命が起きていないんです。
聖書のある知識を持っているかもしれません。しかし、いのちがないんです。
いのちを持っていなかったら、その人に革命は起きない。火だねがないんです。
みなさん、火鉢の中の火だねが全部消えてしまっているのに、フーフー吹いたら何が出てくるんですか。なあんにも、火はおきてこないでしょう。
少しでも火が残っていればおきて来る。

第二番目は何でしょうか。それは罪の根が聖められているかどうか、という点です。
罪の根が聖められていないと、その後の成長が非常に妨げられてしまうんです。火鉢の中にまだ火が残っていたとしましょう。しかしその上に消し炭を置かないで、大きな湿った薪を置いたとしましょう。フーフー吹いたらどうなりますか。ついに火も消えてしまうんです。
罪と敗北を何度も何度も繰り返している。多くのクリスチャンたちは成長しないで、同じことを何度も何度も繰り返しているんです。これは、罪の根が残っているからですね。
私たちが不満足な信仰生活を送っているのは、そこに問題があります。クリスチャンたちは勝利を得られないで、同じことを繰り返してしまうんです。罪の根が聖められているか、ということですね。この罪の根が聖められると、成長がすみやかであります。

第三番目は何か。霊的、人格的な成長は、必ず健全な成長を遂げる、ということです。
堅い食べ物を食べることができるようになっているか、ということです。聖書はそう言っているでしょ。コリントの手紙の中でもそう言われていますね。あなたがたはもう大人になり教師になっていなければならないのに、まだミルクを飲んでいるではありませんか。いまだ肉的なクリスチャンではありませんか。
私は今まで多くのクリスチャンを見てきました。「教会に行っています。もう、20年、30年行っています。」と言います。しかし、見るとまだミルク瓶をくわえているんです。髭もはえて。
なぜなんでしょうか。残念ながら健全な成長を遂げていないんです。これじゃ、愛の革命は起きないんですよ。
みなさん、堅い食物を食べることができるようになっているでしょうか。
私たちは今、「愛」について、みことばを聞いているわけですけれども、愛についてみなさんがなにがしかを知ったとして、「寛容とはこれです、親切とはこれです、忍耐とはこれです」と、これらをペーパーテストの上に書いて合格点を取ったとしましょう。しかし、それは、なんの役にも立たないんです。

イエス様はヨハネの福音書の15章9節でこう仰いました。
「わたしの愛の中にとどまりなさい。」
キリストの愛の中にとどまり続けることが、私たちが愛に満たされる秘訣です。
みなさんは、キリストの愛の中にとどまっている、という自覚を持っているでしょうか。そういう経験を、心の中に持っているでしょうか。

私は日本の教育は好きじゃないです。子供のころから覚えることばかりでしょ。
1+1は何? 2+2は何? 3+3は何?。考えなくてもすぐに答えが出てくる。
心に何も感じなくても、すぐに答えが出てくる。これは教育ではありませんよ。そんなことならコンピューターが働くんです。もっと早く働きますよ。オウム返しのように何度も何度も何度も、というのは教育ではありませんよ。

私たちの心の中に、愛であるとか、信頼であるとかを感じ取り、それを吸収することができるようにしていく。それが教育です。
「教育」ってどういうふうに書くんですか。「教え育てる」と書きますが、教えるばかりで「育てる」方がないんじゃないですか。「教え覚えさせる」ことが、教育だと思っているんじゃないですか。神様は、ちゃんと健全に育てるように、と教えましたよ。
聖書の中を見て御覧なさい。「いくつ覚えたら」とは言っていませんよ。

私たちは、この三点が健全であるかどうかを、これによって愛の革命が起きてくるかどうかが決まってくる。信仰は霊的で人格的なものですから、私たちが何か理屈を言えるようになったからといって成長したわけではありません。日本人は、このことを勘違いしているようですね。
理屈が言えるようになった。そして口論して相手を打ち負かすことができた。「ああ、私は成長した。」と思う。そうじゃない。
あるいは何かができるようになる。それも成長しているとは限らない。あるいは私たちが、なにがしかの財産を持つようになった。立派な人間になりました。こういうのでもありません。
救われているか、聖められているか、健全に成長しているか。
みなさん、この三つをも持ったら必ず幸せになるんです。
財産を持っても幸せになりませんよ。知識を頭の中にぶち込んでも幸せになりませんよ。
さあ、私たちはこの三つのことを心にしっかりとつかみたいんですね。そうすれば、必ず幸せになれるんです。
この方法は、一見すると遠回りに見えます。力がなさそうに見えるでしょう。
巨万の富をもって、権力をもって人々を動かし、あらゆる組織を動かす方が力があるように見えるんじゃないですか。最も近道のように見えるではありませんか。
しかし、そうじゃないんです。

真理は、もっとも遠回りに見えるのが、近道です。最も力がなさそうに見えるのが、本当の力なんです。
キリストの十字架は力強いですか。どうですか。サムソンの方が力強いんではないですか。彼は門を引き抜きましたよ。キリストとサムソンが腕比べをしたら、どちらが勝つと思いますか。サムソンが勝つでしょう。腕相撲をやったらどうです。四つに組ませたらどっちが強そうですか。
しかし、キリストの十字架の方が強いんです。遠回りで力がなさそうに見えるんです。
みなさん、私たちはすぐ焦るではありませんか。焦るのはそれが近道のようにみえるからでしょ。しかしそれは遠回りなんです。
このことを確信していただきたい。
真の愛の道は、遠回りで弱そうに見えます。しかしそれが最も近道であり、最も力強いんです。
キリストの愛にとどまり続けることです。
それは確実に実を結びます。確実に勝利を得させます。確実に幸福に導かれていくんです。
今日は13章6節から「愛は不正を喜ばずに真理を喜びます。」ということについて
お話しします。

1.ここでまず最初に、心に留めていただきたいんですが、不正や真理に対して、パウロは「喜ばず」とか「喜びます」という言葉を使っている、ということです。

みなさんが普通、喜んだり喜ばなかったりするのはどんな時ですか。
給料をもらったとき、喜びます。給料を落とした時、喜ばない。
私も万年筆を買ったばかりの時、セーターを着て胸にそれをさしてバスに乗っていました。気が付いたら万年筆がなかった。買ったばかりなのに、お小遣いをはたいてね。
バスの中は混んでいたんですね。きっと向こうの方のセーターにでも引っ掛かって、持っていかれちゃったんでしょうね。探すわけにもいきません。喜ばなかったですね。

パウロは、喜んだり喜ばなかったりするのに、不正や真理に対してこの言葉を使っているところに特徴があります。ふつう不正ならば、それを「排除する、取り除く」という言葉を使うでしょ。真理ならば、これを真理として「受け入れる」、と言うでしょ。
ところが、ここではもっと積極的な人格的な営みを表す「喜ぶ」ということばを使っているんです。

人間の最大の幸福は何なんでしょうか。物がたくさんあることですか。地位があることですか。
人間の営みで最も幸福なことは、「喜ぶ」ということです。今年はもう10カ月過ぎましたけれども、何か喜びましたか。じっとして座っていられないほど、喜びましたか。
今年12月31日が来る前に、「神様、もう座っていられないくらい喜ばしてください」、と。たまにはそういうお祈りもしてみましょう。
神様、こういう問題があるんですけど、何とか解決してください、ばかりではなくてね、もう座っていられないくらい私を喜ばしてください、ってね、そういうお祈りをしてみましょう。

財産があっても、喜ばない。健康があっても、喜ばない。失ってみて、初めて分かる健康、なんていう言葉があるらしいですけれどもね。
もし私たちに「喜び」がなかったら、幸福とは言えないのではないでしょうか。
みなさんは毎日、一生懸命に生活しておられますよね。しかし「喜び」はありましたか。
人間は「喜び」がないと幸福がない。何を持っていても幸福がない。だから、何とかして喜ぼう喜ぼうとしているんです。
しかし、「喜び」というのは作り出してできるものじゃないんです。

この朝、皆さん喜んでいますか。
神様の愛は、この「喜び」を与えてくださる。神の愛が私たちの心の中にあると、すべてを喜ぶことができる。何かを失っても喜ぶことができる。
人間というのは不思議なものですよ。自分が得することがあると喜ぶのは普通の人です。
しかし、損をして喜ぶこともある。みなさん、損をして喜ぶことはありますか。

願わくは、クリスチャンは自ら損をすることによって、喜ぶ者となっていただきたい。
ヘブル人への手紙を読んでごらんなさい。イエス様はご自分の目の前にある「喜び」のために、忍んで十字架におかかりになった、と書いてありますよ。
イエス様は十字架に架かる時、大いなる「喜び」を持っていた。
もちろん「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という叫びを発しなさいましたけれどもね。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と叫ばれましたけれども、イエス様は大いなる「喜び」をもって十字架にお架かりになったんです。
喜びは、私たちの、神様への信仰と交わり、によって与えられます。
クリスチャンはいつも喜んでいるんです。どうぞ祈っていただきたい。
もう私は椅子の上に座っていられないように、じっとしていられないように私を喜ばせてください、と。
私たちの幸福とは、喜んでいることですね。

2.次にこの言葉が、「喜ばない」という否定的な面と、「喜びます」という肯定的な面の二つの方面から成り立っている、ということを見ることができます。

ですから、このみことばから、愛の否定的な面と肯定的な面を、考えなければならないと思います。

Ⅰ.そこでまず、「愛は不正を喜ばない」という否定的な面を考えてみたいと思います。

1.ここでいう「不正」とはどういうもののことなんでしょうか。

A.クリスチャンに対して言われている「不正」ですからね、これは。

一般的には、不正入試とか不正取引とか不正融資とかで、「不正」という言葉が使われていますね。
最近は銀行が次々と挙げられていますね。昔は殿様稼業と言ったんだそうですけど、今は足軽稼業になっているかどうか知りませんけれどもね、話を聞くと銀行はどこでも不正をやっているんだ、という話ですけれどもね。
賄賂だとか、この世では、「不正」というのはこういうのに使われているんでしょう。
しかし、ここでは、そういう意味の不正ではないですよ。
特に、コリントのクリスチャンに対して言われていることですからね。
ここではもっと高度なことを言っているんだと、みなさんもお気づきだと思うんです。

これは、クリスチャンに敵対する者が、罪や失敗で苦しんでいる時にですよ、
例えば、みなさんに対していつも揚げ足を取ったり、意地悪したり、躓かせるようなことをする人がね、自分の目の前でひっくり返ったとしましょう。
みなさんだったらどうお思いになりますか。
「へへ、よかったあ」と思いませんか。
「私が仇を取らなくても、ちゃんと神様が取ってくれた」と、ニコニコって心の中で
思って、「ざまあみろ」という思いにならないでしょうか。
パウロが言っているのは、それなんですよ。それを「不正だ」と言っているんです。
厳しいでしょうか。
クリスチャンですからね、自分の手で復讐してはいけません、神様にお任せしなさい、と言われていますからね、自分ではやりたくてもやれませんよ。ですから、仕返しなんかはしないかもしれない。
ある時、敵対する人が、その人自身が掘った落とし穴に自ら落ち込んでいる様子を見たとします。それを遠くで見ていながら助けないで、見て見ぬふりして通りすぎちゃう。心の中では「ざまあ、みろ」と、えもいわれぬ快感を味わってね。
そうすることは、あり得るというんですよ。
パウロはそれを「不正」ですよ、って言ったんです。

神様の愛があれば、それは許されない。
神様の愛があれば、たとえその人が自分に躓きを与えた人でも、意地悪をした人でも、助けてあげよう、という気持ちになるはずだというんです。
神様の愛があなたがたの心の中にあるなら、そういう心を持つことができる。
たとえ敵でも、その人が本当に苦しみの中にあったら、慰めを与えることができる。
その人のために祈ってあげることができるでしょ。
敵のために祈りなさない、と聖書は書いてある。
聖書は正しく読んでいただきたいですよ。
イエス様は敵を愛せよ、とは言いましたが、好きになれと言ったんじゃないんですよ。
「よかったあ」と思う人がいるかもしれません。
みなさん、好きになれない人っているでしょ。イエス様は、好きになれなくても、愛しなさい、といいました。敵のために祈りなさい、と言いました。これは大事なことなんです。神の愛があるなら、相手が誰であろうと必ず救い出すでしょう。

中国とかソ連では、この数年の間に改革が起きていますが、これの発端になっているのは、クリスチャンたちが自分たちを迫害している共産党の幹部たちを救い出した、ということが始まりです。それがリバイバルの発端になっている。
東ドイツの首相なんかでもそうですね。
牧師の家庭の子どもなんか学校に行くと、メチャクチャにやられてしまう。だんだん学校に行かせられなくなってしまう。苦しい生活を虐げられているわけです。
そのことを通して、だんだんと国が変わっていったわけです。
みなさん、政治で国が変わったんではないんですよ。クリスチャン一人ひとりの神の愛から出てくるものによって、国が変わっていったんです。
クリスチャンの神の愛が、迫害し続けた共産党の幹部たちに触れた時に、彼らはキリストを信じるようになった。そこから改革が始まっていますね。

もし私たちの心の中に、自分に対して敵意を抱いている者、辛く当たっている者が困難に陥っているのを見る時に、私たちの心の中に何があるか、ということです。
ざまあみろ、という気持ちがあれば、それは不正だとパウロは言ったんです。
あなたは愛のない人だということを暴露した、ということを言っているわけですね。

この世では、相手が失敗したり苦しんでいたりすると、弱みに付け込むというのがありますね。しばしば宗教がそうだというではありませんか。
ですからね、私も苦しんでいる人のところになかなかいけないんです。
私が行くと、弱みにつけこんで来た、と思われるんですね。
自分の利益を上げるために、他人の失敗とか苦しみとか弱さに付け込むのは普通のやり方です。パウロは、それは不正だと言っているんです。
クリスチャンは悪に勝つことによって喜ぶんじゃなくて、善を行うことによって喜ぶんだと教えました。クリスチャンは、悪しき人が転んでいくことを喜ぶんじゃなくて、悪しき人が神に立ち返り、義なる人になっていくことを喜ぶ。喜ぶところが違う。
「あの人、もう地獄に行っちゃった方がいい、早く行きなさい、ああ、行っちゃった、良かった。」これじゃないっていうんです。

2.この世の最も悪い人々とは、どういう人達でしょうか。

それは、毎日家の中でゴロゴロして、自分のことを何一つしない自堕落な人。
これも困りますけれども、そういう人達ではありませんよ。
問題はそういう人ではない。酒場で働く人々を見てごらんなさい。ゴロゴロしていないでしょ。ちゃんと夕方になれば美しく装って、客からお金をどうやったら巻き上げられるか、全部知ってますよ。決して自分は大酒のみではありませんよ。酒を人には飲ませるけれども、自分が飲んでいたら商売にならない。
クリスチャンたちを長い間迫害していた共産主義者やファシストたちを見てごらんなさい。彼らは決して自堕落な生活はしていません。自分を厳しく克己して生きていますよ。窮乏にも耐えていますね。戦いのために訓練もしていますよ。秩序や規則を厳しく守っています。戦争の時のあの行軍を見てごらんなさい。行軍をだらだらやっていますか。彼らのあの克己、自制、忍耐、訓練は何のためにやっているんですか。
他の人々にわざわいを与え、破壊するためにやっているんじゃないでしょうか。

この世の最も悪い人々というのは自堕落で、ゴロゴロした人ではないんです。
みなさんは、相手の人が苦しんだらいいとか、わざわいにあった方がいいとか、わら人形に釘を打ち付けるとかという話もありますけれども、それは愛なんかではないんです。
もし、私たちの信仰による勝利が、滅びゆく人を嘲笑うためのものであったならば、自分を痛めつけた者を見返すための信仰であったならば、これはこの世の悪い人と言われている人とちっとも変わらない。
もし、クリスチャンである私たちが、この世の悪い人達が作り出した様々なものを受け継いでいくとするなら、それは大きな問題だと思うんですね。
クリスチャンは、自分から悪を作り出さないかもしれません。
けれども自分たちの生活のなかで、この世の人が作り出す悪に共鳴したり、悪に引き込まれてしまったり、悪を楽しんだりすることによって、不正を行っていく危険があります。
パウロはローマ人の手紙12章2節で、この世と調子を合わせてはいけません、と言いましたね。むしろ神の御心は何なのか。何が良い事で神に喜ばれることか。
完全であり、わきまえ知るために、心を一新して自分を変えなさい、と言っていますね。

B.キリストの福音を信じる人々が陥る一つの危険は何か。

それは、キリストの福音によって、他の人々を裁きやすいということです。

私たちはこうやって教会に来ています。愛とは何か、ということを知りますね。そうするとみなさんは、どういうふうに適用するんですか。
家に帰って、「あなた、それは愛ではありませんよ」、「あなた、あまり親切ではありませんよ」、「寛容ではないですよ」と、みな相手に当てはめてしまいます。
心の中に神の愛を持たない福音主義は、健全な教理を持ってはいますが、健全な愛を持っていない。
こうして教会に来ると、いろんな知識を持って、今まで分からなかったことが分かってくるでしょ。そして、一刀両断のもとに、バーンと相手を切り倒してしまう。
この危険に対してイエス様はこう教えた。
マタイの福音書7章1節~5節の初めのところに
「さばいてはいけません。さばかれないためです。」
と書いてあります。
神様から与えられた恵みと知識を、ご自分の成長と、他の人々に対しては建徳的なことのためにお使いいただきたい。
他の人を裁くために、批判して、痛めつけて、破壊するために使わないで頂きたい。
他人が苦しんでいるのを見て、快感を味わうために用いないで頂きたい。
それを、不正だと言ったんです。
これを解決するためには、神の愛を持っているほかはない、ということですね。

Ⅱ.次に肯定的な面「真理を喜びます」について学びましょうかね。

まず、真理とは何か。
私たちは、真理というとすぐに頭の中で哲学的なことを考えるでしょう。
あるいは辞書を調べる人があるかもしれない。
しかし、パウロが「真理」といった時は、聖書の中では何と言っているか、ということです。

1.まず、聖書の中で真理と聞いたら、まず思いだすことばがあるでしょ。
ヨハネの福音書14章6節です。イエス様は「わたしが真理です。」と言いました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちである。」と仰ったんです。
真理とは、悟りを開いたというような哲学的な思想ではないんです。
真理は、神であり人となってくださった私たちの救い主イエス・キリストだ、と仰いました。

私はこのみことばを読んだ時、すべてのことが解けた思いがしましたね。
確かに宇宙に存在するあらゆる知識を、すべて分かったわけではありませんが、宇宙の謎、人間にとって不可解なことのすべてが解けました
つまりマスター・キーを持ったということです。
真理はイエス・キリストご自身だったからです。
私たちはイエス・キリストというと、かつて地上に生きた一人の人物であるかのように思います。しかし、そうじゃないんです。
全てのことを解き明かすことができるマスター・キーなんです。彼は神なんです。彼は真理なんです。
イエス様は「わたしが真理だ」と仰いました。
ですから、キリストを見出さないで、様々な哲学、思想、科学を追求しても、真理を見出すことはできないんです。
真理は、キリストであるからですね。

2.次に聖書は、神のことばが真理であると言いました。

ヨハネの福音書17章17節を見ますと、その終わりのところで
「あなたのみことばは真理です。」
と仰いました。
このことばも、イエス様ご自身がお語りになったことばですから、間違いないんです。

日本人はキリストを知りません、誰であるかも分かりません。
自分と同じような人間の誰かであろう、ぐらいにしか思っていません。
しかし、キリストはそうではなかった。
このお方が語られたことばは、真理であります。
もし私たちが聖書をただの古典ぐらいに思っているならば、永遠に真理を見出すことはできません。
残念ながら、現代の多くのクリスチャンは、宗教改革の時代のクリスチャンほど神のことばに飢え渇いていません。
クリスチャンであるのに、聖書をもっと知りたいという気持ちを持っていません。
聖書を真剣に読んでもいないし、調べてもいないし、信じてもいません、従ってもいません。非常に乏しい。
みなさん、私たちが聖書を読むとき、宇宙に存在する唯一の真理に向かっているということを思わなければなりませんよ。
聖書を読むのに、面倒臭い一日の日課のうちの一つだから、早々と片付けてしまいたい、
なあんて、お皿を洗っているのとは違うんですよ。
聖書を読むときの取り組み方ですね。
イエス様の時代の聖書は旧約聖書だけでしたが、それでもイエス様は、聖書は真理である、と仰いました。

さらにイエス様は、聖書について様々に言及しておられます。
➀、「聖書はわたしについて証言している」と、言いました。
⓶、「わたしが語っていることばが、あなたがたを裁く」とも言いました。
③、「キリストのことばが、私たちの心の中に留まっているなら実を結ぶ」とも約束されました。

私たちが神のことばをおろそかにしたならば、おろそかにしていたその神のことばによって裁かれることになる、ということです。
私たちは自分が読んだ聖書のことば、信じた聖書のことばによって裁かれるのではなくて、信じなかった聖書のことばによって裁かれるんです。

みなさんが生きている限り、みなさんにとって真理は最も大事なものですよ。
真理は、私たちの命よりも財産よりも健康よりも大事なものです。真理は、他にないんです。もし、それをおろそかにしたら、自分はどうなるんでしょうか。破滅してしまう。滅んでしまうんです。
「あなたのみことばは真理です。」
このことばは、イエス様が私たちを、聖書に対する態度を変えさせようとすることばなんですね。
みなさんは聖書のことばを、あまり実用的ではないけれども、尊い教えだと思っているかも知れません。尊いことばだけど、役にたたない教えだ、と思っているんじゃないですか。
聖書のことばを、つまらないとは思わない、くだらないとも思わない。けれども、あんまり役に立たない、と思っているでしょ。思っていないですか。返事しにくいでしょうけれどもね。だから、あまり関心もなく読む気もなく、学ぶ気もなく、信じる気もなく、従う気もないんです。
しかし、聖書のことば以上に、人の心に力を与え、よみがえらせることばは他にないんです。今日は一つ一つ挙げませんけれども、あらゆる革命、あらゆる改革は、聖書のことばによって成っています。イエスのことば、神のことばによって、世界は成り立っているんです。
私たちクリスチャンが、もっと深く関心を持って聖書に取り組んでいったなら、偉大な力を発揮できると思うんですね。

3.第三番目に聖書は、聖霊が真理であると言いました。

第一ヨハネ5章6節で「御霊は真理だからです。」と言いました。
主イエス様は、何度も何度も、御霊を「真理の御霊」と呼ばれました。
真理の御霊は私たちといっそう深い関係にありますね。私たちが御霊から離れ、御霊を失った生活をするなら、ヨハネはこう言っていますよ。
第一ヨハネの1章6節で
「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。」

自分はクリスチャンだ、と言っていながら、心に闇を持ったままの生活をしているなら、その人は真理を行っていない、と言いました。心の中に光を失っていながら信仰生活を送ることはできない、ということですね。これは真理の御霊を失っているからです。

ヨハネの第一の1章8節でも同じです。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」と言いました。

真面目で律儀な人はこう言いますよ、自分の自己義を主張します。
「私は正しいから、キリストの血は必要ない、キリストは必要ないんだ」と言います。
その人は真理を持っていません。

ヨハネの第一の手紙の2章4節をごらんなさい。
「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。」

さあみなさん、このことばをご自分に当てはめて考えてください。
みなさんの内に真理はありますか。
みなさんは、神様を知っていると言うでしょう。
聖霊は私たちの内側にすんで、神のことばを行わせてくださるんです。この聖霊を宿さなければ、いくら頑張っても神のことばを守ることはできません。一度や二度はできるかもしれません。しかし、いつも神のことばに従う態度とか姿勢をとる人にはならないんです。聖霊を内に宿す以外に不可能なんですね。
神様のことばに従わないクリスチャンがたくさんいます。
ヨハネはこう言ったんです。その人の内側に真理はない、聖霊はおられない、と言いました。聖霊がおられないから、行えないんです。聖霊がクリスチャンの内側に宿ってくだされば、必ず、みんな、みことばを行う姿勢ができてきます。

ヨハネは第一ヨハネの手紙の2章5節で、
「2:5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
2:6 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」

みことばを守ることと、神の愛が全うされていることは、直結されています。直接結びついていますよ。
またヨハネは言いました。2章6節で
「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」

「キリストが歩まれたように、歩むようになる」と言いました。
そしてそれが8節で、「真理なんだ」と言ったんです。

聖霊は、真理であるキリストを私たちの内側に宿してくださり、私たちの生活そのものから真理があふれでるようにしてくださる。
真理とはどこかに飾って置いておくものでもないし、掛け軸に掛けて引っかけておくものでもないんですよ。真理とは、私たちの心の中に宿し、それを実用的なもの、毎日生活の中で使うものなんです。それが真理なんです。キリストの真の光が私たちの内側で輝くようになる、それが真理の御霊の働きなんです。
真理とは、「哲学者や思想家がやっていればいい事なんだ」、そうではないんです。
キリストが私たちの内側に宿ってくださる。それが真理なんです。

さてパウロは、「愛はその真理を喜ぶ」といいました。
愛はこの真理に対して、積極的に受け入れてそれを喜びあふれさせてくださる。
真理が大切ではない、という人はいないんです。しかし、真理を喜ばない人はたくさんいます。
聖書はつまらないものだ、という人はほとんどいない。
しかし、聖書の道を歩もうとする人は少ない。なぜですか。
真理の光によって自分の罪が照らされるのを、イヤがるからなんです。
こういうクリスチャンのグループはたくさんいます。片隅の日陰の方を喜ぶんです。

私はいろんな教会に行ってみます。そうすると前の席の三列ぐらいが、がら空きなんです。後ろから半分向こう側に席を取りますね。
真理を愛しないんですね。何も私は咬みつきはしないんです。
私は前の方に来る人を愛します。後ろの方の人を、愛さないということではありませんけれども。

ペテロは、イエス様から遠く離れて歩いて行ったでしょ。
真理から遠く離れたんで、たちまち誘惑にあって落ちていってしまいましたね。
心の中に神の愛を宿さないと、私たちは真理を喜べなくなってしまう。

ネヘミヤはこう言いました。「主を喜ぶことはあなたがたの力である。」
パウロもコリント第二13章8節でこう言いました。
「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」

クリスチャンの力は、どこにあるんですか。真理を喜ぶことです。
みなさんは、キリストを喜んでいますか。そうすれば、力がありますよ。
みなさんは、真理のことばである神のことばを喜んでいますか。そうすれば力があるんです。

聖書を睡眠薬代わりにしてはいけませんよ。聖書は、私たちに喜びを与えるんです。
真理である聖霊を喜んでいるでしょうか。心から喜んで私たちが従ってごらんなさい。
力強い人になっていきます。真理は、私たちに力を与えてくれる、喜びを与えてくれる。
クリスチャンは、お互いが真理によってお互いが結び合わされているんです。
みなさんは、教会はいろんなところに所属しているかもしれません。
しかし真理は一つなんです。

ちょっとこのことを考えて頂きましょう。
世界には大きなパンが一つあるんです。世界中のネズミがよって来て、そのパンを食べている。これがクリスチャンの姿です。みなさんをネズミにして具合が悪いかもしれませんがね、大きなパンがあるんです、世界に一つ。
それを世界のクリスチャンがよって来て食べるんです。
ところが、このパンは不思議です。いくら食べても減らない、無くならない。
真理とはこれなんですよ。偉大な力があるでしょう。
私たちクリスチャンは、教会が生まれてくる歴史のいろんなところで、少しづつ教理的な強調点は違っているかもしれません。しかし、真理はそうたくさんあるわけではありません。私たちはできるだけ聖書そのものを素直に信じて生きたい。
聖書によって、真理と確信的なものだけお話したいと思うんです。
私たちは、いつでも真理に対して無関心ではいられない。
真理を無視するなら、必ず滅んでいくからです。

もし皆さんが、私は空気を吸いたくない、と言ったら自分が滅びるでしょ。プロパンガスの方がいい、そう言ったら、滅びるんじゃないですか。同じように、聖霊が私たちに教えてくださることを拒んだら、自分を滅ぼすことになるんです。
走っている電車がこう言ったとしましょう。「この線路は窮屈だからイヤだ」と言って、砂利にそれて行ったら何が起こるんでしょうか。多くの人達はそうしているんです。

神様の愛を知っている人は、真理が勝利を得ていく、ということを知っています。
そして安心して喜ぶんです。一人二人と、真理の道を歩むようになる。これは喜びですね。ヨハネはこう言っていますよ。
ヨハネの第二の手紙1章4節、
「あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」

ヨハネの第三の手紙を読んでも同じですよ。
「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。」
ヨハネはこう言ったんです。

金持ちになったから喜んでいます、そうじゃありません。学校の成績で「5」が増えて喜んでいます、そうじゃありません。会社で役職につけたから喜んでいます、そうじゃありません。
私たちは、真理を求めなくてはなりません。偏見なく純粋な動機で、しかもどんな代価を払っても真理を求めるなら、私たちは必ず喜びに到達する。
どうぞみなさん、真理を求めていただきたい。真理を喜んでいただきたい。それが私たちを生かすんです。真理を失ったら滅びるんです。真理は私たちの死活問題ですよ。
私たちにとって、これ以外のもので何とか幸せになろうといくら努力をしても、無駄なんです。

さあ、イエス様とみことばと聖霊を受け入れる時、私たちの内なる人は強くされますね。
私はこれまで、死の間際にある何人かの人に、真理であるキリストを見出していただきました。これは死の間際にいる人だけではありませんよ。私たちにとって真理を発見できたか、手に入れたかどうかということは、すべての生涯を意味するんです。

もしみなさんがこの神の愛を無駄にして、真理を喜ばない人になっていったら、すでにもう死んで滅びているのと同じです。生きている意味を失ってしまう。私たちの生涯において、発見しなければならないもの、手に入れなければならないものはそう多くありません。それは一つだけです。真理です。
それはどこにあるんですか。聖書にちゃんと記されている。この真理を是非あなたのものにしていただきたい。
しかもそれを知識だけではなくて、人格的に、霊的な経験として、自分のものにしていただきたい。
真理は、私の内側にあるんです。その真理は、私の生涯に輝きを放つんです。それをパウロは「喜ぶことだ」と言ったんです。
みなさんは、力ある人になります。そして最高の人生を歩んでいく人になっていくんです。愛はそれをさせてくださる。

パウロはこう教えました。それを経験していたんですね。
「不正を喜ばずに、真理を喜びます」
どうか願わくは、私たちが、神の愛によって、この真理を喜ぶ経験をさせていただきたいと思います。

お祈り

「愛は真理を喜びます。」
恵みの深い天の神さま、私たちはこの日常生活を送っていると、たくさん必要なものがあるように思います。
あれもこれも大変なことが山積みされているように思います。
それを思うと気が遠くなってしまいます。
しかし聖書を読むと、なくてならないものは一つ、真理を喜ぶことだと教えてくださいました。
そして神の愛が、その真理が、私たちを喜ばせてくださると、この約束を感謝いたします。どうぞこのことばを覚えるだけでなくて、心に経験させてください。
真理は神であり、キリストであり、みことばであり、御霊であると聖書は教えてくださいました。これを内に宿すことができますように。そうする時に、いのちがあり、力があり、真に幸せに満ちた、喜びに満ちた日ごとの生活へと導かれていくことを感謝いたします。どうぞ、このことを体験させてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容、親切、ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


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