第一コリント13章「愛の章」第2回 「愛がないなら」

ギリシャにある古代コリントの遺跡(Wikimedia commons より)
都市国家コリントは、BC146年にローマに征服されて町は廃墟となった。しかし、ローマ皇帝ジュリアス・シーザーは、BC44年から、コリントをローマの植民都市として再建し、パウロが訪れた紀元50年頃には、多くのローマ人、ギリシャ人、ユダヤ人が住む、この地方の有数の大都市となっていた。

(後半は音が割れていますが、スマートフォンの方はイヤホンで聞くと少しきれいに聞けます。)

コリント人への手紙第一 13:1-3

”13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。”

<お祈り>

恵みの深い天の神様、「愛がないなら何の値打ちもない」と仰いました。
イエス様の大いなる神の恵みを、もし私たちが学んで知っていたとしても、私たちの心の中に、神の愛を実際に持っていなかったら、そういう性質の人間になっていなかったら、どんなに努力をしても、私たちのやっていることは何の役にも立たないと、仰いました。もしそうだとしたら、私たちの生きてきたほとんどのものは、実に役に立たないことであります。
「愛」の動機を持って生きる、それだけが役に立つことだと、聖書は教えています。
願わくは、知った知識でものを言うのではなく、知った知識で生きるのではなくて、
神様、あなたを信じて、心の中に神の与えてくださる神の愛を性質として、生きさせてください。その時だけ、私たちは意味のある生き方をし、意味のある生涯であります。
全ては塵(ちり)あくたのごとくである。私たちが大事そうにしているそのすべてが、実は意味のない、益のない、役に立たないものだと、パウロは教えました。実にその通りであります。愛がなかったら、家庭であっても、個人であっても、友人であっても、一切が塵(ちり)あくたのように吹き飛んでしまいます。
主よ、どうぞ、もう一度あなたの愛に満たされるように、新たに私たちの魂を造り変えてください。これしか、私たちはこの地上にあって、真の幸いというものはありません。このことを体験させてください。このことが、私たちが生きている証であり、生きている間につかまなければならない最大の宝であるということを、どうぞ私たちが深く悟って、信仰の道を歩ませてください。これさえ持っていれば、他の一切を持たなかったにしても、私たちはすべてを得たことになります。
どうぞこのことを体験させて下さいますように。
教会に来て話を聞いて、そのなにがしかの知識を持って満足するんじゃなくして、あなたの愛を私たちに満たして、進ませてくださいますように。これこそ神を礼拝することであります。
願わくは今日も御霊が働いてください。
みことばをもって私たちに深い悟りを与え、この道を歩む力と恵みとを増し加えて、新しい人に変えてくださいますように。
この時を主の御手におゆだねします。卑し愚かな者を助け、あなたのみことばを聖霊が語らせてくださいますように。尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。

はじめに

先週、私たちは、「愛が最高のものである」と学びました。
「愛」というのは私たちの性質でありますから、一生懸命に愛しようとか、努力をして愛するとか、そういうことはできないわけです。「愛」というのは、努力なんかしないものです。「愛」は心の中にあれば、自然とそうなるものなんです。

ユリの花が一生懸命に努力して、ユリの花になっているんでしょうか。
バラの花が一生懸命に努力して、バラの花になっているんでしょうか。
そんな努力なんかしていないんです。お聞きしてごらんなさい。
「ユリさん、あなたはどうしてバラにならないで、ユリになるような努力をしたんです
か?」
「バラさん、あなたはどうしてユリにならないで、バラになるような努力をしたんですか?」って聞いてごらんなさい。
「いやあ、私は努力なんてしていない。神様がそういう性質を与えてくださったんです。」と言うでしょう。

ところがみなさんは、どうですか?
「愛さなければならない。こうしなければならない、こんな努力をしよう、もっとましな人間になろう。」と努力しているんじゃないですか。それで疲れ果てているんでしょ。

「愛」はそういうものではない。神様から「愛」をいただくことです。そうすれば自然に、ユリの花はユリの花の香り、バラの花はバラの花の香りを漂わせるのと同じように、私たちの口の言葉、私たちの生活すべてがそのように変わるんです。
「性質」です。そうでしょ。みなさんがユリの花にバラの香りのする香水をかけたって、所詮は一時的なことでしょ。

私たちは、「神様の最高のもの」を持つ。そうすれば、家庭の中でも職場の中でも、その香りは自然に出てくるんです。
少しは親切にしなければ、少しは可愛がってあげなければ。こんなことはいつまでもできるわけではない。
自然にできる状態で、できなければならないんです。
神様は最高のものを用意してくださいました。しかし、私たちはそれを自分のものにしなければならない。そうすればみなさんの家庭生活でも、職場でも、個人的な生活でも、最高の愛を現わすことができるんです。

多くのクリスチャンは、一生懸命に努力をしています。あるいは教会に行って、聖書の話を聞くことが礼拝だと思っています。だから、努力はやがて止んでしまう。集会が終わると、すぐに聞いたことを忘れます。そして再び、聞いた神の言葉とは全然違う関係のない生活を送ってしまう。これは努力をしているんです。
霊とまことを持って礼拝するということは、そういうことではない。花でいうなら、根を下ろし、そして、神様が与えてくださるその力を、どんどん吸い上げていって、実を結んでくることですよ。

イエス様はこう仰られました。「木は、その実によって知られる」
リンゴは、リンゴの木にしかならない。悪しき実は、悪しき木にしかならない。良い実は、良い木にしかならないんです。
私たちが、悪しき木を良い木にするなんて無理なんです。木の性質が変わる必要がありますね。

どうすれば性質が変わるんですか? 努力をしてですか? 努力をしても変わりませんよ。それは、神様から最高の愛を頂くことです。信仰によってでしか変わらない。努力することをやめましょう。一生懸命努力して、どんなに立派な性質になった人がいるんでしょうか。

確かにどんな話を聞いたかによって、私たちの人格は大きな影響を受けます。しかし、問題は、私たちがそこから何を受けるか、そして、個人個人の生活でどのように生かすか、ということです。これが決定的なことです。神様が、私たちの心の中に蒔かれた最高の愛の種を、これを、しっかりと持っていなくてはなりません。
神様が下さる時は、いつも種なんです。聖書の中にも種の話が何回も出てくるんです。「種を蒔けば、種を蒔けば」と出てきます。ところが、私たちの期待するものは何ですか。イエス様を信じたら、種じゃなくて、大きく実ったスイカとか、大きく実ったカボチャを期待するんじゃないですか?
神様は、最高の愛の種をくださいました。それが芽を出し、実らせていくんでしょ。種はいのちを持っていますから、しばらくすると花が開き、香りがしてくるようになり、やがて実を実らせます。ですから、その種をじっと埋めておかなければなりません。
花に虫がついたら取ってやらなきゃいけませんし、実ができたら、袋をかけたりするでしょ。

神様は私たちの心の中に最高の種をくださいました。しかし、皆さんは聞きっぱなしではありませんか。聞きっぱなしはダメですよ。愛の種を放置しておいたら、どうなりますか。聖書はこう言っています。鳥が飛んで来て食べてしまう。
同じような言葉があったではありませんか。「権兵衛が種まきゃ、カラスがほじくる」、ってね。
みなさんがお帰りになるころには、周りに飛んでいるカラスがほじくりにやってくる。
取られないようにしなくちゃいけない。クリスチャンは聞きっぱなしにしてはいけないんです。一週間そのまま放置して烏に食べられない人はいないんですよ。

ずいぶん前ですけれども、米屋さんに行きました。米屋ですから、周りに米粒が落ちているでしょ。スズメが来てね、コンクリートに落ちている米粒を拾うんですよ。スズメは、よく知っているんですよねえ。米粒がコンクリートの間に挟まっても、みんなつついて食べてしまうんです、と米屋さんが言うんです。

まして、神のことばが私たちの心の中にまかれようとすると、教会の屋根の上にいる何十羽というカラスが、あの人は隙がある、と言われてみんな食べてしまうんです。だから、気を付けなくてはいけない。
神様に心を開くのはいいですけれども、一週間もカラスに心を開きっぱなしにしたら、
愛はみんな食べられてしまうんです。さあ、私たちはしっかりと持っていなければなりませんよ。

イエス様はこう仰いました。「わたしの愛にとどまるなら。」と仰いました。
「とどまる」とはどういうことですか?
「とどまる」というのは、注意深くそこに居続けることを言うんです。心の中に埋められた種を、温めることですね。

鶏が卵をかえす時ご存じですか。卵の上にすわっているでしょ。温めているでしょ。雄鶏と雌鶏が二交代でやっているかどうか知りませんが、やがてヒヨコが生まれてくる。
私たちもそうなんですよ。神様から愛の種を頂いたら、花を咲かせて実をならせるまで、温めなくてはいけませんよ。冷蔵庫にラップして入れておいてはいけないんです。まして、冷凍室はダメですよ。温めなくてはいけない。

クリスチャンはこの大事なことをそっちのけにしやすいんです。
家庭が幸福になるよう願うでしょ。人間関係が良くなるように願うでしょ。教会が成長するように願うでしょ。しかし大事なことは何ですか。
やるべきことをやらないでいるのは、これ、熱狂主義と言います。
どこの農夫が畑に種をまかないで、畑の手入れをしないで、多くの収穫を期待できますか。

愛は確かに多くの実を結ぶんです。イエス様は約束されました。
「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。」そして、多くの実を結ぶ。

しかしみなさん、「互いに愛し合う」というのは、それほど簡単なことではありませんよ。言うのは易い。
皆さんの家庭ではどうですか。
「兄弟は愛するものだよ。聖書に書いてあるんだから」といくら教えたって、一年に360回ケンカしているかもしれないでしょう。
みなさん先週、互いに愛し合いましたか?
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」とイエス様は仰いました。
しかし、私たちは、一生懸命に努力しても、互いに愛し合えないんですよ。自分の力では、とてもできないことなんです。だから神様は私たちに、「わたしの愛の中にとどまっていなさい。そうすればそれができます」と言ったんです。
神の愛にとどまるなら、愛は、みなさんのほとんどすべての願いをかなえてくれます。
愛が実現させてくれるんです。

それには一つだけ条件がある。
それは何かと言うと、みなさんの心の中に蒔かれた愛の種を、自分の個人的な生活の中で生かすことです。これをちゃんと守ることです。
これなしに、みなさんがどんなに熱心に祈り求めても、与えられません。実りません。

私たちは、「愛」こそ最高のものだと知りました。
これ以上のものは何もないんです。「愛」が、私たちのすべての願いをかなえてくれるんです。

みなさんは今、どんな願いを持っていますか。
もし皆さんが、本当にその願いをかなえたいと思っているなら、
「神の愛、アガペーの愛、自己犠牲の愛」を自分の内側に、
月曜日から土曜日まで、日曜日も含めて、生活の中で生かしてください。
そうすれば必ず実現します。

「そんなこというけど先生・・・」って思っているんでしょうけど、みなさんやって御覧なさい。一週間やって御覧なさい。変わらないはずがないんです。
一週間、火を燃やし続けたら、どのくらい燃えるでしょうか。
山林に火がついて一週間燃えたらどのくらい燃えるんでしょうか。
もし私たちの心に、愛の火が一週間燃え続けたら何が起きるでしょうか。
大方の人々はやってみていないんです。

さて今日は、13章1節~3節に入ってまいりましょう。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

パウロはここで、神の愛の卓越性を三回強調しています。
彼は三回も「愛がないなら」、「愛がなければ」と、言っています。
後の方では「愛」とはこうだと、特徴を話していますが、最初のところでは、「愛がもしなかったら」どうなるだろうということを語っているわけです。

パウロはここで、「愛」と、7つのものと比較しました。それらの7つのものは、愛がなければ、何の役にも、何の益にもならない、むなしいものだと言いました。
パウロは、愛の神学を語っているのではありません。彼の経験を証しているのです。

私は、クリスチャンは本当にこのように思っているんだろうかと、これらの7つのものより、愛が素晴らしいと本当に思っているんだろうかと、疑問に思います。

みなさん、ここで挙げられている七つのものは、どれも素晴らしものですよ。
しかし私たちは、本当に「愛」の方がこれらのものより素晴らしい、と思っているんでしょうか。
「愛」よりも、雄弁の方が力があると思いませんか。
「愛」よりも、素晴らしい説教をする能力の方が素晴らしいと思いませんか。
黙って「愛」の行いをしているよりも、雄弁な説教者の方が素晴らしいと思いませんか。
「愛」よりも、どんな困難にも耐えていく信仰の方が素晴らしいと思いませんか。
「愛」よりも、あらゆる奥義と知識の方が素晴らしいと思いませんか。
神様を礼拝するよりも、受験に合格する方が大切だと思っている人は少なくありませんが、そっちの方が、もっと素晴らしいと思いませんか。
「愛」よりも、どんな人でも助けることができる財産を持っている方が素晴らしいと思いませんか。

みなさん、どうですか?

今、日本は、世界でも大金持ちになったという話です。しかし、世界中は飢饉の中にあるんです。そういう人を十分に助けることができる富が日本に集まっている、と言われています。しかし、実際に日本がやっていることは、僅かな食糧と医薬品と人間を送っているだけです。うっかりすると古い毛布で済ましている、ということもある。
それは本当の愛なんかじゃないんです。自己犠牲的な愛ではない。

ここに記されている素晴らしい七つの賜物は、みんな魅力的なものです。
あとで、一つひとつお話しますが、もし、私がもっと雄弁ならば、もっと多くの人を教会に集めることができたかもしれません。
もし、私に山を動かすほどの信仰があったら、あるいは、あらゆる奥義を語る力があったら、もっと有名になったかもしれません。
もし、私が他人にまき散らすほどの富を持っていたら、宮殿のような教会堂を建てて、この世の人たちをアッと言わせることだってできたかもしれませんよ。

しかし、8節をごらんなさい。1~3節で多くの人々が、魅力的だ素晴らしいと思って求めているものが、13章の8節ではパウロはこう言いいましたね。
「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」

どんなに素晴らしい雄弁も、預言の賜物もやがて衰えていく。異言はやがて止み知識はやがて消え去ってしまう。
英語で、”Vanish away”は「消え去る」という意味ですが、霧だとか雲だとかが立ち込めている時, 大変な車の渋滞が起きて黄色いランプをつけて警笛をならすでしょ。
しかし、太陽が照って風が吹いたら、あっという間に消えてしまうではありませんか。
こういう現象を”Vanish away”といいます。
この世で礼賛されている、確かだと思われている知識や力、一切のものが真理の日の出とともに霧散されてしまう。霧のように散ってしまうんです。
クリスチャンはね、このようなことを話されていても、尚もまだ、
「愛」よりも、雄弁を求めるんです。
「愛」よりも、力を求めるんです。
「愛」よりも、富を求めるんです。

なぜなのか。
それは「愛」の本当の価値を知らないからです。
私は一つのことだけを知っています。
それは、「人間は、本当にそのものの価値を知るまでは、死にもの狂いで真剣に求め始めない」、ということです。

大抵のクリスチャンは、愛についてお話すると「いいお話だ」と思います。
「つまらないなあ」と思う人はいないでしょう。ああ今日はいいお話を聞いたと思うに違いない。
しかし、自分で実際に真剣に求めようとはしない。なぜですか。
愛の真価を知らないからです。ほとんどの人が愛の力を知らないんです。
愛が、雄弁以上の雄弁であることを知らないんです。
愛が、富以上の富であることを知らないんです。

みなさん、愛は貯金通帳に入れることはできませんよ。だけど、富以上の富があるんです。
お金があっても飢え死にする人はいるんです。しかし、愛があって飢え死にする人はいないんです。行きづまる人もいないんです。
愛の真価を本当に知った人は、命を投げ出しても愛を求め始めるんです。
愛の真価を知るということは、もはや理論ではなくして、体験するほかはないんです。
自分でやってみる他に方法がない。

私たちは、神様がご自分の命を捨ててまでこの自分を愛してくださった、ということを体験するまで、愛以外のものを求め続けます。
しかし、必ず行き詰ります。パウロはそれを教えています。

Ⅰ.そこでまず1節をごらんいただきます。

「13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」 

パウロはまず、コリントの教会で一番問題になっていた異言の賜物と愛を比較しています。

12章28節では、異言は一番最後の部分で取り上げられていました。
「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」

ところが、ここでは、一番最初に取り上げています。それは、異言が重要だったからではなくて、教会の中で混乱をもたらしていた最大の問題だったからです。

1.パウロがここで「人の異言」といったのは、今日のカリスマ的な人が言うような奇声を発する異言のことではありません。

ここでは、人間が使っているいろいろな言葉、という意味です。
今、この地上では少数民族も含めて3000から3500の言語が話されていると言われています。そのうち聖書は約3000の言葉に翻訳されていると言われています。
いろいろな人々がいろいろな言葉を使っている。
ここでパウロが言っているのは、「そういう言葉を全部話すことができても」という意味です。

2.続けてパウロは「御使いの異言」という言葉を使っています。

パウロは、御使いも特定の言葉を使っていると考えたのです。
コリント第二の12章4節を読んでみましょう。
「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」

これはおそらく、パウロが、ルステラで石打ちの迫害にあった時の経験を言っているんだろうと思うんです。この時パウロは一度死を経験したようです。けれども再び生き返らされて、伝道したわけですね。これは使徒の働き14章に記されています。
その時、彼自身がパラダイスで聞いた特別な言葉、天の御国で使う言葉を言っているんだろうと思うんです。パウロが「御使いの異言」といったのは、この言葉を意味していると思うんです。正確には、彼は注釈していませんから分かりませんが、おそらくそうであろうと思います。

つまり、パウロは天上で話されていた言葉があることを示しています。
使徒の働き2章の時のように、外国の言葉を話すことができるのは素晴らしい事でしょう。あるいはまた、人がまだ一度も聞いたことがない天上の言葉で話すことができたら、もっと素晴らしいかもしれません。
しかし、たとえそうであっても、たといあなたにそのような優れた能力が与えられていたとしても、「愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」
とパウロは言ったのです。

3.ここでもう一つ、注目しておきたいことがあります。

パウロがここで取り出している「どら」や「シンバル」は、ただの音楽的な楽器をさしているんじゃないんです。
これは異教の祭りにおいて、礼拝する者たちが使った物なんですね。
今日でも、鐘、太鼓、シンバル、どら、木魚とかね、日本の異教の祭りでも打ち鳴らすではありませんか。人々は、みこしをかついで、ワッショイ、ワッショイと叫ぶでしょ。
これは、興奮状態にするためでしょ。人々は恍惚状態になろうとするんでしょ。なかなかなれないから、その前に焼酎とかをあおって、そのうち何をやっているか分からなくなって、喧嘩したリして、お巡りさんが飛んで来て仲裁するとかになっちゃう。

コリントの人々は、パウロが「やかましいどらや、うるさいシンバル」と言った時に、彼らはすぐに異教の祭りを思い浮かべることができたんです。音楽的な楽器のことを言ったんじゃないんです。
パウロが、なぜここで異教の祭りで使われる「どら」や「シンバル」を引き合いに出したかというと、それには理由があるんです。
それは、コリントのクリスチャンたちが、聖霊に満たされたしるしとして強調していた「異言」について問題があったからです。これは聖書が言っているような、また、パウロが言っているような意味での異言ではなかった。それは、感情的な狂乱状態で発せられる声のことだったんです。
ペンテコステの時に聖霊の賜物が下った、あの時の経験とは全く違うんです。
それは、コリントの異教的な風習、借り物だったからです。
日本でいえば、みこしをかついで「ワッショイ、ワッショイ」とやっている、熱狂的な雰囲気だったんです。それを、聖霊に満たされたしるしである、と言ったんです。
彼らは真の聖霊の賜物ではなくて、異教の真似をすることによって、真理を曲げて教会の中に混乱を引き起こしていたんです。
ですから、パウロは、「あなたがたがやっていることは、あのやかましいどらやうるさいシンバルと同じじゃありませんか」と言ったんです。

パウロは14章 23節で、こういう混乱状態になって叫びまわっているクリスチャンたちの姿を見て、未信者の人が見たらどう思うか、ということを言っています。
「ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。」

騒ぎを起こしていたコリントの異言の問題を、パウロは一喝してしまったんです。
それは、霊的なものではない、人格的なものではないじゃないか、異教から借りて来たものじゃないか。
聖書が言っている、聖霊の賜物の結果ではない、と言った。
だから、聖書にある「愛」を求めるように勧めているんです。
ですから私たちが、たとえ雄弁に話をすることができたとしても、「ワッショイ、ワッショイ」したとしても、愛がなければ真実を曲げてしまう、説得力を失ってしまう。

「愛」、それは、言葉にいのちを与えるものです。
「愛」、それは、力あるものなんです。
パウロはそのことを教えたかったんですね。

Ⅱ.2節を見てみましょう。

「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」

A.次にパウロは、預言と知識と信仰の三つを、「愛」と比べています。

パウロは12章28節で、預言を使徒の次においていますから、預言の大切さを無視したわけではないと思います。
コリント第一12:28 「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」

けれども、神様の愛を欠いている預言は、無用であるより以上にさらに悪いと言っているんです。神の愛が欠けている説教というのは、どんなに雄弁であっても、神の愛を妨げてしまうんです。説教が上手か下手かより先に、神の愛を持っているか、どうかなんです。
この世の中は上手か下手かが基準でしょうけれども、説教は上手か下手かではなくて、神の愛があるかどうかです。
説教が、穏やかか厳しいかというのは問題ではない。どちらであっても、神の愛がなければ悪い、ということです。悪である、と言ったんです。
神を思わず、人のことを思い、自分の利益を完全に守ろうとして会衆に媚びへつらう説教は、みな悪だとパウロは言ったんです。
律法的で、裁きがあり、人を攻撃する説教でしかない。
説教は上手下手ではなくて、神の愛が必要なんです。彼はそれを語ったんです。

B.次に奥義と知識に通じることです。

1.奥義とは、神の啓示によって人に示された真理です。

神様が私たちに示してくださった真理を、奥義といいますね。
それを私たちが信仰を持って受け止める時、悟ることができる。私たちはこの真理、奥義を、キリストの十字架の愛を持って受け止める時だけ、有効に用いることができる。

中世において、教会が神様の愛から離れてしまって、冷たい形式主義に陥ってしまった時がありました。儀式を行うだけになってしまった時に、教会の人々は魂に渇きを覚えたんです。
そして、彼らは聖書を持っていませんでしたから、神秘主義運動が起こりました。この神秘主義の中から、聖書からどんどん離れていってしまう者が起きてきた。
はじめは、神の知恵の宝庫から神の知識を頂いていたんですが、それがだんだん濫用されるようになった。
そして現代はいろいろな形の学問になって、ウィリアム・ジェームスとかフロイトの心理学だとかの影響を受けて、深層心理学だとか、精神主義だとか、心霊主義だとかが一杯生まれてしまったんです。
これらはレントゲンで体の中を覗くように、人間の潜在意識の中を覗こうとしたんです。あなたはかつて、こんなことをしたでしょう、とか言われるんです。そうすることによって人間はどうなったんでしょうか。
人間の精神をオモチャにして遊んでいるんです。もっとひどい状態に人間をした。
確かにそういう学問や技術は発達したでしょう。
しかし、神の「愛」が失われていたら、なんの恵みも与えることができない。
神様の愛に満たされたクリスチャンが平安を持って人と接するということは、この世の人の精神状態に大きな影響を与えることになるんです。
神の愛なくして、どんな精神医学も心理学も、人の精神をズタズタに引き裂くだけです。癒して平安にすることはできない。これは奥義ですね。
神の「愛」なくして私たちが物事を扱ったならば、恐ろしいことが起きるということです。

2.知識とは何か。

今日でいえば、自然科学の知識のことだと思います。
先の奥義は、霊的なことに関わることです。
この知識は、宇宙であるとか、自然だとか、物質に関わることですね。
昔から人間は、ものの本質を探ろうとしました。そして、だんだん神の愛から離れていったんです。
グノーシス主義の人達は、人間を霊と肉体の二元論を打ち立て、二つに分けてしまって、肉に悪が存在すると主張したのです。
こうして真理から、大きく外れていってしまったのです。こういう考え方はだんだん物質主義、肉体主義に傾いていきました。

この日本でもその顕著な特徴がみられますね。たとえば、人々の関心は、肉体的なことに向けられていますよ。飲むこと、食べること、遊ぶこと、身体の健康、老後に住む場所、死んだあとに入る墓など、自分の魂のことは全然考えていないのではないでしょうか。死んだ後、自分の魂はどこに行くのか、考えたことがない。
残ったこの骨をどこに入れるか。そういう墓の問題ではない。お墓に入らなきゃ安心できない? そんなことはない。

問題は私たちの魂が永遠にどこで過ごすか、ということですよ。もし神の愛を知らない人がいたら、その人は自分の骨が永遠に墓の中で過ごすと考えているでしょう。
墓の管理人はこう言いますよ
「永代供養しますから。」
こういうのは、御免こうむりたい。私は永遠に墓の中に閉じ込められていたくはないんです。冗談じゃあない。

クリスチャンは、墓の中から出てくる日があるんです。クリスチャンは、死んでしまっているんじゃないですよ。眠っているんです。
やがて甦(よみがえ)るんです。神の御国で永遠に生きるんです。
永代供養? とんでもない。どうぞ墓に鍵をかけないように。
まあ神様が開けてくださいますけどね。
このようして神の愛がなかったら、肉体的な、物質的なことについて、全く愚かで、無用な知識しか持たないということが、容易に分かります。
神の愛がなかったら、私たちがどれだけ愚かな考えを持つかということがよく分かります。
これが知識です。

C.第三は、山を動かすほどの完全な信仰。

これは魂の救いとか、清めの信仰ではありません。困難な障害を乗り越えていく信仰の力ですね。

イエス様は山を動かす信仰について、何度か仰いました。
マタイの福音書の17:20 「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」

あるいは、マタイの福音書21章の21,22節で
「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
これらのみことばから、イエス様は、私たちがあらゆる困難を乗り越えて進んでいくことのできる強い信仰を持つことを、期待されています。力強い信仰を持ってもらいたいと思っておられます。

しかし、もし神の愛を失っていたら、この力強い信仰を持っている人は、一体どうなるでしょうか。やがて高ぶって、滅びの穴に陥るに違いないでしょう。
もし、みなさんが一言祈れば、あっという間に、大雨が晴天に変わる、晴天も嵐に変わる、何時から何時までは嵐で、何時から何時までは晴天になるというような、そういう力を持っていたとしたら、どうなるでしょう。
神の愛を失っているならば、高ぶるに違いない。
山を動かすほどの完全な信仰があっても、愛がなかったら、何の値打ちもないと言ったではないですか。
もし、皆さんが、金儲けの上手な人であったとしましょう。愛がなかったら、それもなんの値打ちもない。高ぶり、争い、噛みつき合う犬のようなものになるんですよ。
私たちは、内なる魂が絶えず神の愛に満たされていないと、すぐに高ぶるようになる。何かができる能力がつけば、すぐに高ぶりが現れてくる。
力のない人はない人で、すぐに劣等感、自己卑下に落ち込んでいくではありませんか。

パウロは、愛がなければなんの益もない、といいました。

Ⅲ.3節はさらに、高度な段階のことを話していますね。

パウロは、自分の持ち物を全部貧しい人に分け与えても、つまり、慈善だとか徳となる行いを積むこととか、自分の体を焼かれるために渡しても(殉教しても)、なんの益にもならないと言いました。

この3節を見ますとね、一見矛盾しているかのような比較に見えます。
たとえば、神の愛なくして、自分の持ち物を全部貧しい人に施してしまう人がいるでしょうか。神の愛なくして、殉教することができるでしょうか。
こういうことは、愛を示す最高のテストのようなものですね。愛なくしては、こんなことはできないだろうと思うんです。
しかし、パウロの答えは、「いいや、できる」と言ったんです。

聖書を見ると、アナニヤとサッピラは、偽りの愛を示すために財産全部を売り払いましたね。それで半分だけペテロのところにもってきて、「全部です」と言いました。
自分の名誉や名声を残すために、私財を投じて社会に貢献しようとする人は少なくありませんよ。それは形の上では他人に与えたかもしれません。でも実際は、自分で弄(もてあそ)んでいるのと同じです。

パウロが教えているのはそういうことです。
真の愛からするのでなければ、私たちはどこまで行っても自己中心から抜け出していない、と言ったんです。自分のために行なっているだけだ、と言ったんです。
私たちは自分が清くなることですら、自分のために求めることができるんです。

私たちは、アガペーの神の愛の動機でする時にだけ、価値ある行ないができるんです。

たとえば
●異教徒たちをごらんなさい。
ご利益を求めるために難行、苦行をやるではありませんか。自己犠牲をやるではありませんか。ヒンズー教徒たちの難行・苦行を見たことがありますか。ガンジス川まで這って行くんです。膝で歩いていくんです。恐ろしいことですよ。

●共産主義者たちの、自己犠牲的な献身を見たでしょう。
みんな若いみそらで、命を懸けて働いているんじゃないですか。彼らは、神の愛に満たされてそうしているんですか。

●戦争に駆り立てられた兵士たちの献身を見ましたか。
この世には、神の愛から出ていない命がけの献身がたくさんあるんです。

●昨今では、会社のために命がけで献身して、病に陥る人がいるでしょう。
過労で命を落とす人が出ているでしょう。彼らは神の愛から出ているんですか。殉教しているんですよ。これらはみな、神の愛から出ていない殉教です。

こういうものは、自分の利益を求めたり、あるいは、はっきりとした目的も理由もない革命的思想かもしれませんけど、熱狂主義者だと言わなければならない。
それが死にまで至らせているんです。何の意味があるんでしょうか。

イエス様は、ヨハネの黙示録の2章10節で「死に至るまで忠実であれ」とは言いましたが、「愛を持たずに死に至れ」とは言わなかったんです。
「愛なしに殉教しなさい」とは教えなかった。
自分の財産を全部貧しい人に施したら、ずいぶん大きい慈善事業をしたと思うでしょう。
殉教するほどに献身したら、神様が喜ばれると思うでしょう。
しかしパウロは、「愛がなければなんの役にも立ちません」と言い切りました。

一生懸命に私たちは努力をする、骨身を削って努力をする。しかし、愛がなかったら、何の役に立つのか。
みなさん、今までずいぶんご苦労なさったんじゃないですか。だけど、愛がなかったら、何の役に立つんですか。何も意味を持たない。砂の上に砂を積んでも、風が吹いたらたちまちさらさらと崩れてしまうんですよ。

このことから、私たちは何を学ばなければならないか。

それは、私たちがどんな才能を持っているか、どんな力強い信仰を持っているか、どんな知識があるか、どんなに博学であるか、どんな慈善事業をやっているか、どんなに難行苦行をしたか、それらは全く関係がないと言ったんです。
「神の愛の動機でしたかどうかということだけだ」、とパウロは教えました。
「愛がなければ」何の意味もないと言ったんです。
40年、50年、一生それに費やしている人がいますが、何の意味もない。

来月から、市役所も粗大ごみを取り扱わない、と言ってきました。もう、集められないと言う。
どうしてですか? ゴミが出すぎるからでしょう。あんまり出すぎるからもう取り切れない、と言うんです。
一生涯かかって、何をやったかというと、ゴミにするものをかき集めただけなんです。
愛の動機がなかったらこれと同じことです。
神様が私たちを喜んでくださるのは、自分がどんなに大きなことをしたか、どんな苦労をしたか、どんな知識を持ったかではなくて、愛によってやったかどうか、ということです。皆さんが幸せになれる道は、それしかないんです。

親なら、お父さんはね、お母さんはね、こんなに苦労をしたんだよ、って子どもに言いたくなるかもしれない。
しかし、子供はどうです?
そんなの勝手に産んだんじゃないの、ってパーンとはね返ってきてしまうんじゃないですか。

しかし、神の愛を持ってしたとき、この愛は、相手に通じるでしょ。どんな小さなことでも、たとえ毎日の日課であっても、神の愛によってやったかどうか、ということです。みなさんが神の愛を動機としてそれを行うならば、神に喜ばれる人になりますよ。
自分自身が価値ある人になるんです。自分のしたことも価値あることになります。

今週、どんなことをするかということよりも、何を動機にしてやるかということに心をとどめましょう。愛を動機にしているか、ということです。愛があれば、必ずそこに奇跡が起きる。
「マッチ一本火事のもと」ということわざがあるでしょ。どんな大きなストーブがあっても、どんな大きなオーブンがあっても、火がつかなかったら何の働きもしないでしょ。やがてさび付いてしまうだけですよ。火があれば、奇跡が起きるんです。
みなさんが愛の動機を持っているなら、たとえ、どんな小さなことをやっても、神がみなさんと一緒におられるということを必ず体験しますよ。

死ぬ気でやれば何でもできる、という言葉がありますけれども、本当に死ぬ気でやる人は少ないですがね。しかし、愛がないなら価値がない。
みなさんの生涯を成功させるものは、愛だけです。

私たちが、死に物狂いでキリストの福音を伝えても、誰も信じないかもしれない。
けれども愛を持って伝えれば、多くの人々は心を開くんです。
北風と太陽の話をご存じでしょう。どっちが勝ったんですか。太陽ですね。
私たちも、相手の心を開くのは、ぬくもり、愛ですよ。
私たちの言葉が、キリストを伝えるんじゃない。私たちの心に宿っている「神の愛」が、言葉を超えてキリストを伝えるんです。ぬくもりってそういうもんじゃないですか。

アフリカの探検家で、リビングストンという方がいますね。彼はお医者さんでもあったようですけど。彼は、宣教師がアフリカに入っていくために、その地図を作るためにアフリカに行きました。
彼は、アフリカの原住民に、言葉でキリストの愛を話すことはできなかった。しかし、アフリカの人々は、リビングストンが話したことは分からなかったけれども、彼の心の中にあった愛だけは分かっていたんです。

私たちの心に満ちているもの、溢れている「神の愛」を相手に感じさせることはできるんです。

みなさんはこの一週間、才能や能力や一生懸命さで出ていくのではなくて、知識や力を持って出ていくのでもなくて、「神の愛」をもって出ていきましょう。
「神の愛」以上に雄弁な言葉はないんです。
「神の愛」以上に素晴らしい才能はないんです。
愛は、世界のどこでも通用するでしょう。英語用の愛なんてあるんですか、ロシア語用の愛なんてあるんですか、フランス人用、イタリア人用の愛なんてあるんですか。
そんなものはどこにもない。ですから、みなさんの家庭、職場でも、どこでも「愛」は通用するはずです。

もし、あなたが愛以外の物をもってでかけるなら、なんの価値もない人間になります。
みなさんは出かける前に、忘れ物はないか点検するでしょ。弁当は持ったか、定期入れは持ったか、財布は持ったか、鍵は持ったか。
私は、365日いつ雨が降ってもいいように、カバンの中に傘が入っている。
私はある時、鍵を鍵穴に入れたまま出かけてしまった。「鍵がない、鍵がない」って心配したら、鍵穴に鍵が刺さっていた、ということがありましたね。

家を留守にする時は、電気は消したか、ガスは切ったかを点検するでしょ。
しかし、出かける時、みなさん、愛を持ったかどうか点検してください。
愛を忘れていたら、出かけるまえにお祈りしなきゃだめですよ。
お弁当を忘れたら、そりゃ大変かもしれませんが、それでも何とかなります。
神の愛を忘れたら、家まで戻ってこなくていいですよ。地下鉄に乗る前に、ホームで頂けばいいんです。
けれども、どうかみなさん、神の愛を忘れないで頂きたい。

相手は日本人でなくて、アフリカ人かもしれない。私の言葉が通じないかもしれない。
だから、愛が必要なんです。
パウロは教えましたね。どんなに優れたものを持っていても、愛がなければ何も値打ちもありません、と言ったんです。
すでに私たちは優れた物をたくさん持っている。いろんな才能、能力、知識、力、頂いております。しかし、愛がなければ何の役にも立たない、このことを覚えましょう。

そして、これは私たちが頑張ってやるんじゃないんです。頑張ってもできません。
神様にお祈りしましょう。
「主よ、私にあなたの愛をください。私には愛が必要です。私には愛がありません。
ですから神様あなたの愛をください。」と。

そうすれば、神様は、毎日毎日、私たちに愛をくださるんです。そして、そこに神のみわざを見る。少なくとも、自分は神と共に歩んでいるんだ、ということが分かります。
道は開かれてくるんです。焦ることは何一つなくなりますよ。
私たちの心は溢れてきます。私たちの生涯は変わっていくんです。
変えるんじゃない、変わっていくんです。神様は変えてくださる。
愛以上に優れたものはありません。これを失ったら、何を持っていても、何も持たない人と同じです。
どうぞ、このことを、今週、心に覚えさせていただきましょう。

<お祈り>

恵み深い天の神様。
イエス様、あなたが愛を示してくださり、ありがとうございます。
十字架の上から私たちに愛を注いでくださいました。
聖霊によって私たちに愛が注がれるからです、とパウロは教えてくれました。
私たちは、イエス様の愛を必要としています。
今週の旅路に勝利を得るために、すべてのことを益と変えてくださるあなたの愛が必要です。
どうぞ愛を与えてください。
私たちがあなたによって満たされて、どんな道であっても、あなたの愛を動機として持ち歩くことを習慣づけてください。
そして、このことを通して、あなたがいかなるお方であるかを、実際に、現実に、生きて働いてくださる主を、知らせてくださいますように。
この時を感謝して、イエス様の尊い御名によってお祈りします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容 親切 ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず 礼儀 自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


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