第一コリント13章「愛の章」第12回 「愛の耐久性(2)-子どものことをやめました」

オリーブ畑にたわわに実るオリーブの実。

 

第一コリント13章11節
「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」

お祈り

おとなになったときには、子どものことをやめました。
天の父なる神様、今日もあなたの御前にもう一度、あい集わしてくださいました。
神様を賛美し、礼拝し、感謝をささげ、また、献身を新たにするこの幸いな礼拝の時を
主の御前に集わしてくださり、感謝をいたします。
一週間の旅路を終えてまいりました。この一年も間もなく閉じようとしています。
しかし、私たちは、主よ、あなたが期待されているように、信仰に成長し、人格的に成長し、主が喜ばれる器として、成長しているでしょうか。
主よ、あなたの目的に向かって、私たちが信仰の道をたどらせていただき、やがて天の御国に凱旋できるように、私たちの信仰をさらに調整し、訓練を与えて、導いてください。みことばを通して深い悟りを与えて、霊的に、また私たちの生活的においても、大いなる成長をなしとげ、栄を現わすものとしてくださいますように、ひたすらお願いいたします。
今日も、みことばに仕えようとしています。心の掛けがねをすべて外して、イエス様、あなたの御声をしっかりと聞き、それが私たちの生涯の糧となり、行くべき道としてくださいますように。卑し愚かな者を助けてください。
聖霊が語らせてください。
御霊による働きをどうぞ成し遂げさせてください。
このひと時を主の御手におゆだねします。
尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

はじめに

今日は11節だけですが、子どものことをやめる、ということですね。
前回、私たちは「愛の耐久性(1)」の完全なものと不完全なものについて考えました。
今日みなさんの心の中には、完全なキリストの愛が宿っているでしょうか。
言うことはたやすいんです。しかし、それが自分の心の中で現実のものとなって、生活の努力となり、私たちの日々の歩みの中に確かな足跡になっていかないと、実りがないわけです。
完全なものが宿っていれば、みなさんの心はこの朝、平安であるはずです。
焦りがあったり、思い煩いがあるなら、その人は不完全なものにより頼んでいるんです。
ですから、完全なキリストの愛を、心にしっかりと受け入れていただきたいと思います。

Ⅰ.続けて「愛の耐久性」の二番目についてお話したいと思います。

それが今お読みしたところですね。そこでは子どもと大人の話が出てまいります。
クリスチャンにも、幼子のクリスチャンと成熟した大人のクリスチャンがいるんですね。
クリスチャンというとみんな同じかというと、聖書を見るとそうではないようです。

これは年を取れば大人になる、っていうのではないんです。年をとっても子供のまんま、という人がいます。非常に多いですね。これは困りものなんです。
コリントの教会には幼児のクリスチャンが多かったようですね。
幼児のクリスチャンというのは、コリントの教会だけでなくどこでも多いんですよ。みなさん、ミルク瓶こそくわえていないと思いますが、自分で考えていただきたい。自分は大人か、幼子(おさなご)か。

A, 子供というのはどういうものを欲しがりますか。

オモチャなら、色がきれいで大きいものがいいですよね。もう20年くらい前の話になりますけれども、こんなことがありました。
ある輸出用のおもちゃを扱っているクリスチャンの方がいらっしゃって、年末になって、倉庫に残っているオモチャを教会学校のために頂いたことがありました。
20年前だから今のオモチャとは違いますが、いろいろなものが混ざっていました。ゼンマイを巻くのとかね。それを教会学校の子供たちに渡したことがあった。すると、子供たちは争うようして大きいものから持っていきました。終わりの方になった子どもには小さい物しか残らなかった。
さあみなさん、子供たちはどうしたと思いますか。最初は大きいもの、ぬいぐるみみたいなのをにこにこしながら持っていきました。最後になると、こぶしくらいの小さい物になりましてね、子供たちは「いらない」と言い出しました。「いらないのか、じゃいいよ、先生がもらうから」。しぶしぶもらっていく子もいました。
ですから、私たちは、今、教会学校ではクリスマスにプレゼントを渡さない。なし。
今日もみんなに話しました。「今年は麦茶の暖かいのでいい」って言うんです。えらいことですねえ、これは。本当でしょうか。
今年は、おのおのの努力に応じて、ご褒美を渡すことにしているんです。
子供といえば、そういうものです。オモチャといえばカラフルでね、大きい物がいい。食べ物でいえば、子供たちは甘いものを好みます。子どもの「おいしい」というものは、食べてごらんなさい、少しもおいしくないんです。ただ甘いだけですよ。

私が子供のころ、家では12月の終わりごろにお餅をつきました。母親は、四国の方ですからアンコ入りのお餅を作るんです。関東の方ではアンコ入りのお餅がないんですけれどもね。関西にはアンコ入りのお餅があるんです。
ところがそのアンコに二種類あるんです。お砂糖入りのアンコと塩入りのアンコの二種類があるんです。子供は悩むんです。外から見ると分かりませんからね。食べてみないと分からない。私はそのころ悩みましたよ。
なぜ大人は塩入りのアンコをつくるのか、まったく理解できませんでした。きっと、これは子供を懲らしめるためではないかと思うほどでした。子供とはそういうもの、甘いものを好む。

ところで、最近の教会は、クリスチャンたちにお砂糖入りのアンコばっかり食べさせているんじゃないかと思うんです。
たとえば、「イエス様を信じて救われなさい」とは言いますが、「あなたには罪がありますよ」とは言わないんです。
私が本を書くと、罪のことを書きます。すると、ある牧師は言いました。
「最近はそういうことを書くと、誰も読まないよ」
読むか読まないかの問題ではありませんよ。読んで救われなかったら何の役にも立たないんですから。
「その罪を悔い改めなさい」、なんて誰も言わないんです。
「イエス様を信じて平安になりなさい」これは言いますよ。
「イエス様はあなたを愛しています」これも言います。
だけど、「あなたには、高慢な性質があるではありませんか」と言ったら反発するでしょう。言い訳するでしょ。素直に従わないでしょう。
「自己中心でしょう。それ砕かれなさい。」と言わないんです。私は、言ったんですよ。
「永遠のいのちをいただきなさい」とは言いますが、「罪を捨てなさい」とは言わないんです。これはね、砂糖入りのアンコなんですよ。甘いですよ、みんな。
そういう教会ではどんなクリスチャンが育つかというと、みんな幼子なんです。
幼子のクリスチャンというのは、愛を喜びますねえ。平安も喜ぶでしょう。みんなそれを好んで求めるんです。けれども、本物は得られないんです。
だから、やがて周りの人とうまくいかなくなると、躓いて、私の悪口を言っただのと、争いがどんどん起きるんです。
こんなことがどこの教会でも起きているんです。
これは、キリストの真理の片面だけを砂糖入りで教えたからなんですよ。真理のもう一面も、はっきりと教えなければなりません。
真理の片面だけを教えられているクリスチャンは、耳障りのしない話だけを聞きたがります。心に突き刺さるようなメッセージは聞かないんです。甘いものばかりを食べさせられていますから、魂の奥底に根を下ろさないんです。

今の時期になると、いろいろな花が出まわるでしょう。ポインセチアとかシクラメンとか急に高くなるでしょう。ですからみなさん、お買いになるなら、クリスマスが終わってから、お正月が終わってからお買いになりなさい。安くなりますよ。
本物の花は根をおろしているんですけれども、いつまでも枯れない花がありますね。
造花ですよ。あれはね、美しいけれども根を下ろしていない。
ですから造花と同じようにね、根を下ろしていない信仰は、本物の愛とか、本物の平安とか、本物の喜びを経験しないんです。
みんながよしよしと撫でてくれたら平安なんです。
しかし、何かの問題にぶつかると、そういう平安はいっぺんに取っ払われてしまうでしょ。どうでしょうか。
問題や課題に出会わなくても別に結構ですけれどもね、表面的な快感だけで終わってしまっていないでしょうか。それは自己満足に過ぎません。
こういう教会はね、サロン化していくんですよ。そして信者たちの生活は、この世の人と全く同じで何も変わるところがありません。霊的な面がなくなってしまう。

歴史を見てごらんなさい。使徒の時代を見ますと、非常に霊的でした。問題も課題もありましたが、霊的で、一人ひとりの魂が生きていましたね。
ところが、コンスタンチヌスが改宗してから、ローマはどんどん繁栄していきました。物質的に栄えていって、権力的に、組織的に栄えていきますと、教会はいのちを失ってしまった。
そこで起きたのが宗教改革でしょ。宗教改革で、そういうものじゃだめだ、ということで、もう一度人々の魂の中から温泉のように湧き出てくるものがあった。
そして一生懸命に議論をしているうちに、50年も経たないうちに何が起きたか。
彼らはローマカトリックの神学とは違う、はっきりした聖書によるプロテスタントの神学を打ち立てようとして神学論争を始めた。
どういう神学が正しいのかと、正しいことを追求し始めたんです。
それで、これが正しい、という書物を作りあげました。
しかし、もはや人の生きている魂の問題ではなくて、学問の問題でこれが正しい、と一冊の本をまとめて本棚に入れた。
そして、「これで僕らも安心だ」と落ち着いてしまった。
キリスト教はいのちを失った。
そして17世紀に、「これじゃ死んでいるではないか」と言って起きてきたのが敬虔主義。今度は、彼らは神学に根をおろさないで、聖書に根を下ろそうとして聖書を読み始めたわけです。お祈りを熱心に始めました。
そして、聖書に書いてあることを自分たちの生活の中でどうやって生かすか、ということを真剣に考えるようになったのは敬虔派である。
そして今また、カトリックではありませんが、物が豊かになるとクリスチャンたちは、 心の中の喜びではなくて、非常に平面的で表面的な快感だけの、自己満足だけの宗教に陥ってしまった。魂の喜びがないわけですよ。
魂の底からの喜びを、クリスチャンは失っていると思いますね。特に繁栄しているところではね。
そして行き着くところはご存じでしょう。とっても虚しいところに行くんですよ。

日本人はいろいろなところに行って、空の遊びだとか海の遊びだとか、そんなことをやっていますけれどもね、そこで物事は止まらないんです。
やがて銃をぶっ放して遊んでみるとか、麻薬を飲んで遊んでみるとか、こういうところに行ってしまう。麻薬をやらなきゃ耐えられないようなところに行くんです。アメリカの人はそこに行ってしまったんです。
もう一度私たちは、魂が満たされないと人間は生き返らないんだ、ということを体験させられていくんです。

教会はそんなんじゃいけないと思いますね。
歴史を見ると人間は、必ずそこに落ちていってしまうんです。
日本人にとって、どこが安住するところなんでしょうか。
「最後に安住するところは墓場だ」なんて言って、「墓さえ入ればもう安心だ」と言っていますが、本当にそうなんでしょうか。墓の先があるんですよ。
イエス様が私たちに与えてくださるものは、子供だましの、飴玉をなめさせるような表面的な、一時的な快感なんでしょうか。
イエス様は、ご自分の神としての特権を捨てて、この地上にお降(くだ)りくださったんでしょ。ご自分を十字架につけて、私たちに与えてくださろうとしているものは一体何なんでしょうか。飲んだり食べたりして得られるような、甘いアンコ入りのお餅のようなものなんでしょうか。そんな安物の平安や喜びではありません。
イエス様は、私たちに豊かないのちを与えると言いましたよ。
魂の中から、喜びにあふれるものがなければなりません。今私たちの住んでいる国の人々の魂の底は、生き生きとしていますか。神様の愛に溢れているでしょうか。
イエス様は、生き生きした神の愛を私たちに与えたいんです。私たちはそれを自分のものにしたいんです。そのためには、真理の片面だけお話ししていてはダメなんです。
私たちが心の扉を閉めたままでは、与えられないんです。自己中心の心の扉を開けて、自我の放棄を必ず要求されるんです。それを捨てなさい。
神様は私たちに罪に勝つことを教えます。
サタンに勝つことを約束されました。死に打ち勝つ勝利を与えられるんです。
そのために、私たちに必要なものは何か。全き信仰を要求される。イエス様半分、この世半分の二股かけた信仰では神様は満足されない、与えられないんです。
イエス様を一筋に全く信じていく信仰を、イエス様は私たちに要求されるんです。
イエス様は求めるんです。
ですから、私たちは、キリストの福音の真理のすべてを話さなければならない。そうしないと、幼子はいつまでたっても大人のクリスチャンにならないのです。
教会の中には万年幼子がいますね。わがままで一切苦しい事には手を出さない。
今の時代の人はそうなんじゃないんでしょうか。自分にできそうにないことはもう手を出さないんじゃないでしょうか。
やってみようと思わないんじゃないんでしょうか。

例えば棒高跳びで、飛べそうだと思ったら飛ぶかもわからない。ああ、あれ飛べないかもしれないと思ったら、飛ぼうともしないんじゃないですか。
チャレンジしない。飛んでみないんじゃないでしょうか。
一切苦しい事には手を出さない。

現代の両親をみてごらんなさい。子供を厳しく叱る親というのは少ないですよ。子供を厳しく叱るのを恐れています。子供の言いなりになっている。
子供が「あれ、買ってえ」と言えば「いいよお」って買ってあげる。
「これを習わせてくれ」といえば「いいよお」と、なんでもさせますね。
そしてこう言いますよ。「これが最も良い、最新式の、アップ・トゥ・デイトな教育だ」。
しかし本当はなんでしょうか。叱ると、子供が自分を嫌いになるんじゃないかと恐れているんです。しかし、子供を叱らなかった親は、本当に子供から尊敬されているでしょうか。かえって親を無視する。敵意を持つ子供すら出てきていますね。
そして親御さんたちはこう言うんです。
「うちの子はそんな子にならない。」
しかし現実はそうじゃないですよ。子供はみんなひっくり返っているではありませんか。
わめき散らして親が手の付けようがない状態になっている。本当のことです。

私たちは福音の真理の全部をお知らせしなければなりません。それによって教会に来る人がいなくなっても、真理は全部お話しなければならない。真理は、来る、来ないにかかわらず話さなければならないんです。

例えば、お医者さんが「あなたはね、まもなく死にますよ」。
本当だったら言うべきです。相手が嫌がろうがどうだろうと。
「大丈夫、後10年は生きます」、「ああ、そうですか」と言って、安心してお酒飲んでいたら、一年ももたないで死んでしまった。

喜びや平安や安息、恵みと祝福だけを話している間は、人々は大勢集まるかもしれない。
しかし、罪と高慢と自己中心を話し始めたら、潮を引くように誰も来なくなるんです。
私はこの教会を始める時、イエス様と約束したことがあります。それは何かというと、イエス様が「話しなさい」ということは話すことです。私が取捨選択しないということです。イエス様が「これを話しなさい」と言ったことを、私は全部話さなければならない。福音の全体を話すことです。
説教者として話易いことと、話にくいことがあるんです。
私が話すと、全部、話易いと思うかもしれませんが、人間ですからね、人が喜ぶようなことをいつも話したいですよ。
「今日はみなさん、雨の中をお越しくださってありがとうございます。きっと帰る時には神様の祝福があります。」と、言っていたいですよ。
人情的に話しにくいことも、会衆の人々が聞きたくないことも、痛みを覚えることも、それがすべて真実であるなら話さなければならない。イエス様と約束しました。
だから甘いものだけを求める人は、やがて来なくなります。
そういう意味で、この教会を「地の塩」とつけたわけではないですが。

今、新巻き鮭って売っていますね。すごい塩がバーッとね、中身が見えないくらいですか、長持ちさせるためでしょうけどね。
私たちの教会も、ちょっと違う名前を付けたらよかったかもしれませんね、「砂糖教会」とかね。聖書の中に砂糖の話は出てこないんです。「はちみつ教会」ならいいかもしれない。しかし塩気は十分に効かせた教会にしたいですね。新巻き鮭みたいに。
イエス様が私たちに与えてくださる恵みは、この世の人々が持っている愛にちょっとプラスアルファしたようなものではありませんよ。この世の人が持っていない、豊かないのちあふれる愛であり、全き平安なんです。これはどこにもないもので、私たちにくださるんです。それで、それを持ったならば、私たちはそれに虜にされてしまう。
神様は、豊かに報いてくださる。
しかし、そのためにイエス様は、
「自分を捨てて、自分の十字架を負って、わたしについてきなさい。」
と仰った。来たら分かると仰ったんです。今はあなた方は分からなくても、やがて分かる、と仰いました。
そのためには高慢を捨てなさい、不服従を捨てなさい、自己中心を捨てなさい、自己主張を捨てて従ってきなさい、と仰ったんです。
そうすればあなたのものになるんですよ。
こう、教えたんです。

Ⅱ.パウロは11節で

「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」と言いました。

この子どもというのは、年齢的なことではありません。信仰が幼稚であった時、という意味です。
パウロはここでおそらく、自分のことを言っているんと思うんですけれども、
「私が子どもであったとき」というのは、いつの時であるかといえば、
使徒の働き9章でダマスコにいく途中で、イエス様の御声を聞いて回心していますね。それ以前の自分のことを言っているんだと思うんです。
彼の証によりますと、そのころのパウロはピリピの3章5節6節で言われていますけれどもね、自分はこういう人間だったと証しているんです。
「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」
と、彼は自分の生まれを誇り、自分の民族を誇りました。

ユダヤ人は今でも民族の誇りが高いですね。
律法についてはパリサイ人であることも誇りました。これについては詳しいお話をする時間がありませんけれども。
熱心については教会を迫害するほどユダヤ教に熱心で、自ら神に仕えていると思い込んでいるほどだった、と彼は言っているんです。
しかし、彼がイエス様と出会って、イエス様を信じて魂が生まれ変わって、大人のクリスチャンになったとき、かつてユダヤ教に熱心であったころの自分は、まるで子どもでしかなかったと述懐したわけです。
彼は優れた学問を修めています。彼の考えは非常に哲学的です。しかし、その話すことも、恥ずかしいほど子どもであった、と彼は言っています。
しかし彼は、パリサイ派の優等生でしたよ。彼の話すことは、みんながシーンと静まるような話でありました。
しかし、イエス様に出会ったあとは、自分の話したことは子どもの話であった、考えることもすることも、子どものマネのようであったと言いました。
パウロはクリスチャンを捕らえて牢獄に入れましたよ。そうすればキリスト教を抹殺できると考えたことは、まさに子どものような話でした
みなさん、この二千年の歴史をごらんなさい。クリスチャンほど迫害されたものはありませんね。聖書ほど焼き払われたものはありません。しかし、なお広がり続けたではありませんか。クリスチャンを迫害して牢獄に入れて殺したら、キリスト教が抹殺できると考えたことは、本当に子どもっぽい話です。
彼の知識を駆使した議論も、まるで子どもの議論でしかなかった、と言いました。彼が誇っていたすべてのことは、子どものおもちゃ以外の何ものでもない、と言いいました。
みなさんこれは驚くべきことです。現代人が考えてみたって、パウロが持っていたような学問と地位と名誉を、どうやって獲得することができるんでしょうか。
それにパウロは、ローマの市民権を持っていたようであります。
当時ローマの市民権を持つということは大変なことだったんです。

しかしどうです。今のクリスチャンを見ましても、出身校を自慢する人がいるでしょう。
地位とか名誉とか土地とか財産を自慢する者も多いんです。けれども、イエス様の復活のいのちに与(あずか)っていることに比べたら、それらはぜーんぶ子どものおもちゃにすぎないんです。
永遠のいのちに比べたら、この世で得たものは何の価値があるでしょう。お金をためるのも結構、家を建てるのも結構、議論をするのも結構。しかしそれらは、子どものおもちゃと同じぐらいの価値しかないことを覚悟しておいてもらわなくてはならない。

私たちが救われた当初は、みんな子どもであるのは当然です。生まれてくるのに、大人みたいに髭をはやしてくる人はいないでしょう。生まれてきた時はみんな可愛いんですよ。生まれた時はみんな天使のような顔をしているんです。生まれた時はみな幼子、これは自然です。
しかし、5年経ち10年たっても、聖書が読めません、お祈りができません、神の御心に従えません、これが続いたら主のご目的には到達しませんよ。イエス様は、いつまでも私たちを幼子のクリスチャンにしておくために、救って下さったんでしょうか。
みなさんのお子さんが、5年たっても10年たっても、「ママ、ごはんを食べさせて」と言ったらどうです。「いい加減にしなさい」というに違いないんですよ。
みなさんが、神様にこういうふうに祈ったらどうでしょうか。「天のお父様、まだ私は聖書がよく読めません」そうしたら天の父がこう言ったとしましょう。
「そうか、そうか、じゃお父さんが食べさせてあげよう。」と言ってくれると思いますか。「あーんして」と言って聖書の言葉を入れてくれますか。
天の父はそんな過保護な父ではないんです。
イエス様は、私たちが真っすぐに信仰に進み、全き愛を満たして、大人のクリスチャンとして成熟して到達していくことを目的としておられます。子どもを捨てて大人になることです。

子どもが大人になっていくには、どうすればいいんでしょうか。
それは幼稚な子どもの興味とか、関心を捨てるんです。そして本当に価値あるものを選んでいくことによって、子どもが大人になっているというのが分かるんです。
バケツにいっぱいゴジラの消しごむを集めているのを、大人だとは言えないでしょう。
何とかのカードをガバーっと集めてるのを大人だと言えますか。酒屋の瓶の蓋をバケツに一杯集めているのをみて、大人だと言えますか。みなさんそういうことをやりますか。どうしてやらないんですか。そういう興味と関心をお持ちじゃないでしょう。

しかし、今は大人がオモチャを会社に持っていく時代です。大人が漫画を読んでいる時代でしょ。大人の漫画とかがありますね。会社でごはんを食べた後、時間があるとピコピコゲームをやっているんじゃないですか。
実際に行って見たことはないけれども、おそらくやっているんでしょうね。何か手帳でも出して、仕事の準備をするのかとみていると、ゲームか何かやっているんでしょ。
みなさんやってないでしょうね。今、大人が子どもの遊びをしている時代なんです。
幼子のクリスチャンも、この世のおもちゃ同然のものを求めて、最も価値あるイエス様のご目的である全き愛に到達しようとしないんです。

Ⅲ.パウロ自身も、「自分が、霊的に幼いこどもの時代があった」と言っています。

大切なことは、彼がイエス様に出会って、大人になった時に、「子どものことをやめた」ということです。
子どもである、ということが決して悪い事ではありませんよ。小さい子どもが、幼いということは悪いことではありません。
でも、いつまでも子どもの状態から出られないのは、とんでもない事なんです。
そうでしょ、いつまでたっても大人になり切れない、いつまでたっても子どもの状態であったら、問題があります。
誰でもオギャーと生まれた時は大人ではありませんよ。しかし私たちは信仰により、進んでいかなくてはならない。

あのジョン・ウェスレーですらね、自分の救いに確信が持てないで、はっきりしない
幼子の時代があった。「彼にしても、そうかあ」と思うんです。
彼は牧師の子どもに生まれたんですからね。自分は説教していたんですよ。だけど、自分の救いが分からないんです。
ある時、ピーター・ベーラーという伝道師がやってきた。
ベーラーがこのウェスレーに聞いたんですよ。「イエス・キリストとは誰ですか」
相手はすでに説教者ですよ。牧師の家庭に生まれたんですよ。ウェスレーは勉強してきた人ですよ。学問のある人ですよ。今でいえば博士号を持っている人ですよ。
ウェスレーはね、「キリストは全世界の救い主だと思います」と答えた。
必ずしも学問のある人が、いい答えをするとは限りませんね。
ウェスレーは正直ですから、その日の日記にはね、
「そういうふうに答えたけれども、心は虚しかった」と記しています。
彼は牧師の子供に生まれて、学問も積んで、すでに伝道者として働いていた。
だけど救いの確信がなかった。まだ幼子なんです。乳飲み子なんです。
そしてその後で、ウェスレーは、このピーター・ベーラーに尋ねています。
「私はまだ救いの確信が持てません。ですから、救いの確信が持てるまで説教をやめたほうがいいでしょうか」
心配になってきたんですね。
すると、このベーラー先生がこう答えた。
「ウェスレー兄弟、あなたが救いの確信を持てるまで、説教をお続けなさい。」
ウェスレーは、刑務所とかいろんなところに行って説教をしていたんです。
自分の説教で、人々が救われて喜んでいるのを見ているんです。
彼は帰ってきては悩む。どうすればああいうふうになれるんだ。
自分がイエス様の話をして、死刑囚の人々が喜んでいるのに。
ウェスレーは悩んだわけです。どうすればああいうふうに救われるんだ。
どうしたら、自分もその喜びに到達できるのか、悩んだんです。
そしてついに、彼はアルダスゲートという小さな町の集会で、聖霊によって心が燃える経験をしました。
その火は彼の内で燃え続けて、やがて全イングランドにその働きが広がっていったわけなんです。
彼ですら、アンコ入りの飴をなめていた時代があったんです。
でも彼は20年も30年も幼子を続けたんじゃないですよ。
幼子であることは悪いことではないんです。
いつまでもそこから抜け出さない、というところに問題がある。

今年も一年が終わろうとしていますね。一年を振り返ってみましょう。
今年の正月、どんなことを神様にお約束しましたか。振り返ってみてください。
みなさんの信仰、霊的な人格は成長したでしょうか。これを考えてみる必要があると思うんです。また1月1日にやり直しをするんですか。来年の1月1日まで待っている必要はありませんよ。今日から私たちは成長しなければならない。

A.いつまでも大人にならない霊的な幼子のクリスチャンに、パウロはこう言っていますね。

第一コリントの3章の1節~4節で詳しく学びましたけれども、今日は簡単にそれに触れておきたいと思うんです。
霊的な幼子というのは、どういう人なのか。
その特徴は、第一は、御霊に属する人ではなくて、肉に属する人である、と言っています。これは聖霊によって心が砕かれた人ではない。肉的で自己中心性が強い、ということですね。心が頑なで自己中心の角を持っている人です。
やぎも牛も角を持っているでしょ。あれは武器なんですね。
御霊に満たされて、真理にしっかりと固守する人ならば、これは幸いですけれども、
自己主張と自己中心とを固守する人は、これは幼子です。

クリスチャンはね、「砕かれていない」って言われると、こんにゃくみたいにへなへなになってしまうんですね。信仰まで砕かれてしまう。これじゃないですよ。
イエス様を信じて、神の御心ならばどんなことがあっても真っすぐにやり通していく強い力、というのは必要です。しかし、それは必ず自分の自我の角であってはならない、ということです。魂が砕かれないと霊的に成長しません。
クリスチャンなのに成長しない最大の原因は何か。
自分中心の自我が砕かれていないということです。自分を主張し続けている。どんな戒めもどんな指導も跳ね除けて、自分が納得しないものは承知しない。
そういう人は決して成長しません。
こういう人は放っておくしかないんです。
放っておかれたら、もうだめだ、ということです。早く心が砕かれてください。
「あの人はもう放っておくしかない」と言われたら、おしまいなんです。
相手にされなくなる。

詩篇51篇17節で、ダビデはこう言っています。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

神様が喜ばれる供え物とは何なんだろうか。
それはその自我が砕かれている人である。神様が喜ばれるその人は、放っておかれない、さげすまれない、と言っているんです。
砕かれない自己中心の自我の角を持っている人は、絶対に成長しません。そういう人は必ず、学校であれ、家庭であれ、職場であれ、友人関係であれ、教会であれ、自己中心の角が出てきてしまう。
そして自分の気の合う人とだけ付き合いたがるでしょう。当たらず触らずのことをして喜んでいる。これは自己中心の角がある人ですから、成長しない。
今、教会は、みんなを「躓かせない」というか、何というか知りませんけれども、とにかく当たらず触らずのことしか、言わなくなった。
その結果、人数は増えたかもしれませんけれども、クリスチャンは全然成長しなくなってしまったんです。
だから教会をみますと、乳飲み子で溢れているんです。みなさんの機嫌を損ねないように、損ねないように、「腫物(はれもの)に触る」、っていうのがあるではありませんか。
機嫌を損ねると、もう教会に来るのをやめてしまうではないですか。
砕かれることを祈り求めるようなことはしないんです。だから成長しない。

B.パウロは教えましたね。幼子とは、肉に属する者であると。

第二番目にパウロは「あなた方には乳を与えて、硬い食物を与えませんでした」と言っています。
乳とは、慰めや励ましを与える言葉のことです。
硬い食物とは、戒めとか、訓戒とか、叱責とか、矯正の言葉です。
これは、自分でよく砕かないと、恵みとして受け止められない。
ミルクとお豆腐は軟らかいですね。あと、おかゆとか、それだけ食べていたら、お腹の調子は良かろうと思いますけれども、力にならない。自分でよく噛み砕かなきゃならない。しかし、パウロは「そういうみことばは、話ができなかった」と言っています。

今、私は、聖書の探求でレビ記というところをやっているわけですけど、ある人から手紙を受け取りました。
「出エジプト記までは読む意欲があったけど、レビ記になると読む意欲を失いました。」
レビ記はね、面白可笑しい書物ではありません。出エジプト記のように次々と出来事が起きてくる、というのではなくて、どこを見ても生贄(いけにえ)を捧げ、儀式だとか規定がずーっと連続して続いています。
しかし、それらは全部、神様を礼拝するのに非常に重要な真理を含んでいます。
またクリスチャンは、静かに神様を礼拝することが、ダイナミックな意味を持つ、ということを経験していないんです。こういう学びを耐えられなくなってしまっている。
見てごらんなさい、子供たちは礼拝中じっと座っていられないでしょ。うろうろしているではありませんか。あれなんです。霊的に、神様に向かって静かに礼拝するのが苦痛になるんです。魂が幼児だからです。幼子だからなんです。
今の大人でも、一時間静かに聖書の話を聞くことができない人が大勢いますよ。魂が成長していないんです。幼子だって、一年たてばミルクをやめるでしょ。離乳食に移っていくでしょ。最低みなさん、離乳食ぐらいまで早く進んでいないとだめじゃないですか。聖書をコツコツ読み、学び、探求してはじめて成長があるんです。

私たちの教会では、毎年2月に信徒の実力試験というのがあるんですよ。
だいたい聖書を10回読んでいると、必ず合格します。10回というのは簡単なことですね。難しい事ではない。1年に5回読めば2年で終わるわけです。1年に4回読めば2年半。1年に1回ですと10年かかりますけれどもね。1年に1回も終わらなければ100年たっても終わらない。
みなさんがクリスチャンなら、1年に1回は読むべきだと思います。しかもレビ記のような書物が、意味深くなるようなクリスチャンになって貰いたいと思います。
「聖書なんて読んだって、なんの益になるか」と思っているクリスチャンが大勢いますよ。聖書を読むのに、あの手、この手を使ってなだめすかして読ませて、何とかしたいなんて、これは成長の見込みがありません。
ですから、私が出す試験問題の第一問目は、「聖書を何回読みましたか」という問題です。これですべてが決まるんですよ。
聖書を読まない人に、優れた人は一人もいないということは事実です。
もうすぐ1991年になりますが、1月1日からと言わず、今日から是非もう一度読んでいただきたい。聖書を探求していただきたいんです。
堅い食物がいただけるようにしていただきたい。

C.第三に幼いクリスチャンとは「ねたみや争いがある」と言いました。

教会の中にいつもいさかいがある。
問題を起こす人が大勢いるのは、幼いクリスチャンが多いからです。しかも、それをきちんと指導できるクリスチャンがいないということです。一人ぐらい子どもがぎゃーぎゃー言っても、周りが大人だったらそんなに問題は起きないでしょ。
問題が増え広がる、っていうのはどういうことなんですか。子どもばっかりいるということではないですか。子どもが大勢いると、こっちの喧嘩があっちに移り、最後には団子になって争っている。
他の人が用いられて、自分が用いられないとねたむ人が出てくる。ねたむような自分だから用いられないんだ、ということを悟らないんです。

第四番目に、第一コリント3章4節当たりを読みますと、「私は、パウロだ」、「私は、アポロだ」と言って、幼子は各々好む人のところに集まっていくということです。
子どもをよく見ていてごらんなさい。誰かに怒られると、必ずやりますよ。子どもはよく知っていますからね。「おお、よしよし」と言ってくれる人のところへ、すぐに逃げていきますよ。

あるクリスチャンのお母さんが、1歳ぐらいの子どもをひどく叱りました。するとその子は、すぐにおばあちゃんのところに逃げて行ったのです。するとおばあちゃんが、こう言ったって言うんです。「ママが、〇〇ちゃんを叱ったの? おばあちゃんがママにチャンしてあげるから」。
おばあちゃんは甘いんですよ。これでは訓練にも何にもならないんです。子どもを訓練しようと思ったら逃げ場をなくしておかないといけないんです。子どもは誰が自分を甘やかしてくれるか、よく知っています。そしてその人のところへ、一直線に逃げ込む。
幼子のクリスチャンも同じです。話の合う人のグループを作って固まります。他の人を入れようとしません。自分に優しくしてくれる人のところに行って、話をしたがります。
それは幼子のクリスチャンです。

D.第四番目は、ヘブル人の手紙5章11節から6章6節当たりに書いてあります。

「5:11 この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」

12節を見ますとね、もう教師となっていなければならないはずのクリスチャンが、まだ幼子だった、と言っています。もう人に教えていいほどのクリスチャンが、年数からするともう成長していていいはずなのに、中身は乳ばかり飲んでいる幼子だったと。
14節をみると、この堅い食物は、経験によって、良い物と悪い物とに見分ける感覚を訓練された人達のものだ、と言っています。
このクリスチャンたちは、そういう人になっていなかった。
どういうことなんでしょうか。
みことばを読んで教えられていても、それを自分の生活の中で行わなかったからです。
訓練というのは、自分に当てはめてやってみて訓練になるのではないですか。
「経験によって」というのは、みことばを経験することです。みなさん、みことばを経験しておられるでしょうか。
証をよく聞きますと、「イエス様はこうしてくれました、ああしてくれました」といいます。
「私は、お金が欲しいと思っていました。そうしたら神様がお金を与えてくれました。アーメン、神様、感謝します。」
「私は、そこへ行きたいなあと思っていました。神様はそこへ行く切符をくれました。神様、感謝します。アーメン」
「ぼく、これが欲しいと思っていました。お祈りしてたらお父さんが買ってくれました。アーメン、イエス様、ありがとうございます。」
「こうしたい、ああしたい、都合のいいようにしてくださった、アーメン、感謝します。」
この経験によって、よいものと、わるいものを見分ける霊的な訓練ができますか。
良い訓練になりますか。
この世の人だって、自分に都合の良いことをしてもらえば喜ぶではありませんか。
「教会の前を通りました。千円札を拾いました。アーメン、教会、感謝。」
どうでしょうか。
クリスチャンがこの世の人と同じ水準で証したら、少しも霊的な訓練にならない。
みことばを自分に当てはめましょう。そしてそれを経験することによって霊的な訓練をすると、やがて堅い食物を食べられる大人のクリスチャンになるんです。
聞いて覚えてね、しまっておいてはダメです。
訓練にならない。

E、ヘブル人への手紙6章1節~6節を読んでみましょう。

「6:1 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、6:2 きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。6:3 神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。6:4 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、6:5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、6:6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」

第五に、6章1節で、教えの初歩にとどまってしまっている、洗礼を受けてそこで止まってしまっている人がいる。よく教理的に、初歩的な話をして満足している人もいます。それはね、イエス様を信じる信仰の浅瀬です。「成熟を目ざして進もうではありませんか」と言っています。
洗礼を受けて安心して、そこに座ってしまう人が非常に多い、入口でね。
入口で座っていると、邪魔でしょ。奥に入っていただきたい。聖められて、全き愛を受けていただきたい。これがイエス様のご目的です。

F.最後に6章6節で、幼い状態でとどまり続けているクリスチャンへの警告が記されていますよ。

大事なところですから、ご一緒に読んでみましょう。

「しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」

これは二度と悔い改めるチャンスがない、と言っているのではありません。悔い改めれば、神のもとに回復することができます。しかし、成長しないクリスチャン、全き愛を求めない、先に進まないクリスチャンは、やがて再び堕落して、イエス様からはなれて去っていってしまう危険性があることを教えているんです。これは多いですね。
みなさんもお聞きになったことがあるでしょう。
「私も洗礼を受けているんですよ」
「私も若いころ教会に行っていました」
「最近は時々は教会にいきますよ、エー、一年に1回とか2回とか」
それは時々とはいわないでしょ、まれに、でしょ。
今は信仰を失ってしまっている人です。そういう人の話を他人事として聞いている間はいいんですけれども、いつまでも幼いクリスチャンの状態でいるなら、私たちもその危険性がある、ということなんです。

Ⅳ.さて私たちが子どものクリスチャから、大人のクリスチャンになるためには、どうしたらいいのでしょうか。

パウロはこう言いましたね。
「おとなになったときには、子どものことをやめました」と。

子どものことをやめた時に、大人のクリスチャンになった、ということです。
私たちが大人のクリスチャンになるためには、子どもの話をやめる、子どもの考えを捨て、子どもの議論をやめることです。子どもの興味、子どもの関心を捨てることです。
子どもは自分を愛してくれる人を求めますね。そうでしょ、抱っこしてほいほいしてくれる人を求めるでしょ。
大人は、他の人を愛することを求めます。
みなさんは、牧師に愛してもらうことを求めないで、他の人から優しい言葉をかけてもらうことを求めないで、かえって他の人に愛を与えるようになることです。
それが、みなさんが大人のクリスチャンになる道なんです。
イエス様が使徒の働き20章35節で、「受けるよりも、与える方が幸いです」と言ったでしょ。イエス様のことばです。
「愛される人になるのではなく、愛する人になることです。」
愛されなくても、愛することはできるでしょ。愛してもらおうと思うから、不満が出るわけです。どんなにやっても愛される人にならないかもしれないけれども、愛することはできますよ。
「あの人は多くの人から愛される人だ」と言われる人の話を聞くと、たいていは、その人はそれ以上に多くの人々を愛した人です。
他の人を愛するということは、特別な聖徒だけがすることではありません。
全てのクリスチャンが毎日するべきことです。
愛するなんてことは、毎日やることですからね。特別なことをやることではないんです。
クリスマスが来たから特別大きなケーキを作る、それは愛ではありませんよ。それはケーキ屋さんの仕事です。
私たちは普段の生活の中で、神の愛をもって接することですね。
しかし、それは、自己中心の角を持っていたらできないんです。高慢やねたみを持っていたらできない。
聖められて、全き愛を持っていなければなりませんね。

ある人たちは、いちいち理由を聞かないと従おうとしませんね。
「先生、それはどうしてなんですか」と、一応の筋道を立てて議論を投げかけてきます。
しかし、みなさんが大人のクリスチャンなら、アブラハムのように、行くところを知らないで旅立たなければならない。神様のご命令であることが分かったら、黙って従わなければならない。
自分で納得しないとやらない人は、子どもの考え、子どもの議論、子どものすることです。もし、みなさんが神様に、「どうして自分はそうしなければならないんですか」とお尋ねする。イエス様は答えてくださる。
「もしわたしに従ってきたいなら、黙って、従いなさい。やがて悟るでしょう。」
理由を聞いて納得しないと従わないのならば、それならもう結構です。そうでしょ。
たとえば私が「先生どうしてですか」と聞かれても、十分に納得できるようには説明できないと思います。
アブラハムは、なぜあの繁栄したカルデヤのウルを捨てて出発しなければならなかったのでしょう。
私がアブラハムなら、こう聞くかもしれません。
「神さま、こんなに繁栄している所は世界にありませんよ。」
その時、神様がアブラハムに、「やがてあなたから神の民が生まれるんだよ」と
いくら説明しても、到底アブラハムには理解できないことでしょう。
みなさん私たちは、説明されたら理解できると思いますか。
どうして神様に従わなければならないの。
神様はこう言うでしょう。「あなたが天の御国に入るため」。
「いや、天の御国より今の方が大事なんではないですか。」
こんな論理しか成り立たないんです。
ですから、みなさんが本当に成長して大人のクリスチャンになりたかったら、理由を聞かないで、神様がそう仰ったならば、それに従っていくしかないんです。
問題は、みなさんがただ黙って、子どもの考えを捨てて、子どもの議論を捨てて、主に従うかどうかです。

クリスチャンの中には、よくこういうことを聞く人がいます。
どうしてクリスチャンはお酒を飲んではいけないのか、
どうしてクリスチャンはタバコを吸ってはいけないのか、
どうしてクリスチャンはパチンコしてないのか、
どうしてクリスチャンは遊ばないのか、

こういうつまらない議論をする人が沢山います。説明するのは無駄です。自ら喜んでイエス様に従わない人です。
最低のレベルの、子どもたちはよく「低レベル」といいますけれどもね、低レベルの信仰生活を送って、天の御国にごそごそっと入りこもうと、そんな考えを持っているからですよ。おそらく、そういう人は天の御国に入ることはできないでしょう。
本当に主を知りたかったならば、そういうつまらない議論は捨てなければなりません。
どうか、そういう議論をしなくてもいい大人のクリスチャンになっていただきたい。
大人のクリスチャンになるためには、子どもの持っている興味、関心をやめるだけです。
あの酒瓶のふたに、ゴジラに、そういうようなものを集めることが本当に素晴らしいと思いますか。大人も違ったようなものかもしれませんが、同じようなものに関心を示しているではありませんか。
しかし、そういうものは、キリストが私たちに下さる完全な愛に比べたら、本当にゴミのようなものですね。

この朝、この場所で、私たちはお祈りしたいと思いますね。
「主よ、私は今から子どものことを捨てます。そしてあなたの愛で満たしてください。」
こう祈りたいものだと思います。
祈ったら信じて、立ち上がっていただきたい。大人のクリスチャンになるためには、子どものものを捨てなければならない。後ろにいっぱいガラクタみたいなオモチャをぶら下げて、ハイ、私は大人のクリスチャンです、とは言えないんです。
子どものことを捨てることが、私たちが大人のクリスチャンとして成長する出発点になるんです。
子どもを見ていると分かります。くだらない物をいっぱい持って、「いい加減卒業したらどうだ」と言っても、なかなか卒業できないようですね。
クリスチャンも同じであります。信仰は年月だけではありません。先ほど読みました。もう教師になってもいいほどなのに、まだミルクを飲んでいる。
これじゃだめだ、と教えているんですね。どうか早くミルク瓶を置きましょう。離乳食で結構ですよ。離乳食が終わったら堅い食べ物を食べましょう。
私たちはこの聖書の言葉から自由に神の恵みをめざすことができるクリスチャンに成長させていただきたいと思いますね。それが神の愛です。
私たちには目標があります。神様の目的があります。
そこに向かって進ませていただきたいと思います。

お祈り

「おとなになったときは、子どものことをやめました。」
恵みの深い天の父なる神様、私たちに素晴らしい目的を与えてくださっています。
私たちが信仰の入口で立ち止まっていたら、そこに到達することができません。
どうか、自己中心の思いや肉の欲があれば、この先、進もうとすることが削がれてしまって、意欲を失ってしまいます。そしてイエス様とこの世の境目をうろうろと長い間続けてしまいます。このことがいかに危険であるか、イエス様あなたが教えてくださいましてありがとうございます。
子どもの興味、子どもの関心、そういうものを捨てる時、おとなへの成長のスタートをすることができ、これをしたのならば私たちは、さらに成長していき、神様の恵みをさらに経験でき、神様の素晴らしさが分かってくることでございます。
どうぞここに向かって進ませてくださいますように。
神様は少しばかりの、この世にプラスアルファしたような恵みではなくて、全く異なる豊かないのちと、全き愛を与えようとしています。これをしっかりといただいて、前進させていただけますよう心からお願いいたします。
この時を感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容、親切、ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


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