第一コリント13章「愛の章」第14回 「愛・その栄光」

イスラエルのエンゲディの崖を歩く鹿、崖の下にはきれいな谷川が流れています。

 

第一コリント 13章13節~14章1節前半
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」

お祈り

「その中で一番優れているのは愛です。愛を追い求めなさい。」
恵みの深い天の父なる神様、私たちの命よりも健康よりも富よりも、あらゆるものにまさって愛を求めるようにと教えてくださいました。それが私たちにいかに大いなるものをもたらすか、聖書の約束を見る時、私たちは震えおののくことであります。
イエス様とは、いったい誰なのか。どういうお方なのか。
イエス様、あなたは、ご自身が愛そのものであられます。
今日あなたの前にもう一度ぬかづき、愛に満ちた救い主イエス様を心から賛美し、礼拝を捧げ、大いなる喜びと感謝をもって礼拝できることをありがとうございます。
主よ、どうか、学んで知っている知識ではなくて、神を心の中に宿し、大いなる恵みに満たされた日ごとの生活へと、私たちを実際に歩ませてくださいますように、顧みと助けをあたえ、信仰に力を加えてください。
私たちが信じている神様は、生ける神でございます。
イエス様、どうか、この信仰にはっきり立って、私たちの歩みを真っすぐなものにしてください。
御心を尽くし、また私たちの魂に聖なる御霊に深い御業を成してくださることを切に願い、尊いイエス・キリストの御名によって御前にお祈りいたします。アーメン。

はじめに

最もすぐれた愛の章、第一コリント13章も最後の節に到達しました。私たちは、愛についての一連のメッセージを締めくくろうとしています。私は、この愛のメッセージの最後につける題を何にしたらいいか、心の中でイエス様に問いかけておりました。するとイエス様は私に教えてくださいました。それが今日の題になっているわけであります。
「愛、その栄光」と教えてくださいました。

人間が愛を語る時には、低俗な愛から、神の栄光に満ちた崇高な神の愛まであります。
もちろん私たちは、このコリント人への第一の手紙13章において、崇高な神の愛について、神のメッセージを聞いてきたわけです。さらに「栄光」と聞くと、クリスチャンでも分かったような、分からないような神秘的なものを思い浮かべてしまいます。
今日、皆さんに紙をお配りして、栄光とはなんですか、とおたずねしたらどんな答えが出るでしょうか。
おそらく、わけのわからないことがたくさん書いてあると思うんです。もっとも、何も書けない人もあるかもしれない。
愛も栄光も、全く何も分からないまま過ごしているのが多くのクリスチャンの姿なんです。

しかし聖書は、そういう具体性のない、分かったような分からないようなことを、私たちに伝えようとしているんでしょうか。ただ雰囲気的な、感覚的な、神秘的なものを「霊的」と呼んでいるんでしょうか。それなら、お化けとちっとも変わりがない。
決してそうではありません。もし神の愛が、分かったような分からないような、つかみどころのない、神秘的な、感覚的なものであるなら、パウロが14章の1節で、「愛を求めなさい。」とは言わなかったと思うんです。
誰が空に浮かんでいる雲を取ってこい、と言うでしょうか。もしそうであるなら、パウロのこの「愛を求めなさい」という勧めは無意味です。無意味だけでなく、不可能なことをせよ、と言っているんですから、パウロは無理なことを勧めているわけですね。残酷です。できないことをさせようとするんですから。
パウロは、キリストの愛とは何か、クリスチャンの心の中に宿る愛とは何か、ということを、ここでは具体的に、誰にでも分かるように、解き明かしてくれました。具体的に分かるようになって、「じゃあ、これを求めなさい。」と、こうお話をなされた。
私も、みなさんに、できるだけ分かるように話してきたつもりです。こんなことを言ったら怒られるかもしれませんが、この話が分からなかったら、どの話を聞いても分かりませんよ。

ほとんどのクリスチャンを見ると、聖書のことばの本当の意味を理解していない、具体的に捕えられていないんです。自分なりに適当な意味を付けて、求めているにしか過ぎない。
例えば「信仰とは何ですか」を、はっきり知らないままで、熱心に信仰を求めて、成長を求めて、勝利を得ようとしています。自分が求めているものがはっきり分からないのに、とにかく熱心なんです。こういう人は少なくないんです。
この世の中は、「ヨーイ、ドン」で走っているんでしょうけど、自分がどこに向かって走っているのか、何をしたらいいのか、分かっている人はほとんどいないんです。
クリスチャンも御多分に漏れず、「私は教会に熱心に通っています」、それだけでいいんですか。
何を求めているのか。「はい、信仰を求めています」、「愛を求めています」、「幸福を求めています」、「聖めの恵みを求めています」、みんな同じです。
それが一体何を意味しているのか、全然分かっていない。
ですから、求め始めたころは熱心です。そのうち分かるだろう、という気持ちがある。
しかし、だんだん分からなくなって、混乱していく。そして、「この先生はこう言った。」「あの先生はああ言った。」という話をするようになります。
そういう話をするようになったら、もう混乱しているんですよ。
そしてなかなか求めている恵みに到達できないと、途中で諦める。これまた多いんです。
最後まで走り続ける人は少ないんです。だから私は熱心だけでは眉唾(まゆつば)だと見ているんです。熱心なんてすぐに冷める。みなさんのお宅でもそうでしょ。あったかいお茶を沸かしても、すぐに冷めちまうでしょ。
熱心は、すぐ冷める。冷え切ってしまう。やがて、その信仰は死んでいくんです。

確かに、信仰を持って間もない人は、様々なことがよく分からない。これは自然ですよ。
しかし、ある程度年数が経っていても、何にも分からないクリスチャンが大勢いるんですよ。信仰歴何十年という方もいらっしゃいます。
ピリピの手紙がどこだか分からない。「旧約聖書のこっちのほうかな」。「先生、ピリピってなんですか」。話にならない。みなさん、そういう方はいないでしょうね。
ピリピとは町の名前です、その町に住んでいたクリスチャンにパウロは手紙を書いた。
これまで私にいろいろな相談が寄せられてきましたが、ほとんどの方が用語、言葉は知っているんですが、内容が何であるか、まったく分からないでいる。
私が知らないような言葉も知っている。しかし、それが意味していることが、いったい何なのか、まるで、分かっていない。
よく、小さい子どもが難しい言葉を言う時があるでしょ。
お兄ちゃんか誰かに聞いたんでしょ。でも意味は、全然分かっていない、ということがある。クリスチャンもね、うっかりするとそういうことが起きるんです。
信仰一つとっても、「信仰ってなんですか」って聞かれて、スパっと答えられますか、みなさん。「はい、それは信じることだと思います」そんなのは小さい子でも分かるんです。「では具体的に、何をどのように信じることですか」と言われると、何も言えなくなってしまう。何にも分からないんです。
「信じる」という人格的な営みが、どうしたら信じることになるのか、まったく、理解されていないんです。
それで一生懸命に信仰を求めていても、到達できないんです。得られないんです。
自分の具体的な信仰経験には到達できないんです。大事なことですよ。

「愛」についても同じことが言えます。多くのクリスチャンは愛について話をします。
しかし、何にも分かっていない。
「キリストの愛を求めている」、しかし実際には、本当に与えられたという自覚を持っている人は非常に少ないんです。自分の内側にキリストを宿していると、自覚している人は非常に少ないです。相変わらず暗中模索を続けている。
みなさんも、これでいいんだろうか、これでいいんだろうかという心の中の暗闇を持っていませんか。
2,3日前、霧がかかっていましたが、あんなのがかかっていませんか。
クリスチャンの心の中、365日、霧がかかっているんです。
「キリストはどこでしょう」と、探しているんです。
「愛」とは何でしょうか。
「信仰」とは何でしょうか。

クリスチャンはまずこの点を解決したいんです。力強く前進して行こうと思えば、霧は晴らさなければなりませんね。そして行くべき目的はこれだと、はっきり理解していないと、そこに向かって進めません。
タンカーがぶつかったそうですが、霧が晴れていたらぶつからなかったんではないですか。船っていうのは急ブレーキが効きませんから、水の上をしばらく行ってしまうんです。車だって急ブレーキでピタっと止まるわけではありませんが、列車でもそうですよ。私も学生時代に勉強しましたけれども、急ブレーキをかけるほど、余計に遠くまで行ってしまうんです。だから少しずつブレーキをかけるんだそうですね。
下手な運転で急ブレーキをかけると、レールの上をツーっと滑っちゃうんだそうです。

クリスチャンはまず霧を払って、自分が求めているものを具体的に知らなきゃならない。
そうでないと、健全で力強く前進することはできません。
今日のメッセージの題もそうです。「愛、その栄光」ですね。
うすぼんやりしたものでは、だめなんです。これは、私たちの具体的で人格的な経験でなくてはなりません。
クリスチャンがどうして力強く明るく生きていけないのかというと、分かっていないからですよ。分からないまんま生きているからなんです。
私たちの毎日の具体的な生活の中で、活用し、使い、実際に実を結んでいくこと、それが「愛、その栄光」なんです。
栄光というと、何かピカピカしたものじゃないかなと思ってしまうかもしれませんが、
そうじゃないんです。このことが分かって求めないと、ただの気分的、感覚的、雰囲気的なものを求めて、すべては霧のように消えていってしまうんです。
クリスチャンは長い間、このことを繰り返してきました。ですから、なかなか実を結ぶことができなかった。私たちに必要なことは、感動することもさながら、具体的に、自分の人格の中に、生活の中に、実を結ぶことです。

この季節、いちごが高いでしょう。クリスマスケーキを作るためにね。
みなさんはいちごを植えたことがありますか。私は子どものころ、いちごを植えたことがあります。なぜいちごを植えるんですか。白い小さな花を見るためですか。
いいえ、食べるためですよね。
私の家では、おじいさんが桃の木を接ぎ木して植えました。モモが熟れる前にみんな食べてしまうんです。おじいさんが干し柿をずらーっと並べて作りました。まだ渋いうちに、みんななくなってしまうんです。梅干しを作るというので、梅を干していました。まだ塩があまり効いていない。みんな食べてしまうんです。梅干しになるころは半分くらいになってしまう。そういうものですよ。

私たちは実際に実を結んでこなきゃならない。それを求めている。
キリスト教って何なんですか。雰囲気なんですか。気分なんですか。そうじゃあない。私たちの人格の中に、生活の中に、実を結んでこなければ、なんの意味もないではないですか。
栄光とはなんですか。ピカピカする光ですか。そうではない。
栄光とは私たちの人格、私たちの生活そのものの中に現れてくるんです。
このことについて、パウロもガラテヤの手紙5章の御霊の実のところで教えています。
私たちは今、「愛の章」の最後の節に到達したわけです。すでにキリストの愛について、正しい理解を持っていただけたと思いますが、なおおぼろげな方がいたら、もう一度学びなおしていただきたいと思います。
私たちが目指していることは、愛について正しい理解を持つことではありません。
正しい理解を持ったならば、実を結んでいくことを求められる。
一生懸命、教会に行き、聖書を読み、お祈りをし、ある程度知識も持ちました。
しかし、それは何の役に立つんでしょうか。
もし、私たちの内側に、実を結んでいかなかったら、虚しくなってしまうんです。
前回、前々回もお話している通りですが、みなさん自身は良きサマリヤ人になることです。それが神の栄光なんです。イエス様は「あなたも行って、そのようにしなさい」と言われました。それが神の栄光ですよ。
「この小さい者にしたのは、わたしにしたのです」と言いました。このキリストの言葉に応えること、それが神の栄光なんです。
聖書が示す愛は、非常に具体的です。そしてそのためには、必ず私たちに、愛は代価を払わせます。自分の権利や特権や主張や要求を、喜んで捨てさせます。それが愛です。愛は永遠に価値があります。そして必ず豊かな報いを与えるんです。
しかし、愛は試されます。

Ⅰ.それでは13章の本文に入っていきましょう。

A.パウロはまず、「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」と言いました。

パウロはここで、愛についての結論を語ろうとしています。
パウロはキリストの愛について、クライマックスを話そうとしているんです。
それは、愛と比べているものが今までと違っていることからわかります。
これまで、パウロは、愛の優越性を、異言や、預言の賜物や、知識や、困難を乗り越える信仰にしても、すべて私たちが地上生活で生きているあいだだけに使うものを取り上げて、比べました。不完全なものとか、子どものこととか、ぼんやりしたもの、こういうものと比較してきました。
ところが、パウロは13節では、「いつまでも残るもの」という言葉を使って、永遠的なものの中で愛を比較していることが分かります。
それらと比較しても愛はさらに優れていると言ったわけです。

ですから、愛は、最も価値のある部類のものと比べても、最高の地位を占める、と言ったんです。みなさん、愛はそれほど価値があるんですよ。
そういうふうに思っているでしょうか。
パウロは、愛は、永遠に価値あるものの中で最も価値ある一番優れているものだ、と言ったんです。

みなさん、値踏みする、っていうのがあるでしょ。これはどのくらい価値があるとか、ないとかあるでしょ。みなさんは、パウロと同じぐらい愛を値踏みしているでしょうか。
私たちは長い間、この世的な低い価値観を持って生きてきました。
ですから、愛がそんなに優れたものと思っていないんです。

ある人はこう言いました。「じゃあ、愛があれば、腹いっぱいになるか」。
どうです、みなさん。答えにくいですか。
その答えは、愛があれば腹がいっぱいになりますよ。愛がないから、世界の貧しい人々が飢えているんではないですか。自己中心な人は、自分の腹がいっぱいになればいいんです。愛のある人は自分だけでなくて、他の人の腹もいっぱいにするんです。お分かりですか。
私たちはどこの観点からものを見ているんでしょうか。愛がなかったら、人々は飢えるんです。神様は世界に、人間が不足するような食料しか与えなかったんではありませんよ。今も同じです。

ある人はこう言いました。「愛があれば病気は治るでしょうか」。
殆どの病気は、愛がないことから起きているんではないですか。愛があれば、病気になる率は非常に少なくなります。
愛がないから、私たちはいつも不満に思うんじゃないんですか。
肉体は朽ちていくもので、いつかは衰えるかもしれません。
しかし、愛があれば、心の病は完全に癒すことができます。
そればかりではありませんよ。キリストの愛があれば、私たちの朽ちるべく体をも復活させてくださることができる。

人は、愛を得られないために、自殺しているんじゃないですか。自暴自棄になっているんではないですか。愛がないから、快楽に溺れた生活をするようになってしまったんではないですか。
みなさんが愛を失ったら、今、いくら財産を握っていても、今、どんなに健康であっても、今、平安と満足と確信と、幸福な生活を送っていたとしても、
愛を失うと、すべてが全部消えてしまうんです。
このことをはっきりと確信しているでしょうか。
失ってみて初めて、人間は何が大事か覚えるんだそうです。
人間は賢くないですね。失う前に覚えればよろしいんです。

B.パウロはここで、「信仰」と「希望」と「愛」の三つを並べて比較しました。

パウロの手紙を読みますと、信仰と希望と愛の三つの友だちがあちこちに見られます。
いつも三人連れで歩いている。聖書を読みながら、それを見つけていただきたい。パウロの手紙では特によく出てまいります。

一つ、二つご紹介しますと、
テサロニケ第一の手紙1章3節で、「信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐」という言葉を使いました。ここに三人の友達が現れているでしょう。
ガラテヤの5章5節6節を見ますと、「義をいただく望み」と、「愛によって働く信仰」という言葉を使っています。これはちょっとよく見ないと分かりにくいかもしれません。
このほかにもはっきり記されていませんが、隠れたようにしてこの三人の友達が出てくる箇所がたくさんあります。
信仰と希望と愛は、友達というよりも三つ子の兄弟と言うべきでしょうね。この三つは別々に切り離すことができません。一つ一つが単独で存在しない、ということです。
信仰はあるけど希望と愛がない、ということはあり得ないというんです。
愛があって、信仰と希望がないということもありません。どれかがあって他がないということはあり得ないんです。
そうしてパウロは、この三つは「いつまでも残るもの」だ、と言っていますから、
永遠に残るものだということが分かるんですね。

1.そこで、パウロがここで言っている、永遠に残る信仰とはいったい何か。

これは、イエス様を信じて救われる信仰の事ではありません。
イエス様を信じて聖められる信仰のことでもありません。
それらの信仰は、私たちの地上生活で完結するからです。
みなさん、この地上で救われて、この地上にいる間に聖められなければ、もう無理なんですよ。だから無駄にできませんよ。

パウロがここで言っている信仰は、永遠に残る信仰、これは主と交わるための信仰、信頼のことを言っているんです。主との交わりは永遠に続くわけです。
私たちは今、イエス様と交わっているでしょうか。みことばを通し、祈りを通し、賛美を通し、礼拝を通して、聖霊の語りかけを通して、主と交わることができる。
程度や深さはその人の信仰の測りにしたがって、各々異なっているでしょう。けれども、神様との霊的な人格的な交わりによって教えられたり、慰められたり、励まされたり、行くべき道を示されたり、必要を満たされたり、養われたりするわけです。交わりを通してね。

今、家庭を見ると、心の交わりが養われなくなっているんです。
お父さんは会社からお金をもらいます。お母さんはそのお金を使います。子どもは何をするのか。遊んでいる。パッパカ。パッパカ。
ご飯ですよ、と言っても誰も来ない。食事に時差があるんでしょうかね。
24時間いつでも、誰でも食べられる台所、みたいにね。コンビニエンス台所ですね。朝早くから夜遅くまで、家族がみんな違った時間にご飯を食べている。
まあ、だんだんとそういう社会になってきているんでしょうけど、交わりがなくなってしまったんです。一緒に生活しているのに、心の交わりがなくなってしまっている。

神との交わりは、神秘的であるよりもむしろ人格的で、日常的ですね。
この交わりは聖められることによって、さらに深めることができますね。
私たちクリスチャンが健全に成長していくことができる。
これは永遠にまで続いていくんです。ですから私たちはこの地上の生涯で、神様に祈ったり、みことばを通して自分と神との交わりをする、この関係が永遠に続くんですよ。
これ、忘れちゃいけない。一番大事なこと。他のものはみんななくなっちゃうんです。それだけ残る。最も大事だと思いませんか。
自分と神様との交わり。一番大事なことを忘れてしまいやすいのではないんでしょうか。

2.次に、希望について考えてみましょう。

パウロはここで、どんな希望について語っているんでしょうか。
希望は、永遠に残る希望でなければなりません。
ですからここでは、病気が治る希望とか、仕事がうまくいく希望ではないですね。
なぜならそれは、この地上で終わってしまう希望だからです。私たちはこの地上生活を送っていますと、とかく、目先の希望だけに心が奪われてしまう。そして、永遠の希望というものを忘れがちなんです。
「神様、今度この仕事がうまくいきますように」、「神様、試験がうまくいきますように」と祈ります。しかし今では、もう試験問題をみんな忘れちゃっているでしょ。
どうです、みなさん。合格した、うまくいった、と言っても、神様に感謝するのを忘れていませんか。
病気だって治ったら、「ああ、よかった」、って言って、もう知らん顔して、ね。
薄情なものですよ。そうじゃないでしょうか。

パウロは、この地上で成功したり、名声を上げたり、そういう希望は全く抱いていなかった。彼はすでにそういうものを持っていたんです、イエス様を信じる前に。
でもそれらを、塵、あくたのように捨ててしまった、と彼は言っています。
みなさん、捨てがたいでしょう、どうですか。
パウロが求めていたのは、何なのか。
パウロは生涯、病を背負っていたようですね。痛みを覚えながら生涯を送った人ですよ。
神様に三度ほどお祈りした。「神様、この痛みを取り除いてください」
神様は取り除かなかった。「よし、きた」なんて言わなかった。
「わたしの恵みは、あなたに十分に与えられている。我が恵み、汝に足れり。」
わたしの恵みは弱いところに現れる、と言われて、パウロは「アーメン」と言って感謝したといいます。
それで、彼はどこが悪かったか、詳しいことは書いてありませんけどね。
歴史家によると、いろんなことを言われていますがね。時間がないからやめますけれども。
彼はそれを背負ったまま、「死者の中から、復活したんだ」と言っているんです。
彼は、「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」と言いました。

みなさん、私たちの生涯、何を求めて生きているんでしょうか。何年生きるつもりですか。その間に、いい思いをして、いい思いをして、いい思いをして、それを求めるんですか。そんなものは、「塵やあくたにすぎない」とパウロは言ったんです。
しかし、どうですか。私たちにはそれが塵やあくたに見えないでしょう。金、銀に見えるでしょう。あっちにも光っているものがある、こっちにも光っているものがあると、拾い集めてくる。
しかし、私たちは一番大事な希望を忘れてしまう。
讃美歌の中に私の好きな節があります。「富を求めし、塵のみ得たり」。素敵ですねえ。270番にそういう一句がありますよ。いろんな富がありますけれども、名誉もある、地位もある、財産もある、この世の富を一生懸命集めて、手に取ってみるとみんなゴミだった、というんですよ。

毎週、山のようなゴミが出されているのを見ると、人は一体何を求めて生きているのだろうかと、考えさせられてしまいます。そこに猫がきて、ゴミを引っ搔き回してね。
あなたの希望は、一体なんですか。
私たちが生涯を閉じる時、自分が得たものは何であったか、考えることができますか。
私は、生きている間に洗濯機を買ったぞ、冷蔵庫も買った、テレビも何台も買った、車も買った、家も建てた。しかし、最近雨漏りがするんです、直しておかなくっちゃ、なんて。
みなさん、笑いますけれどもね。それでいいんでしょうか。

私はある方に、亡くなる一か月くらい前ですけど、「イエス様信じたらどうですか」と聞いたんです。
「いやあ、先生、私は生活苦があるから」と言うんです。
もう、一か月しか残っていないんですよ。イエス様に任せたらどうですか。
その人は、3週間任せませんでしたね。
最後の一週間になって「やってください」と仰った。
生活苦といったって、あと一か月しかないのに、あとはみんな残った者がやるんですから。
「富を求めずに、チリ紙得たり。」
やがてみんなゴミになってしまうもの、この地上で終わってしまうものを得るために、生きて働いているとするなら、なんと虚しいことでしょうか。私たちは天国に行くとき、何も持っていくことができないんです。

ここでパウロが語っている希望は、永遠の救いの完成についての、喜びと確信の希望ですよ。みなさんは今、こういうものをあまり重要な価値があると実感していないと思います。
「先生、でも借金取りが来るから、支払いが大変なんですよ」と言ってね。そっちの方が重要かもしれない。むしろ、この世で必要とされているものを求めて、優先しているかもしれません。
しかしそういうものの価値観は、私たちの人生を、今の生き方を誤らせてしまうんです。神の国への道から彷徨い出させてしまいます。
多くのクリスチャンが再び泥沼にはまって、キリストから離れていったんです。
パウロは、いつまでも残る希望をもって行きなさい、と言ったんです。

Ⅱ.さてパウロは、信仰と希望の永遠性を話したあとで、「その中でも、愛は一番優れている」と言いました。

今お話してきた永遠的な神との交わりの信仰、この地上だけではなくて永遠までも神様のもとに行ける希望、それよりも愛は優れている、一番優れていて最大なもの、最も価値あるものという意味ですね。
なぜ最も価値があるんでしょうか。なぜ愛は、信仰や希望と同じ程度ではないんでしょうか。パウロは、どんな確かな理由を持ってこう言うのでしょうか。
パウロはここで、なんの説明もしませんでした。
それは、もはや説明の必要がないと思ったからですね。

でも私たちにとっては説明が必要だと思いますので、私は説明申し上げた方がいいんじゃないかなと思います。私の考えをお話するのではないですよ。他の聖書の箇所を読むとすぐに分かるんです。聖書がこう言っている、ということをお話します。

1.まず、マタイ福音書22章37節から40節をご覧ください。

今日は全部読む時間がありませんが、ここは有名な箇所で、みなさん、よくご存じだと思います。ここでイエス様は、聖書全体の戒めを一つの言葉でまとめました。
それは「愛」です。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」
もう一つ、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」
「愛」だ、と言ったんですね。

私が子どものころ、竹やぶから竹を切ってきて釣り竿を作ったことがある。昔は竹やぶに行って、のこぎりを持って切ってきた。そして笹の枝を切り離して一本の釣り竿をつくります。子供のころに自慢できるのは、どのくらい先の方までちゃんと残せるか、ということなんです。こんな話をしていると時間がなくなりますけど。
下手にやるとポキンと折れてしまうんです。先の方の柔らかいところまでいくと、魚が引いたときにヒクヒクと分かりやすいんです。太いままだと全然分かりませんからね。

ちょうどイエス様は同じことをされたのです。
旧約聖書の中には、たくさん戒めが記されています。当時のパリサイ人達は、さらに自分たちの戒めを付け加えたんです。613もあった。613ですよ。よく覚えているでしょう。「むいみ(無意味)」と覚えたんです。無意味な戒めをたくさん作って、あれを守れ、これを守れと民衆に教えたんですね。
そういう律法の専門家であるパリサイ人がやってきて、しかも罠をかけようとしてイエス様のところにやってきて、質問した。
「先生、律法の中で大切な戒めはどれですか」。
するとイエス様は、私がいらない枝葉を打ち払って一本の竹竿を作ったように、旧約聖書のたーくさんある戒めを、すーっと打ち払って、「それは愛です」と教えました。
人間の中にそれができない人がいますね。ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ言って、
「何が言いたいの」って聞くと、また外れたことを、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ言って。みなさんはそうじゃないですよね。一本にできる人ですよね。

「自分の全存在をあげて主を愛することと、自分と同じように隣人を愛すること」、
そういう動機を持って生きること、これがイエス様を信じる信仰であると、イエス様は仰った。キリスト教って何ですか、って聞かれたら、これですよ、と答える。

ある宣教師の人がね、セ-ルスマンがやってきた時に、「創世記から黙示録までの話をしましょうか」となってね、
セールスマンが「それは大変なんですね、分かりました、分かりました、ところで、もう帰ります」と言ったら、「だめ、帰らせない、黙示録の話まで一応聞かないと」と言ったんだって。そのセールスマンはきっともう二度と来ない。
もっと簡単にパンパンパンと、答えられないものかと思うんですよ。
セールスマンは創世記から黙示録までの話を聞きに来たんじゃないんですよ。
何年もかかって書かれた話をね。

枝葉を落としてね、イエス様は「愛だ」とそう仰ったんですね。
「愛」を失ってしまったら、パリサイ人のように律法の知識をたくさん持っていても、見かけは敬虔そうに装っていても、異言とか、預言の賜物を持っていても、パウロが言ったように、やかましいドラやシンバルと同じですよ、と仰ったんですね。
みなさんがこの愛を心に持って生きていくなら、まず、他人を羨やましく思うことがなくなります。

子どもを見ていると、なんか、自分の持ってるものより、人の持っているものの方が欲しくなるようですね。「隣の花は赤い」という言葉があります。隣の花の方が何か綺麗に見えるんですよ。隣の花をこっちに持ってきて、うちの花を隣に持っていくと、またそっちがきれいに見える。おかしいものだなあと、思います。人間て変な心理が働く。
神の愛が満ちたら、神様が自分に与えてくださったものが、どんなに素晴らしいものか感じるようになりますね。自分と他人を比較して、高慢になったり劣等感に落ち入ることもなくなります。内側が満ちないから、私たちは外側に目を向けるんです。愛が欠けていると、不足していると、それが不幸の原因になります。
みなさんの心にキリストの愛が満ちてくるなら、強い人になります。パワーのある人になります。キリストの愛は、私たちを内側から変えるんです。外側からではありません。
だから愛は最高なんです。

信仰や希望は、キリストを求めさせますね。
しかし、愛は、愛の究極であるイエス・キリストの愛を、私たちの内側に実現させるのです。
愛によって神から受けるものは何なのか、というと、愛そのものなんです。
それによって私たちは、無限の神の愛に満ちた人格を持つようになるんです。
こんなことはね、言葉で説明すると難しいんです。でも経験することは簡単です。
子どもが親に、愛を持って接してくるとしましょう。「父ちゃん、肩車してよ。」なんて言ってきたらどうしますか。「よし、来た」って言って、喜んでやってやるではありませんか。そして我が子も愛を感じているんですよ。
「これが愛だ」なんてむずかしいことを言わないでしょ。
肩車をして論文書いて、これが愛だ、なんて誰もいわない。

ところが逆に、親にいじめられ、見捨てられ、愛を経験したことがない人に、愛を分からせるなんていうのは、ほとんど不可能に近いほど困難なんですよ。誰も信用しない。
今はそういうような人が、多くなっているんじゃないでしょうかね。
物とお金で育てられ、愛を少しも味わっていない。こういう人が多くなっている。
これは人類の悲劇だと思います。
愛なんてお金で買えないんですよ。「愛」なんて書いてある大きなチョコレートを買ってきても、それは愛ではないでしょ。今クリスマスを前にして、親は何とかして子どもに愛を売り込もうとしているんじゃないですか。そうじゃないですか。これをプレゼントしておいたら、来年は言うことを聞くだろうと思ってやるかもしれない。
それは愛ではないでしょ。
子どもは見抜いていますよ。「お父さん、もっといいのをくれないと、来年はもっと暴れちゃうよ」なんて。あ、悪いことを教えっちゃったね。やらないでよ。教会って良いことを教えてくれると思っていたら、悪いことも教えるなんてね。
本気にしてやらないでね。
愛は、お金とか物の豊かさ以上に価値があるということに、人々は気づかなくなってしまっている。イエス様はこのみことばによって、人の人格の内に新しい無限の資源がある、と言ったんです。それが「愛」です。

日本では、どこかの海の中に石油がまだ埋蔵されていないかと探している。砂漠の中に何かあるような気がするでしょ。しかし、いつかは石油がなくなりますね。地球は空洞になりますよ。マントルだけ残ってね。
私たちが内側に神様の愛に満たされると、無限の資源を持つようになる。汲んでも汲んでもなくならない。
しかし愛を失っている人は、張り子の虎のようになる。中身がない。ご存じですか張り子の虎って。頭を叩くとコンコンと音がする。中身がなんにもないんです。
髭なんてはやして偉そうにしているけれども、頭をつつくとペコペコしてね。
外側は立派に装っても中身は無し。
これが現代人です。愛を失ってね、空洞の生活をしているんです。

2.次にヨハネの福音書の15章9節をご覧ください。

そこでイエス様はもう一度仰いましたね。
「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言いました。
このことばを、前後関係から見ますと、「多くの実をむすぶこと」と「喜びに満たされる」ことの関連の中でお話されています。
つまり、キリストの愛が私たちの内にあるということは、みなさんが多くの実を結ぶ源を持っているということです。喜びに満たされる源泉があるということです。
なぜ喜びがないのか。それはキリストの愛が内側にないから。
なぜ実を結ぶことができないのか。キリストの愛が内側にないから。

パウロはガラテヤの手紙5章22節から23節で、御霊の実について話をしていますね。覚えていますか。9つ記しましたね。
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」
ある神学者はこう言いました。
「ここに9つの御霊の実が書いてあるけれども、じつは御霊の実というのは愛だけなんだ。そのほかの実は、愛によって実ってきたものなのだ。」
そう言われてみると私たちはコリント第一の13章4節から7節で、愛とは寛容です、愛とは親切です、愛とは自制です、愛は喜びなんだと学んできましたね。
ですから愛は、私たちの人格形成の源であると言ってよろしい。
愛を失ったら、私たちはただの、自分の欲望を満たすために生きるだけの人間に成り下がってしまいます。神の愛を失う時、私たちは、キリストの人格の似姿を失ってしまうんです。神が私たちに与えてくださった人格的な尊厳を失ってしまうんです。人間の人格的尊厳を失ったら、もはや人間ではなくなります。
食べたいだけ食べて、遊びたいだけ遊んで、他人のことを顧みない人間より、自分を多少犠牲にしても、他の人を少しでも助けようと生きている人のほうが、人間らしい人間だとは思いませんか。神様がお創りになった人間だと思いませんか。

自分の楽しみ、自分の願い、自分の計画、自分の欲望だけを求める人には、キリストの愛はありません。それは神がお創りになった人間の姿ではありませんよ。
最も優れた物を持っていない。つまり、チリのみを求める生活なんです。

Ⅲ.それでは、愛の栄光は私たちの内に、どのように現れるのでしょうか。

「栄光」と聞くと、神秘的な光を連想する人がいるかもしれませんが、そうではありません。
先に、イエス様は、「わたしの愛にとどまりなさい」と言いました。
「そうすれば、あなたは、喜びに満たされる」と約束なさいました。
まず、神の栄光が私たちの心の内側に現れます。
それは私たちが主にあって、喜びに満たされる、ということですね。
主によって喜びを与えられた人は、その人全体が輝いてくるんです。
たとえ病床にあっても輝きます。
他にも、御霊の実の一つ一つが神の栄光の輝きなんです。平安を持っていることも神の栄光の輝きです。寛容の態度を取れることも神の栄光の輝きです。親切ができることも、善意の動機も、誠実、柔和、自制ができることも、みんなそうですよ。神の栄光ですよ。
これらはみなさんが一所懸命に努力して頑張った結果、できるようになるのではありません。みなさんの内側にキリストの愛が宿る時、自然に、容易に、キリストの愛がそれをさせてくださるんです。
こういう事が、みなさんの生活の中で形をとって現れる、というんです。
人間関係において、お金の使い方において、趣味とか時間の使い方において、あらゆる生活を最も充実したものに変えていくんです。徐々にではありますが、必ず変わります。気が付くと、自分が全く新しい人になっているということに気づくはずですね。
パウロはそう言っているでしょう。コリント第二の手紙の5章17節で、
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と彼は言いましたよ。

新しくなる、これは神の栄光です。
さらに神の愛の栄光は、みなさんを通して、他の人々の心に慰めを与えるでしょう。
喜びを与えるでしょう。希望を与えるでしょう。それも愛の栄光です。
愛の火は必ず、人の心から人の心へと燃え移っていくものです。
愛は拒むことができないんです。贈り物なら拒むことができる。親切も拒むことができるかもしれない。愛は拒むことができないんです。最も素晴らしい現象ですね。
クリスチャンはもっと愛の火を燃やしましょう。愛は燃えやすいんですよ。

最後に、神の栄光は、主を喜ばせることですね。
主が私たちに求めておられることは何か。
それは、私たちが愛の人になることです。
キリストに似た人になることです。私たちが、着実にここに向かって成長していく姿を見られる時に、イエス様は喜んでくださるんです。
みなさんのお子さんもそうでしょ。おぎゃーっと生まれてきたときは可愛かったでしょ。
風邪をひいた、熱をだした、医者に行くか、どうするか、心配が多かったでしょ。
でもだんだん大きくなると、柱に傷をつけてみたりして、大きく育ってくると嬉しいでしょ。
神様もそうなんですよ。柱の傷がずいぶん下の方だと、神様は喜べないんですよ。

さあ、これで「愛、その栄光」を正確に捕えられたと思います。

Ⅳ.しかし、正確にその意味を理解しただけで終わってはいけません。

パウロは14章1節の初めで、ちゃんと「愛を追い求めなさい」と言って、締めくくっていますね。愛を追い求めなさい、チャレンジしなさい、と言ったんですね。
この言葉は、「あなたがたはまだ愛がないから、追い求めなさい」というように受け止める方がおられるかもしれませんが、そういうことではなくて、まだイエス様をはっきりと自分の救い主として、信じて受け入れていなければ、まず、キリストの愛を求めていただきたいと思います。
けれども、このパウロの言葉は、すでにクリスチャンに向けて言われていますから、
どんなに幼いクリスチャンでも、幾分かはキリストの愛を経験しているはずですので、
パウロは、「その愛が、十分に実るまで、習得するように、熱心に追い求めなさい」と言ったんです。埋めておいてはダメだと。

イエス様のたとえ話に、一タラントを埋めておいたしもべの話がありますね。土を掘って、神様から預かった賜物を埋めておいた。神様から与えられた愛を埋めておいた。そしてあとで取り上げられた。
私たちは神様から与えられた愛がどんなに小さくても、それを大きく増えるように、また十分に深く根を張るように追い求めなさい、と教えていますね。
クリスチャンの中にはね、「私は、神様から何も与えられていない」と平気で言う人がいます。とんでもないことを言うなと思います。不信仰ですから何も実りません。与えられたものをみんな失ってしまいます。

神様は花屋さんで言うと、種しか売らないんです。「畑を耕して蒔いてごらん」。
すると、芽が出て、花が咲いてきます。いつも神様は種しかくれない。
これが大事なんです。
私たちは神様からいただいた愛を、活用しなければなりません。何度もお話していますね。みなさんよくお分かりと思います。
私たちが日常生活で、このことを思い起こして活用するか、それとも、教会から一歩出ると、イエス様のことを全部忘れてこの世の考え方で生活してしまうか、にかかっているんです。多くのクリスチャンを見ると、教会に来た時だけの信仰です。
ですから、神の栄光がどこにも現れないんです。

パウロは「追い求めなさい」と言いました。これは、「あなたの人生の最大の目的にしなさい」ということです。ですから「もう、これでいい」という時は来ないんです。なぜなら私たちの人格は、どこまでもイエス様の人格に近づいていくからですよ。
ですからみなさんが誰かから、「あなたの人生の目的は何ですか」と聞かれたら、
「愛を追い求めて、イエス様に似た人になることです」と答えましょう。
このことを見失ったら、みなさんの生涯はやかましいドラやシンバルと同じになってしまう。

さあ今日からまた、イエス様から与えられた愛を活用しましょう。十分に習得できるように熱心になりましょう。みなさんの内に外に、生活に、愛の栄光の花を咲かせましょう。これは神秘的なものではないんです。気分的でも感覚的でもない。具体的で、人格のうちに、御霊の実として、生活に、周囲の人に、神の栄を現わしたいですね。
そういうことを通して私たちは神に喜んでいただけるようになる。
みなさんと接するすべての人の心の中に、神の愛の火が燃え移っていくはずです。
こういう生き方をする人は、何をしても「栄える人」になるんです。

お祈り

「その中で一番優れているのは愛です。愛を追い求めなさい。」
願わくは、神様、あなたが私たちのために与えて下ったこの愛をしっかりと受け止め、
沢山与えられていると思っている人も、わずかしかないと思っている人も、私たちの
毎日の生活の中で、いつでも、どこにでも使うことができます。
しかしこれをないがしろにして、そのままにしておけば、それは失われてしまい、持っているものも取られてしまいます。そして神の御国から外に追い出されてしまいます。
この幸いな、最も恵みに満ちたものを与えられていながら、これを活用していない者が大勢いますがゆえに、神の栄光がいまだ現れないことがあり、どうか願わくは、神様が私たちに与えられたものは、実に具体的で、生活の中に、人格の中に結実していくものであります。どうぞこのことを深く覚えさせてください。
無責任に、ただ気分的、感覚的に捕えてしまうなら、私たちは虚しい信仰の生涯を送り、何一つ実を結ばないで終わってしまいます。
どうか願わくは、信仰を正しく理解し、正しく用いて神の栄を現わす人にしてください。この時を感謝して、尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
真部明

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容、親切、ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半
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