第一コリント13章「愛の章」第3回 「愛の特性(1) 寛容、親切、ねたまず」

イスラエルのあちこちで見られる野性のシクラメン

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コリント人への手紙第一13章4節
「 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」

<お祈り>

恵みの深い天の神様、「神は愛です」と仰いました。
イエス様はその愛をご自分でお示しになっただけではなくて、私たちの内にそれをお与え下さり、「愛」を持って生きることができるように、「愛」に満たされて生きることができるように、またこの地上にあって、今はあなたがたの敵サタンの時、悪の権威の時だと仰り、そういう世界にあっても、「愛」をもって打ち勝つことができる生活を教えてくださいました。それをお与えくださいました。こころから感謝いたします。
みことばは道徳的な教えではなくして、私たち自身のものとして、実際に生活していくことができる大きな力であります。
今日も、ただの教えを聞くのではなく、内にその「愛」であるキリストを宿して歩ませていただくことを感謝いたします。
みことばを祝してくださり、また、御霊が私たちに真理を与えて、知識としての悟りを超えて体験としての悟りを、どうぞお与えください。また、私達が信仰を持って受け止めることができるように、この時を顧(かえり)みてください。この時を主にゆだね、卑し愚かな者を助け、みことばをイエス様が語ってくださることを切に願い、尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

はじめに

今日から13章4節、「愛の特性」、愛とはどういうものかということを聖書から考えたいと思います。

時間の許される範囲でお話したいと思いますので、3つお話したいと思います。

➀愛は寛容である  ②愛は親切である  ③愛は人をねたまない
この3つのお話をしたいと思います。

私たちはすでに愛について2つのことを学んできました。
第一には、「愛は最高のものである」、ということ。
第二には、「もし愛がないなら」、私たちの存在や生活のすべてが無価値で、無意味なものになってしまう、ということでした。

そして今日は4節から、パウロの愛についてのもう一つのテーマ、「愛の特性」についてお話ししていこうと思います。

クリスチャンにとって大事なことは何かと言いますと、聖書の話を聞いて知識として知ってそれで終わってしまう、ということだったら非常に残念だということです。
日本人は、宗教というよりも儀式に弱い民族だと思うんです。
信仰を心で捉えて、実際の生活の中で行おうとするのではなくて、儀式として終わってしまいやすい。教会に来ることが一つの義務だ、と思ってしまうんです。

世界の歴史を見ますと、中世の終わりごろ宗教改革がありました。この宗教改革が実際に起きたのは、北ヨーロッパと西ヨーロッパでした。イタリヤとかスペインのような南の方では、あまり起きなかった。どうしてかというと、確かに南の方の人は良く学問をしました。知識はどんどん出来たんです。けれども、その学んだことを自分のものとして行おうとしなかった。
一方、北や西ヨーロッパの人達、ドイツとかオランダとかの人たちは、聖書に書かれていることを、自分でやってみよう、という気運が強くなったんです。それが宗教改革になって現れてきている。

日本のクリスチャンを見ると、やってみようという機運があまりみられない。教会にいって話を聞いてみよう、とは思うかもしれませんが、そして、心に何かを感じるかもしれませんが、やってみようとは思わない。
愛についても、話を聞いて納得しますが、それで終わってしまう。
今日は時々、「やっても無駄だ」、というお話をしますけれどもね。
初めに「やんなさいよ」って言っておいて、次に「やっても無駄だ」という話をして、矛盾するようなことかもしれませんが、よくその違いを知っておいていただきたいと思うんです。

この信仰を、儀式的なもの、感覚的なものにとどめておいてしまったら、全部が無駄になってしまうんです。愛というのは、そういうものではないからです。まず、このことを心に留めておいていただきたいと思います。

神様の言葉を聞いたなら、みなさんが生活の中で活かしてみよう、できてもできなくても、やってみるというのが、非常に大事なことなんです。
日本のクリスチャンの中に、あるいは日本の人達に、聖書に書いてあること一つでいいから、たとえば、「愛は寛容である」ということが、一億三千万の人の心に湧き上がって、やってみよう、となったら、変ると思いませんか。
みなさんのご家庭でも、家族がみんな、「愛は寛容」をやってみよう、ってなったら変わると思いませんか。
しかし、「愛は寛容ですよ」と言ってるだけでは、なんにも変わりません。
今、教会の最大の問題は何かというと、聖書に書かれていることをやってみようという気持ちがない、ということです。

Ⅰ.パウロは4節から8節において、愛の特性を様々な面から分析しています。

パウロは、ちょうど太陽から送られてくる光がプリズムに当たると七色の光に分光するように、愛を分析してその内容を詳しく説明しようとしているんです。

私たちはこのパウロの愛の分析を、いろいろな角度から観察することができます。
このあいだ、外を歩いていましたら、大空に七色の虹がかかっている。
虹はいろんなところで見ることができますね。大空にかかっている虹もあるし、理科の実験室でプリズムを使って七色の光を見ることもできる。三角のプリズムに太陽の光を当てると七色に分かれる。分光というんですけどね。
また、庭先でジョウロで水を撒いていると、そのあたりに七色の虹が出てくる時があるでしょ。シャボン玉でも七色に見える時があるでしょ。
不思議な顔をしていますけど、あるんですよ。

パウロの愛の分析を見ましても、いろいろなふうにみられるなあ、と思います。

まず第一に、積極面と消極面とに分けて考えることができます。
愛の積極面では、寛容であるとか、親切であるとか、真理を喜ぶとか、七つの積極面を彼は記しています。
消極面を見ると、ねたまずとか、自慢せずとか、高慢になりませんなど、八つの愛の特性を示しています。

また、別の面から見れば、パウロは一つの真理の表と裏を語っているようにも見えます。
例えば、「寛容」と「忍耐」、「親切」と「悪を思わず」、「ねたまず」と「自慢せず」、といった具合です。親切な人は悪を思わないし、ねたまない人は自慢しないですからね。

もっと別の面から見つめますと、最初の二つ「寛容と親切」は<愛の積極性>、
次の三つ、「ねたみません、自慢しません、高慢になりません」は自分に対する愛の特性、自分に向かうところの愛の性質、すなわち<愛の対自性>ということができるでしょうか。

さらに、次の5節の4つ、「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、
人のした悪を思わず」は、他人に現わされるところの愛の特性、ですから<愛の対他性>ということができるでしょう。

6節と7節の5つ、「不正を喜ばず真理を喜びます、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」は、神様に対して現わされている愛の特性、すなわち<愛の対神性>、耐震、地震じゃないですよ、対神様性です。

最後の8節、「愛は決して絶えることがありません」
これはまあ、その時が来たらお話したいと思います。「愛は決して絶えることがない」というのは、愛は決してやり損なうことがない、という意味がこの言葉に含まれているんですが、<愛の永遠性>を示しているでしょう。堅実性、あるいは確実性と言ってもいいと思います。

さて、虹はどのような場所から見ても美しいものですね。虹を見て、汚いなあと思う人はいないでしょ。愛の特性もどこから見ても素晴らしいものですよ。
ところが、虹というものはやがて消えていく。写真のフィルムにでも収めておかないとね。
私たちがどのような観点からパウロの愛の分析を学ぶにしても、学んで眺めているだけでは、美しさは消えていってしまうんです。愛は消えていくんです。

みなさんもそういう経験をしたことはないでしょうか。
教会に来て、「今日は愛がいっぱいだ」と思って家に帰りますけれども、帰ったとたんにイヤなことが一つあると、パーっと消されてしまうでしょ。
道の途中で石に躓いて転んで、おでこを打っただけでも、愛がどこかに飛んで行っちゃうんじゃないですか。
ちょっとしたところの拒絶とか、躓(つまず)きとか、理解されなかったことで、私たちの愛はとたんに消えていってしまうのではないでしょうか。
ちょうど、虹がきれいだなあと思っているうちに、風が吹いたり、太陽の熱でみんな消えてしまうように、私たちの心の中に愛の感動があるのに、わずかのショックで消えていってしまう。そういうこと、あるでしょ。

教会に来ていると、「今日こそ、今週こそ」と思いますが、その思いは何日持つんですか。
今日ぐらいは持つでしょう、なんとか夕方ぐらいまでは。月曜日はまだ半分くらい残っていて、火曜日はどうですか。水曜日になると、もう消えていってしまう。
そんなふうになるんじゃないですか。

ですから、私たちは愛の分析を学んで、その意味を知って、感動をいつまでも覚えておこうと思っていても、ダメだということです。忘れてしまう。消えていってしまう。
どこの空に虹がいっぺんかかったら、ずっとかかりっ放し、というのがありますか。
ペンキ屋さんがやってきて、大空にペンキで描こうといっても無理なことなんです。

ムーディーという人はこう言いましたよ。
「願わくは私は、大空に、消えない電光掲示板にヨハネの3章16節を描きたい」
と言いましたよ。消えない電光掲示板なら、私だったら聖書の言葉を全部描きたいですよ。だけど、そんなことはできません。
私たちはどんなに感動を覚えておこうとしても、知識として覚えておこうとしても、記憶にとどめておくことはできないんです。自分の心の中に受け入れることが必要なんです。

私たちはこれから一つ一つ愛の特性をお話していこうと思いますが、それらは別々に受け入れるものではないんです。今日は寛容だけ、明日は親切だけ、そういうんじゃないんです。
みなさん人参を食べる時、今日は繊維だけ、今日はビタミンAだけ、っていうようには食べられないでしょ。人参を食べる時、みんないっぺんに入ってくるんですよ。
愛を食べればみんな入ってきてしまうんです。ですから間違わないで頂きたい。
これから愛の特性について一つ一つお話しますけれども、私たちは別々に受け入れるんじゃないんです。

あるクリスチャンたちは、「寛容に振る舞いましょう」と思いますね。「よし、寛容になるぞ」なんて思って帰るんですよ。「今週は親切にしよう」、「今週はねたまないようにしよう」なんて思っても、ダメなんです。「ねたまない」だけでも涙ぐましい努力が要りますよ。その結果はみなさんがご存じです。

太陽は私たちに七色の光を送ってくださる。でも、太陽は別々の光を作ってそれを送っているんですか。「今日は、赤をやるかな」、「今日は、紫にしよう。ちょっと黄色が足りないなあ」って言って、絵の具かなにかで調合しているんでしょうか。
そうじゃないでしょう。
おそらく太陽は、水素やその他のガスを燃焼させることによって、光を発光しているんです。太陽は、ただ一つのことをしているだけです。それは燃焼している。

私たちも、これらの愛の特性の一つ一つを自分の内側に作り出そうとしても、不可能なんです。「今日は柔和でいこう、今日は寛容でいこう、今日は親切だ」とやっても無理なんです。

これを可能にするのは、イエス様が私たちの内側に住んでいて、私たちの心を燃やしてくださる時だけです。燃えるとエネルギーが出てくるんですよ。私たちの中にある、愛の特性の光を放つようになる。

キリストを内側に宿して、イエス様に信頼する。
このことについてはすでにお話しましたね。ですから、今日は省略させていただきます。

Ⅱ.そこで次に進んで、愛の特性についてお話させて頂きたいと思います。

A.まず、「愛は寛容」とパウロは言いました。

寛容という特性は一つだけのことではなくて、多くの意味を含んでいます。
親切、というのも寛容の中に含まれているでしょうね。怒らず、というのも寛容の中に含まれているでしょうね。人のした悪を思わず、というのも含まれますね。
人のした悪をいつまでもいつまでも心の中で憎らしく思いながら、寛容でいることはできませんね。パウロは「愛」を分析したことはしたんですけれども、言葉上の定義を綿密にしたわけではありません。
「寛容」とは何ですか。
相手を受け入れるという、相手に対して示される愛の態度のことなんです。
この寛容というのは、確かに相手がいなければ寛容を示すことはできませんけれども、寛容の最も大事なことは何かというと、いかなる状態の相手であっても、受け入れていくことができるための、自分の内側の備えとしての、愛の特性のことなんです。

分かりましたか。分かりにくいでしょ。分かりにくいから、易しくお話しようと思って考えてみました。

みなさんキャッチボールをしたことがありますか。
今頃は女の人でもね、柔道をやったり剣道をやったりする時代ですが、キャッチボールをする時にキャッチャーの人が、ミットを持って腰を上げて、「さあ、こい」って構えるでしょ。あれですよ、「寛容」というのは。
ピッチャーが球を投げてくるのを、受け止めようと思ってミットを持って身構えるでしょ。受け止める準備をするでしょ。これが「寛容」なんです。お分かりになりますか。
余計に分からなくなってしまった人があるかもしれませんね。
つまり、心の準備、構えて、ちゃんと受け止めるよ、という心の準備なんです。
どういう球が飛んできても受け止めるよ、という心の準備を、寛容と言います。

この備えは確かに、相手がいて存在するものですけれども、その方向がどっちでも、
自分の魂を強く固めて、どんなことが起きても大丈夫だよ、という心の強さというか、広さというか、受け止めることができるよ、ドンと来いよ、そういう備えですね。
みなさんどうです。あんまりドンと来るとひっくり返ってしまいますか。
忍耐を持って、愛を持って、赦しを持って、受け止めることができる心の備えのことを、「寛容」というわけです。
ですから「寛容」は相手に対してですけれども、重要なことは、自分の側にその心の準備ができているか、ということです。
心の準備ができていない時に、何か変なことを言われると、カッとくるでしょ。頭の先にグサっと刺さるでしょ。
だけど、心の中に備えがあれば、ちょっとくらい言われたことでも、受け止めて傷つかないでいられるでしょ。お分かりですか、これ。

キャッチャーもそうですよ。
「まだだよ」って言っているうちにビューンと強い球を投げられて、ゴーンと当たって、それで喧嘩になるんです。
「寛容」というのは、準備がよくできている、ということです。
そうすれば多少嵐がやってきても、ピタっと受け止めることができる。

キャッチャーというのは大変ですよ。変に受け止めると、突き指したりするでしょ。
球がバーンと来ても真ん中で受け止めると、少しはジーンとしますけれども、あんまり痛くないんです。逃げ腰でやると、変なところに当たって、膝とか顔にはね返ってあざだらけになるんです。これはね、ちゃんと受け止める準備ができていないからです。

「寛容」というのは、ちゃんと受け止める心の準備ができていることをいうんです。
私たちは毎朝、心の準備ができていないでうろうろしていて、そのうちどこかに躓いて、腹が立って、誰かに当たってみたりってこと、ありませんか。

「寛容」というのは、むやみやたらにニコニコしているだけじゃありませんよ。しっかりと受け止める準備ができているということです。どんなことが起きても揺るがない。
イエス様が与えてくれる平安と、取り乱すことがない冷静な理性、沈着さ、穏やかさ、これが「寛容」という意味です。これでお分かりになりますか。一晩考えたんですけれどもね。

このような「寛容」は、この世の人の中にはあまり見られません。
しかしイエス様の中にはしばしばそれが見られます。
イエス様は、非常に厳しい怒りを現わされたことがあった。縄を編んでムチを作られた。
その厳しい怒りを現わされた時も、イエス様は冷静さと沈着さを持っておられた。
忍耐と平安を保っておられる。

私たちは、怒り始めると見境がないでしょ。お皿を投げる時に、みなさん冷静に投げますか。これ、昨日買った高いやつだから、これじゃなくてあっちにしよう、なんてないでしょ。みなさんはなさらないでしょう。でもなさる人もあるかもしれない。
「寛容」というのは嵐の中でも、ビクともしない大きな岩のような心の状態なんです。
イエス様には、それがある。

また、「寛容」とは、どんな泥水、ゴミ水、汚水を飲み込んでも浄化してしまう大海のようなものです。

日本の湖水は、生活排水でひどく汚れているそうです。それは底が浅くて、狭くて、浄化能力が非常に乏しいということでしょう。人間が引き起こしてくる汚水に、湖水は汚染されていくわけです。
みなさんも一日生活すると、イヤな言葉、傷つく言葉とか、態度とか、たくさん浴びせかけられたり、浴びせたりするわけです。
しかし、もし私たちがこの大海のような大きな浄化能力をもっていたなら、神の愛に満たされているなら、全部それを浄化してしまうことができる。
海はすごく浄化能力を持っていますよ。あの太平洋と大西洋を一人で汚してごらんなさい。大変ですよ。家の前の川を汚すのは簡単かもしれませんが。
しかし、私たちにその浄化能力がないとすると、それらの言葉や態度に打ちひしがれたり絶望的になったりするわけですね。

私たちは寛容な人になろうとして努力しても、寛容な人になることはできないんです。
太平洋は努力していますか。波がザーッとやってくるのを、あれ、努力してやっているんですか。
いっときは努力で寛容になれるかもしれませんが、それはいっときです。
世の中を見ても、寛容に見える人がいますね。でも本当にその人が寛容であるわけではない。

寛容は神の愛がもたらす特性なんです。
ですから、私たちは「今日から寛容になろう」なんて思わないことです。どうせ、出来っこないんですから。
何でも良い話を聞くと「よし、やってみよう、三日だけやってみよう」なんて思う人がいるんですね。何で三日なのか知りませんけど。
すぐ決意する人がいます。やっても無駄なんです。
「寛容」は、自分の決心や努力ではできない。そのぐらいのことができるんなら、この世の中は、寛容な人で溢れているはずですよ。

寛容な人になろうとしないで、キリストの愛にとどまることです。キリストにあなたのすべてを任せて、彼に信頼することだけを心にとめなさい。そうすれば、イエス様の愛が私たちを変えるんです。

私は、神様に認められるように、良い人になろうと頑張ってきた人を、何人も見てきました。今も見られますね。
彼らはよくこういうことを聞いてきます。
「先生、私はいつも一生懸命に努力しているのに、どうしてイライラしていなければならないんでしょうか。どうして人の言葉で傷ついていなければいけないんでしょうか。」

私の答えはいつも同じです。
「それはあなたがキリストの十字架から離れて、キリストの愛にとどまることをしないで、キリストのみことばに信頼することをしないで、頑張っているからですよ。」
しかし、彼らは口をそろえてこう言います。
「だって先生、もし私がイエス様に信頼するだけで、一生懸命に頑張らなかったら、私はダメな人間になってしまいますよ。」
みなさんもそう言うんじゃないですか。
私はこう言いますよ。
「ダメな人間にならないですよ。あなたは、もうダメな人間なんです。もうダメな人間だって気づいていないんですか。これからダメになると思っているんですか。そうじゃない。あなたは、もうダメな人間になっているんです。」とね。
自分はダメな人間だと思っていないんです。だから私が目を覚ましてあげましょう。
もうダメな人間なの。ダメな人間がいくら頑張ったって、ましな人間になりはしない。
自分がダメな人間だと認めたくない。だからそうやって頑張って苦しんでいられるんです。
もし、みなさんが本当にダメな人間だと思ったら、もう頑張らなくなるでしょう。
そう思いませんか。

みなさんの中にも、きっと、そういう真面目な人がいるんです。
良い人になろう、立派な人になろう、優れた人になろう、寛容な人になろうと努力をする。
しかし、一向にそういう人になれない。
「自分がダメな人間である」ということを認めて、イエス様に全面的に信頼すれば、これほど気楽に過ごせる道はないんです。
気楽、という言い方がいいか悪いか分かりませんけれども。
これが分からないから、自分で頑張ってやっている。立派な人になろう、立派に見える人になろう、と頑張っている。
パウロは「愛を求めなさい」とは言いましたが、どこを見ても「寛容な人になりなさい」とは言わなかった。
「愛は寛容です」とは言いましたが、「寛容な人になれ」とは言わなかったんです。
「さあ、頑張りなさい、寛容な人になりなさい。」とは言わなかった。
「愛を求めなさい」とは言いました。愛を持っていると、寛容は、その人のものになっていくんです。これを間違えちゃだめですよ。

B.次に、「愛は親切です」

ここに「親切」と訳されていますが、このもともとの言葉は「クレースチュエタイ」なんですが、この言葉は聖書の中で、ここにただ一回しか出てこないんです。
しかも、これはどうもパウロが造った造語であると思われます。
パウロはね、自分で言葉を造っちゃうようなんですね。だから、辞書を引いても出てこないんです。英語の辞書を引いても出てきません。
これはおそらくパウロが造った造語なんです。彼はね、時々いろんな言葉を造っているんです。だから辞書を引いても分からない。

パウロはここで愛の特性の一つとして、「クレースチュエタイ」という言葉を使って何かを意味しようとしたわけです。
この言葉はギリシャ語で、「有益」とか「やさしい」、あるいは「親切」を意味するクレーストスという言葉から造られていると思われます。
ですから、ここでは簡単に、「親切」と訳してしまったものと思われます。
間違った訳ではないんですけれども、パウロが意味していたことを十分に訳していたか、というと疑わしい。

聖書というのは難しい。訳するというのは難しいんです。
一度も雪が降ったことがないところで、罪は雪のごとくイエス様によって白くされる、と訳されても雪を見たことがない人が、雪が何色をしているのかは分からないでしょ。
ですから、ある宣教師は、ヘブル語で聖書にそう書いてあっても「罪はどんなに真っ赤であっても、イエス様はヤシの実のように真っ白にされる」と訳した。
聖書にはそう書いてないですよ。だけど、その方が意味が分かるでしょ。訳する、というのは右から左に置き換えるだけではないんです。難しいと思いますねえ。

パウロが言いたかったことはこうなんです。
私たちがただ一度だけ通過していくところの地上の生涯において、いろんな人と接触しますよね。その接触するすべての人、すべてのことに対して、積極的に具体的に愛の行いをしていくべきだ、これが「クレースチュエタイ」という意味です。これがパウロがいう「親切」という意味です。
「小さな親切運動」の親切とは違う。

みなさんは、みなさんのご家族とこの地上で、ただ一度出会ったわけでしょ。
みなさんは、ご近所の方とこの地上でただ一度出会うわけでしょ。
人生の中には、忘れることができない人というのが何人かいますね。
職場の人であれ、学校の友人であれ、私たちはこの地上の生涯をたどりながら、ただ一度だけ接触する人達というのは大勢いるわけでしょ。
パウロはそういう人達に、自分の最善を尽くして愛の行動をしていくことを、「親切」だと言ったんです。

じゃあ、それをどういうふうにしてやったらいいんだろうか。
パウロは、ローマ人への手紙の12章21節で、「善をもって悪に打ち勝ちなさい。」と教えました。これが親切。
その前の20節を見ますと、「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。」と言いました。
これが聖書でいうところの「親切」です。

このような心の性質は、私たちがいくら努力しても修行を積んでも持てるものではありません。キリストのアガペーの愛、十字架の自己犠牲的な愛、が与えられる時、可能になるんです。

みなさんは、敵対して来る者に対して、生まれながらの感情で反応していないでしょうか。意地悪してくる人に対して、どういう感情を持ちますか。生まれながらの感情で、すぐに反応してしまうでしょ。怒りを感じるとか、憤りを感じるとかなるでしょ。

私たちはどうすれば、神の愛の性質でそれを受け止めることができるんでしょうか。
これは努力して得られるものではない。
いつでもそういう受け止め方ができる様に、心がけていればできるんでしょうか。
心がけの問題でしょうか。
私たちは、しばしば、そうしなければいけないと分かっていながら、できないことがたくさんあるでしょ。ここで腹立てちゃいけないとか、ここで角出しちゃいけないとか。

パウロも同じことをローマ人への手紙7章18,19節で言っています。
「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」
本当にそうです。

私たちの心の願いは「寛容」で「親切」であることでしょ。
当たり散らして、みんなを苦しめてやろう、なんて思っている人なんていないんです。
でも、結果的にそうなっちゃうこともありますね。
ですから、これをできないようにしているのは、内側の罪の性質、罪の根だとパウロは言ったんです。私たちの内側の罪をそのままにして、いくら寛容な人になろう、親切な人になろうと思っても不可能なんです。

渋柿の枝が一生懸命に、「今年こそ甘柿になろう」と思っても性質が違うから無理ですね。だから木を切って、甘柿の枝を接ぎ木するんでしょ。
性質を変え、私たちの内側にキリストの血潮が注がれ、聖霊によって清められ、キリストに全く信頼するときに、私たちは変えられるんです。
私たちは渋柿。イエス様は甘柿。接ぎ木されると甘柿になる。そうですよ。
クリスチャンは、あういう人になろう、こういう人になろうという目的を持って生きています。でも、イエス様に信頼しよう、より頼もうという目的を持っている人は非常に少ないと思うんです。そういうのは、もう目的にならないと思っているのかもしれない。

「愛は親切です」という時、これはキリストのように生きる、ということを意味しています。
「クリスチャンはね、みんなイエス様のように生きるんですよ。」と話しすると、
「わあ、そんなことは無理だ。」とみなさん思うでしょ。
「みなさん、イエス様のように生きるんですよ。それがクリスチャンの姿ですよ。」と言われたらどうします。
「わあ、私はとても無理です。先生ごめんなさい。」なんて言って帰っちゃう。

けれども、ヨハネはこう言いましたよ。ヨハネの手紙第一3章3節で、
「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが聖くあられるように、自分を聖くします。」
「キリストに対するこの望み」とはなんですか。それはキリストの再臨の時に、私たちは栄化されて天の御国に入れられるということ。そういうことを望んでいる者は、イエス様が聖くあられるように自分を聖くする、と言ったんです。

但し、これは自分の力でキリストのようになることは不可能です。私たちの内側にキリストが満ちて下さる時に、イエス様によって歩む力を持つ時に、そうなる。
かつて、ペテロがキリストをまっすぐに見つめていた時、ガリラヤの湖水の上を歩いて行ったではありませんか。
しかし、彼の心の中に不信仰の思いが忍び込んだ時に、彼は水の中に沈みかかった。
イエス様を心のなかに宿して歩けば、不思議なように、不可能なことができるようになる。できないことができるようになる。神様は私たちにその力を下さるんです。
だからパウロは、この地上で会うすべての人に、私たちができる最善の愛の行為をしましょう、と言ったんです。
それはあなたの力ではできませんよ。イエス様があなたの内側にいると、自然にそうなる。

C.第三番目、愛は「人をねたみません」。

ねたみは、神様の愛と正反対なものです。

ねたみは自分中心から出てくる、貪欲(どんよく)であるとか、自己憐憫(じこれんびん)であるとか、嫉妬心、こういうものが入り混じった執着心の強い感情です。
ねたみって入り混じっているでしょ。

みなさん、ねたんだことありますか。
赤ちゃんを見ていると、人間て生まれながらにしてねたみ深いんだなあと思います。
赤ちゃん、素直じゃないですよ。満一才ぐらいになるとはっきりしますよ。
私のことを言っちゃ何ですけれどもね、恥ずかしいから言いたくないんですけれどもね、兄弟が何人かいると、上の子が大きくなると下の子に手がかかる。
そうすると上の子がねたみますね。

「お母さん、こっち向いて」とか、「僕も抱っこして」とかね。
お母さんが大きい方を抱っこしていると、今度は小さいほうがねたみます。
母親の話によるとね、「夜、眠れなかった」と言うんですね。
弟と私の真ん中に寝ていてね、親の顔をこっちに向けると、向こうがこっちに向けって言ってね、親が寝られやしないっていうんです。
お笑いになりますか。
こっち向いてあっち向いて、早く寝てくれないかなあ、って思ったって。

アガペーが自己犠牲であるのに対して、ねたみは自己中心の強烈な愛ですよ。
母親は自分のものだ、向こうも向こうで自分のものだ、ってね。
父親は、ボケーっと見ていたらしいんですよね。
「早く寝ろ」なんて怒られてね、とうとう怒られて寝ちゃうんですね。

ねたみは、キリストによって聖められない限り、私たちの心の中で一生燃え続けるんです。
ユダヤ人がイエス様を十字架にかけたのも、ねたみですよ。
ねたみは、赤ちゃんからお年寄りまで持っている罪です。私たちの人生は、ねたみによって焼き尽くされる。もし、私たちがねたむことから完全に開放されたら、どんなに快適な心の自由を楽しむことができるでしょうか。

ねたみはね、どういう時に起きるかというと、説明しないでもみなさんよくご存じでしょうが、自分が他人より劣っている、負けていると計算したり、そう感じるところに起きてくるんです。
そして、そこに自己中心の自尊心が芽を出すと、必ず起きてくる。
学校の成績でもそうですよ。財産でもそう。仕事の能力でもそう。自分が他人をグーンと引き離して、ずーっと高いところを進んでいる時は、ねたみは起きないんですよ。
しかし、自分が人一倍努力したのにその努力が認められず、他の人が良い評価を受ける時、たちまち私たちの心にねたみが生じるんです。

自分が確信を持って生きている時は、ねたみは起きません。
しかし、確信のない生き方をしている人は、ちょっとでもいいめをしている人に出会うと、すぐにねたみを起こすんです。
着ている着物を見ても、住んでいる家を見ても、乗っている車、子供の成績、買ってきたもの、食事、遊びに行くところ、顔の造りから背の高さ、髪の毛が多いか少ないか、どんなに些細なものもねたみの材料になるんです。
ねたみは私たちの平安を奪います。人格的なバランスを狂わせてしまうんです。
ねたみは、私たちの魂も骨も朽ち果てさせてしまいますよ。

エステル記に出てくるハマンという人がいます。
王様に称賛されたユダヤ人、モルデカイを激しくねたみました。
ハマンは奥さんに、「あなたはモルデカイに勝てない」と言われて自滅してしまった。恐ろしいでしょ。ねたみは自分を滅ぼしますよ。

イスラエルの王様にアハブという人がいました。
自分のお城の近くに、素晴らしいブドウ園を持っていたナボテという人がいたんです。
彼はナボテをねたんだ。
「あれを私のものにしたい。売ってくれないか。」
ナボテは、「いいえ、神様がくださったものですからお譲りできません」と言ってそれを拒んだんです。
すると、アハブはご飯も食べないでベッドに伏して、ふてくされて、なんか子供みたいですね。ねたみは、骨も魂も枯らしてしまいます。

私たちクリスチャンも、他人と比べて生活するようになると、他人の評価を気にする生活をするようになると、必ずねたみの穴に陥って出られなくなります。
ねたみというのはね、コールタールのついた着物に火が付いたようなもので、いっぺん火が付くとなかなか消えないんです。吹き払っても中々消えない。
私たちは、神様の前で働く、神様のために働いているんだ、という確信を持たなければならない。
たとえば、二人並べて同じ仕事をさせてごらんなさい。
最初は自分の仕事をします。だんだん隣を気にする。やがて、互いを比べ合って競争するようになる。相手が自分より上手に早く出来るようになると、面白くない気持ちになる。
このように、ねたみというのは、自分の心が神よりも人に向けられる時に、容易に起きる。非常に卑しい動機です。

ねたみの心を持っている人をよく見ると、面白いことが分かってきます。
私もいちいち見ているわけではありませんが、必ずこういうことが起きてくる。
例えば、こう言いだします。
「自分はあれで負けているけど、これでは私の方が勝っている」
「計算では遅いけど、腕相撲では勝つんだ」って言うんですよ。
必ずこうなるんですけど、そういうことってありませんか。
別のことで切り返そうとするんです。つまり、もうじっと我慢していられない、自分の心がねたみを抑えきれなくなってきているから、取り戻そうとするんですね。

私たちがねたみから解放されるためには、どんな場合も「神に仕える」という信仰を持ち続けることです。強かろうと弱かろうと、「神に仕える」という信仰から離れると、私たちは心の確信を失ってしまって、ねたみが侵入してくるんです。
あの人のようになりたいとか、自分よりも劣っているとか、そういうことを考えない。
ひたすら主に仕えることに全力を尽くしている、全き心を持ってイエス様に仕えている、そういう生活をすることです。これしか、ねたみから解放される道はない。
みなさんの信仰がこの確信に到達するときに、たとえ周囲の人々がみなさんを追い越していっても、慌てることはない、焦ることはない。
人々をねたまず、落ち着いた平安を持つことができる。

もし、私たちがねたみから解放されたら、どんなにゆったりと生活することができるでしょうかね。見栄を張らずに、マイペースで、充実した生活をすることができる。
ねたむから、不必要なものをどんどん買い込むんです。そしてアクセクするんです。
ねたみは、人を虚栄的な生活にさせます。自分の本当の姿以上によく見せようとするんです。自分の真実な姿を認めたくないんです。
これが自分を破滅させるんですよ。虚栄心がどんどんつのってくる。そしてついにゴム風船が張り裂けてしまう。

イソップ物語にこんなのがあるでしょう。
カエルの子が井戸から飛び出して、野原で大きな牛を見た。
帰ってきてお母さんに報告した。
「おかあちゃん、すごく大きな生き物がいたよ。」
井戸から出たことがないお母さんは、大きく息を吸って、
「これぐらいかい?」と言ってお腹を膨らましました。
「おかあちゃん、そんなもんじゃないよ」
「じゃ、これくらいかい?」
「イヤ、もっとだよ」
「これくらいかい?」
「いいや、もっと大きかった」
大きく息を吸い込んでお腹を膨らませていくうちに、バーンとお腹が張り裂けてしまった、という話です。

見栄を表していますね。私以外に私より大きいものはないはずだ、ということが自分を滅ぼしてしまった。
人に負けたくない、あの家庭に負けたくない、自分はもっと上に登れるはずだ。
こう思って自分をもっと大きく大きく、カエルのように見せたいんでしょ。
そして、ある日突然破滅してしまう。
大きな家を建てるのも結構、高級車を乗り回すのも結構、昇進するのも結構。
しかし、それが自分の実質以上の圧力を持ってあなたを押さえつけ、それが生涯の重荷になってくる。一生涯あなたの重荷になって、自ら破滅していく人は、少なくない。
要は、ねたみがこれをさせているということです。

ねたみから解放されている人は、どんなに幸せでしょうか。ねたみから解放されている人は、ひたすら主だけを見上げて、主だけに仕えて生きている人です。
ここに愛の秘訣があるのです。パウロがそれを教えてくれた。

今日は三つだけお話しましたね。
「寛容」と「親切」と「ねたまない」。
どうか、「よおし、今日からこれをやろう」なんて思わないで、まずイエス様に全く信頼しましょう。そして、イエス様の愛にとどまり続けるなら、自然に愛の七つの光がみなさんのものになるんですよ。

この奥義を、是非ご自分のものにしていただきたい。
私たちの性質になってしまうほど、深く自分のものにしていただきたい。
キリストを心に宿すんです。七色はみなさんのもの。
「寛容に、親切に、ねたまない」、これやろうと思ってもダメですよ。
毎日、「主よ、私の内側にいてください」と祈ってください。
そうするなら、私たちには、七色が輝きます。

<お祈り>

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。」
恵みの深い天の神様、イエス様はいかに最高の奥義をもって、私たちを導いていてくださっていることでしょうか。
イエス様、あなたの愛とあなたの命、あなたが私たちの心の王となってください。
いつも私たちの内にいてくださいますように。
イエス様がいてくださらないと、寛容で、親切で、ねたまないようにして、一生懸命努力して、決心して、立派な人になろう、認めてもらえる人になろうとしても、これがどんなに重たい事でしょうか。
これに引きずりまわされて、私たちはもうくたくたになってしまいます。
しかし、イエス様が内側に宿ってくださるならば、主は七色の光を与えて導いてくださることを感謝いたします。イエス様にその秘訣があることを、心に留めさせてください。
そして、今週も主を見上げて、あなたに仕え、あなたのために働いていることを教えてください。
周囲にはいろんな人たちがいます。私たちよりも能力があり、仕事もうまくでき、いろいろな面で優れている人はたくさんいると思います。
もし、そういう人たちを見たら、ペテロが風を見て沈みかかったように、私たちはねたみの心に取りつかれて、心の中は燃え始めます。
願わくは、あなたを見上げる生涯を今週も送らせてくださいますようにお願いします。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容 親切 ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず 礼儀 自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


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