第一コリント13章「愛の章」第8回 「愛の訓練(1)」

上の写真は、春のイスラエルに咲く、アーモンドの花。

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コリント人への第一の手紙13章7節
「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

お祈り

愛はすべてをがまんし、愛はすべてを信じ、愛はすべてを期待し、愛はすべてを耐え忍びます。
恵みの深い天の神様、神の愛が私たちの心になかったら、全部不可能なことであります。
しかし、神様の愛が与えられる時に、不可能は可能にせられて、まったく私たちが新しい人になったんだなあと、つくづくと考えさせられるようなことが、自分の内側に起きていると、愛の奇跡が起きているんだという納得を持たせていただくことでございます。
今日もみことばを通して、あなたの真理が、私たちの魂の奥深くに根を下ろして、実を結んでいくことができるように、どうぞ顧みを与えてください。
私たちの生涯において、たくさんしなければならないこと、なければならない物がたくさんあるように思います。
しかしイエス様、あなたのもとにきて聖書を学ぶとき、なくてならぬものは多くはない、ただ一つなんだ、ということが分かってまいります。
今日もみことばを通して、私たちの残された生涯、歩んでいく道を示してください。
感謝をいたします。
いろいろな課題があるでしょうが、しかし、私たちが歩んでいく道は一本であります。
確かに多くの課題がある様に見えて、何本も道があるように見えていますが、実際に進んでいく道は一本でしかありません。その道をしっかりと見出すことができるよう、今日も助けを与えてください。
この世の中がどういうふうに変わっていき、また周りの人がどういう生活を始めたとしても、変わらぬ道をあなたがお示しくださって感謝をいたします。
今日もみことばを通して、主が光の道をお示し下さり、私たちがその道をいくことができるように、恵みと力と憐みと励ましをお与えくださいますよう、お願いいたします。
この卑しい者を顧みてください。御霊が語らしめるままに自由にあなたのみことばを取り次ぐことができるよう、助けと憐みをお加えください。
この時を主の御手におゆだねして、尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

はじめに

これまで私たちは5回ほど、「愛の特性」について考えてまいりましたけれども、この7節も、「愛の特性」の一部として見てとれないことはないのですが、ここではむしろ、私たちの内側に与えられた神の愛を、どういうふうにして成長していくか、どういうふうにして発展させていくか、ということを教えているように思いますので、今回は「愛の訓練」という題にさせていただきました。
みなさんの生涯の中で、「愛の訓練」についてお話を聞くのは、これが初めてかも分かりません。今日はこのお話に入る前に基本的なことを二つ、お話しておきたいと思います。

まず「愛」というのは、訓練によっては決して生まれない、ということです。
このことを最初に覚えて頂きたいと思います。
「神様の愛」を心の中に宿していなければ、「愛」を訓練することはできないんです。

例えば、7節を見て「すべてをがまんする」ときに、「愛」がなければどうしようかと迷うでしょ。とてもできそうにないと思うでしょ。
神様の愛を心に宿していないと、聖書に書いてあることはすべて窮屈で苦しいことになってしまうんです。
7節に、がまんする、信じる、期待する、耐え忍ぶ、とありますが、こういう訓練を全部やりましても、「愛」はその人の心に生まれてこないんです。
生まれてこない子供を育てることができますか。できないでしょ。

私はこのことを、いろんな実験をして確かめました。
この世の中には二種類の人がいるんです。男性と女性という意味ではないですよ。
二種類の人というのは、神様の愛の種を自分の内側に持っている人と、神様の愛の種を持っていない人とがあるわけです。この二種類の人に同じようなことをしました。「信じ続けなさい」「希望を持ち続けなさい」と勧めてきました。その結果は明らかなんです。
どんなに絶望状態にある人でも、「わあ、こりゃだめだ」と思われる人でも、ちゃんとイエス様を信じている人は、不思議に回復してくるんですよ。
信仰が復活してくるんです。希望が復活してくる。芽が出てくるんです。

みなさん、畑とかに種を蒔いたことがありますか。
家内も時々種を蒔きますがね。何カ月も、何も出てこないんです。
このあいだも、豆か何かを蒔いたそうですがね、ずうっとなにも出てこない。鳥がついばんじゃったようなんですね。種は埋めたけど、実は種はなかったんです。
しかし種が埋められていると少々時間がかかるかもしれないけれども、必ず芽が出てくる。
もう絶望的だという時に、花が咲いた、という経験がありませんか。こういう事はあるんです。忘れた頃にね。
イエス様を心に受け入れている人はね、絶望状態にあっても不思議と復活してくるんです。希望が出てくる。これは確かにそうです。

私も何人かの方からいろいろなご相談を受けるんですが、病院の入退院を繰り返している方がおられる。これはもう大変ですね。
もう自分はダメだ、と言っている人でも、イエス様を信じている人、受け入れている人は、見事に立ち直っていくことができるんですね。
ところが逆にイエス様を信じない人は、どんなに慰めて励まして、立たせてあげようと思ったけれども、無駄だった。

例えば、亡くなった方をね、抱え起こしてね、立たせようと思っても、離すとすぐに倒れるでしょ。あれなんですよ。大変なんです、すぐに倒れてしまう。
イエス様を信じていないと、どんなに励ましても、いくら「希望を持って」と励ましても、手をちょっと離すと、「いやあ、私にはできません」の一点張りなんです。
ですから、こちらも絶望的になる。

今日お話ししようと思っているのは、「愛の訓練」でありますから、
「愛の訓練」をして成長しようと思うなら、第一に、心の中にキリストを受け入れている、ということですね。イエス様を信じていただきたい。
信じるということは、そんなに難しい事ではありませんよ。今すぐにできる。一分もたたないうちにできる。
「主よ、私の心の中にお入りください。」
人間の心の中は、真空状態ではありませんから、開くと何かが入っているんです。つまらないものが入っているでしょうけど、それを追い出して、イエス様をお迎えするんです。そこから訓練というのが始まります。
まずイエス様を信じてください。
愛の種を、私たちの心の中に蒔いていただかなければならない。
イエス様は種まきのお話をなさいましたね。あれと同じです。
まず心の中に、キリストを迎える必要があります。霊的に死んでしまっている人は、まず蘇らなくてはならない。

この世の中にも、身体の機能回復のためのリハビリセンターというのがありますね。
ここに入る最低条件をご存じですか。
このリハビリ病院に入る最低条件は、その人が生きていることです。
バカなことを言う牧師だなあ、と思われるかもしれませんが、最低条件は生きていること。
世界のどこを探しても、死んだ人のためのリハビリセンターはないんです。
ですから、私たちが「愛の訓練」を受けようとするなら、まず「神の愛」を持つ人になっていなければならない、ということです。
みなさん、今日、神の愛を持っていますか。手を挙げてもらいませんけれども。
心の中で手を挙げてください。
神様の愛が私たちの心の中にあるでしょうか。
これが第一の基本的条件です。

第二に大切なことは何かというと、
愛は持っているだけでは成長しない、ということです。
ある若い女性がいらっしゃいました。知っている方でしたけれどもね。
その人は自分の小遣いとか、働いたお金とかは全部自分の金庫に入れてある。
「どうして、銀行とか郵便局に預けないの? 預けると、利子っていうのがつくのを知っているでしょう?」って言ったら、「でも、取られちゃうかもしれない」と言うんです。
「僕はね、銀行とか郵便局に預けたほうが取られないと思うけど。あなたのアパートに泥棒でも入ったら、取られてしまうかもしれない。」
「でも先生、私、二重に鍵をかけているもの」
「そう」って言って、もう言わなかったけれどもね。
みなさんはどうお思いになりますか。
持っているだけでは増えない、成長しない。
愛は十分に訓練すれば、どこまでも増えていくんです。

リハビリセンターで一番問題になるのは、障害の程度ではないんです。
今朝も食事をしながら家内と話をしました。
障害というのは、自分が障害だと思うから障害になる。障害だと思わなければ全然障害にならないわけです。そうでしょ。
障害というのは自分ができないと思ったら、もうそれは障害。
私は現在、こう思いますね、若い人でね、手足もちゃんとそろっている人の障害者が多いと思います。そう思いませんか。
手がなくたって、障害だと思わなければ障害じゃないんです。足がなくたって、それが障害だと思わなければ障害にならないですよ。
世の中見てごらんなさい。車いすの人が外を歩いているのに、手足がある人が家の中でテレビにかじりついてジーっとしている。
私は障害者だと思いますよ。そう思いませんか。
障害っていうのは何なのだろうか。

人間にとって一番大変な障害、っていうのは何かというと、機能的なことではありません。非常に精神的で人格的なことです。
リハビリセンターで一番問題になるのは、本人が回復していこう、成長していこうとする強い意欲があるか、ということですよ。
リハビリセンターに来る人は、たいてい最初は失意のどん底にあります。諦めの境地にある。「私はもう何をやってもダメなんだ」という気持ちになっている。
ですから、訓練はどういうところから始めるかというと、身体的な機能からじゃないんです。心の問題から始めなければならない。
やる気を出さない人を、訓練することはできません。

このあいだ、2歳のさっちゃんに聞きました。
「どうしてやらないの?」って聞いたら、「やる気が出ない」と、こう言うんですよ。
びっくりしましたね。
「やる気が出ない」って、まだ2歳ですよ。お笑いになりますけど。自分の意志を働かせてやっていくというところにまだ育っていませんけどね。本当に人間だなあと思わされました。人格を持っているなあと。
私は、ここを訓練しなきゃいけないなあと思いましてね、やる気が出ないところを。
「やっているとだんだん面白くなるんだよ。」とか言ってねえ。これが大変なんです。
これが教育なんだなあと、思ったんですよ。2歳の子に教えられましたね。
人間にとって、これが一番大事だって教えられましたよ。
みなさん、哲学書を読まなくてもねえ、このように学ぶことはたくさんあるんですよ。

やる気がない人間を、やる気があるようにするには、まず心の問題から始めなくてはならない。
愛に成長したくない人に、愛の訓練を施すことはできないんですよ。
訓練というのは、多少なりとも苦痛を伴うでしょ。訓練とはトレーニングですから。
成長したいという強い欲求がないとね、苦しみ、っていってもさほどのことはないんですけれども、乗り越えていくことができない。
意欲が、苦しみをものともせずに乗り越えさせていくんです。

みなさんは山登りをしますか。私は最近はしませんけれども、山に登るのが好きなんです。何でも高いところに登るのが好きなんですけれどもね。
頂上からの景色が美しくて、「あー、こんなところにあの人を連れてきて、すがすがしい空気を吸わせてあげたい」とどんなに思っても、歩くのを嫌がる人を山の頂上に連れていくことはできないんです。
山登りも、今頃はロープウェイがついていたり、バスが行き来したりしていますがね。
私もアルプスに登ったことがありますけれどもね、ヨーロッパではなくて日本アルプスですけれども。そうしたらロープウェイがついていたんですよ。
頂上に着いたらいっぱい人がいるんです。おかしいな、登ってくる時私一人しかいなかったのに、と思ったら、ロープウェイが行ったり来たりしているんですね。がっかりしました。歩くの、みんな嫌いなんですね。
今の時代は、それで頂上に行ってしまうものですからね。
問題があると思うんですけれども。
歩くのを嫌がる人を、山の頂上に連れていくことはできないんですよ。
成長することを望まない人は、食欲がない人と同じです。食事もしなければ、運動もしない。そうするとだんだん衰えていく。霊的な力が衰えてしまう。
今、私たちの時代の人を見ますと、心の力が非常に弱いですね。クリスチャンも力強さがいると思うんです。

よく私はクリスチャンたちに聞く。
「もっと成長したくないですか」
「イヤ、私はこの程度でいいです」、「今のままでいい」、「あまり成長したくありません」、って言うんですね、意欲のない生き方をしている。
ところでみなさんはどうなんです。愛に成長したいんですか。どうなんです。
全然、返事がこない。
したいですか。
したいですねえ。よかった。今日はみんな、したくないかと思った。
昨日の夜からずっと心配していたんです。寝ながらね。

本当にみなさん、神の愛に成長したいと思うならば、その強い意欲があるならば、私たちはこの訓練を十分に乗り越えることができるんです。
走り幅とびでも、棒高とびでも、助走するでしょ。
この意欲というのが、助走になるんです。
だいたいね、意欲のない人を見ると、1,2度はやってみるんです。だけど、訓練というのは1,2度ではないでしょ。お習字を習って、1,2度で上手に書けますか。
ですけど、何度も何度もやっていくと、意欲があると訓練の苦しみも喜びに変わっていくんです。

教会の集会にも、いろんな集会があります。楽しい遊び的な集会、運動会みたいなものね。そういうところは大勢参加するんですけれどもね、難渋な学び、歯を食いしばって頑張る、こういう集会は参加者が少ないですよ。
もちろん、楽しい集会に参加するのも結構なんですが、本当に頑張らなきゃならない集会に人が来るというのが、私は本物だと思うんです。
苦しいところは、だんだんと人が減っていくんですね。最初は参加しますけど、だんだん減っていきます。

訓練に耐えるだけの意欲を持っていることが大事ですね。
日本では、あまり成長したクリスチャンが見られないように思うんです。
しかも訓練というのは、短期間では効果を現わさない。
いろんな新聞を見ていると、「一週間で合格します」とかね、「車の免許は何時間で取れます」とかね、本当かなあって思うんですよ。

しかし、人格的なものというのは、一週間ぐらいではだめですよ。
最低3,4年はしないと効果は現れません。「桃栗三年柿八年」というではありませんか。少なくても3,4年はかかる。人格的訓練というのは、そういうものです。
まず、これらの点を踏まえておいていただきたい。

それから、7節に入ります。

Ⅰ.第一に、愛の種がないと、訓練の意味がない、ということです。もう一つは、持っているだけでは増えない、ということです。成長しない。

これらの点を踏まえておいて、7節に入っていきたいと思います。

4節~6節において、愛の特性について学びました。
では、「愛の訓練」とは何か。
ここでは4つ書いてあるわけですけれども、
その「愛」はもっと、もっと、成長する可能性が十分にあるわけです。
ここには、がまんするとか、信じるとか、耐え忍ぶとか書いてありますけれども、実はこれはみんな「愛の特性」を、自分の性格に当てはめてみるとか、自分の生活において日常生活で出会ういろんな問題に当てはめて適用していく、ということを言っているわけなんですね。これが「愛の訓練」になります。

私たちの教会ではここ数年、不要なものを献品していただいて、バザーを開いてきましたが、それは幸いなんですけれども、私は時々考え込む時があります。
中には全く使わないでそのままお出しになる方がおられます。きっと、買ったまま押し入れに入れておいたのかもしれない。
ところが、みなさんは、ここで何回か愛のメッセージを聞いたわけです。その愛の知識を、押し入れに入れておかなかったですか。記憶という押し入れにね。教会に来ると、記憶から出してね。
物は押し入れに入れておけば、いつまでもそこにあるでしょう。でも「愛」というのは使わないと、一週間も立たないうちに跡形もなく消えてしまうんです。ドライアイスと同じでね、置いておくとなくなっていくんです。

「愛の訓練」というのはね、みなさんが毎日、自分自身の心に当てはめてやる、生活の中で活用すること、それがトレーニングすることなんです。
私たちが一生かけてやる大事業は何かというと、実はこれなんです。
ある人々は会社を起こして、それを発展させていくことに一生懸命でしょう。
でも、自分の人格を建て上げていくという大事業のためには、何もしていないんです。
「愛の訓練」というのは、甘やかされて、生半可なものではありませんよ。本気で取り組まなきゃならない。自分の全霊魂を打ち込まなければならないほどの、最大の、そして最上の仕事なんです。
みなさん、私たちが建て上げていくものは、いったい何なんですか。
それは、私たちの人格というものですよ。

私たちは毎日、気の合わない人間に出会うことがあるでしょ。
「はい、あります、私、毎日会ってます。」なんてね。名前を言わなくて結構ですよ、言うと差し障りがありますから、「家のお父さん」とかね。
イヤな問題に直面することもあるし、人に騙されたり、文句を言われたり、とにかく私たち人間は毎日、ウンザリすることが多いでしょ。しかしね、実はみなさん、これが「愛の訓練」のフィールドなんです。格好つけて、英語なんかで言いましたけれどもね。それが訓練の場所なんです。愛の訓練を受けて、成長するチャンスなんです。このウンザリするものが、成長のチャンスなんです。これをウンザリしたままだと、ますます私たちの力は衰えていくだけです。

昔の古い自動車に、鍵型になっているクランクをブルンブルンと回しているのがあったでしょ。だいぶ古い話で申し訳ないんですけれども。あれで、これから坂道を登っていくことを考えると、ウンザリする。これから何マイルも行かなきゃならないことを考えると、ウンザリする。

みなさん、自分だけがウンザリしていると考えちゃいけませんよ。みんないろんな問題を抱えている。イヤーな人間に出会う。向こうもこっちをイヤーな人間と思っているかもしれないしね。なんとも言えないんですけどね。大変な問題を抱えているかもしれない。それは「愛の訓練」をするチャンスとして、信仰によって受け止めていけば、私たちは必ず成長していきます。

ですからね、これはありがたいことなんです、本当はね。私たちは、「愛の訓練」をするのに事欠かないチャンスが毎日あるわけですね。
みなさんそうでしょ。昨日一日を考えたって、何回ウンザリしましたか。男性でも女性でも、大人も子供も、毎日、こういうチャンスに恵まれているではありませんか。
愛を訓練するチャンスはどこにでもある。家庭でも学校でも職場でも、どこにでもある。私たちはこれを、愛を訓練するチャンスと受け止めることが大事なんです。チャンスは生かさなければならない。
私たちがウンザリするのは、チャンスを生かしていないからです。

現代人に対して、私が一番心配していることは何かというと、できるだけ苦労しない、できるだけ遊んで暮らす、遊び=ビジネス、遊びが仕事である、こういうふうにだんだんなりつつあることなんです。
遊ぶために働くという人はもう一般的になりつつありますけれども、この世の中のすべてが遊び場に変わる。世の中全体がディズニーランドに変わりつつありますね。
私は、ディズニーランドに行ったことはないですけどね。
まあ、それが幸せな事であり、楽しい事であるかのように錯覚し始めると、問題が起きるんです。
遊びの社会では「愛の訓練」はできないんです。遊び場では愛は育たない。愛の不毛地になってしまう。遊びの世界では何が育つかというと、自己中心とわがままと欲望と、それがよく育ちます。自己中心、わがまま、欲望がむき出しになってくる。その中で人々は、争いとか、憎しみとか、怒りとか、愛とは全く反対の人間がどんどん造られていくんです。
今、この時期、セイタカアワダチソウというのがよく育っていますね。背が高いですね。泡みたいのをさきに着けてね。

私たちがこの地上に生まれてきて、何になるか、というのも大変なことでしょう。
教育者になるのか、芸術家になるのか、エンジニアになるのか、政治家になるのか、主婦か、サラリーマンか、何になるのか、これも大変なことであるかもしれません。みなさんにとって、それは大事なことでしょう。
しかし、もっと大切なことがある。永遠に大切なことがある。それは何かというと、みなさんが、本当に神と人とを愛することができるか、ということですよ。
私たちはね、互いに愛し合ったり、互いに助け合ったりする社会を造り上げるとね、幸福になりますよ。

一人だけ大金を持っていて、他の人が持っていなかったらね、自分自身は不幸になりますよ。みなさんの家だけトイレットぺーパーがいっぱいありましてね、となり近所の人はなくて新聞紙で用足ししていたらね、どうですか。幸せですか。
うちの子は頭が良くて、周りの子はみんな頭が悪い。どうですか。幸せですか。
うちの子供は頭が悪くていい、って言っているんじゃないですよ。
最も大切なことは、私たちが神と人とを愛することができる人間になるかどうか、ということです。

もしみなさんが、優れたスポーツ選手になりたかったら、どんな訓練をするでしょうか。みなさんが優れた音楽家や画家になりたかったら、どんな訓練をするでしょうか。
もちろん才能があってのことですがね。
才能が有れば何でもできる、ってものではありませんよ。
エジソンはこう言いましたね。「才能は1%、あと99%は努力だ」と言いました。
愛に成長することも同じです。神様の愛は気まぐれではありません。
聖書を読み、お祈りしているだけでは、神の愛は成長しないんですよ。
神の愛は、自分の心に当てはめて、自分の生活の中で訓練していかなければならない。
みなさんの生活が、愛の訓練のフィールドになんです。よく訓練する人が、よく成長するのは当然でしょ。そんなことは分かり切ったことです。

よく年を取ると、記憶力が鈍る、と言いますね。
確かにその傾向はあると思いますよ。でも本当の原因は、別のところにある。
記憶する訓練をしていないんです。
教会に来ると幸いですよ。毎週聖書の言葉を覚えなさい、って訓練するでしょ。
みことばを覚える訓練を毎日やってごらんなさい。
80歳90歳になっても、記憶力はほとんど衰えませんよ。衰えないんです。
私たちの魂も訓練して鍛えていかないと、恵みに成長して御霊の実を結んでいかないんです。
生き生きとした輝いた人生を送ることはできません。
みなさん、死の間際になって、美しくこの世を去ろうなんていかないんですよ。
美しい死を迎えたかったら、美しい生き方を、霊を持っていなければならない。
生きた輝いた人格力を持っていなければならないんです。
霊的な人格的な美しさを、私たちは毎日持っていなければならない。

このあいだ、なおちゃんが高橋さんの手をみてね、「しわくちゃだ」なんておばあちゃんに言ったようですね。
「なおちゃんの手と取り換えてよ」なんて言われていましたけど。
外側は、そりゃ皺は増えるでしょう。私なんか若いころから皺があるんだから。
ですけどパウロは、心の内側は毎日、日々新たである、と言いました。
霊的成長です。しかも、この霊的成長というのは、賑やかで、ワイワイガヤガヤしたところでは育たないんです。
一人で、もくもくと耐えて、働き続けるところに育つんです。

このあいだ、そこの鈴木さんのところで、農家で野菜とかを作っている方ですが、
「一人で野菜を作っているのも大変だから、近所の人に農園を貸したらどうですか」と話したことがあるんです。
「だめだよ、家庭菜園は。毎週、子供を連れてやって来て、このあたりの畑をみんな踏み固めて、まだできない、まだできないって言うんだよ。畑の土を踏んで踏んで、固くしちゃうんだよ。」
「トマトが一個とれた、キュウリが一本とれたと、それも結構だけど、あれじゃあダメなんだよ、走って運動場にしちゃうんだよ」という話でした。。
野菜を実らせるためには、そっとしておかなきゃならない。
あとは草を抜くぐらいですよ。
「わしなんか、なんにもやらないよォ」って。
「そうしたら実ってくるんだ」って。
「毎日、朝晩見に来ちゃダメなんだ」って。
なるほどなあって、思いました。
賑やかだと、みんなで来て踏み固めるって言うんです。

そして、ひと風吹けば消えていってしまうような、感情だけが漂っている。
みなさん「愛」って感情ではありませんよ。感情ではない。
愛とは人格的な力を持っているものですよ。愛は人格ですよ。
私たちは、豊かで、力強く、生気に満ちたキリストの人格に似た、人格を持つことが
できる。それが「愛の訓練」ですね。

Ⅱ.そこでパウロは7節において、「愛の訓練」の四つの要素を教えています。

A.第一は「すべてをがまんし」です。

この「がまんする」という言葉に注目していただきたいんですけれども、私たちが「がまんする」というと、ぐっと歯を食いしばって、という感じですね。

注射される時、どうですか。我慢するでしょ。
歯を抜かれたことがありますか。我慢するでしょ。
ここの「がまんする」はギリシャ語で「ステゴー」といって、「覆(おお)う」という意味、カバーをする、という意味を持っている。
漢字で「家」という字があるでしょ。「家」という字は、部首のウ冠のウが、下の方の字に覆いをかぶせているでしょ。
これは、下にいる人を覆って、風とか雨とか様々な危険から人を守ることを意味する漢字ですね。
愛は私たちの心を覆って、怒りとか憎しみとか絶望感とか自己卑下とか、いろんなものがありますね、そういうものが生じてこないように、陥らないように守る「ステゴー」、なんですよ。危険や害から守ること、を意味するんですね。
愛が心の中にあると、そういうところに陥らないというんです。
お分かりでしょう、経験上。
だいたい、カッカ、カッカしていたり、八つ当たりしている時は、愛が満ちていますか。
「今日はお母さんは愛に満ちているから、八つ当たりするよ、どいた、どいた」なんてないわけですよ。
ペテロは第一ペテロの4章8節で「愛は多くの罪を覆うからです。」と言いました。
心に愛がしっかりとあるなら、多くの罪を犯さなくてすむ、といったんです。

愛は自分だけでなくて、他の人々のためにも責任を負います。
親鳥が雛を羽根で覆っているでしょ。羽根で雛を覆っている鶏に近づくと怖いですよ。
くちばしでつつかれますよ。だからお腹の下の卵を取る時は大変ですよ。
愛のある人は、他の人の罪からも救おうとするわけです。
イエス様はご自分の愛のゆえに、私たちの罪のために十字架におかかり下さいました。
そして私たちの罪をご自分の血で覆ってくださって、神様の怒りを受けなくてもよいようにしてくださったんですね。
そればかりではなくて、私たちが再び罪を犯さなくてもいいような人間にしてくださったのです。ですから、キリストには無限の愛があるわけなんです。

こうして、保護するために覆う、そして、そのためには痛みというものがあるわけです。この痛みを忍ばなければならない。
そしてこのギリシャ語の「ステゴー」という言葉は、「おおう」ということと、「忍ぶ」の二つの意味を持つようになったのです。
ですからここでは「がまんする」と訳されているわけです。

みなさんが「愛の訓練」を自分に当てはめるのならば、このようなことが起きてきます。
まずみなさんは、愛で怒りの言葉をおおって、口から出ないようにする訓練を受けることができるでしょ。
口から出ちゃうと、紐がついていませんからね、ダメなんです。出た言葉に紐はついていないでしょ。手繰り寄せて口の中に押し込むのことはできないでしょ、手品じゃないんですから。口から出る前は呑み込めるでしょ。出そうになったら呑み込む。
また、他の人が私たちに意地悪をしても、愛が私たちの心を覆っていると、耐えさせてくれる、ということです。
相手を赦すことができるようになる。これも愛の訓練ですね。
イエス様の愛を相手に示すことによって、もっと積極的に「愛の訓練」を受けることができますね。
ですから、「愛はすべてをがまんする」と訳されているわけですが、その内容は、歯を食いしばって耐える、という意味ではありません。
これは神の愛に覆われることによって、まず、自分の心が守られる。
思いであるとか、言葉であるとか、行動において罪を犯すことから守られることを言っています。
それだけではなくて、他人に仕返しすることからも守られますね。
イエス様の愛を示すことができるようになるわけです。
その源は、私たちの内側にイエス様の愛がある、ということです。
私たちの心は、イエス様の愛で覆われている。

B.第二の「愛の訓練」は「すべてを信じ」です。

これもなかなか分かりにくい言葉かも分かりませんが、一言いうならどういうことかというと、「どこまでも、どこまでも、最善を極みまで、信じ続けること」です。
すべての人が、神の最善を受ける、ということを極みまで信じ続けることです。
これが「すべてを信じる」ことです。
神様の愛が心にあると、どこまでも相手を信頼する気持ちになる。
今は、親子でもあまり信頼しない時代ですね。みなさんのご家庭ではそうじゃないと思いますけれども、物とお金だけで取引している時代ですからね。ですからみんな孤独なんです。お互いの信頼を失ってしまっている。

信頼というのは何かというと、人の心と心をつなぐ唯一の糸なんです。
愛のない人は、根拠のない噂話をすぐに流すでしょ。
愛のない人は、すぐにそれに乗って騙されてしまう。「そうだってねえ。」「あら、そう。」なんてすぐに乗ってくるわけです。
愛のある人は、簡単にそういう言葉を受け入れないんです。
「そんなことを言ったって。」「そんなことはないでしょう。」と思うんです。
たとえそれが事実であったとしても、どこか信頼するものがないだろうか、あの人が立ち返られる道はないだろうか、と信頼することができる。

なぜ人間は信頼することが必要なんでしょうか。

それは、信頼されなくなった人は生きる意味を失ってしまうからですよ。
人間にとってね、誰からも信頼されなくなったらね、滅亡を意味しますよ。
みなさん生活していて、たまには、この人うるさいな、いない方がいいな、とか思いませんか。でもそういう人をみんなはじいていなくなったら、寂しくなりますよ。
うるさく言っていたけど、いたほうが良かったとかね。
いろいろ思うようになるんです。
人間にとって、誰からも信頼されないっていうのは、本当に滅亡を意味する。
ですから、最後までその人を救おうとして、信頼することをやめないこと。
気持ちのいいわけではありませんけれどもね。
信頼するってことは大事なことなんです。
信頼されなかった人間はね、ゴミのように捨てられたことを意味しますよ。
どんなに贅沢な生活をしていましてもね。

イエス様が逮捕された時、十字架に架けられるようになった時、弟子たちはみんなイエス様を捨てて逃げてしまったではありませんか。
私はあの時、イエス様はどんなに悲痛な思いであったかなあ、と思うんです。
弟子たちは、態度で、行動で、イエス様を信頼しない、ということを示してしまったんですからね。

他人というのは、適当な評価をします。とくに自分の都合の良い評価をするんです。
恐ろしいなあ、と思います。だからあんまり気にしない方がいいですよ。
例えば、私に対するいろんな評価を挙げてみますと、ある人は面倒見がいいと言ってくれました。そんなことを言われると、もっと面倒を見なきゃいけないかなあと思いますけど。ある人は「冷たーい」と言いました。両方本当ですよ。
面倒見が良い、と言った人は私にずいぶん世話をかけた人ですよ。
「冷たーい」と言った人は、たいてい私に怒られた人です。
じーっと考えて見て、世話して、後で叱った人、ってどう言ったかなあと思うんです。
どう言ったと思いますか。
面倒見がよい、なんて言わなかったですよ。
叱っておいて、あとから面倒見たほうがいいですね。
逆にしちゃいけないんですよ。
人間て、だいたい自分の都合の良い評価しかしないから、あまり気にしないんです。
気にしていると、こっちが倒れてしまいます。
こういう人を相手にしているとね、人間不信に陥りますよ。
神様の愛に支えられて、人々が救われて、潔められて、聖徒に変わっていくものだと信じなければね、教会の奉仕はできないですよ。
本当ですよ。この人ずうっと来ていても、やっぱりやがて泥棒になって捕まるだろう、なんて考えていたら、とてもできないですよ。
どんな人でもイエス様に出会えば変わる。
マグダラのマリヤと同じですよ。
これを信じなければ教会の御奉仕なんてできやしない。

だからね、誰も信じられなくなる、ってことはねえ、恐ろしいことです。
人間としては もう行き詰るところまで行ってしまっている。そういう時は、心も考えも非常に狭くなって、排他的になってしまっているんですね。
誰も自分の心の中に受け入れることができない心の状態になるということは、石の心ですね。

旧約聖書にナバルという人が出てきますがね、石の心ですね。神様の愛を失うと、こうなるんです。
神様の愛は私たちの心を豊かにしますね。柔らかくします。思慮深くもしますが、非常に幅広い視野も与えるんです。
ですから、どんな人でもイエス様のところに来るならば、キリストに全面的に信頼する生活を送るならば、その人は変わるんです。

大抵の場合、しばらくは期待外れ、裏切られますよ。
こうして見ていますと、手間暇かけた人こそダメですね。
みなさんのお宅でもそうでしょ。放っておいたって勝手に冷蔵庫を開けてつまんで食べている子というのは、成長しますね。
食べなくて「食べろ、食べろ」と24時間言っている人間は、大変でしょう。
大きくなるとわがままで、過保護な子に育っていきますから、死ぬまで食べろと言い続けなくてはならない。
いたずらはやるけどね、冷蔵庫を開ければ開けっ放しでね、こんなことをやる子っていうのは意外と大丈夫なんですよ。

人が信じられなくなったら、恐ろしい。孤独に陥る。
自ら神の愛を失って、自分自身が滅んでいくことを意味するんです。
いろんなことが起きてきたときに、みなさんはどう思いますか。
これは災いに向かっていくとしか思えなくなってしまったら、恐ろしいことですよ。

パウロはこう言いましたね。
「神様を愛する者には、神様がすべてのことを働かせて益としてくださるよ」って言っていますよ。
ですけれども、神様はすべてのことを益としてくださることを信じられなくなったら、
私たちは正常な精神状態を保てなくなりますよ。
神の愛を失っていった人は、みんなこうなってしまいます。
みなさんは神の愛を訓練することによって、自分の最善、人の最善を信じることができるようになります。
いつでも、自分の最善、人の最善、神はいつでも益にしてくださると信じ続けることが、それが愛の訓練ですよ。
物事はどんなことであっても、今なにが起きていても、神は全部善にしてくださると信じることができるようになるのは、「愛の訓練」でありますね。
こうして私たちは、いつでも明るく積極的に生きる生き方を、身に着けることができます。これが「愛の訓練」ですよ。

さて、第三番目の「愛の訓練」は、「愛はすべてを期待し」です。

愛はいつも、希望的な態度をとらせること、を言っていますね。
愛というのは、いつも否定的ではありません。できない、と言わないことです。不可能だ、と言わないことです。
愛のない人はいつも、こう言いますよ。「自分にはとうてい無理だ、できません」と言います。
愛は、困難の山の向こう側にある明るい希望を見出ださせるんです。

ヘブル人の手紙12章2節当たりを見ますと、読んで御覧なさい。
イエス様が十字かにかかった時のこと。
ご自分の目の前にある喜びのために、十字架を忍んでくださった。
イエス様は目の前の十字架を見ていなかったんです。
その向こうにある、大勢の人々が天国に入っていく姿を見ていたんです。
私たちが天の御国に入っていく姿を見ていたんです。
愛というのはそういうものですよ。
愛は根拠のない楽観主義ではないんです。
愛は、苦しい努力も喜んで、困難な山の向こうにある明るい将来を見続けさせるんです。
ですから愛は、硬直した悲観論者なんかをつくらないんです。
愛は、できないとか、無駄だとか、こういうようなことを考えさせない。
明るい将来に向かって、困難な山々を一歩一歩具体的に登り始めるんですよ。
みんなが、こりゃ無理だ、無理だと言っている間にね。

私たちがこの教会を始める時は、小さくて会堂を持つことも夢物語でありました。
今私たちはこうしていますが、やがて100の教会を開拓しようという夢を持っています。中ではみなさん、腹の底では、「あんなことを言っているけれども」と思ってらっしゃるかもしれない。

愛のある人は議論なんかしないんです。一歩一歩登り始めるんです。
みなさん、山の頂上に行くときはどうするんですか。
何分くらいかかるんだろうか、何メートルくらいあるんだろうかと思うでしょ。
子供たちと一緒に山登りをして御覧なさい。「先生、あと何分、あと何分」て聞くではありませんか。「ええい。10分ぐらい黙って歩け」ってなことになるんですね。
愛のない悲観論者は、できない理由を並べたてるんです。それが現実主義者のような顔をしていますけれども、実は何一つ実現しない。非現実主義者なんです。
神の愛を持つ希望主義者は、一見、楽観主義な大風呂敷を広げたように見えますが、具体的な一歩一歩の歩みを欠かさないんです。だから事を実現していくんです。
少なくても私は、ゼロの状態から始めてきました。でも現実的ですよ。
神の愛の訓練は、この世的な判断では不可能だと言われてしまいます。
でもそれを受け入れないんです。不可能という言葉をね。ナポレオンではありませんけれども、クリスチャンは受け入れない。

私が牧会していた教会で、教会を建てよう、ということになったんですね。
その時一人の兄弟がこう言ったんです。「いやあ、私たちにはお金がないから不可能だ」と言いました。そうしたら他の人が、こう言ったんです。「いや、私たちは山にいって木を切ってきてでも教会を建てたい。」すると、先ほどの人が「それは非現実的だ、非現実的な話だ」と言ったんですよ。
みなさんはどう思いますか。結論はどうなったでしょうか。
その教会は建ちました。
もし、この否定的な人に従っていたら、永久に何もできなかったでしょうね。

愛によって働く信仰とは、いつも希望に満ちたものです。
神の愛によってあふれる希望があれば、困難を乗り越えさせ、事を成就させるんですよ。みなさんが希望に満ちていれば、必ず成就する。みなさんの人生もそうですよ。
希望を失うと悲観的になりますね。神様の愛が必要ですよ。希望を失うということは、その戦いから退却することを意味します。希望を失うということは、自分の人生を捨てたことになるんです。
みなさんゴミを出す時に、まだそのゴミに希望があったら、ゴミに出さないでしょ。
私たちもそうです。
もし希望を失ったら、くだらない生活に身を落としていくんですよ。

ルカの福音書の15章に放蕩息子の話が出てまいりますね。
あの弟息子の心の中に、お父さんのもとに帰ろうとして希望を起こしたのは何なんですか。父親の愛なんでしょう。そしてその愛は報われたではありませんか。
私たちは毎日この世のことで、気が滅入るようなことがいっぱいありますね。
ややもすると希望を失いがちでしょ。
イエス様はこう言われたんです。
「だから、明日のための心配は無用です。明日のことは、明日が心配します。」
今日失望しているなら、必ず明日は悲惨になりますよ。今日失望しているということは、昨日希望を失っていたからなんです。
神様の愛による希望は、非常に力が強いんです。希望が現実を握らせるんです。成就していく力を持っているんです。
みなさん、毎日神の愛によって希望を持って進む、という訓練はチャンスでしょ。毎日訓練できるんですよ。希望を持っていてごらんなさい。顔はほころびますよ。花さか爺がいなくても花は咲くんです。神の愛は希望を与える。

最後の第四番目の「愛の訓練」は、「愛はすべてを耐え忍びます」です。

耐え忍ぶという言葉のギリシャ語はですね、「ヒュポメノー」という言葉が使われています。これは「弱ることがない」とか、「激しい戦いの中でびくともしない兵士がもつ忍耐」のことです。

私は聖書を読んでいて、考えたことがありました。
聖書に書かれている忍耐とは、一体なんなのか。
日本人が考えている忍耐は、だるま大使が壁にむかって倒れないように、歯を食いしばってただじっとしていることではないか、ということが分かってきたんです。
しかし、聖書が教えている「忍耐」は、非常に激しく働いている、戦っている、仕事をしているんです。積極的に歩み続けているんです。そういう中で忍耐している。
私たちはそういう生活をしているでしょうか。みなさんどうです。

私は自分の生活を振り返ってみて、私の働きは一体何なんだろうかと考えました。
一年間に一体何回お話をしているんだろうか。ちょっと計算をしてみます。
週報で報告しているのがだいたい300回ぐらいです。それ以外に200回ぐらいお話をしている。そうすると一年間に500回お話をしている。
365日で計算すると、一日に1.5回くらいやってる。他に行ってお話するのは別ですからね。
私がクリスチャンになって何万枚くらい配布しただろうか。おそらく100万枚以上配布していると思いますよ。
毎日原稿を何枚くらい書いているだろううか。セーターと上着の袖を見ればわかる。
夜寝るころは肘が動かなくなる。片一方だけオーバーの手を通してね、温めている。原稿用紙はたくさんですよ。紙はもったいないですけど捨てますけどね。
相談を受けたり、計画の立案、大変なことですよ。
毎日が戦争。その中で忍耐し続ける。
忍耐って何なのか、多少分かりかけてきましたね。
この先の、希望とドッキングした、希望と組み合わされた忍耐、これが訓練になるんです。そしてそこにはもはや苦しみがないんです。
希望に満ちた忍耐は喜びがあるだけですよ、皆さん。
忍耐とは、足元のね、課題に目を留めていないんですよ。確かに忍耐は足元の課題に根差していますよ。
しかし、希望は先を見させるでしょ。
夜、車の運転をする時、タイヤは地面に接していても、ヘッドライトは先方を照らしているんでしょ。希望と忍耐が組合わされたら、素晴らしい訓練ができる。
私はだんだんと、神様の「愛の訓練」とはこういう事かとわかってきた。

先ほどみなさんは、神様の愛を受けて成長したいと仰いましたね。
そのために私たちは、どうしたらいいんでしょうか。
素晴らしいことに、今週も訓練するチャンスはたくさんありますよ。
神様がダンプカーにどっさり積んできて、どっさりバサーッと置いて、さあこのチャンスをお使いなさいと、くださいますよ。
ちょっと見るとウンザリですね。やーな感じですよ。しかし、喜んで、チャンスが来た、って飛びかかりましょう。そうしたら私たちは喜びにあふれる。
みなさんもっとニコニコして下さい。
これをウンザリするとげっそり痩せますよ。

人間は障害をどう受け止めるか、というお話を先ほどしましたでしょ。
みなさんがそれを障害物にしてしまうのも、乗り越えていって自分を成長させるための神のチャンスとするのも、受け止め方次第ですね。
みなさんどうしますか。今日から始まりますよ。
1日、2日やってみて変化がないからやめておこう。これはやめましょう。
3年4年、必ずその結果が出てきます。その結果が出たら、生きている限りやりましょう。それが、私がやる最大のビジネスなんです。仕事なんです。
私たちが建てあげて行くというのは、実に自分自身だということですね。
神の愛によって、すべてを我慢し、すべてを信じます。どこまで行っても信じ続けるんです。疑わない。拒否しないんです。必ず、キリストにあれば回復する、喜びにあふれる。すべてを期待しましょう。希望を持つ。そして耐え忍びますね。だるま大師のようになってはダメですよ。歩き続けましょう。歩き続けながら、私たちは神を見上げる。

これがみなさんの生涯で、最高で最大の仕事なんです。今日私たちは素晴らしいスタートをできるはずですね。そして材料はいっぱいです。山盛りですよ。
どうするんですか、みなさん。それを自分の心に当てはめるんです。自分の生活に当てはめるんです。神様のいのちの種があれば、私たちは必ず成長します。
みなさんがこれから先、どんなお仕事をするか、どういう職業に就くか、それはいろいろだと思います。どこについて、どんな働きをしても、最も大事なことは、この神の訓練を受けて成長していくかどうかということです。これは素晴らしい。
これが私たちの持つ宝だということです。
押し入れに入れて置くんじゃなくて、いつも持ち歩いて使ってくださいよ。

お祈り

愛はすべてをがまんし、愛はすべてを信じ、愛はすべてを期待し、愛はすべてを耐え忍びます。
恵みの深い天の神様、今日もあなたの「愛の訓練」を教えてくださりありがとうございます。
幸いなことに、私たちはその愛を与えられております。
またその愛を使うチャンスも山ほどあります。
どうか、あとは、私たちが意欲を持って、信仰を持って、自分が成長するチャンスとし、活用するだけであります。
イエス様、どうかこの恵みを通して、私たちの生涯をまことに輝くものに、価値高いものにしてくださいますように、どうぞ導いてください。
御霊による力が与えられて、輝ける者に変えてください。
私たちの勝利は遠いところにあるのではなく、日々近くに、たくさん備えられています。
このことに目が開かれて、日ごとの生活が営まれて行くようにどうぞ顧みを与えてください。この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容、親切、ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


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