第一コリント13章「愛の章」第1回 「最高のもの」

上の絵は、フランスの画家 Valentin de Boulogne (1591–1632) により1618-1620年頃に描かれた「Saint Paul Writing His Epistles(書簡を書いているパウロ)」(アメリカ、テキサス州のMuseum of Fine Arts, Houston(ヒューストン美術館)蔵、Wikimedia commons より)



以下に、メッセージを聞き取って、文書化しました。


今日は、コリント人への第一の手紙12章31節の後半と13章13節、ちょっと飛びますがね、ご一緒にお読みしましょう。

第一コリント12章 31節の後半、「また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」
13章13節、「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」

<お祈り>

「その中で一番すぐれているのは愛です」
恵みの深い天の神さま、9月も終わりの、あと10日あまりになりました。イエス様は今年も私たちを導いて下さり、今年もあと一足のところまで助けてくださいました。ありがとうございます。
今日、あなたの前に、もう一度ぬかずき、霊とまことを持って礼拝します。
イエス様はその驚くべき愛を持って、そのみわざを、私たち一人びとりになしてくださいました。心から感謝を捧げ、礼拝を捧げることができる幸いをありがとうございます。
「その中で一番すぐれているものは愛だ」と仰いました。
今日、私たちはこの愛をこころに満たして、イエス様あなたの前に立ち上がり、イエス様あなたを心から賛美し、イエス様あなたの大いなる栄光を現わそうとしています。
願わくは、愛について学んだ、というのではなくて、愛に満たされて立ち上がる新しい人と変わって、あなたの道を歩む者とならしてください。
主よ、どうぞ、聖霊が働いてくださるように。
多くの知識を持てば疲れる、とソロモンは言いました。本当にそうです。
もしキリスト教が、学ぶだけの宗教ならば、これほど疲れる宗教はありません。
しかし、それは経験されるところのものですから、主よ、私たちは喜びと感謝に溢れることができてありがとうございます。
礼拝を祝してください。この場が神の恵みの座となり、御霊が豊かに働いてください。
どうぞ、みことばを祝してください。御霊が語らしむるままに、主よ、あなたが語ってください。卑し愚かなものを助けてください。
主のみ言葉だけが輝き、御業だけが成ることができる様に、この時を主の御手にゆだねて、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。

はじめに

「最高のもの」という題をつけさせていただきました。
いろいろな題をつけることができるでしょうけれども、こういう場所は題をつけようがない。

今日から「愛の章」と言われているコリント人への第一の手紙13章に入ります。
聖書の中には特異な章というのがあります。
例えばイザヤ書の53章、ここはイエス様の贖(あがな)いを目のあたりに見るように記されています。
ローマ人への手紙の8章は、勝利の章と言われています。
コリント13章も特異な章、愛の章と言われています。

まず最初に、みなさんに一つの想像をして頂きたいと思います。ある日みなさんが、大きなデパートの前に立ったとしましょう。そうするとその前に大きな垂れ幕があって、こう書いてあったとします。
「ご来店頂いたすべての方に、ご自分が一番優れていると思われるものを一つ、無料で差し上げます。」
みなさんはどこの売り場に行きますか。宝石売り場ですか、洋服売り場ですか。それとも、買いたいと思っていた靴売り場ですか。メガネ売り場でしょうか。

Ⅰ.神様はちょうどこれと同じことを私たちに言っておられるのです。「わたしから、最高のものを受け取りなさい」と。

A.ところが私たちは、何が最高のものなのか、何が価値あるものなのか分からないのです。

たとえば、宝石を見てもよく分からないでしょう。こっちが本物でこっちが偽物だと言われても、同じように見える。それで、目先の金色に光っている方をかき集めるんです

こんな話があります。昔、砂金を拾いに行った人が、川に入って金色に光るものを袋一杯詰めた。砂金ですから、金色に光っているんです。それを銀行に預けに行きました。
すると、銀行の人が言ったんです。
「これはね、価値のないただの黄鉄鉱です。」
私たち人間の頭は単純です。金といったら光っていると思うんです。だから砂金も光っていると思うんです。
皆さん砂金採りにいったことがありますか。金の鉱石というのは、初めから金色に輝いていないんです。黒ずんでいるんです。精錬すると金色に輝く。だから素人は川に入って、ピカピカ光っているやつを拾う。これは黄鉄鉱です。
そのものの本質的な価値を知らない人は、見た目に光っているものを集めるんです。
後になって嘆く。人間て単純ですね。光っているものに寄って行くでしょ。

私も子供のころ、ホタル狩りに行ったことがあるんです。兄が教えてくれました。
「草の中で二つ並んでいるのは、触るな。しかも、動かないやつは触るな」
なんだかご存じですか。蛇の目ですよ。
「安全なのは、飛んでるやつを取れ」
安全なのは飛んでいるやつですけれども、捕まえるのは難しいですよ。草の葉っぱに止まっているのは取れますけれども。

これまで多くの人が、「最高のものはこれだ」と言いましたよ。
たとえば、
●世界で最大の思想家の一人プラトン、彼は、「最高のもの、それは正義である。」と言いました。

●アリストテレスは、「最高のものは、中庸である」と言いました。中庸って分かりますか。中庸というのは右にも左にもかたよらない、まんなか、つまり穏健だということです。それらしく聞こえるでしょ。それらしく聞こえなくちゃだめですよ。

●ヘラクレイトスは、「それは全体と統合である」と言いました。みんなが一緒になることだ、と言ったんです。そうすれば全体の調和がとれるでしょ。バラバラじゃなくて、みんなが力を合わせて統合すること。これが最高だ、と言いました。

●ソクラテスという人がいます。この人はもっと深く考えた。考えた末に、彼は何と言ったと思いますか。それは、「人間の理性だ」と言いました。「先天的に与えられている普遍的な知識」である、と言いました。やさしく言えば、自分が正しいと思っていることを自発的に行うこと、です。哲学者というのは難しく言いますね。やさしく言えばいいのに。「先天的に与えられた普遍的な知識」って言われて、みなさん分かりますか。
哲学者というのはやさしいことをいかに難しく言うか、というのが哲学者なんですね。

●ストア学派の人々は、これまた面白いことを言いました。「宇宙の調和に順応することである」と言いました。言い換えると何かというと、運命に従うことだ、逆らうな、ということです。雨が降ったら濡れていこう、っていうのがありますね。運命に逆らうな、それがいいことだ、とストア学者の人は言ったんですね。

●プロティノスという人達はね、体は罪を犯す悪だから、悪いことをするのは体だから、これはグノーシスの二元論があるわけですね、異端の人たちですが、「最高の悪というのは、善の魂が体から解放されることである」と言ったんです。どういうことですか。魂が体から解放されるということである。つまり死ぬということですね。

●アウグスチヌスという人がいます。この人は神学者ですけれども、少しマシなことをいっていますよ、「魂からすべての悪が除かれて、神と最終的に結合することだ。これが最もよいことだ」と言いました。

●カント、この人は現代哲学に大きな影響を与えた人です。私もこの方の書物を何冊か読みましたけれども、読んでいる途中でイエス様を信じました。カントもなかなか回りくどく、ああでもない、こうでもないと言うんですが、結局行き着いたところは何かというと、「すべての人が従っていきたくなるような行動原理で自ら行動することだ」と言いました。どういうことかお分かりですか。「みんながついて行きたくなるように行きなさい。」ということです。引っくり返して言うと何かというと、イエス様がおっしゃった「黄金律」というのがありますが、ゴールデン・ルール、「自分がしてもらいたいように、してあげなさい」と書いてあるでしょ。この裏側を言っただけなんですね。

いろんな人がいろんなことを言いました。「これが最高だ。」、「これが最高だ。」と言いました。

聖書は、最高のものは何だと言いましたか。
みなさんご存知でしょう。ご一緒に言ってみましょうか。

「愛」ですね。

聖書は「一番優れているものは愛です」よ、と言いました。
14章の1節を見ますと、だから、「愛を追い求めなさい」と勧めたわけです。

B.旧約聖書は、モーセの律法を通して、罪を捨てることを教えました。

旧約聖書は、罪から離れることを中心に教えましたね。これも、私たちの信仰生活において重要な要素を持っています。しかし、これは消極的な面ですね。いくら罪から遠ざかっても、私たちは、みなぎるようないのちや力を持つことはできません。

みなさんは入院されたことがありますか。おかげ様で私はまだないんですけれども、病気になると、疾患部分を取り除いて頂くことはできるでしょう。しかし、取り除いたらすぐに力がみなぎって、お医者さんと相撲をとってお医者さんを倒すことはできないでしょう。罪から遠ざかっても、私たちはみなぎるいのち、みなぎる力、みなぎる情熱、確信を持つことができない。

クリスチャンを見ていると、罪を犯しては悔い改めを繰り返して、自分の状態に嘆いているような気がするんです。力をあまり持っていない。半病人といいますか、入退院を繰り返しているような感じです。クリスチャンの目的が、あたかも罪を犯さないことであるかのように考えて生きているようなものですよ。
みなさんどうですか。
こういうような考えに立っていると、信仰はそこで止まってしまいます。クリスチャンはみんな青白い顔をして、ひ弱に生きている。これはね、旧約の生き方なんです。
時々、私の教会に来られる方がね、こんなふうに言われますよ。「先生の説教は厳しい。」
ぜーんぜん厳しくない。「厳しい」、だなんてどこにもない。少なくも私は、聖書以上に厳しくしていないつもりですよ。聖書以上に厳しくすると、パリサイ人になりますからね。
もし、厳しいと感じるならば、聖書を読んでも厳しいと感じるならば、その人は、自分の力で律法的に受け止めているからですよ。
「一生懸命に頑張らなくちゃ」、「今日はこれを聞いたから頑張らなきゃ」しかし出来そうにない。こういう人には、聖書は厳しく聞こえるんですよ。自分の力で受け止めて、自分の力でやろうとする人にとっては、聖書の言葉はどこを読んでも厳しく聞こえます。
そうでしょ。
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。」これだって大変なことでしょう。
「やらなくちゃ」と思ってごらんなさい。できそうにないでしょ。
「力を尽くし、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛せよ」と言われて、「よおし、やらなくちゃ」とねじを巻いてね。できそうにないですね。

昔の車を知っていますか。エンジンをかけるときにブルンブルンというやつ、今の人は知りませんね。自分でエンジンかけて、「よおし、やらなくちゃ」と頑張る。これはね、信仰で受け止めていないんです。どのことばも、信仰で受け止めるときに、恵みに感じる、喜びに感じる、豊かに感じるんです。「厳しい」と感じるのは、「自分でやらなくちゃ。」と思うからですよ。

「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。」これ、やれますか?
これはいい言葉だな、と思うかもしれませんが、実際にやろうとすると大変なんです。
どれも恵みに感じない、どれも喜びに感じない、とするならば、その人は自分の力でやろうとしているからです。信仰ではないんです、それは。
神の力、神様がそれをくださる信仰によって、受け止めなくてはならない。

新約聖書でイエス様は、信仰者の生き方のもう一つの面、積極的な面を強調されましたね。マタイの福音書の22章37節から39節あたりに書いてあります。
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』

これがキリスト教の中心です。

イエス様は、罪から離れるべきことの消極面がもう要らなくなった、と言ったのではありません。だけど、それだけではクリスチャンは力強く生きられませんよ、と言っているんです。それで積極的な約束をお与えになったわけですね。
イエス様が示された「愛」というのは、プラトンやアリストテレスが話したような哲学の一種ではないんです。

みなさん「愛」って何だと思いますか。
キリスト教的な「思想」ではないんです。
後の神学者たちが、キリストの愛を冷たい抽象哲学にしてしまいましたけれども、イエス様の約束は、人の体でいうならば、血液のようなものです。
みなさんの命は血液でもっているでしょう。体温だって血液でもっている。キリストの愛が、クリスチャンの体の中に、キリストの血液として流れ始めた時、それが「愛」なんです。「愛」というのは血液です。
血液が流れなくなると、どうなりますか。死んでしまいます。輪ゴムで指の先を何度もぐるぐる巻きにすると、指先が紫色になるでしょ。痺(しび)れてきてだんだんと感覚がなくなってきますよ。
愛が流れないと人間の魂は凝固して、冷たい抽象哲学になって、クリスチャンはみんな死んでしまうんです。ですから「愛とは血液である」と言えるでしょう。

C.私は、コリント第一の12章と13章を読んだ時、創世記2章7節を思い起こしました。そこには、こう書いてあります。

「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」

神様はまず、人を土のちりで造られました。しかし、それはまだ生きた人ではない。
神様がいのちの息を吹き込まれて、はじめて生きた人となったのです。

パウロはコリントの12章で、キリストの体の諸器官について話されました。これで、キリストの体の構造はよく分かってきた。しかしまだ、この体は生きたキリストの体として働き始めていないわけです。
そこで13章で、神のいのちの息であるキリストの愛を、クリスチャンの中に吹き入れようとしているということですね。こうして、キリストの愛を受け入れた者だけが「生きた者」になる。キリストの体として、働き始めるということです。

知識として分かりましても、キリストの愛が自分の魂の内側に実際に吹き込まれないと、生き物にならない。パウロは12章で、手、足、耳、目、口、頭、などをあげて、キリストの体にはいろいろな働きをする異なった賜物が、どういうものであるかを教えました。そういう賜物が確かな働きをするには、愛を必要としているということです。
何度か私は、DoingよりもBeingが必要であるとお話してきましたね。賜物というのはDoingに関わる。働きに関わることです。仕事に関わることです。みなさんは仕事にかかる前に何をなさいますか。食事をされるでしょう。どうしてするんですか。力を必要としているからですよ。
愛というのはBeingに関わることです。私たちの命に関わることです。人は命を失うと、どんな仕事も果たせなくなりますよ。どんなに良い仕事があっても、命を失うと仕事をすることができない。素晴らしい契約があって、明日から仕事を始める前に、今日出血多量だったらどうしますか。その素晴らしい契約は何の意味もなくなってしまう。
パウロはコリント第一の12章31節の終わりで、「さらにまさる道を示してあげましょう」と言いました。これはそのことを意味しているんです。
パウロは、体の働きはこれこれですよと言いましたが、これを働かせるためには何が必要なのか、教えましょう、ということですね。

愛はすべての賜物よりも優れている、というだけではなくて、愛がなければ、賜物は乱用される。賜物は罪を犯し、キリストから離れるために用いられていってしまう、ということなんです。
ですから賜物は、愛のしもべでなくてはならない。しもべが、主人である愛の支配を踏み倒して、勝手な行動を始める時に、ねたみ、争い、混乱が生じてくるんですね。

愛がなければ、私たちはどうなっていくかというと、パウロはコリント第一13章1節~3節で語っています。これは次回にお話させて頂きたいと思います。

Ⅱ.愛を失ったら、血液を失った人間と同じですよ。クリスチャンとして生きていくことはできない。

今世界では、血液が足りないんだそうですね。お金だけではなくて、血液を貯める銀行もあるんだそうですね。血液を失ったら人間は生きていくことができない。

愛は、クリスチャンが内側に持つべき最高のものです。みなさんがこのキリストの愛に満たされたならば、みなさんは最高峰に到達した、と言ってもよろしい。けれども、なんと、山のふもとの方で走り回っているんでしょうか。ぐずぐず言っているんでしょうか。

パウロはこの最高峰を経験して、ローマ人への手紙8章37節でこう言っていますね。
「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」

「これらすべてのこと」というのは、あらゆる困難と迫害を意味しています。その中で圧倒的な勝利者となった。

今、運動会のシーズンなのだそうですけれども、一人で走って一着になるのは当然ですよね。私たちクリスチャンが、何事もない日に心が平安でいるのは当然でしょ。
うららかな日で、みんなも出払って、今日は一日ゆっくりできて平安だった、これはあたり前ですよ。それでも心が思い煩っていれば、もっとひどい状態です。

パウロはそうじゃなくて、いろんな問題がどんどん重なってきているところで、心は平安で勝利があった、と言っているんです。
ですから勝利を得られないのは、問題があるからじゃない、課題が大きすぎるからじゃないんです。圧倒的な勝利者としてくれるキリストの愛が乏しすぎるんです。

もし皆さんが、食事をするのを忘れて、夕べは寝不足で、お疲れ様で、今日は体の調子が悪い、どうですか。今日は暑すぎるからだ、子供がワイワイ騒ぐからだ、という人がいるかもしれませんが、本当の原因はそうではないのではないですか。
自分の内側に、なくてならぬものが欠けているからなんですよ。

この経験をして、パウロはどんなものがやって来ても、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません」と言いました。

ですから、キリストの愛は非常に力があります。燃えるような炎です。火というのは抵抗できないでしょ。消防士の人が防火服をきて、水をかぶって飛び込んでも、強い火が来ると、もう入れないでしょ。抵抗させない力がある。
愛っていうのは抵抗できないんですよ。ダイナミックなものだなあと思いますよ。キリストの愛はそういうものです。抵抗できない。みなさんがまだ抵抗されて、タジタジになっていたら、それは愛じゃない。燃えてない。

昔、柱に「火の用心」なんていって、炎が燃えている絵が描いてあるのがありましたね。
今頃はもうないですかね。そういうのが貼ってありましたけれども、あれはちっとも熱くないですよ。絵に描いてあるだけですから。

クリスチャンの持っている愛っていうのは、あれですよ。魂を開いてみると、紙に印刷した「キリストの愛」という理論が入っていますね。抽象的で、あれ、ぜんぜん熱くないでしょ。燃えていないんです。だから力を発揮しない。パウロのように燃えていないと、力は出ない。

パウロの内側で燃えていた愛が、どうして私たちの内側で燃えないのか。それはね、受け入れている愛があまりにも乏しいからです。火は火でも、ちょろちょろ燃えている火は、あまり火力を発揮しないでしょう。チリ紙を燃やしてお茶を沸かす人はいないでしょ。
しかし、チリ紙についている火でも可能性は十分にありますよ。同じ性質ですから、それをだんだんと大きく燃やしていく可能性はある。

キリストの愛を私たちの内側に満たして、ダイナミックに生きるために必要なことをいくつかお話しておきましょう。

1.第一番目は、キリストの愛は大勝利を与えるものだ、とはっきりと自覚することです。

イエス様の愛も大したことない、と思ったらダメです。キリストの愛は、素晴らしく大きな働きをするもので、誰も抵抗できないんだ、ということを、心によく留めておくことです。クリスチャンはみな逃げ腰です。後ろ向きにやっている。

ヨハネは、ヨハネの第一の手紙の4章16節で「神は愛です」と言いましたね。これはね、「神様は、愛という置物です」と言ったんじゃないんです。日本語に訳されると「神は愛です」という言葉になりますが、この言葉から「神の愛が燃え盛っている」というのを感じられますか。あまりダイナミック性を感じられませんね。
「神は愛です」というのは、神様は自己犠牲の愛を示されたお方です、という意味です。
神は自分の命を投げ出して愛を示されたのです、という意味ですよ。だから愛は置物ではないんです。神の愛を、置物の一つのように、掛け軸とかと同じように考えている人は、力強く生きることはできません。

みなさんが自己中心の性質を持っているなら、人の持っているものが欲しくなることがあるでしょう。それはやめられないでしょう。羨ましく思ったり、ねたましく思ったり感じるのは、強烈なものでしょう。そういう思いがどんなに強力で、自分の決心や努力では拭いきれないことをみなさんはご存じでしょう。貪欲(どんよく)、ねたみ、恨み、こういうのはね、自己中心的な堕落した愛の変形なんです。人間はそういうものがどんなに力強いか知っているんです。そして、それらを払いきれないんです。
人間にお金を持たすとすぐに分かりますよ。買わないでおこう、なんて自分に言い聞かせながら、一つも買わないで帰ってこれる人なんていないんです。どんなに自分の欲望が強いかということです。これは汚れた愛の一種ですけれども。

キリストの愛が、もし彼の愛が、私たちの魂の内側に宿れば、自己中心よりもキリストの愛の方が強いんです。自分自身をキリストに捧げなくてはいられなくなるんです。そうしなければいられなくなるんです。キリストの愛が宿れば、私たちは、何の努力も決心も必要としないんです。

一生懸命頑張って愛した、というような愛はありますか。歯を食いしばって愛した、なんてどこにもないですよ。愛というのは自然にできるものなんです。しかも努力なしに、決心なしにです。それは、私たちの内側にキリストの愛が存在すれば、それがそうさせるんです。無理して、我慢して、決心して、努力して愛を行うというような「愛」は、どこにもありません。
「愛」というのは、そうしたくてしょうがない、しないではいられない、喜んで、自発的に、湧き上がる動機をもってするものです。それが「愛」というものです。

クリスチャンはどうですか。
「神様を愛しなさい。」
「やってみます、頑張ります。」
そんな「愛」などどこにもない。
クリスチャンはいろんな賜物を持っています。いろいろな才能や能力も持っています。けれども「愛」が満たされていませんから、勝利を見ることができないんです。
一生懸命に頑張る人とね、頑張らないでする人と、どちらがススッとやれると思いますか。眠いのに目をこすりながら聖書を読む人と、「愛」に満たされて心から読む人と、どちらがよく聖書を読めると思いますか。
皮肉を言っているんじゃないんです、素直な話ですよ。無理して我慢して一大決心してやることは、真面目で立派に見えますが、律法的で自分の力でやっている。
それは「愛」じゃないんです。そうでしょ、イエス様が「頑張って愛しなさい」なんて言わなかったですよ。

2.次に「キリストの愛」に満たされるためには、その源がどこにあるか、はっきり知る必要があります。

ヨハネは、ヨハネの第一の手紙3章16節で言っています。
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」

この「わかった」というのは、知識として分かったということではないんですよ。
これは、「自分で体験した」ということです。

みなさん、お砂糖が甘いというのはどうやって知ったんですか。教えてもらったんですか。勉強して学んで分かったんですか。
塩がしょっぱいって、どうやって知ったんですか。おばあちゃんとかに教わったんですか。舐めてみて分かったんでしょ。
砂糖か塩か見分けるのに、どうやって分かるんですか。顕微鏡でのぞいて見るんですか。結晶の形が違う、とかで知るんですか。舐めてみればわかりますね。
「わかる」ということは自分で、体験するということです。

パウロも同じことを言っていますね。ローマ人への手紙5章の8節で、
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

キリストの愛について、話を聞いて知っているというのと、キリストの愛を体験しているのとは違うんです。
これらのみことばは、全部、愛とはキリストの十字架から湧き上がっている、と書いてあります。みなさんは、キリストの十字架を知っておられるでしょう。でも、キリストの十字架を体験しているでしょうか。
話を聞いて知っている、聖書を読んで知っている、理屈としては知っている。
けれども、これは体験していることとは別なことなんです。
これでは、キリストの愛に満たされることはできない。
水道管が源から外れていたら、一滴の水も出てこないのと同じことです。

ある一人の姉妹が私のところにきてこう言いました。
「先生、イエス様の愛がわからないのですが、どうしたら分かりますか。」
単純な質問のようですが、みなさんだったらどう答えますか。
「バカねえ、そんなこと考えたって分かるもんじゃないわよ。」
この答え、合ってますよ。考えたって分かるもんじゃありませんよ。

お砂糖の横に「愛」って書いてあって、それを舐められるものなら「愛」って分かりますよ。「愛」は、考えても分からないのです。
いくら考えても「愛」の味は分からない。体験できない。

「愛」は、キリストの十字架と自分がしっかりと結び合わさる時に、体験するものなんですよ。私たちはね、キリストの十字架と自分がしっかりと結び合うと、「愛」が分かるんですよ。「イエス様の愛が分からないんですよ」という人は、イエス様の十字架とつながっていない、ということなんですよ。
キリストの十字架の話を聞いたことはありますよ。けれども、キリストの十字架を自分のものとして信じて、受け止めて、それに従って歩いていく。
これをしなければ、イエス様の愛は、私の心の中に注ぎ込まれていないんです。

ローマ人への手紙5章5節を見てごらんなさい。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と書かれていますよ。
キリストの十字架に対する信仰は、浅いか、ずれているか、はずれているか、なんです。つまり、自分勝手で、自分に都合の良い道、自分の都合の良い信じ方をすれば、十分にキリストの愛は受けられないんです。
キリストの十字架経験が明確な人は、自然にキリストの愛に満たされます。勝利の生活が送れるようになります。

パウロはこの奥義を、ガラテヤ人への手紙2章20節の最初のところでこう言いました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
これはパウロの証ですね。彼は自分の十字架経験を言ったんです。彼にとって十字架は過去形ではなかったんです。今の自分の、現実の経験だったんです。
十字架は過去のものではなくて、今のもの、2000年前のものではありません。
キリストだけのものではなくて、イエス様とそして私のものなんです。
これが体験できると、キリストの愛が得られるんです。

昔、美味しい水を湧き出していた泉も、今は涸れてしまっているということがあります。
イエス様の十字架を過去のものとして、いくら信じて考えていても、いのちの水は湧き出さないんです。今、自分中心の自我がキリストの十字架の上に掛けられて、イエス様の十字架が現実に自分のものになっている人だけ、キリストの愛が注がれるんです。

そのあとで、パウロは20節の後半おいて、
「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と書きました。
キリストの愛を信仰によって受け止めた、と言っているんです。
ですから、キリストの愛を持たないクリスチャンは、肉的ですね。自分の力で生きています。結構なことですよ。しっかりおやりなさればいい。お疲れ様です。ご苦労様です。

これは、とても大変なことなんです。
なんと多くのクリスチャンは、これをやっているんでしょうか。頭ではよく聞いて知っているのに、一生懸命自分の力でなさっている。頭が下がります。よくまあ、そんなに頑張りなさっても、実りは何もない。そう思いませんか。
お百姓さんだとしたら、種まきから、田植えから、暑い時の草取りから一生懸命やって、それで、秋になったら何もない、ということでしょ。
十字架からイエス様の愛を受けることができないんです。

キリストの愛という内的な力がなければ、所詮私たちは自分の力で生きるようになっていくんです。だからこれを経験する必要がありますね。
この愛は、与えられるに最もふさわしくない者にも、イエス様の十字架にしっかり結びつくなら、誰にでも与えられます。

パウロは自分を罪人の頭だ、と言いましたね。ということは、パウロはキリストの愛を受けるに最もふさわしくない人間だ、と言ったんですよ。
私が考えても、パウロはふさわしくないと思いますよ。私よりひどい生き方をしていますよ。教会を迫害するし、クリスチャンを迫害する。
私はまだ教会を迫害していませんよ。人を捕らえて牢屋に入れたりもしませんよ。
パウロはひどい。だから彼は、自分はダメな人間なんだ、と思った。
しかし、こういう者でも、イエス様の十字架としっかり結びつくと神様の愛に満たされるではないか、と言っているんです。

それでは、どんな人がキリストの愛に満たされないのか。

第一は、キリストを拒む人ですね。
私の親父はね、だいぶ前ですけれども、市が水道を敷設して近所まで来た時に、「うちは水道を引かない、うちは美味しい水を出しているから」って言って、親父だけは頑張って井戸の水を使っていた。
やがて、近所の人は井戸の水を使わなくなっていった。そうすると井戸水がだんだんと淀んでいって、親父の井戸からは変な臭いがするようになった。
最後に降参して、「うちにも水道を引いてください」って言って水道を引いたというんですよ。拒んでいると満たされることがない。

第二番目は、中途半端な信仰にいつまでもとどまり続けている人。自分中心の生き方を、いつまでもやめようとしない人です。愛に満たされません。

電気のコードでもそうですけれどもね、皮をむいてみると細いのが何本も入っているでしょ。あれ、一本だけつないでおいてごらんなさい。それで差し込んでおくと、そこが真っ赤に焼けてね、熱を持ってくるんです。火を吹いて火事にまでなっていくんです。
つながり方が細いからです。これ、気を付けたいですね。
イエス様にしっかり太くつながっていないといけない。

第三番目。どういう人がキリストの愛に満たされないか。
それは、永遠に「はい、主よ、私は信じます」と言わない人です。「はい、主よ、私はあなたを信じたいです、信じたいです」と言い続けている人です。結構ですよ。
いつまでもそう言っていなさい。
子供が泣いている時、「いつまでもそうやって泣いておれ」って言われるでしょ。
「はい、主よ、信じます」と言わない人です。
みなさんはこういう人ではないですよねえ。最高のものを得ようと思ったら、ぐずぐずしてはいけない。神様の愛を最高のものと計算しないと、ぐずぐずしてしまう。永遠に神の愛をいただくことができなくなってしまう。

私たちは、いつ、キリストの十字架を自分のものにすればいいんですか。明日ですか、明後日ですか。今ですか。
毎日、イエス様の十字架を自分のものするんですよ。
今日はしたけど、明日はしない、ということもあり得るんです。教会に来ている時は自分のものにしているけど、帰る時に置いて行っちゃう。椅子の上にみんな十字架を置いていってね、私があとで束にしておく。これダメですよ。どうでしょうか。
キリストの十字架は愛の源ですから、源を忘れていったら、愛は家に帰ったころにはないんです。

私たちはキリストの十字架とつながることで、生涯をキリストの体の一部として有効に使うことができる。みなさんは手足、能力、素晴らしいものをたくさん持っているではありませんか。キリストの愛が満ちないものですから、それらを有効に使うことができない。いつも摩擦を起こしている。
私たち多くのクリスチャンは、キリストの愛について知っていますよ。しかし、体験していないんですね。キリストの愛に満ちていないんです。
みんな、キリストの愛を体験したい、キリストの愛を持ちたい、と言っていますよ。
どこの教会へ行ってお話をしても、
「みなさん、イエス様の愛を持ちたいと思いませんか。」と言うと手を挙げますよ。
「じゃ、今日持つ人。」というと誰も手を挙げない。なぜでしょうか。
それでは、「十字架のもとにきて、イエス様と一緒に死になさい」と言うと、みんな尻込みするんです。
「イエス様と一緒に十字架にかかりたい人。」って言うと、誰もいないんです。
誰もその源まで来ないんです。

ある人はこう言いました。
「イエス様の十字架以外のことなら、何でもやります。教会で掃除もします。そのほかの奉仕も熱心にします。」
だけどダメなんです。聖書には、教会のゴミを片付ける人、掃除をする人は神の愛に満たされる、と書いてないんです。ゴミを拾ってはいけないといっているんじゃないですよ。だけど、それによって愛に満たされる、とは言っていないんです。
十字架のところにしか愛は出てこない。神様は、キリストの十字架としっかりつながると愛が流れる、と仰ったんです。

もし、愛が哲学的な知識ならばね、イエス様の十字架のもとに来なくても得られますよ。学校に行って学べばよろしい。自分中心のままでも学べば知識は得られる。
もし、愛が物質なら、十字架がなくても容易に得られますよ。
いくらかのお金を支払えば、買うことができる。自分の努力と頑張りで買うことができるんですよ、愛が物であるならばね。

愛は、人格の実質なんです。愛は私たちの体のすべてを動かす人格の実質なんです。ですから、私たちの人格が自己中心のままでは、愛は入れないんです。キリストの愛に満たされるということが、不可能になってくるんです。人格は、人格という器の中にしか入れないんです。お分かりになりますか。
私たちの心の思いは、お弁当箱に入りますか。どうしてお弁当箱入らないんですか。
本質的に違うからです。
ですから人格は、人格にしか入らないんです。人格に自分中心というものが入っていれば、その上にキリストの愛を入れることはできないんです。イエス様の愛が私の心に宿るためには、私たちは空の器にならなければならない。そこにイエス様の愛が宿れば、キリストの愛が私の性質になるんです。無理なくですよ。

みんな一生懸命に頑張ります。愛のある人になろう、優しくなろう、へりくだった人になろうってね。結構なことですよ、出来たならばね。
頑張って出来たら、イエス様が十字架にかかる必要はないでしょ。
どうですか、みなさん。
イエス様が嫌われるものは、私は自然に嫌いになります。
イエス様が好まれるものは、私は自然に喜ぶようなります。
これは努力じゃないんです。キリストの愛は、私の心の中に、どこかの風呂敷に包んでしまっておくものじゃないんです。

「愛」というのは、「愛する」ということです。
言葉の上では「愛」という名詞がありますね。でも現実的に「愛」は、動詞だけでしか存在しないんです。「神を愛さない愛」はないんです。「人を愛さない愛」もないんです。
ですからキリストの愛は、それを宿す人の人格を必ず変えてしまうんです。努力しないで変えてしまうんです。なすこと、話すことに、その人の行動の生活のすべてに改革、革命を与えるんです。
どんな革命を起こすかということは、13章で愛の特徴のリストを挙げてお話する時に分かってくると思いますけれども、神様は最高のものを用意しました。
キリストはそのために、十字架の恵みを用意しました。
あとはキリストの十字架と直結するだけです。
サマリヤの女の人がキリストと直結した時、一瞬の内に変えられたでしょ。

ある人はこう言いますよ。「キリストの愛に、徐々に満たされたいと思います。」
そんなバカなことはないんです。徐々になんか満たされない。

たとえば、みなさんの家庭で水道工事をする時に、工事の人が来て、「今日はもう終わりましたから、今夜から少しずつ水が出るでしょう。今日は一リットルぐらいしか出ないけれども、明日になると二リットルぐらいでしょう。三日目ぐらいになると十リットルぐらい出るかもしれませんよ。一か月後にはいくら使ってもいいですから。」
こんなふうに言いますか。
電気屋さんが工事に来ました。「今日は一時間くらいつきますが、明日は二時間くらいつきますよ。三日目は三時間くらいついて、その次からは自由につけてください。」
そんなことがあるでしょうか。
私たちはイエス様とつながったら、必ず、神の愛が私たちの心にすぐに満ちるんです。

なぜこんなふうに考える人が多いんでしょうか。大きい声では言えませんが、手放したくないものを持っているから、いつまでも細い管にしておきたいからではないんですか。
手元まで、うちのそばには太い水道管が来ているのに、うちだけは1ミリ管とかね。
それではチョロチョロしか出ないでしょ。明日も明後日も永遠にたくさん出ないんです。
1ミリ管を握っている間は、キリストの愛に満たされることはありません。最高のものを目の前にしながら、それを得ることができない。

第二列王記の7章に、神様の言葉を信じなかった王様の家来の話がありますね。サマリヤで飢饉が起きて、みんなお腹を空かしているんです。
神様は使いを使わして、「明日の今頃、大麦と小麦の大安売り、バーゲンセールが始まりますよ」と言いました。
この家来は、「天の窓を開いたって、そんなことはあり得ない」と言ったんです。
聖書はなんと言っていますか。
次の日、彼は目の前に麦を見た。しかし、食べることができない。買いに来た人に踏みつけられて死んでしまった、と書いてありますね。これは他人事ではありませんよ。

多くのクリスチャンは、自分の目の前に素晴らしいキリストの愛があるのに、目には見ているのに、自分のものにならない。そして、力なくつぶやいて、青ざめて、入退院を繰り返している。それで満足しているんですか、クリスチャンは。
私はそういうキリスト教ではイヤですよ。みなさんはどうですか。それで満足ですか。
私はそれじゃ、ネオキリスト教を求めますよ。もしそうならば、新しいキリスト教を求めたいですよ。それは旧約ですよ、勝利の生活ではない。

私たちは、今、握っているものを放さなければならないでしょう。自分の心の中に満ちているものを空にしなければ、新しい神の恵みを頂くことはできないでしょ。最高のものを頂くことはできない。私たちは、目の前に最高のものを備えられているんです。

今日は、神様が備えてくださる最高のものは何か、というお話をしました。それは得られないものではないんです。
幾分か、みなさんは、この知識をお持ちになったでしょう。けれども、知識を持ったということは、「愛」を得たことではありませんよ。勘違いしないで頂きたい。こういう事を知ったことで、「愛」を持ったことにはならないんです。
うちに帰ってごらんなさい。今日はいい話を聞いたなと思っても、全然ダメです。
「愛」を持っていないから。

「愛」を持っていれば、頑張らなくても私たちは自然に出来るようになる。それは、みなさんがキリストの十字架とつながることです。パイプがつながったら、神の愛が私たちの心に注がれて、歯を食いしばらなくても勝利者になっていけるんです。

パウロは「さらにまさる道」と言いましたけれども、これは今日一日だけのことではなくて、私たちの一生涯を保証している道なんです。みなさんがこの地上に留まる限り、快適に働きだすキリストの体になる道なんです。全く無理なく、力みなく、自由な生涯を送り続けることができる。

パウロが言いましたね。困難があっても、迫害があっても、それらがあなたを襲ったとしても、あなたは打ち負かされることはない、圧倒的な勝利者になる。こう、仰いました。
さあ、みなさん、この最高のものを横に置いておくつもりですか。どうです。また、椅子の上に置いて帰るつもりですか。それとも、自分でしっかり持って、お帰りになるんでしょうか。

あとはみなさんが、ここでキリストとともに十字架にかかるかどうかです。イエス様の十字架と、みなさんがしっかりと直結するかどうかなんです。
「はい、イエス様、あなたと一緒に十字架につけさせてください。私はそれを信じます。」と、みなさんが仰るかどうかです。
「そうなりたい、そうなりたい、今週もそうなりたいです。」結構な話です。
いくらなりたくても、みなさんが「そうなる」と信じなかったらどうなるんですか。
水道屋さんが来て、「うちも水道を引きたいんですが、引きたいんですが。」
ガス屋さんが来て、「うちも引きたいんですが。」
電気屋さんが来て、「うちも引きたいんですが。」
「奥さん、やっていいの。悪いの。」って聞かれるでしょ。
「明日、考えてみます。」
「もう今日で、360回は来ているんですよ。」
何て言うんですか。「では、やってください。」この一言ではないんですか。
「では、ここにハンコをどうぞ」

こんな簡単なことはないんですよ。工事は工事屋さんがやってくれる。私たちは、工事屋さんに「つないでください」と言うだけでしょ。
あとは神様が全部やってくださる。有り難いことだと思いませんか。

さあ、みなさん、どうぞキリストの十字架と直結していただきたい。そうすれば、自然に神の愛に満たされて、私たちの勝利の生活がスタートするんですよ。出発するんですよ。素晴らしい道、さらにまさる道ですね。
パウロは教えてくれました。彼は自分で経験してこれを言ったんです。だから、これは、論理でも神学でも思想でもありません。
どうぞ、「さらにまさる道」、そういう生涯を歩ませて頂きましょう。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容 親切 ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず 礼儀 自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半


コリント人への手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
【新改訳改訂第3版】

 


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