第一コリント13章「愛の章」第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」

エルサレムのゲッセマネにあるオリーブの古木。樹齢2000年以上と言われている。

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コリント人への第一の手紙13章5節
「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず」

今日は、この最後の「人のした悪を思わず」、このところをお話ししたいと思います。

お祈り

天の父なる神様、神様の愛と恵みをいただき、こうしてあなたの御前に相集うことができてありがとうございます。
イエス様、あなたの愛なくして私たちは、心の中に豊かな自由と安らぎとを持つことができません。
「人のした悪を思わず」とあります。
神様の愛なくして私たちは、これらのことを実現することは不可能です。
主よ、どうぞ、知識を超え、教えを超えて、あなたを体験し、イエス様の愛で満たしてくださいますように。
どういう生涯を送っても、私たちは神の愛に満たされた最も幸いな生涯を送ることができる、と約束されておりますから、それを私たちが経験して自分のものとさせてくださいますように、ひたすらお願いたします。
この時、イエス様、あなたが導いてください。
御霊が教えてくださいますように。
また、私たちの内側をあなたの愛で満たし、私たちを愛の人に変えてください。
かつてヨハネは雷(いかずち)の子と言われましたが、愛の人に変えられています。
イエス様、人は変るものです。
神によって変えられる、ということを体験させてください。
今日もあなたのみことばに仕えようとしています。
主の御業を内にいただいて立ち上がらんとしていることを、ひたすらお願いたします。卑し愚かな者を助け、みことばを聖霊が思いのままに語らせてくださいますことをお願いいたします。
この時を主の御手にゆだねて、尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

はじめに

私たちはこの数週間、聖書の中から、最も重要な、そして中心的なことをお話させていただいているわけです。
人間は体を持って生きていますけれども、体だけではなくて人格を持って生きているわけです。ですから、お腹をいっぱいにするだけで生きてはいないんですね。
むしろ、いろいろな物を持ちましても、心の中に満ちたものがなかったら、人間はどこまで行っても、自分は幸福である、と言えなくなってしまいます。
物がない時は、物がたくさんあると幸せだと思うんです。しかし、物があるようになって御覧なさい。それは、幸福じゃないと気づいてくる。
こういう事を、私たちはさまざまに経験しているわけですが、こういうことが分かってくると、聖書に書いてあることの意味や大切さが徐々に分かってきます。

今日も、最も中心的なことをお話しようと思っていますから、どうぞ、この場所に出席して話を聞いて、それで終わらせないで頂きたいと思います。
ぜひ、イエス様を内に宿して、確かな信仰を持って、神様から与えてくださる愛の実を結んで頂きたい。

ちょうど今、秋ですけれども、いろいろな果物が並んでいますね。
あれも果実ですが、私たちもぜひ愛の実を結ばせていただきたい。
もし皆さんがこの愛のメッセージを聞き流して、すぐに忘れてしまうならば、皆さんは最も愚かな人の部類に入るんです。
けれども、もし愛の実を結ぶ人になるなら、最も恵まれた人になります。
問題はそこですね。何を聞いたかで、終わらせないでいただきたい。
みなさん自身にとって、みなさんの生涯において、本当に最も大切なものは何なのか。
これをよく考えて頂きたい。
最後に何が一番必要なのか。
イエス様も、なくてならないものは多からず、と仰いました。
それは、ただ一つだ、と仰いました。
みなさんが生涯でただ一つ持つとしたら、何を持つか、ということです。
お財布ですか。どうでしょうかねえ。
今日は、最も中心的なことを、お話したいと思います。

さて、今、5節をお読みしましたが、
「愛」について、4節から、寛容であり、親切であり、ねたみません、自慢せず、高慢になりません、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、と、先週までお話してきたことであります。

今日はその次の、「人のした悪を思わず」に入っていきたいと思うんです。

Ⅰ.今日は手を挙げてもらいませんけれども、人のした悪を思ったことはありますか。

今も思っている方がいるかもしれませんが、今日はそれですから、誰でも身に覚えのある話です。

A.私たちの心の中に、本物の善意というものがないと、人のした悪を思わないではいられないんです。

こういう事というのはね、「しないでおこう」と思って、できるものではないんです。
どれ一つをとってもそう。「怒らず」とか、「自分の利益を求めず」とか、そうしないでおこうと思っても、自分で決心してできるものは一つもないでしょう。
「人のした悪を思わず」というのは、言い換えれば、「善意」のことなんです。

そのお話に入っていく前に、聖書から「愛」についてお話しているわけですけれども、これを表面的にとらえないでいただきたい。
表面的な善意なら、1,2度ならやったことがあると思うんです。
みなさん、寛容だって、1度や2度は寛容になったことがあるでしょう。
年がら年中、角をだしているわけではない。
親切だって1,2度じゃなくて、3,4度はやったことがあるでしょう。
反対に、いつも不親切をやっているわけではない。そうですよね。
自慢せずだって、たまには謙遜な時もあるでしょう。
「ああ、それなら私もやったことがある」と、ただ表面的にとらえないで頂きたい。
ここで言っていることは、1,2度、2,3度、4,5度やれたかどうかということではないんです。
ここで教えられていることは、私たちの心の態度、心の性質のことについて言っているんです。

お砂糖をなめた事がありますか。どんな味がしますか。いつなめても甘いでしょ。
365日、甘いでしょ。それは砂糖の性質なんです。
私たちはいつも寛容ですか。そうではない。たまに寛容ですね。
いつも親切ですか。たまに親切ですね。お砂糖のようではないですね。
ここでは、性質と態度のことを言っているんです。
人間は努力をすると1,2度はできるんです。しかしここでは、1,2度できるような、表面的なことを言っているんじゃない。
聖書は、私たちの内側のこと、心の態度とか、性質のことを言っているんです。

だからと言って、いつもいつも、毎日毎日寛容であったり、親切であったりするわけではないですね。あまりやりすぎると、おせっかいだと言われてしまいますからね。
必要に応じてはやりますけれども、必要でない時はやりません。

私の友達に変な友達がいましてね、お弁当の上にお砂糖をのせてくるんです。
ゾーッとしましたね。ごはんの上にお砂糖をかけているんですよ。そして、お砂糖をおかずにして食べている。
その人がコーヒーを飲んでいるのを見ました。お砂糖を山のようにね、コーヒーの上に山になって砂糖が出てくるんです。その上に蜂蜜を入れようか、なんて言ってね。とても飲めない。
笑い話のようですけれども、本当にそういう人がいたんです。今も生きていますけれどもね。名前を言うと怒られますけれども。
よくあういうことができるなあ、早死にするんじゃないかと思うんですけどね。
そういう人は別としまして、毎日毎日、私たちは寛容、親切をやっているわけじゃない。

しかし、私たちの心の性質は、神様の愛によっていつも準備をしておくことはできるわけですね。
今日は「人のした悪を思わず」ということですが、私たちだって、毎日毎日、人のした悪を思っているわけじゃない。
しかしこれは、人間にとって非常に大きな課題なんです。

世の中に、善意銀行とか、小さな善意とかいう活動が行われています。
それも貴いことだと思いますが、これは自分のお金を福祉関係に寄付するとか、自分の持っている技術を福祉活動に役立てる、ということだと思います。

しかし、聖書で取り扱っている善意、「人のした悪を思わず」ということは、それとは違うんです。人を助けるとか、助けられるとか、そういう意味の善意ではありません。
全ての人の心の中に必要な、神様の愛の動機なんです。
これが善意なわけですね。人間の心の中に持っている動機の問題です。
これを持っていないと、人間が心の中にしっかりとした神の愛の動機を持っていないと、どんな人も不幸な人生を歩んでいく、っていうんです。

私たちは普段、これがないと自分が不幸になるな、と思えるものはありますか。
お金がないと不幸になるな、と思いますか。
学歴がないと不幸になるな、と思いますか。
家がないと不幸になるなと、思いますか。
ケーキがないと不幸になると思う人もいるかもしれませんね。
本当に人間にとって大切なことは何かというと、私たちの心の中にある、神の愛の動機、これを失えばどんな人でも不幸な人生を歩み始めるんです。

人間というのは、心に動機があって毎日の生活を営んでいるんでしょ。
何の動機もなしで営んでいる人は誰もいないんです。ですから心の中にどういう動機を持っているかによって、その人の日常生活が決まってきてしまうんです。
貪欲な動機を持っていれば、その人の生活は放っておいても貪欲になりますね。
意地悪な性質を持って入れば、その人の生活はどんなにしても意地悪になっていきます。

いつもお話しますけれども、花の香りというのは、花自身がその性質を持っていますから自然に香りが現れるでしょう。これと同じなんです。
私たちも花の香りと同じように、内側に持っているものは隠すことができないんです。
変えることができない。
ユリの花が一生懸命努力して、菊の花の香りをしようと思ってもできないんです。
絶対に不可能ですね。
ですから、人間がどういう動機を持って生きているかということが、その人が幸福に生きていけるか不幸になるかの、決め手だと言ってよろしいんです。
これ、お金かかりませんよ。このことをしばらくご一緒に考えてみたいと思います。

B.ここに「人のした悪を思わず」という言葉が出てまいりますね。

これをよく読んでいただきますと、ある人がみなさんに対して悪を行わなかった、ということではありません。
みなさんの同僚であるとか、上役であるとか、あるいはお嫁さんであるとか、近所の人であるとか、とにかく誰かが、みなさんに対して悪を行った時のことを言っているんです。相手が悪をしなかったのに、あなたが意地悪されたと思い込んでいる場合ではありませんよ。やられたんです、分かりやすく言えば。
実際に、意地悪された時のことを言っているんです。

しかし神様の愛があると、私たちの心に神様の愛があると、その悪を気にも留めないでいることができる、と聖書は言っているんです。
みなさん、そんなことができるでしょうか。
意地悪された時に、気にもとめなかったことがありますか。どうですか。
わざと足をかけられて、みなさんが引っくり返された時に。どうでしょうか。

この箇所を詳訳聖書で見ますと、こう書いてあります。
「悪い事をされても、気に留めません。不当に害を受けても意に介しません。」

名訳だなあと思いますね。非常に適切な訳です。
意地悪されても、不当に扱われても、神の愛が私たちの心に満ちていると、私たちの心に深い傷跡を残すことがない、と言っているんです。

みなさん、お医者さんにいって、注射されたことがありますか。
お医者さんが小さい子どもに、「痛くないよ、痛くないよ、チクですからね」って言ってやりますが、あれ、うそですよね。痛いですよ。
注射の跡が、ポチっとつくでしょ。しかし、しばらくすると、そのポチも消えるでしょ。
お年よりなんか見ると、注射の跡がいっぱいあって、手の甲が硬くなって、「もう、柔らかいところがないんだ」って言ってますね。気の毒だなあと思いますけれども。
注射の跡のように、ポチっと小さい跡がつくけれども、すぐに消えて行ってしまう。
「気にも留めない、意に介さない」とは、私たちの心に神の愛があれば、そういうように、すぐに消えていってしまうということなんです。
痛くない、と言っているんじゃないですよ。

ところが、神様の愛が私たちの心の中で乏しくなってくると、どうでしょうか。
何気なく言った相手の一言でさえ、グサリと棘のように心に刺さるでしょ。そして夜も眠れなくなってしまう。不幸というのはこういうものですよ。

みなさん、不幸とはなんでしょうか。
交通事故にあうことでしょうか、大病することでしょうか。それも不幸な出来事かもしれない。世の中には、そういう人は大勢いますが、すべての人が不幸とは言えませんよ。
幸福か不幸かというのは、その人が心の中に何を持って生きているか、ということなんですよ。
大勢の人が、毎日こういう苦しみを持って生活しているんです。
何気ない言葉で、何年も苦しんでいる人もいます。
これを解決できるのは神様の愛だけなんですよ。

相手のした悪を、いつまでも思い続ける。
憎しみや憤りを、心の中に抱き続けている。
これはね、相手を傷つけているんじゃなくて、その何倍も、実は自分自身を傷つけているんです。大勢の人が、このことに気づいていないんですね。
「人のした悪を思う」ということは、相手に仕返しをすることだと思うかもしれませんが、実際は自分を傷つけているんです。

昔の大工さんを見ますと、腰の周りに釘を入れる袋をぶら下げていましたね。
大きいのとか小さいのとかを袋に入れて、4,5本取り出して口にくわえてね、上手にトントントンと打ち込んでいきます。
子供のころ、真似して口に入れましたけれども、うまくいきませんでしたね。
あの釘を入れる袋は、普通の袋ではないですよ。非常に地の厚い袋なんです。
あれが絹なんかでできていたら大変ですね、すぐに穴があいてしまいます。
たえず針にさされて傷つき、破れてしまう。
相手のした悪を思い続けていると、やがて自分自身が傷ついていくんです。
精神的に不安定になることもあるでしょう。体の調子も損なわれてくるでしょう。
あなたのすべてのものが、やがて破れていくんです。

針を刺しておく針山っていうのがありますね。私たちの心はそれと同じなんです。
あっちからもこっちからも、針山のようにチクチクと刺されるんです。
だからと言って自分に対してなされた悪を、どういうふうにして思わないでいられるんでしょうか。どうやったらできますか。
相談に行ってごらんなさいよ。
簡単な答え。
「忘れることです、忘れてしまいなさい」
しかし人間というのは、自分が傷つけられたこを、簡単に忘れることはできませんよ。
人を傷つけたことはすぐ忘れますけれどもね。人の足を踏んづけたことは忘れても、踏んづけられたことは覚えているでしょ。足の先が黒くなったところを見る度に、「あそこで踏まれた、ここで踏まれた」って思い返すでしょ。
心が傷つかずに忘れるには、神の愛が必要なんです。
愛だけが傷をいやすんです。

子供がどこかゴチンとぶつけると、親のところに走っていって抱きしめてもらうじゃありませんか。抱いてもらうと、その傷が治るんですか。
愛を求めて、慰めを求めて、親のところにいくんじゃないですか。
しばらく泣いているうちに、痛みが取れてくるんでしょうけれどもね。
愛が痛みを癒していますね。

C.なぜ私たちは、いつまでも人のした悪を心に留めておくのか。
それはね、神の愛がない、の一言に尽きるんです。
もう少し考えてみますと、互いに愛しあい、互いに信頼しあい、分け合って生活するということが、身についていないからではないでしょうか。
こういうものがないとね、私たちは絶えず相手を疑うんです。

子供だってね、親がおやつを分ける時、「あっちが多くないかな」と思うでしょ。
自分が多くてもあっちが多く見えるでしょ。
必ず疑うんです。勝手な憶測をするんです。

例えば、みなさんのお友達が2,3人寄って話しているところを、通りかかったとしましょう。
みなさんの方をチラチラッと見ては、何かひそひそ話していたとしましょう。
話していることは、今日のお昼は何にしようか、あの人いれてあげようか、かもしれませんがね、チラチラあなたを見ては話しをするのを見て、みなさんはどう憶測しますか。
そのまま気持ちよく通りますか。どうです。
なんか私の悪口を言っているんじゃないかと、憶測しませんか。そういう経験あるでしょ。こんなことはね、小さなことのように思われるんですが、それが私たちの心を暗くするんです。重苦しくしますね。陰気なものにするでしょう。
人間というのはね、ほんのちょっとでもそうなってしまう。
わざわざ試してみる必要はありませんよ。あの人通ったけど、ちょっとやってみようか、なんてね。実験してはいけませんよ。

人間には、疑い深い憶測、っていうのがあるんです。
それから親子の関係も崩れていくんです。
子供ってね、下になるほど卑屈になりますよ。私が下だからって、言っているんじゃないですよ。上はね、まだ親の脛(すね)をかじれるけれども、下の方はもうかじれなくなる。卑屈になる。
兄弟の関係とか、夫婦の関係とか、親子の関係とか、嫁と姑の関係、先生と生徒の関係、上司と同僚の関係、あらゆる人間関係が狂ってくるのは、この疑い深い憶測からなんです。しかし、こういうような憶測を、私たちは自分の決心とか努力とか、思わないようにしようとかということでは、解決できないんですよ。
そうでしょ。誰かがチラチラ私を見ながら話をしていると、私のことじゃないかと、はっきりとした根拠がなくても、こういう憶測をするんです。
これは愛と信頼が、極度に欠けているからなんです。
根拠がなくてもこうなんだから、はっきりした根拠があったら、人のした悪を思わないではいられなくなってしまうんです。
それが、はなはだしい悪を生んでしまうのです。

愛とか信頼とかを、相手に要求してはだめですよ。絶対に得られませんから。
愛とか信頼は、相手に与えるものなんです。
人間というのは不思議なもので、無条件の愛が与えられたり、信頼しきられると、真実な態度を取らざるを得なくなるんです。そうじゃないですか。

現代人はね、子供の頃からあまり愛されたという経験がないんですね。
みなさん、「愛された」、という経験がありますか。どうでしょう。
信頼された、という実感を持っていますか。
ですからね、こちらからいくら愛と信頼を与えても、なかなかそれが分からないんです。
心の中にそれを受け止める器、感じ取ることの感受性というのが育っていないんです。
ですから真実に、なかなか応えてくれない場合が多いんです。
ある時は、裏切られっぱなしということもありますよ。
それでもね、人間は愛されることが必要なんですね。信頼されることが必要なんです。

逆に現代人は、親に裏切られる、教師に裏切られる、兄弟に裏切られる、友達に裏切られる、というように、子供のころから傷ついて育っているように思います。
「親友だ、親友だ」と言われても、どこまで親友だか分からない。
ですから、私は、子供のころから愛や信頼を体験しておく必要があると思います。
なかなかそういうことが分からない人でも、何年後か、あるいは何十年後かに、愛と信頼に真実に応えざるを得なくなってきます。
気長にやらなきゃならない。
無条件の愛とか、信頼しきるということは、これに対して人間は応えざるを得ないんです。
子供が高いところからぴょーんと飛び降りてきたら、どうしますか。
受け止めざるを得ないでしょう。
怖くなって逃げていきますか。どうですか。
受け止めざるを得なくなるでしょ。

今ほど物質的繁栄の中で、最も基本的な、親子の愛と信頼、夫婦の愛と信頼、兄弟の愛と信頼、友人との愛と信頼とかが、非常に成り立ちにくくなってきている。
そういうもののつながりがなくなってきているんです。
あいつ、車持っているから、利用してやろうとか、
あいつ、金持っているからたかってやろうとか、
そういう関係になっていってしまっていませんか。
愛と信頼を失ってしまうと人間は、非常に孤独になります。寂しくなるんです。
不幸を感じます。
どんなに物質的な生活が豊かでも、幸福であり得ないんです。
今、日本中に、孤独な人があふれていると思うんですね。
家族と一緒に住んでいても孤独なんです。
老人ホームに入って、みんなカラオケでワイワイやっているのに、人々は孤独なんですよ、寂しいんですよ。
どんな手を施してもダメなんです。
人の心は愛と信頼を失っている。だから、虚しさだけを感じているんです。
物というのは、愛とか信頼を現わすのに多少は手段として用いることがありますけれども、それはただの手段だけなんです。物だけ与えられても人は生きていけない。
身体上の介護をしてもらっても、人の心は豊かに生きていくことはできません。
疑い深い、憶測する心を持って、互いに傷つけあって、不幸になっていくだけです。

親切にすればするほど、疑い深い人がいれば、何か下心があるんじゃないか、と思われるかもしれません。
病院なんか、なかなかお見舞いにいけませんよ。
ある入院している人がこう言いました。
「息子がよく来るんだけど、後どれくらい生きるか、見に来ているんじゃないか」って言うんです。
「そんなことありませんよ」
「いや、あれは見に来ている」
ここまで行っちゃったら、「心配して来ているんですよ」と言っても、もうどうしようもないんですよ。
「いや、財産目当てに、見に来ているんだ。」と。
それは憶測し過ぎている。
疑い深い、憶測する心を持って、互いに傷つけあって不幸になっていくんです。

だからね、みなさん。人間て簡単じゃないんですよね。
愛と信頼がプツンと切れちゃったら、大変なことが起きるんです。
どんなに便利になっても、人間は幸福ではないんです。

イエス様の弟子にトマスという人がいますね。彼は疑い深い男でした。
彼は、イエス様が復活されたというニュースを聞いても信じなかった。
他の弟子たちが大喜びしている時も、弟子たちの言っていることを信用しなかった。
みんなが喜んでいる時にね、疑い深い人というのは喜べないんです。
彼は胸を張って言いました。
「私は信じない」
こういう態度をとっているトマスに、復活されたイエス様が現れてくださって、彼も信じる人に変えられました。
もし、トマスが疑い続けていたら、どういう人間になっただろうか。
やがて弟子のグループから外れていくでしょうね。彼は孤立するでしょう。
やがてその生涯は、虚しいものになっていったと思うんです。

みなさんは、トマスのような生き方をしていないと思いますけれどもね、

大抵の人が、「誰も私を信頼してくれない。誰も私を愛してくれない。」と言います。
ヨハネ福音書5章を見ますと、ベテスダの池のほとりに38年間病気だった人のことが書いてあります。
彼は、イエス様が通った時にこう言ったんです。
「誰も私を池の中に入れてくれないんですよ。誰も私のことに関心を持ってくれないんですよ。」と訴えました。
「誰も私のことを愛してくれない。誰も私のことを気に留めてくれない。」
これなんですよね。
もしみなさんが、家族からしてもらうことだけを求めて生きていたら、38年間病気でなくても、ベテスダのような人になります。
他人からしてもらうだけの受け身の生活をしていたら、必ず、私たちは他の人に対して不満を抱くようになるんです。
人は私のことだけを心に思って生きていない、ということも事実ですけれども。
だから、善意はしてもらうのではなくて、こちらからするものなんです。
相手があなたにどんな態度をとったとしても、こちらから善意を示すことはできる。
相手からしてもらうことは不可能であっても、こちらからすることはできる。
勿論これは、神の愛が心の中にあれば、の話ですけれどもね。なかったら、できません。

ここに一つのルールがあるんです。
人は、自分が信頼している人にしか、心からの善意を現わすことができない、ということです。信頼している人以外に、心の底からの善意は表せないということです。
もし、皆さんがある人のした悪を心の中で思っているならば、今日こうして話を聞いて、
「よし、私も善意を現わそう」と決心してもできない、ということです。
頑張ってもできないんです。
相手のちょっとした態度とか言葉に、「面白くない」と思っていたら、素直な善意は現わせなくなるんです。
人間というのは不思議なものですよ。
心の中にブレーキがかかっちゃう。
心の中に「いやだなあ」という思いがあると、ブレーキがかかってしまう。

みなさんが、誰かから親切とか思いやりを受けたとすれば、その相手の方のことを考えてごらんなさい。
その人はあなたを信頼している人です。
愛を示したり善を現わす時には、私たちの心は開かれていなければならないということです。開かれていないとできないんです、しようと思っても。

疑いの目が光っているところでは、私たちの心はどうなりますか。
心が小さくなって萎縮するでしょ。
例えばみなさんが、泥棒したんじゃないかと疑われて警察に連れていかれたら、どうです。みんなが疑いの目で自分を見ていたら、心が委縮するでしょ。
子どもが約束を破って、夕方遅く帰ってくるとどうですか。小さくなってこそこそ入ってくるでしょ。それと同じです。

愛と信頼と誠実さがあふれている雰囲気の中では、私たちの心はのびのびします。
けれども、疑いの目や憶測の目が光っている所では小さくなるんです。
居心地が悪くなる。
信頼されたり、愛されたり、誠実さのある所では、素直にどんなことでも受け入れることができるでしょ。
人間て不思議なものですね。同じことなのにある時は受け入れられないし、ある時は素直に受け入れちゃうんですよね。こういうことが私たちは分かりますね。

「励まし」も効果がありますね。
こういう性質を持っている人は、人格的な影響を他の人にも与えることができる。

私たちは言葉でいろいろ説得しようとしますが、失敗が多いのはなぜか。
これはね、相手のした悪を思ってやっているからなんです。
相手の動機を詮索するでしょ。疑い深い目で相手を見つめるでしょ。
つまり、相手を冷たい雰囲気の中に座らせるんです。これから裁判するぞ、みたいにね。
そのうえで、どんなに良い話をしても、良い結果は得られないんです。

私たちは家族であれ、職場であれ、学校であれ、教会であれ、人のした悪をいつまでも思っているところには、居続けることはできないんです。
もし親が、子供のした悪を何度も何度もほじくり返して、責め立てていたら、子供は家を出ていくでしょう。
「おまえ、子供の頃、こうしただろ、ああしただろ」
「もう聞いたよ、おとうさん、それは子供の頃だよ」
「イヤ、おまえは根っからの悪い人間だ、子供の頃から悪かった」って言われてごらんなさい。
2,3度は聞くかもしれませんが、7度、8度、9度と言われたらもう居られなくなる。
私たちは「人のした悪を思わない」ところで、真の生きていく仲間を見つけることができるんです。悪をしてもそれを赦されるところで、人は息づくことができるのです。
そうでしょう、赦されなかったら、大変なことですよ。生きていく場所がないでしょ。

学校に行ってもいじめられる、家に帰っても締めつけられる、どこに行ったらいいんでしょうか。
最後には刑務所に行って、かくまってもらわれなければならなくなる。
人は悪を行っても赦さるところで生きていくことができる。
ところが、今、そういうところが地球上に少なくなっている。
学校に行っても「お前できないじゃないか」、塾に行っても「できないじゃないか」、家に帰っても「できないじゃないか」って言われて、どうしたらいいんですか。
行くとこ、なくなっちゃうんです。

箴言10章12節の後半に、大切なことが書いてあります。
「愛はすべてのそむきの罪をおおう。」とあります。

この「おおう」というのは「贖(あがな)う」という意味です。罪をカバーすることです。
おおうことによって、その罪は裁きを受けないものとされること、贖(あがな)うということ、救うということ、罪を赦すということです。
これがイエス・キリストの精神です。
もしイエス様が、人のした悪をいつも思っていたら、どうでしょうか。
ザアカイは赦されたでしょうか。
エレミヤ書なんか見ますと、神様はあなたの悪を忘れてしまう、決して思い出さない、と言っています。
迫害者であるタルソのサウロを、イエス様が赦すことができたのはどうしてでしょうか。
イエス様が、ご自分を十字架につけた兵士たちの悪に腹を立てていたら、十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。」と祈ることはできなかったでしょう。
イエス様は私たちの罪を背負って、十字架にかかってくださった。
これが「人のした悪を思わず」という精神ですね。

みなさん、今、誰かに腹を立てていますか。
あるいは苦々しい心の思いを持っているでしょうか。
それを持ち続けるなら、自分自身が傷つくということです。
ある人が皆さんに害を加えた、それは事実でしょう。
被害を与えた、苦しめた、それも事実です。
しかしそれを持ち続けていれば、自分が傷つくということですね。これを心に留めましょう。そして、自分が傷つくだけじゃなくて、傷ついた自分と接触する家族や、みなさんと接触するあらゆる人々との関係も悪くなっていくんです。
ですから今日、イエス様の愛を受け入れて、解決しておかないといけません。

Ⅱ.「愛は人のした悪を思わない」というのは、一見非常に消極的なことのように見えますけれども、実は非常に積極的なことなんです。

愛が、人のした悪を思わないなら、では、何を思っているんでしょうか。
その悪を赦すこと、を思うんでしょ。
その人が、イエス様を知るように思うんでしょ。
その人が、愛と信頼を持つことができるように思うんでしょ。

明るい面、希望を切に願うようになるんです。
そしてそのためのあらゆる努力を惜しまなくなる。
非常にこれは積極的ですね。
しかし、みなさんが、「人のした悪を思い続けたら」どういうことになるでしょうか。
まず、心は暗くなり、顔は陰険になりますね。誰にでも当たり散らすようになります。
このあいだ、ある方からお電話を頂いて、
「私、2歳の子供に当たるんですよ。そんな親があるでしょうか」
って言うから、
「あるんじゃないですか、そこに。」ってね、言ったんですけれども。
これはね、子供が憎いんじゃない。他の人が憎いんでしょうけどね。

A.この世の人には、何でも善意に解釈するのが良いと考える人がいますね。しかし、聖書はそう言っていないんです。

聖書は、罪は罪として認めて、正しく解決しないといけない、と言っている。
なかったことにする、と言っているんじゃないんです。
悪事をしたのに、それを善意からしたんだ、とは言えませんよ。これは欺瞞です。
罪は罪としても認めなければならない、悪は悪として認めなければならない。
それでいながら、私たちはキリストを見上げるんです。
「人のした悪を思わず」、善をもって接することができるように、神の愛はしてくださいます。

それを実行した人が、創世記に出てくるあのヨセフという人です。
ヨセフの生涯をみなさんご存知でしょう。
創世記の37章から詳しく書いてありますから、是非読んでいただきたい。
簡単にお話しますと、彼はお父さんのヤコブに溺愛された人ですね。
17歳の時に、お兄さんたちのねたみと憎しみをかって、エジプトに奴隷として売られてしまいました。それから13年間、若いヨセフは投獄生活なども強いられて苦しい生活を続けますが、神様の憐みによって、30歳の時にエジプトの宰相の地位に着きます。
エジプトを支配するようになるんです。
その時大飢饉が起きて、カナンの地にいた彼のお兄さんや家族が食料を買いにエジプトに来たんです。しかし彼らは、そのエジプトの支配者が、自分たちが奴隷に売り飛ばした弟のヨセフであるとは全然知らないんです。

みなさんがヨセフだったらどうしますか。
食料を与えて助けますか。
恨みを晴らすために、「苦しむだけ苦しめ。半分くらい飢え死にしたら、なんとかしてやろう」と思いますか。どうですか。
ヨセフは、兄たちに会った時、恨み言を一言も言っていません。
しかし、兄たちの罪悪を、時間が経ったからと言って、自然消滅にしたり、時効にもしていません。
みなさん、罪には時効がありませんよ。
法律に問われなくなるかもしれませんが、罪を犯した人の心に時効はないでしょ。
ヨセフはお兄さんたちの罪を責めはしませんでしたが、十分に罪を悔い改めたかどうかということだけはちゃんと確かめました。
そのあたりのことを詳しくお話する時間がありませんけれども、お兄さんたちの悔い改めが確かであると分かると、彼は愛を示しました。

創世記50章20節を読んでみましょう。
そこにヨセフの姿が見られますね。これは非常に大事な言葉です。
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」

ヨセフは「お兄さんたちが、悪を行なった」とは言いませんでしたが、はっきりと「あなたがたは、私に悪を計りました」と言いました。
いいことをした、とは言わなかった。
あれは出来心だ、とも言わなかった。
ヨセフは、お兄さんたちがした悪は悪だ、と言いました。
しかしヨセフは、お兄さんたちが行った悪を、心の中で苦々しく思っていなかったということですね。

それはね、次のヨセフの言葉で分かるんです。
「神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」

ヨセフの心は、お兄さんたちがした悪に向けていないんです。
彼の心は、善に変えてくださった神様に向けられていたんです。
これは大事なことです。
事実は事実として認めていますけれども、彼の心はどっちに向いていたのかに注目しましょう。
ヨセフの心の中に神様の愛があったんです。
ヨセフも神様の愛によって、「人のした悪を思わない」人になっていたんです。
これしかないんです。
私たちは「人のした悪」を忘れてしまうことはできません。
しかし、毒抜きはできる。
毒抜きというか、悪抜き、というんですか。悪抜きは、できるわけですよ。
ヨセフはどのようにして、このようなことができる人間になっていたかというと、創世記37章から読んでいただけると分かるわけですが、聖書の中に何度も記されている言葉があります。
それは、「主が彼とともにいたからだ」ということです。
神様が彼とともにいたからだ。
ヨセフは苦難の13年間を、神とともに歩んだんです。

みなさん、どうしたら私たちは神の愛を自分のものにできるでしょうか。
それはキリストを信じて、私たちの心に迎え入れることです。
しかし、それは出発点ですね。
十分に、私たちの人格に、また生活に根差してくるためには、イエス様を信じたあと何度も失敗するかもしれませんが、毎日、私たちの人格と生活に根差すために、毎日、キリストとともに生きる生活をすることです。続けることです。
これが、神様の愛が私たちの心を支配する鍵なんです。
みなさんを愛の人に変えていく鍵なんです。
難しいことではありません。

多くのクリスチャンたちは、イエス様を信じます。
でも、そのあと、キリストの愛、神の愛と共に歩まないんです。
日曜日は歩むでしょ。
でも月曜日はどうですか。
月曜日も半分ぐらいは歩むでしょ。
水曜日はどうですか。

私たちの心も生活も、すべてを神様に任せて信頼する生活を送るなら、誰でも神の愛の人になれるんです。
ヨセフはそのようにして愛の勝利を得たんですね。
もしヨセフが、お兄さんたちのした悪を悶々と思っていたらどうですかね。
彼は権力に任せて、牢屋に入れて、お兄さんたちを殺してしまうかも知れませんよ。
そしたら、創世記はずいぶん変わっていますねえ。最後は悲惨ですよ。
みなさん、そう思いませんか。
そういう最後を遂げる人は、大勢いるではありませんか。
私たちは、人生をどのように送りたいんですか。
みんな、明るく幸せで希望に燃えて、と思っているのではありませんか。
しかし、現実を見るとそういう生き方をした人は一人もいません。
誰でも容易にできるのに、なぜしないんだろうか。

神の愛によってでしか、私たちは最も幸せな最高の生き方はないんです。他の道はないんです。
明るい面だけ、希望に満ちた面だけを見る生活ができるためには、この道以外に他に道はない。
みなさんが一日でもそういう日が送れたら、一日でもヨセフのような生活をしたら、二度と昨日までの生き方をしたくなくなるでしょう。

そういう生活は、相手を変えることによってでは、できないんです。
周りがそうなってくれたら、うちのお母さんがこうなってくれたら、うちのお父さんがこうなってくれたら、うちの子供がこうなってくれたら、幸せになれるのに、といっても、それはウソです。相手をいくら変えようと思っても無理。
相手を変えるのではなくて、自分が神の愛を受け入れるところから始めなくてはならないんです。

相手はそのままそっと置いておく。そっと置いておくんですよ。つつかない。そっと置いておく。相手に良い影響を与え、相手に向上してもらおう、成長してもらおうと思うならば、私たち自身が神の愛と信頼を持って接することです。
相手の人が、みなさんの愛と信頼を受け入れる程度にしたがって、比例して、相手の人は変わってくるのです。これしか成功する道はない。
しかしみなさんが、相手のした悪を非難し続けるなら、あるいは他人の失敗に付け込んで、自分の点数を上げようとしたり、自分の方がまだましだという言い方をしたり、
他人の欠点とか弱点をあげつらったり、疑いの目つきで見つめたり、あら捜しをしたり、
するでしょ。こういう目で見るならば、すべてを失ってしまいます。

先ほど箴言を読みましたね。
「愛はすべての咎(とが)をおおう」

これが、私たちの心の中心の座を占める様ようになるならば、私たちは「人のした悪」を思わなくなります。自然に消えていくんです。
霧がたちこめていても、太陽が出てきて風がそよそよと吹くと、霧は晴れていくでしょ。
うちわでパタパタあおいでも、大変なことですよ。
私たちは、直接自分に関係のない人のした悪に対しても、簡単に口に出しやすいですよ。
そしてそれが、自分や、それを聞く人の心にどんなに悪い影響を及ぼしていくだろうか、ということなんです。
私たちはキリストの十字架の赦しと、イエス様がすべてのことを善に変えてくださる信仰を持つときだけ、ヨセフのように人のした悪を気にも留めない、心に病むこともない、意に介さない、そういう生活ができるようになるんです。
神様が私たちの内側にあって、雲、霧を振り払うだけの熱と愛と力をくださる時だけ、私たちは外側から来る様々な悪に対して、自由にいられることができるんです。

みなさん私たちは、自由でいたいと思いませんか。
これは、毎日あるんですからね。
いろいろなことを仕掛けられたり、言われたり、いろんな態度、いろんな行為っていうのが毎日あるわけでしょ。そういう中で、私たちは毎日生きているわけです。
もし神の愛を心の中に持っていなかったら、いったい何が起きるんでしょうか。
私たちは、毎日、しずむではありませんか。
みなさん、毎日イヤな思いになることはありませんか。
昨日はどうだったでしょうか。先週、何回なりましたか。
人のした悪を気になりませんでしたか。どうですか。

私たちには神の愛が必要なんですね。
自由で、豊かに、明るく生きるためには、私たちは毎日神の愛が必要です。
これがない時、私たちは、人のした悪を思わないでいなさい、と命令を与えられても、それをすることはできないんです。
これは、「一回、二回、まあ、いいや」ということを言っているんじゃないんです。

私たちの心の中の問題、性質のお話をしました。
「愛」は大きな力を持っている、ということが分かってきましたね。
これが、私たちに大きな幸せをもたらしてくれるんです。
このことをしっかり心にとらえましょう。
この世の中で私たちが生活していて、神様の愛以外のどんなものを持っていても、絶対に幸せになれないということです。
どんなに博学になっても、どんなに財産を持っても、どんなに素晴らしい名声、どんな地位を得ても、心の中に神の愛を失ったならば、いつも自分自身を傷つけ、悩んで苦しんでいなけりゃならないんですね。

どうぞ今日は、神様の愛を心に宿していただきたい。
ここで立ち上がっていくと、すぐに出くわすでしょう。
人のした悪がやってくるんです。
その時に、「思わない、思わない」って思いながら歩いてやっていればいいんでしょうか。そういうんじゃない。
神様の愛を心に宿していただきたい。
どうか、神に私たちの心を委ねていただきたい。

お祈り

「愛は人のした悪を思わず」
天の神様、私たちも悪を働いたりすることがあるかもしれません。
しかし、私たちもこの世の中から多くの痛手を受け、あるいは傷つけられ、あるいは悩まされることがあるかもしれません。
しかし、その一つ一つに心を閉じて進んでいくなら、どんなに恐ろしい人生を送っていくかということを今日教えていただきました。
イエス様、あなたの愛を心に満たしてください。
どんなに頑張って、これから「こうしていこう、ああしていこう」「明るい面だけ見ていこう」、「希望だけ持っていこう」と、いくら頑張っても、人間にできることではありません。
イエス様、あなたの愛が心に満ちるとき、私たちの心の中に力となって現れて、すべてのものを吹き払い、本当の自由を経験できます。
願わくは、イエス様、あなたの愛に満たしていただけるように。
今日心を開き、主よ、あなたが心を占領してください。
この時を感謝をいたします。今週の旅路であなたの勝利を加えてください。
尊いイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

第一コリント13章「愛の章」全14回 一覧

第1回 「最高のもの」 12:31、13:13
第2回 「愛がないなら」 13:1ー3
第3回 「愛の特性(1) 寛容、親切、ねたまず」 13:4
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」 13:4~5
第5回 「愛の特性(3) 怒らず」 13:5
第6回 「愛の特性(4) 人のした悪を思わず」 13:5
第7回 「愛の特性(5) 不正を喜ばず、真理を喜ぶ」 13:6
第8回 「愛の訓練(1)」 13:7
第9回 「愛の訓練(2)」 13:7
第10回 「決して耐えることのない愛」 13:8
第11回 「愛の耐久性(1) 完全なものが現われたら」 13:9-10
第12回 「愛の耐久性(2) 子どものことをやめました」 13:11
第13回 「愛の耐久性(3) 今 と その時」 13:12
第14回 「愛・その栄光」 13:13、14:1の前半

コリント人へのの手紙第一 12章31節~14章1節

12:31 .....また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。
(【新改訳改訂第3版】より)


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